日蓮ってver.1 -2/4-

 

425 名前: 文底 投稿日: 2000/04/10() 20:03

 

     若葉マークさん初めまして

 

     始めに少し私の立場を申し上げて起きますが、私は、創価学会の擁護派でもなけ

     れば、

     否定論者でもありません。

     ただ、ここの掲示板において創価学会がかなり一方的に非難されている様なの

     で、

     疑問を投げかけた事はあります。

     私は、自分の考えとして「悪」と言う物は、その「個人」が負うもので組織や、

     団体などという

     ものは、実際のところ責任の負えないものだと思っております。(論争中)

     ですから、創価学会という組織自体を非難している事を問題提起した事はあり

     ますが、

     創価学会の教義や文献を全面的に是としている訳ではありません。

     若葉マークさんも深いスレッドをご覧になれば御分かりになるでしょうが、(大

     変ですが・・)

     私は「文献的教義」に懐疑的立場をとっているのです。(これも論争中)

     私の立場として、問題提起している本意は、

     ある程度歴史に残る大きな宗教を顕した開祖の方々の根本的理念何だろうか?

     つまり、金儲けや自分の名誉の為だけに興した宗教は除き、歴史的にも社会的

     にも影響力を

     持っている宗教がありますよね、これらの宗教には、教義を超える何か(ここも

     いつも争点

     になるのですが・・)普遍的真実があるのではないか?

     と発言しているのです。これがHN(文底)の所以です。

 

426 名前: 文底 投稿日: 2000/04/10() 20:04

     と言う立場で申しますと、

 

     >そう考えると、”御書に書いてあるから”、”創価学会ではこう言ってい

     る”

     >というのをそのまま信じてもよいのでしょうか?

 

     私は、「文献的教義」は、基本的に懐疑的立場です。

 

     >某掲示板に、阪神大震災は、謗法の結果である という論議がありますが、

     >やはり、御書に書いてある通りだからでしょうか?

 

     私は、宗教の正邪を断じるほど博学ではありません。

     しかし、あらゆる、社会現象や、個人の病気、苦悩を「文献的教義」で

     ばっさりと切り捨てることに人道的疑問は感じます。(私は普遍的真理と述べ

     てます)

     「阪神大震災は、謗法」とするのは、地球的規模で見れば明らかに矛盾が生じ

     ます。

     人類が存在してからの天変地異は、それこそ天文学的数字で、あったのではない

     ですか?

     それを「文献的教義」で「謗法」とする事にそもそも宗教的「慈悲」を感じま

     せん。

     亡くなられた方の心情を察すれば、その様な言葉はとても述べられないのでは

     ないでしょうか?。

     ただ、これは私見ですが(ここでいつも突っ込まれています)

     「阪神大震災は、謗法」とする教義を持った宗教団体がその開祖の本意として

     述べたかは、

     開祖が現存していない場合、論議不能です。

 

427 名前: 文底 投稿日: 2000/04/10() 20:05

 

     >歴代の宗教者達が感得し表現したものは、それぞれの宗教者の『思惑』

     >だったのでは? それが正しいのか間違っているのかは別として。

 

     『思惑』が意図的に相手を誘導するだけの目的であれば、あまりにも悲しい言葉

     です。

     そこには、宗教者がもつ「慈悲」の精神も無ければ、「救済」の心も感じられな

     いからです。

     もしその目的だけに宗教が存在するなら、歴史的にも数字的にもこれほど長く、

 

     沢山の人々が信じ続けられないのではないでしょうか?

     ただ、若葉マークさんの『思惑』の定義が今ひとつ私に理解できないので、

     その辺りのところを論じていただけたらと思います。

     御意見お待ちしております。

 

428 名前: 文底 投稿日: 2000/04/10() 20:06

 

     第7の外道さん

 

     >つまり『宗教』と『倫理』との相違ではなく、二つの『宗教』観の相違をテ

     ーマにして

     >議論をしようというご提案なのでしょうか。文脈的には、そのように受け取

     れるのですが。

     >もしそうだとしたら、私も賛成です。

 

     そのように考えられて結構です。

     本当は、「宗教」は「倫理」のみならず「哲学」「科学」「社会」「文化」「芸

     術」など、

     およそ人類の営み全てにおいて関係していると思うのですが、一応ここでは、

     「二つの『宗教』観の相違をテーマにして議論をしよう」と言うことで、

     論議を進めて構わないと思います。(ただ、仮説の証明上宗教学以外の話しが出

     てくる事を

     ご了承ください。)

 

     >一般の「宗教」観を正しいと前提した上での議論は私にはできません。それ

     でよろしければ。

 

     私も、「一般の宗教観を全て」を正しいとは、思っていません。

     もし、私がそのように認識されていると御思いでしたら、それは私の説明不足で

     す。

     申し訳ありません。

 

     その上で、第7の外道さんのご質問にお答えいたしますが、何分にも私のことで

     すから、

     (第7の外道さんもご存知ですよね)やや話しが論理的飛躍を見ることがある

     と思います。

     その辺りの所を予めご理解下さい。

 

429 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/10() 20:08

     >428

     少し智慧が足りないような気がしますが。。。。。。。

 

430 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/10() 23:55

 

     文底さんへ

 

     丁寧なレスを頂き、ありがとうございました。

     私、若葉マーク=初心者でして、意見を申し上げる程の知識もないのですが

     いろいろな掲示板で繰り広げられている学会員 vs 〇〇 の論議を見て、学

     会員の

     考えていることを知れば知るほど、ショックを受けて、頭の中が疑問だらけに

     なっているものですから、ついカキコしてしまいました。

     文底さんの立場を把握しないで、意見を申し上げた点はお詫びいたします。

 

     >ただ、これは私見ですが(ここでいつも突っ込まれています)

     >「阪神大震災は、謗法」とする教義を持った宗教団体がその開祖の本意として

     述べたかは、

     >開祖が現存していない場合、論議不能です。

 

      少なくとも、この宗教団体は、「開祖の本意」だと決めて言っているのでし

     ょう。

      開祖が現存していない→開祖の本意かどうかわからない→だから(文献的)

     教義には

      懐疑的ですか? 教義を否定してしまったら、何を指針にするのでしょう

     か?

