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「空」=>ひゃっきまる氏

1 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:00
このスレッドの内容は、かつて「心と宗教」にあったスレッドの
過去ログのコピペです。
題の通り、「ひゃっきまる」氏宛てになっています。
私的連絡に使って申し訳ないです。
下がるがままにしておいてください。



2 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:01


色即是空の意味を教えてください。

1 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/02/08(火) 18:19

教えてください。
ただし抽象的でなくかつわかりやすくお願いします。

2 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/02/09(水) 06:18

なんでレスつかないんだろう。誰も知らないんですか?残念です。

3 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/09(水) 10:26

>1
どうもです。「色即是空」というのはご承知のとおり般若心経の文句ですが、これを「抽象的でなく」「わかりやすく」解説することはとても難しいので皆引いておられるのではないかと推察します、というか私はひきました(^^;
「色」とは梵語の「ルーパ」の訳で、「物質」「物体」などを指すようです。人間が感覚によってとらえられる現象の全てを表す、といっていいでしょう。
「空」は「シューニャ」の訳で、「空っぽ」「空しい」という意味があるようです。
ですからごく大雑把に読むと、「物は空っぽである」となります(って、こんなんでいいのかな(^^;)
そこから先の解釈が大変です。一般的な見方(?)を紹介しますと、「物」は恒常的な実体ではない、それ自体永遠不変のものではないし、その背後に(例えばプラトンの言うイデアのような)理念的な実体を隠し持っているわけでもない。しかし感覚現象としては存在しているのではないか? といっても、人間の側がある感覚現象群に対して、一定の条件を満たすものを「石」として意味づけているからそう見えるだけであって、「石」なる現象が独立して存在しているのではない。従って「石」という名に対して一対一に対応する存在は何も無い・・・ってな感じになるでしょうか。
以上のような説明からも想像できるかと思いますが、これを突き詰めて考えていくと脳みそが壊れそうになります。とりあえずこの辺でご容赦を。何かあれば突っ込みお願いします。





3 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:02



4 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/02/09(水) 16:05

形あるものは壊れるってことで、とりあえず考えておけばいいんじゃないの、こんな難しい事しらん。
坊さんが座禅を組んで何年も修行して答えを見つける
わけでしょう?安直にはわからないよ!

5 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/02/09(水) 17:34

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是


世の中のすべての物質的現象には実体がないので
ある。実体がないことであるからこそ、物質的現象は存在し得るので
ある。このようであるから、物質的現象はすなわち実体がないという
ことなのであり、実体がないということは、物質的現象なのである。
そして、存在の他の構成要素である感覚、表象、意思、認識について
も物質的現象についてと同じことがいえるのである。

6 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/10(木) 03:50

般若経典一般に云えるのですが、「空」を『存在するモノでも存在しないものでも無い』と
解釈されているようですが、釈迦の根本義は「一切皆苦」です。「空即苦」であり「色即苦」
です。
第7の外道 さんの言われる
>「空っぽ」「空しい」という意味があるようです。
は中観派や、それを解釈した中国道教の「無」と結びついたものではありませんか?
「空」とは互いにはたらき合って変化するものだと「縁起」では捉えているかと思います。
全てのものは互いにはたらき合うから「無常でありかつ無我」である。すなわち万物は
固定的なものではなく(自性を持たない)、はたらき合い(縁)によって変化する性質を
持っている。
「色(物質)」は、はたらき合いに依って、変化するから「空」と言い、「空」とは相衣性に
依って、どのようにでも変化する物質(色)である。
それが「色即是空・空即是色」だと思います。

横レスでした。

 



4 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:03

7 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/10(木) 13:18

昼行燈さん、フォローどうもです。

>「空」とは互いにはたらき合って変化するものだと「縁起」では捉えているかと思います。(以下略)

ですが、「空」を「縁起」「無自性」「相衣性」の観点から把握するのは龍樹が確立した見方であって、般若経典に用いられた「空」概念はもっとシンプルに――無論龍樹が体系化したような意味合いは既に含意していたことでしょうが――「実体がない」「空っぽ」という感じで使われていたものだ、というふうに理解していました。
また、ここで言う「中観派」というのは、龍樹自身ではなく、それよりももっと後になってからのものを指すのでしょうか。

8 名前: こんらん 投稿日: 2000/02/10(木) 16:47

例えば、嫌いな人が、通りかかっただけで、「ほら見て、あそこあの人が
歩いてる」と、嫌いならほっときゃいいのに、「我」が、ぺたっとくっつ
いてしまう。
 それが、「空」になれない人間ということでは?
つまり、「空」=「とらわれない」ということではないでしょうか。
とすると、「空」⇔「執着」となるのでしょうか。