      牧口さんも、戸田さんも現存しませんから、学会の本意も論議不能ですか?

      文献的教義以外の教義というのは、一体どういったものなのでしょうか?

      それが、「普遍的真理」というのであれば、具体的にどういったものなので

     しょうか?

 

431 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/10() 23:58

     429の「第7の外道」はニセモノですが・・・

 

     今このスレッドどういう状態になっているんでしょうか・・・

 

432 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/10() 23:59

     文底さんへ

 

     つづき

 

     >『思惑』が意図的に相手を誘導するだけの目的であれば、あまりにも悲しい言

     葉です。

     >もしその目的だけに宗教が存在するなら、歴史的にも数字的にもこれほど長

     く、

     >沢山の人々が信じ続けられないのではないでしょうか?

 

      『思惑』が相手を誘導するだけの目的であったかどうかはわかりません。

      結局、開祖と呼ばれる人たちの「思惑」=思ったこと だと思うのです。

      たとえば、

      「法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし」

      「白毫の光明は、南無妙法蓮華経なり」

      これは、「日蓮の世界」でしょう。

      他の開祖も自分の世界(思想)を展開しただけではないでしょうか?

      仏教に疎い私がこんなことを言ってよいのかどうかわかりませんが。

      では、なぜ信じ続けられてきたのか? それは、信じれば「ご褒美」が

      ある(と思われている)からではないでしょうか?

      念仏を唱えれば、極楽浄土へ行けるとか、唱題すれば、功徳がある

      とか・・・実際に、功徳がある(と思う)から唱題しているわけですよね?

      神社に至っては、教義なんて聞いたことがありませんが、沢山の人が

      信じ続けお参りしています。 やはり、守ってくれるかもしれないから

      ではないでしょうか。

      それと、「ご褒美」とは逆に「祟り」とか「無間地獄」に対する恐怖という

      のもあると思います。

      仏教とは、本来このような物ではなかったのではないかと思います。

      しかし、衆生の救済を考えた場合の方便としては正しいのかもしれません。

      そう考えていたのであれば、やはり開祖は偉大だったのでしょう。

      人間の本性を見抜いていたわけですから・・・。

      開祖の本意は、現存しないのでわかりませんが・・・。

 

433 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/11() 00:25

     何だかレスの番号がぐちゃぐちゃになっていますね。誰かがコピペを削除して

     くださったのかな?

 

     文底さん

 

     >一応ここでは、「二つの『宗教』観の相違をテーマにして議論をしよう」と

     言うことで、

     >論議を進めて構わないと思います。(ただ、仮説の証明上宗教学以外の話しが

     出てくる事をご了承ください。)

 

     ではそういたしましょう。論理の飛躍についてはお互いありえることですか

     ら、わかりにくい場合はお互いつっこみあうようにしましょうね。

 

     なお、429のようなニセモノがちょくちょく登場しつつあるようですが、と

     りあえず私の場合、レスの内容そのもので「ホンモノ」であることを証明して

     いきたいと思います。感情的な応酬を誘うのを目的とした1行レス的なものは

     今まで一切投稿しておりませんし、これからもするつもりはありません(43

     1が「1行レス」っぽくなっちゃってますが(^^;)。信用していただけるよう今

     後とも努めます。よろしくお願いします。

 

434 名前: LQ 投稿日: 2000/04/11() 10:48

     良質なスレッドは上げましょう。

     7の外道殿、昼行燈殿、応援しております。

 

435 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/11() 11:09

     LQ>ニュース板廃止だそうな。

 

     http://www.ohayou.com/2ch/test/read.cgi?bbs=news&key=955390453

 

     この板も廃止が近いかな。つーか廃止希望ね。

 

436 名前: LQ 投稿日: 2000/04/11() 11:13

     少なくとも私のニュース版でのネタ的書き込みが原因になったと

     おっしゃりたいのでしょうか?

     創価学会板を活性化させるために「時事」を利用した事に関しては

     正当性も私にあると思いますが、ただ一因となったならば

     謝ります。申し訳ないことをしたと。

 

437 名前: 人格攻撃 投稿日: 2000/04/11() 15:02

     >435

 

     いままで何回もそんなこと言ってるバカ創価学会員がいたなぁ

 

     君もその1人だな

 

438 名前: 文底 投稿日: 2000/04/11() 19:15

 

     若葉マークさん

 

     こちらこそ色々御意見下さり、有難うございます。

     私こそ、若葉マークさんに、意見を申し上げる程の知識も教養もありません。

     これからも、よろしくお願い致します。

 

     >掲示板で繰り広げられている学会員 vs 〇〇 の論議を見て、学会員の

     >考えていることを知れば知るほど、ショックを受けて、頭の中が疑問だらけ

    

     >なっているものですから、ついカキコしてしまいました。

 

     最初、私も同じような疑問をもち、意見を述べたひとりでした。

     ただ、私の私見が、第7の外道さんを初め、昼行燈さんなどに疑念を抱かせる形

    

     なってしまい(若葉マークさんもですよね)、現在の論議に及ぶきっかけにな

     って

     しまったようです。

 

     >開祖が現存していない→開祖の本意かどうかわからない→だから(文献的)

     教義には

     >懐疑的ですか? 教義を否定してしまったら、何を指針にするのでしょう

     か?

     >文献的教義以外の教義というのは、一体どういったものなのでしょうか?

     >それが、「普遍的真理」というのであれば、具体的にどういったものなので

     しょうか?

 

     もうこれが、論争の発端であり、皆さん疑問に思う所なのです。(当たり前です

     が・・)

     ただ現在「普遍的真理」や「宇宙の法則」という言葉が適切かどうか自分でも

     検討中です

     (非難轟々)その辺りの流れは、これから第7の外道さんにお答えするレスの中

     から

     御汲み取りください。(もちろん横レス大歓迎です)

     「普遍的真理」や「宇宙の法則」の言葉を引用する方々の中には、確かに何か意

     図的な

     『思惑』を感じさせる事も事実ですから。

 

439 名前: 文底 投稿日: 2000/04/11() 19:16

 

     第7の外道さんそれでは続きを述べさせて頂きます。

 

     >ところでこうした「宗教者」の条件が、宇宙や未来永劫にも適用可能な「普

     遍的法則」

     >に基づいているかどうかなどは、私には興味がありません。そういう「法

     則」など、

     >私には知りようもないからです。また、知ったところでどうしましょう?

     >そもそも仮説すら立てられません。

 

     私も「法則」と言う言葉をあえて使う以上、ある程度の意図があります。

     しかし、この言葉のもつ「ニュアンス」を、宗教上の論議において使うのは、

     やや、不適切に感じられるのも事実です。(最近そう感じるようになりました

     。)

     ただ、自分が発言した「普遍的法則」の意味付けについては、

     少し説明しなければならないでしょう。(言葉のもつニュアンスの先入観を捨

     てて下さい。)

     私は、例え話はあまり好きではないのですが、この論議に趣旨として「宗教」が

     「現代科学の常識を超えた超自然的な現象」と、定義している以上、

     最低限の科学的論理的な弁証法を用いなければならない事をお許しください。

     第7の外道さんの「仮説すら立てられません」と言う言葉に対し、真摯に受け取

     れば

     私は、仮説を立てなければ、反証できません。

     ですから、第7の外道さんが私に対し、しばしば仰る「論理の飛躍」をあえて

     受ける覚悟で

     書かせていただきます。

 

440 名前: 文底 投稿日: 2000/04/11() 19:17

 

     ある先人が「万有引力」を発見したことは、有名ですが、この「万有引力」なる

     ものは、

     彼(人間)が、発明した物ではありません。

     また、他の先人も、「地動説」を唱えたことで、有名ですが、この「地動説」なる

     ものも、

     彼(人間)が、発明した物ではありません。

     まず、発見と発明なる物が、次元の異なる事だとご理解ください。

     宇宙(空間)や未来永劫(時間)において、「質量が存在する物質」について

     は、

     その大小を問わず引き合う力「万有引力」があることは、天文学者、物理学者

     の間でも

     その意見に異議を唱える人は、現在の科学では、少数であるし、私のような一般

     人でも、

     納得できる事だと思います。(御異議のある方は別の掲示板でお願いします)

     ただ、過去の時代では、地球がグルグルと太陽の周りを回っている事や、

     地球が丸いなどと言う事は、その時代に、人工衛星等が無い以上、望遠鏡などそ

     の時代の

     科学的証明方で推理するしかありませんでした。

     当然分からない事は、仮説で話すしかありません、ですからそのため当時の宗教

     者(国家)

     などから圧力が掛かった事も有名な話しです。

     「それでも地球は回っている・・・」と彼は呟くしか当時の科学では、その「法

     則」を

     説明できなかったのだと思います。

 

441 名前: 文底 投稿日: 2000/04/11() 19:18

 

     さて、ここからが第7の外道さんへの反証です。

 

     >「宇宙の永遠の生命の法則」とか「絶対者の御心」とかを「主張」している

     人は大勢います。

     >そういう人は「普遍的法則」を知ってらっしゃるのでしょうね。

     >でもそれが私が納得できないものであれば、相手が「普遍的法則」を知って

     おり

     >私は全然知らなくても、私は私の思うところを述べてそういう人を批判する

     でしょう。

     >だから、私にとっては「普遍的法則」を「知っている」だけならば、

     >それはどうでもいいことなのです。

 

     ここでは、「万有引力」を「普遍的法則」と定義して話しを進めます。(無理

     を承知で)

     「万有引力」なる法則など、およそ宇宙が誕生してから消滅するまで(それが

     あるとしてですが)

     だれが発見しようが、発見しなくてもずっと存在していたはずです。(それを

     普遍的法則と定義)

     この「普遍的法則」を「どうでもいいこと」と片付けてしまうと、

     高い崖の上から落ちたら、死んだり、怪我をするのも、「どうでもいいこと」

     になってしまうのではないですか?(第7の外道さんの意図ではない事は承知

     の上で)

     そうではないですよね、人間は、死んだり怪我をすることは、「嫌な事」(不

     幸)

     なのではないですか?(これを宗教家達は、「罰」と比喩して誤解を受けてしま

     う)

     「万有引力」なる法則は、知ろうが知るまいが、人間(生物)も太古の昔から、

 

     その存在を「無意識」のうちに感じていたのではないかと思います。

     それは体験的によるものが多かったと思いますが、(実際に人が落ちて死ぬ等)

 

     ただ、それ以外に何か直感的に「危ない」と感じた「何かが」あったようなよ

     うな気がします。

     これを先人たちは、「第六感」などと表現していたのではないでしょうか?

     「万有引力」を「普遍的法則」としてするのは、私が良くやってしまう「論理

     的飛躍」ですが、

     人間には、本源的に「五感」以外の何かを持っているのではないのでしょうか?

 

442 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/11() 19:20

     文底さん

 

     なんか今日もめちゃくちゃあれてますねぇ(^^;)

     違うレス立ち上げますか?