9 名前: 1 投稿日: 2000/02/10(木) 17:37

おお、レスがついている。
なんだか色即是空という言葉の意味自体が固定的じゃないような気がし
てきました。とらえかたも人それぞれ。それではゆるされませんか。




5 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:03


10 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/10(木) 23:30

般若経(心経を含む)で説かれる「空相」は「不生、不滅、不垢、不浄、不増、不滅」
だと理解できますから、『「実体がない」「空っぽ」という感じで使われていた』ではあ
りません。が、簡単に云えば、
「空(シューニャ)」は本来数字の 「0」 を表す物であったと思います。
「0」は+(プラス)でも−(マイナス)でもない。
無自性(−)の空と仮有(+)との融合(=)は中道空・真如(0)であると云うのが
龍樹の唱える「中観派」の主張であると認識しています。
龍樹を派祖とする「中観派」ですから、龍樹自身も「中観派」なのですが、その後に
「荘子」の道教思想と結びついたものも「中観派」と総称されるようです。
中論は本来、中頌と呼ばれる二十七章四百九十九編のものなのですが、ピンガラ(青目)
やクマラジーヴァ(鳩摩羅什)の解説や翻訳も「中観論」と総称しています。

龍樹の思想を翻訳された漢訳経典(中論論)から解説するのは実際に、頭が痛くなるほどですが、
その根本は「縁起となるものを全て我々は空性と説く、その空性とは相待的の仮設(けせつ)
であり、それがまさしく中道である」と簡潔なものだと思います。
広範な中論から「空」を語れば、このスレッドでは無茶苦茶に長くなりますし、1さんの
「色即是空の意味を抽象的でなくかつわかりやすく」の趣旨から外れますので、折を見て
論じたいと思います。
小乗(アビダルマ)で説く「空」と般若経典で説く「空」の相違及び発展した天台智の
「空」の事なども含めて。


11 名前: こんらん 投稿日: 2000/02/11(金) 00:20

私のレスは、どうなるの?
仏教は理論ではなく実践。生活に根ざした問いに応えて。

12 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/11(金) 00:36

>1さん

>なんだか色即是空という言葉の意味自体が固定的じゃないような気がし
>てきました。とらえかたも人それぞれ。それではゆるされませんか。
特別に仏教学を学ぼうと云うのでなければ、解釈は個人の自由だと思います。
特定の教えに拘ること(執着)は本来、「空」ではありませんからね。

「龍樹の思想を翻訳された漢訳経典(中論論)から」

「龍樹の思想を翻訳された(漢訳中論等)から」
の誤打ちです。





6 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:04


13 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/11(金) 00:54

>こんらんさん

困ったもので、私は仏道実践家ではありませんので、単純に理論のみを追求しています。
>生活に根ざした問いに応えて
には宗教家(実践されている)の人に問い合わせて頂けませんでしょうか?
私には語る資格はございません。


14 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/11(金) 01:20


1さん、抽象的でわかりにくい話に持ちこんでしまってすいません。ただ個人的にどうしても気になるものですから・・・お邪魔ならスレッド変えます。とりあえずここに書かせてくださいm(_ _)m

昼行燈さんが引用された龍樹「中論」第二十四の18「縁起となるものを全て我々は空性と説く・・・」というのはつまり、
「全てのものは諸々の因縁によってつくられたものだから、自性(それ自体として存在するような実体性)は無い。自性が無いから空である。しかし空も空として固定してあるものではないから、空という概念もまた空である。ただ人に理解させるために、それを仮に空と呼ぶのである。
こうして、空を仮に空と呼び、その概念を固定的に考えない我々の立場は、「ものは有る」「ものは無い」という二つの極端を排しているがゆえに、中道である」
と私は解釈していました。(つづく)

15 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/11(金) 01:22

つまり、空概念を固定化するのではなくあくまで人に説くために仮に空と呼ぶだけであるが、そういう《立場》が中道なのであって、「真如・中」という完全無欠の実在世界があって、それを一面から見ると「無自性・空」であるが別の一面から見ると「仮有(現象世界?)」であると言っているのではない、と私は解釈していました。そして前者が龍樹の思想であり、後者は天台智の円融三諦に基づく見方であって、両者には微妙な差がある、と私は思っていました。