 

443 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/12() 11:28

     文底さん

 

     今までのところで多少私見を加えさせていただくと、「万有引力の法則」が普

     遍的法則であることは否定する気もないですが、ただそれも、多様きわまる自

     然現象を理解するための一つの「解釈」であるという視点は持てると思います

     (もちろんそれは個人が恣意的に行う「解釈」と同列に扱うことは全くできま

     せんが)。「万有引力の法則」とて自然現象のあらゆるレベルにおいて妥当す

     る法則とは違うと認識しています。数量化された自然をある特定のパースペク

     ティヴから抽象化して把握し、そのパースペクティヴ、定義、推理のルール、

     その他を共有する限りで「万有引力」は「法則」として妥当するものだと思っ

     ております。

     つまり、自然科学にいう「法則」といえど、自然の中にそのままの形で隠され

     ているのを誰かが直観で発見するというよりは、人類が自然を「解釈」するた

     めに積み重ねてきた「解釈」や実験の技術がよく整備されてはじめて「法則」

     は「法則」として成立しうるのだ、というのが私の基本的な考え方です。どち

     らかというと唯名論的な発想ですね。

 

     しかし文底さんの主旨は、「個人の主観や恣意的な解釈を離れて成立するルー

     ルというものは確かにあるのだ」というところにあると思いますが、それにつ

     いては異議はありませんので、さしあたってはご意見の展開をお続けになって

     いただければと思います。

 

     なお、442のレスですが、これは私のものではありません。このレス自体は

     「感情的な応酬を誘う」類のものでは全くないのでいいんですが、これはおそ

     らくこういう「無害」なレスを入れてみることで誰かが私たちの出方をうかが

     っているのか、または私の代わりに議論を続けていきたいと思うがスレッドは

     変えたいと本気で願っている方が書いておられるかのどちらかでしょう。いず

     れにせよ、とりあえず私はレスをこのスレッドに投稿し続けていきたいと思っ

     ています。

 

444 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/12() 13:12

     板替えるに一票。ここ来るの嫌だ・・

 

445 名前: 文底 投稿日: 2000/04/12() 19:57

 

     第7の外道さん

 

     色々とお気遣い有難うございます。

     しかし、このスレッドを立てられた方は、第7の外道さんですから、

     私は第7の外道さんのご意見に従い述べさせて頂きます。

 

     >どちらかというと唯名論的な発想ですね。

 

     そうしますと、私の話しは、実念論的と御理解頂いている訳ですね。(ちょっと

     古い考えですか・・)

     ただその定義は、実際には二つの歴史的流れがありますので、あえてその中で述

     べるなら、

     スコラ哲学の中でもどちらかと言うと、アリストテレス的「実在論」と御理解

     下さい。

 

     上記の言葉は第7の外道さんの「唯名論的な発想」の定義に対するレスですの

     で、

     御理解頂けると判断し、引用いたしましたが、出来ればもう少し平明な言葉で

     話された方が、

     他の方にも事の推移が分かり易いと思います。

     第7の外道さんも御理解頂いていると思いますが、私は「文献的教義」のみとす

     る手法は、

     やや懐疑的立場をとっております。

     ですから、第7の外道さんにとっては、私の表現方法が、大変稚拙な文章であり

     ましょうが、

     その辺りの事を御承知の上お読みください。

 

446 名前: 文底 投稿日: 2000/04/12() 19:58

 

     それでは続けさせていただきます。

 

     >それに、説得力が全然なく、ただ信じてみなくては真だと分からない「法

     則」なんて、

     >「法則」と呼ぶ意味などそもそもあるのでしょうか?(文底さんの言われる

     のがそうだ、

     >と言っているのではないです。)

 

     これは、第7の外道さんが仰るように、説得力が無く、ただ信じるのみの「法

     則」なら、

     それは、「法則」とは呼べないでしょう。

     また、「信じて実践するしかない」との言葉のみで、「法則」なりの定義を唱え

     る方々には、

     私は、懐疑的立場です。

 

     >ですから私はそういう言葉自体、あまり使いたくはないし、

     >そういう言葉を以って宗教を語る人がいる場合、即座に批判的な目を働かせ

     てしまうわけです。

     >自分が責任を負うべき自説の根拠を、批評不可能に・無謬のものに見せ掛け

     たいがために

     >「神意」だの「永遠」だのと言っているのではないか、とね。性格悪いでし

     ょう(笑)。

 

     いいえ、少しも性格が悪いなどとは思いません。(本当です)

     むしろ、闇雲に「ただ信じれば良い」と語る方々よりは、よほど説得力がありま

     す。

     ただ、「法則」(適当な言葉ではないかもしれない・・)と言う言葉を使っ

     て、

     宗教を考察する検証方法もあるのでは?と問題提起しているのです。

     「神意」だの「永遠」だのと言う言葉や文字を多用して、自分の「思惑」に巻き

     込んで

     しまう、宗教が存在する事も認めます。

 

447 名前: 文底 投稿日: 2000/04/12() 19:59

 

     >こうした矛盾の正当化や欺瞞を告発し、批判し、変革せしめるものもまた、

     >「人間の思想であり、それを表現する言葉や文章」だと思います。

     >「人間の思想」「言葉や文章」には限界があり、弱点も疑わしい点も多くあ

     ります。

     >しかし私たちが頼りにしなければならないのも、その疑わしい「思想」や

     「言葉」なのです。

     >「思想」によって人は人を殺し、「思想」によって人は人の命を守る。

     >それが人間の実際の姿であり、それしか道がないのだと思います。

 

     その疑わしい、「思想」や「言葉」でどれほど人類史上「忌わしい歴史」が

     繰り返されたのでしょうか?(逆説的表現ももちろんあります。)

     私は、「思想」や「言葉」を全く否定する人間ではありません。

     ただ、「思想」や「言葉」のみが人間を救う唯一の方途であると言う主張に

     疑問を投げかけているに過ぎません。

     第7の外道さんの仰るように「それしか道がない」のかも知れません。

     しかし道が一つなら、そろそろ人間は、その方法(思想、言葉)をその歴史におい

     て、

     過去の教訓として生かし、同じ過ちを繰り返さなくなっているのではないでし

     ょうか?

     確かに、人類の「争い方」の方法が変化してきた事は認めます。

     その意味では、人類は過去の過ちから、色々な方途を学習したのでしょう。

     しかし、それは結局「核」に代表されるような、「争い方」の変化でしかなく、

 

     根本的には、組織や家族など自分が属する物に対して、それらを守る為に意

     識、無意識を問わず

     人間は、あらゆる「思想」や「言葉」で「暴力」を正当化しているように感じる

     のです。

     その人間の根本的「思い」や「迷い」を何か違った形で、解決できないか?

     (もちろん私のような人間には、答えは出せませんが)その方途を比喩的表現で

     現そうとしたのが、

     時代の変遷や、民族的価値観の変化にも耐えた宗教ではないのだろうかと期待す

     るのです。

 

448 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/13() 11:48

     文底さん

 

     >また、「信じて実践するしかない」との言葉のみで、「法則」なりの定義を唱

     える方々には、

     >私は、懐疑的立場です。

     >ただ、「法則」(適当な言葉ではないかもしれない・・)と言う言葉を使っ

     て、

     >宗教を考察する検証方法もあるのでは?と問題提起しているのです。

 

     ご主旨は大変よくわかります。ごもっともだと思います。ただ「『信じて実践

     するしかない』との言葉のみ」の人と文底さんとの違いは、文底さんがその思

     想をまさに自分の「思想」として、自分の「言葉」で他者に「説明」しようと

     する、その姿勢にあることはお気づきでしょうか? 私は、「法則」を実際に

     知っているかどうかの違いよりも、今のこの違いを重視するものです。

 

     私は「思想・言葉によって人は人を殺し、思想・言葉によって人は人を救う」

     といいました。これは、一つの言葉が条件次第で「殺す」方にも「救う」ほう

     にも転じうる、そして絶対的に「救う」ほうだけに固定できるようなものは存

     在しない、ということを含んでいます。そこで「殺す」言葉を「救う」ほう

     へ、またその逆へ転じさせようという不断の闘いが現実になされており、もし

     「救う」ことをしたければその闘いの中に自ら参加するしかないのであって、

     その闘いを超えた立場から「絶対」を主張することは不可能だ、ということを

     言いたいわけです。もし絶対的に「救う」方だけに固定したものを提示しよう

     とすれば、極度に抽象的で現実には何の効力も持ち得ないような提言しかする

     ことができないでしょう。

 

449 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/13() 11:49

 

     >しかし道が一つなら、そろそろ人間は、その方法(思想、言葉)をその歴史にお

     いて、

     >過去の教訓として生かし、同じ過ちを繰り返さなくなっているのではないで

     しょうか?

 

     ある条件下では正しかった思想が、容易に抑圧の武器にもなります。自分は正

     しいつもりでも、周りの条件次第で容易にそれは「悪」にもなってしまう。自

     分の意図とは関係なく。「絶対正しい」とされるよりどころがないのだとすれ

     ば、これは当然です。だとすれば、「同じ過ちを繰り返す」ように結果的に見

     えてしまうのも避けられないということになります。

     むしろ、そうした「過ち」を根本から解決することができるのだとしたら、

     「偉大な宗教家たち」が登場

     してきた時点で、人類は「過去の教訓として生かし、同じ過ちを繰り返さなく

     なっている」ようになっているのではありませんか?

     そして私は、「過ちを絶対的に断ちきる方法がある」→「その方法を提唱する

     自分たちは絶対的に正しい」と思いこむことこそが、むしろその「過ち」の大

     きな原因となっているのではないか、と考えています。「絶対的」な正義は

     「絶対的」に「絶対的」な悪を生み出し、前者は後者を「絶対的」に許さなく

     なるでしょうから。極端に言えば、「そんな絶対的な方法は全く無い」とお互

     いが分かり合ったほうが、むしろ争わなければならない理由をなくし、異質者

     相互の共存がしやすくなると思うのですが。

 

450 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/13() 11:50

 

     ただ私の考えがかなりニヒリスティックに見えることは認めます。しかし私は

     この考えを勝手に「仏教的」だと思っているのです。「全ては条件次第であり

     (縁起)、それを離れての「絶対」は善も悪も成立しない」というわけです。

     「歴史に終局はなく、現実的には人類は同じ過ちを繰り返すかのように生きる

     しかない」というのもそうです。ただ釈迦の思想には、だから虚無的になるの

     ではなく、そこにむしろ「救い」を道を見る逆転的な発想があると思います。

     絶対の不在を悟ることから心の平安を獲得し、偏らないものの考え方を獲得す

     るとともに、この平安を他者にも伝え広げていく、という考え方です。

     また、釈迦が言ったわけではなさそうですが、「生死即涅槃」というよく使わ

     れる言葉も、上で述べたようなことを伝えるものではないかと勝手に「解釈」

     しております。ゴールも絶対も終局もない「生死」の真っ只中にこそ「涅槃」

     はあるのであって、そこを離れて理想の境地が存在するのではない、という考

     え方です。「現実は同じことの繰り返しのように見えるのに、腐ることなく平

     安をもって生きることはいかにして可能か?」という問いに対する答えが、釈

     迦の説の中にはあるように思います。

 

     しかしあまりにも脱線し過ぎてしまいました。今までのところでは

 

     >その人間の根本的「思い」や「迷い」を何か違った形で、解決できないか?

     >(もちろん私のような人間には、答えは出せませんが)その方途を比喩的表現

     で現そうとしたのが、

     >時代の変遷や、民族的価値観の変化にも耐えた宗教ではないのだろうかと期待

     するのです。

 

     に対する文底さんの提案が示されていないままですので、このレスの内容につ

     いてのご意見はそれをお話していただいてからで結構です。引き続きよろしく

     お願いいたします。

 

451 名前: 仏罰が起きるのはおまえらだよ 投稿日: 2000/04/13() 11:55

     もっと御書を読めよ・・・

     心で読むんだよ、理論じゃないんだよ!

     なにやってんの、ほんと。仏教学者なんて一番信用おけない。

 

452 名前: 文底 投稿日: 2000/04/13() 18:42

 

     第7の外道さん

 

     私の遅々として進まないレスに対し、いつも丁寧なレス有難うございます。

     第7の外道さんが述べられた言葉に対し、真摯的にレスを付けると細かいところ

     まで引用符を

     付けざる負えなくなり、結局のところ長文になってしまいます。(駄文にて申し

     訳ありません)

     また、私の思うところを全文一気に書き込みますと、他の方々が御覧になる時、

 

     一見「荒らし」同様の印象を与える事を危惧し、内容の是非に関わらず

     不快感を与えてしまうのでは無いかと思い、現在の文章量になっております。

     (それでも多い・・)

     その辺りのところご了承ください。

 

453 名前: 文底 投稿日: 2000/04/13() 18:43

 

     >>その人間の根本的「思い」や「迷い」を何か違った形で、解決できないか?