ところが今昼行燈さんが書かれた
>無自性(−)の空と仮有(+)との融合(=)は中道空・真如(0)であると云うのが
>龍樹の唱える「中観派」の主張であると認識しています。
を見ると、どちらかというとこれは私の言う「円融三諦」的な解釈であって、私が今まで考えていた「龍樹の思想」とは違って見えるのです。この辺の事情はどうでしょう? おそらく私の解釈が偏っているのでしょうが、コメントいただけると幸いです。




7 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:07

16 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/11(金) 01:34

しばらくお待ち下さい。
ちょっと書庫をひっくり返してみます。


17 名前: れいらあっく 投稿日: 2000/02/11(金) 01:37

色っぽいことをすると空しくなる

と言ったのはだれか・・・。

牛乳が牛乳であるならば決してバターにはならない。
よって牛乳には実体がない。


1

8 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/11(金) 01:46

こんらんさん初めまして。
私はどんな宗派にも属していませんが、私なりに「生活に根ざした」問題として空を考えるとどんなものか、ちなみに書かせていただきます。ただ理屈を捏ね回していくのも趣味的に好きなところもあるので、その辺はご容赦していただけると幸いです(^^ゞ
よく悩んで袋小路にはまったとき、大抵それは「こうであるべきなのに、現実はそうなっていない」「そうであって当然なのに、その通りになっていない」という思い込みが強過ぎる結果、悩みに陥っていることが多いと思います。昔はそれでとことん躓きました(いや、今もよく躓きますが(笑))が、最近は悩みにはまると一歩引いてみて、「自分が『あるべき』や『あって当然』と今思い込んでいるものは何か?」と疑うようにしています。
すると、案外くだらないことや、中身のないことを『あるべき』などと思い込んでいることが多い。単に誰かさんへの感情的反発がもとで拘っていたに過ぎなかった、とか。自分でそれに気づくと、即問題解決というわけではないにせよ、生きるのがずいぶん楽になる気持ちがします。こんらんさんの言う、「『我』が、ぺたっとくっついてしまう」状態から脱出できるということでしょうか? でも案外こういう発想は、釈迦の説いた考え方と近いのではないかと最近は勝手に思い込んでおります。
「あって当然」じゃないものを「あって当然」と思い込むことで生じる苦しみを、「あって当然」なものはどこにも存在しないことを知ることによって消し去れ。一言で言うと、私にとっての「生活に根ざした」ものとしての「空」は、こんな感じです。





8 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:10

19 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/11(金) 02:00

確かに、中頌通りに読み進むと、第7の外道さんの認識が正しいようです。
私のミスです。
うろ覚えで、書き込みました事で、第7の外道さんを錯乱させてしまった事を
お詫び申しあげます。

1さんにもご迷惑をお掛けいたしました。深く謝罪いたします。


20 名前: >18 投稿日: 2000/02/11(金) 02:08

たとえばジャムを塗った食パンが床に落ちたとき
極端に言うとその確立は二分の一にもかかわらず
人はジャムのついた面が下にならないことを無意識に当然だと
思いこんでしまっている…みたいな?


21 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/11(金) 02:11

>昼行燈さん
いえいえ、私も考え直す機会ができてよかったです。般若経典についても
いろいろいいことを教わりましたし。こちらこそ手間かけさせて申し訳ありませんでした。
個人的には
>小乗(アビダルマ)で説く「空」と般若経典で説く「空」の相違及び発展した天台智の
>「空」の事なども含めて
は興味しんしんです。またお願いします。

>色っぽいことをすると空しくなる
これいいですね(笑) 使わせていただきます。





9 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/08/02(水) 00:11

22 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/11(金) 02:18

>たとえばジャムを塗った食パンが床に落ちたとき (以下略)

むむ、それはどうなんでしょう? 私はそういう場合真っ先に「ぎゃ。床がジャムでぐちゃぐちゃになるぅぅ」と思ってしまうたちなので・・・。
よくあるのが、「あの人今日は挨拶しなかったな。俺なんかしたっけ?」てな感じのものです。相手も人間ですから、忘れてたり他に気を取られることもあるでしょう。ほんとに私を避けるのならしばらく一緒にいればもっと明らかな証拠が出てくるはずです。「人からの挨拶、あって当然と思うな。むしろ挨拶してもらって有りがたいと思え」です。

23 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/11(金) 02:19

第7の外道さん

ご厚情に感謝致します。
またよろしくお願いいたします。


私が保存していたのは以上です。