     >>(もちろん私のような人間には、答えは出せませんが)その方途を比喩的表現

     で現そうとしたのが、

     >>時代の変遷や、民族的価値観の変化にも耐えた宗教ではないのだろうかと期待

     するのです。

 

     >に対する文底さんの提案が示されていないままですので、引き続きよろしく

     お願いいたします。

 

     に対してですが、まず、今回第7の外道さんが仰られた、「仏教観」に取り立て

    

     異議を唱えるつもりはありません。(良く理解できます)

     また、(私のような人間には、答えは出せませんが)と言う言葉自体が、

     ある種、この問題の本質的主観であり、また私自身がいつも、模索する所以で

     す。

     ただ、第7の外道さんが私の主張に対し、

 

     >自分の「思想」として、自分の「言葉」で他者に「説明」しようとする、

     >その姿勢にあることはお気づきでしょうか?

     >私は、「法則」を実際に知っているかどうかの違いよりも、今のこの違いを

     重視するものです。

 

454 名前: 文底 投稿日: 2000/04/13() 18:44

     である事が、私の論ずる本質的「問題である」と仰りたいのでしょうか?

     もし、それを否とする主観で、私の文章をお読みになられるのであれば、

     上記の定義に対しての私の答えは、まさしく、自分の「言葉」で他者に「説明」

     しようとする、

     行為そのものであります。

     私は以前から、「文献的解釈論」は懐疑的であると述べた人間です。

     しかし、私の発言も第7の外道さんが述べられたように、ある種の「文献的解

     釈論」なる

     定義で論議している事は否めません。

     ただ私が述べたいのは、「文献的解釈論」のみが「絶対的に正しい」とする意見

     に対し

     「何か他の方途もありえるのではないか?」と問題提起しているだけです。

     それを、表現する方法として、「不変的法則」や「普遍的真理」などと言う、そ

     れこそ

     誤解を生む言葉を使ったかも分かりません。(この言葉の定義は反芻中です)

     しかし、私は一貫して、「何々が絶対的に間違っていて」私の言うところが「絶

     対的に正しい」

     などと言う意図の事は、発言していないと思います。

     もしそう感じられているのであれば、私は論議の仕方から反省しなければなりま

     せん。

     現在、私が取り得る方法が、それしか(言葉・文字)無い以上、

     「今のこの違い」をどのように「重視」されているか分からないため、

     論議を続けて良いのか判断に迷うところです。

     その辺りの所を、「第7の外道さんのお気持ち」としてお聞かせください。

 

455 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/13() 20:24

 

     私が述べたいのは貴方の行為は自慰(オナニー)そのものであり

 

     「何か他の方途もありえるのではないか?」

 

     という解釈については治療即ち「包茎手術」をお勧めしたい

     「包茎」という定義については下記の小学館発行の国語大辞典のべて

     いるものである。

 

     ほう‐けい【包茎】

 

     ほうけい(ハウ‥)

     成人の陰茎の亀頭部が皮膚(包皮)でおおわれている状態。

     皮かぶり。ほうきょう。

 

456 名前: 文底 投稿日: 2000/04/13() 21:14

 

     「目から鱗がおちる」とはこのことでしょうか?

     第7の外道さんの核心を突くお言葉に目の覚める思いがしました。

     今まで長々と書いてきましたが、自分自身の「要求不満」がこのような

     行為「掲示板に意味の無い文章を書きつづける」に走らせていたのでしょう。

 

     今自分自身がなにをすべきか明確になりました、「包茎手術」やはりこれしか

     ないですね。

 

     今まで本当に有り難う御座いました。

 

     追伸

 

     内の家内はデブですSEXするとき死にそうになります。

     誰かデブ専かたよかったらもらって下さいm(__)m

 

     ※蛇足のよう申し訳ありませんが、誤解の無い様に付け足します

     「デブ専」とはデブ専門の短縮系であり

     すなわち性的嗜好として「肥って」なお且つ「脂ぎった」

     醜い婦しか興味を持たない人々のことです。

 

457 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/14() 00:32

     文底さん

 

     横レスです。

 

     >ただ私が述べたいのは、「文献的解釈論」のみが「絶対的に正しい」とする意

     見に対し

     >「何か他の方途もありえるのではないか?」と問題提起しているだけです。

 

      「文献的解釈論」と「普遍的真理」を同列に考えていらっしゃるの

       でしょうか?

 

458 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/14() 09:05

 

     文底さん

 

     >しかし、私は一貫して、「何々が絶対的に間違っていて」私の言うところ>が

     「絶対的に正しい」

     >などと言う意図の事は、発言していないと思います。

 

     という個所を読んで、強く反省しています。

     私としては、文底さんが自説を「絶対」として主張しているのではないことは

     よくわかっているつもりでしたが、私のレスを見る限り、文底さんが自説を絶

     対として主張している、としか読めないような文面になっていますね。

     これは率直に言って、私の暴走です。ですから、

 

     >もしそう感じられているのであれば、私は論議の仕方から反省しなければなり

     ません。

 

     という必要はないと思います。そのように誤解させてしまったことについて、

     反省するとともにお詫び申し上げます。

 

459 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/14() 09:07

 

     ここでもう一度私の主張をまとめると

 

     >「文献的解釈論」のみが「絶対的に正しい」とする意見に対し

     >「何か他の方途もありえるのではないか?」と問題提起しているだけです。

 

     ですが、分かりやすく言えば文底さんの問題提起及び主張もまた「文献的解釈

     論」の一種である(私見では)のに、文底さんが自説を「文献的解釈論」とは

     違ったレベルからの問題提起として把握してらっしゃるのはどういう理由から

     なのか、ということです。それを解くカギとして「普遍的法則」というのがあ

     ると思うんですが、文底さんの説が一般の「文献的解釈論」とは違う理由は、

     この「法則」に対する論証不可能な「直観」や「体験」があるがゆえでしょう

     か? そうでなく、もしそれが「仮説」である以上のものでないのなら、文底

     さんの説もまた「文献的解釈論」の一つであって、なぜご自分の説を他の「文

     献的解釈論」から区別なさるのか? その区別は恣意的なものではなかろう

     か? ということです。

     私の見るところでは、自説の宗教的絶対性に固執する人は、しばしば個人の解

     釈や批判を、「人間の解釈は相対的なものでしかない」という理由(?)で一

     挙に切り捨て、自説の無謬性に固執しつづけます。文底さんのご主張は、形式

     的にはこの方法に近いと思われました。無論、同じではないし、文底さん個人

     が「独善的」であるわけでは全くありません。ただ「論法」が相似的であると

     思われたのです。文底さんが自説と「文献的解釈論」を区分するやり方に、私

     は主張者の人格とは無関係に、「論法」そのものにある種の問題を感じたわけ

     です。それがこの議論を始めた私の側の根本的動機です。

 

460 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/14() 09:08

 

     >「今のこの違い」をどのように「重視」されているか分からない

 

     この部分のもとレスの主旨は、「文底さんは、ご自分の説をもうあえて『文献

     的解釈論』から区別する必要はなくなってしまっているのではないか」という

     ことでした。批評や検証の不可能な「直観」「体験」を絶対視する姿勢はない

     のがはっきりしてきていますし、「普遍的法則」の提示を一つの視角として、

     論理によって扱っていく姿勢が文底さんにある以上、もう私には文底さんの説

     は(文底さんには不本意でしょうが)私のと同様事実上「文献的解釈論」にな

     っているのじゃないか? と思ったから、以上のように書いたわけです。です

     から「気持ち」というレベルで言わせていただいていいのなら、私が文底さん

     と「論争」する理由がかなり(全く、ではないですが)減じてしまっている、

     というのが本当のところです。今は文底さんの「法則」についての仮説をもっ

     と詳しくお聞きしたい、という気持ちの方がどちらかというと重くなっていま

     す。

 

461 名前: 文底 投稿日: 2000/04/14() 13:22

 

     第7の外道さん

 

     >>もしそう感じられているのであれば、私は論議の仕方から反省しなければなり

     ません。

 

     >という必要はないと思います。そのように誤解させてしまったことについ

     て、

     >反省するとともにお詫び申し上げます。

 

     この文面を持って、私が再び論議する事を許されたと理解いたします。

     また、上記のような文面を頂き恐縮しております。

 

462 名前: 文底 投稿日: 2000/04/14() 13:23

 

     >それを解くカギとして「普遍的法則」というのがあると思うんですが、

     >文底さんの説が一般の「文献的解釈論」とは違う理由は、

     >この「法則」に対する論証不可能な「直観」や「体験」があるがゆえでしょ

     うか?

 

     「文献的解釈論」自体を疑うきっかけとは少し違う理由になるのかも分かりま

     せんが、

     ある種の「体験」が自分の考えに於ける「直観」を生んだとも言えるかも知れ

     ません。

     ただこれは、以前からの議論の一つでもある、「組織」「団体」と「個人」の関

     係も、

     第7の外道さんと若干の相違があるので、その辺りからも検証しなければならな

     いでしょう。

 

     まず、自分自身の「文献的解釈論」なるものに懐疑的立場を取り得るきっかけ

     になり得た

     原体験から論じさせていただきます。

 

463 名前: 文底 投稿日: 2000/04/14() 13:24

     私は、第7の外道さんが既にお感じになられている様に、「論議」「討論」なる

     ものを好む

     性格でありまして、その拠り所となるものは、「文献的解釈論」正にその物であ

     りました。

     事の善悪や道理等を考える上で、まず根底となる「文献」や「発言」に対し、非

     常に

     知的好奇心旺盛で(単に野次馬根性とも言う)その対象となる「組織」や「団

     体」の人間と

     討論を重ねた一人です。(相手は入会させようとしたに過ぎないかもしれない

     が・・・)

     その「組織」や「団体」の中には、宗教団体もありましたし、政治団体や理念・

     思想を

     第一義に掲げる組織もありました。

     それこそ、その一つ一つの体験を語ると良いのでしょうが、この掲示板は、「創

     価、公明」

     であり、その中でも「日蓮仏法」について討議しようとするスレッドなので、

     とりあえず、創価学会と私にある原体験ついてのみ述べさせて頂きます。

 

464 名前: 文底 投稿日: 2000/04/14() 13:25

 

     ここで私の立場をもう一度ハッキリしておきたいのですが、私は創価学会の

     擁護派でもなければ、否定論者でもありません。

     私の発言により、創価学会の方々が不愉快な思いをされたら申し訳ありません

     し、

     否定論者の方が「こいつは学会寄りだ」と判断されたら不本意です。

     私は、私の体験に於いて、どちらの立場も「絶対的ではないのではないか」と

     問題提起している事を御了承ください。

 

     この原体験ですが、それについて論じると長くなりそうなので、

     今日はここまでとさせて頂きます。(勿体振る文面になりで申し訳ありませ

     ん)

 

465 名前: 文底 投稿日: 2000/04/15() 17:01

 

     さて、創価学会なる団体の私の主観ですが、「体験上」話させて頂けば、これば

     「良い面」と

     「悪い面」の両方でした。

 

     まず、「悪い面」(あくまで私の主観)です。

     これは、私も第7の外道さんや昼行灯さんが以前述べられた感覚に「非常に近

     い」

     と言うのが正直な感想です。

     創価学会が「排他性」「独善的」強い、と言うのは、日蓮仏法を基準にされてい

     るのでしょうが、

     彼らは、基本的に突っ込んだ論議を展開することに「拒絶的反応」を示しま

     す。

     あくまで「創価学会」が「正しく・絶対的」で、それを前提とした上での理論

     展開であり、

     私が「文献的教義」に異議を唱えると、「実践するしか証明できない」との論

     法に転換します。

     また、私が、一般論理的思考方法に話しが及ぶと、それは、「二乗の生命であ

     る」との言葉で

     一蹴され、それゆえ「君のような人間は成仏しづらいのだ」との人格攻撃が始ま

     ります。

     正直なところ、あまり愉快な気分になれません。

     私も色々な宗教団体の方々と論議しましたが、この「排他性」「独善的論理」の

     二つは、

     特に際立つ物だと認識しました。

     創価学会の方々は、あくまで「善意」で仰って下さるのでしょうが、逆に誤解を

     招く結果も、

     そのあたりに原因があると思われます。

 

466 名前: 文底 投稿日: 2000/04/15() 17:02

 

     次に、「良い面」(これもあくまで主観)ですが、

     これは、良い面と言うよりは、この辺りに私の、「文献的教義」なるもので理解し

     難い、難解な

     一面があると感じた所なのですが・・・これを一言で言ってしまうと「体験的

     現象」です。

     宗教一般では、「御利益」とか「神の御恵み」とかで表現するのでしょうが、創

     価学会では、

     これを、「功徳」と表現しているようです。(他の教団でも使うようですが

     ・・・)

     この「功徳」なるもの、もちろん第7の外道さんが仰っているように、他の宗

     教や思想などでも、

     多々出て来るものなのですが、それが、創価学会の場合も数多く存在するらしい

     のです。

     私は、統計学なる物に長けてはおりませんから、その「功徳」なるものが、どれ

     だけ科学的に

     偶然ではなく必然的に存在するか述べられません。

     (逆に創価学会の方々はそれを実証されると良いと思います。)

     ただ、創価学会が発行する日刊紙「聖教新聞」なるものには、「体験談」と言

     う項目が、

     毎日2つから3つ以上「写真」「名前」入りで登場しているようです。

     「聖教新聞」が内部の信者だけの「洗脳」目的で「体験談」なるものを偽証し

     ていたならば、

     その真偽は分かりません。

     しかし、「新聞啓蒙」なる言葉を用いて、布教活動しているところを見ると、対

     外的にも十分

     耐え得る論証を持っている事が推察されます。

     これだけ、反創価学会の意見もある社会ですから、「体験談」なるものを偽証

     していたならば、

     簡単に証明し糾弾できるでしょう。

 

467 名前: 文底 投稿日: 2000/04/15() 17:02

 

     以上の二つの面が、創価学会には、特徴的に存在すると思います。(あくまで私

     見)

     つまり、創価学会が良くも悪くも社会的に大きな影響を持っているのは、その体

     験的実証性が

     強い為、信者の方々は、その教義において「排他性」「独善的論理」と揶揄され

     ようとも

     自分自身が「体験」した事実を否定するには至らないため、自分の属している

     教団自体には、

     疑念を抱かないのではないか?と

 

     ここで私がいつも投げかけている、人間は「文献的教義」のみでは、解釈しきれ

     ない「何か」

     「普遍的真理」を感じている生き物ではないのだろうか?と言う論旨に戻るの

     です。

     私は、このスレッドで第7の外道さんが問題提起されている、「日蓮って」と言

     う定義に関して

     皆さんの真摯な御意見を読ませて頂いておりました。

     ただ、昼行燈さんの素晴らしい文献考察力の流れと、創価学会員の方々の反証の

     無さから、

     話しの流れが、「文献的教義」による「創価学会の完全否定」と推移し定着して

     いるように

     見受けられたのです。(私の理解力の無さかも知れません)

     そこで、あえて「文献的教義」のみでは、解釈しきれない「何か」があるので

     はないか?

     と問題提起させて頂いただけです。(断定的表現は使っていないつもりです)

     ただ、私の論証の仕方に不適切な表現があったため「文献的教義」を絶対的に

     否定する

     印象を与えた事は事実ですし「普遍的真理」や「法則」なるものの定義も第7

     の外道さんや

     昼行燈さん・若葉マークさん方に怪しげな印象を与えてしまった事も認めま

     す。

     これも文章の稚拙さ故、どうかお許しください。

 

     以上が私の第7の外道さんのスレッドに対する私の意見であり、事の本意は、文

     章の推移から

     ご判断願うしかありません。

     このスレッドが、もっと沢山の方々の論議の場所となる事を祈っております。

 

468 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/15() 21:03

     文底さん

 

     途中から読んで、こんな事をいうのもなんですが、初めから「普遍的真理」な

    

     とは言わず、「体験的現象」と言って頂ければ、話は早かったのでは?

 

     文底さんのように、学会の悪いところを指摘できる(認識している)学会員が

     もっと増えると学会も変わると思うのですが・・・ほとんどが、文底さんのい

    

     「悪い面」ばかりが目立ちます。

 

     「体験的現象」=功徳については、論議はできないと思います。

 

     >「聖教新聞」が内部の信者だけの「洗脳」目的で「体験談」なるものを

     >偽証していたならば、 その真偽は分かりません。

     >しかし、「新聞啓蒙」なる言葉を用いて、布教活動しているところを見ると、

     >対外的にも十分 耐え得る論証を持っている事が推察されます。

     >これだけ、反創価学会の意見もある社会ですから、「体験談」なるものを偽証

     して

     >いたならば、 簡単に証明し糾弾できるでしょう。

 

      この考え方は、文底さんらしくないですね。

      「体験談」は、あくまでも個人的なものですから、事実を知りえるのは、

      その個人および、近親者のみだと思います。 したがって、客観的な判断の

      もとに書かれたものではないでしょう。 それを他人が証明するのは困難

      だと思いますし、またそこまでしようとは思わないのでは?

      私も、ネット上ですが、「体験談」というものをいくつか読みました。

      おかしいものもありました、結局、その出来事をどう解釈するか? という

      部分が大きいような気がしました。 「体験談」がすべてそうであるとは

      言いません。 中には、いくら検証しても「不思議な」ものもあるかもしれ

      ませんし、そのようなことがあって欲しいという気持ちも多少はあります。

 

469 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/15() 21:04

     文底さん

 

      蛇足ですが・・・

 

      文底さんは、読まれたかどうかわかりませんが、三国人発言で、問題になっ

    

      いる石原東京都知事の著書「法華経を生きる」というのがあります。

      図書館で借りてきて、まだ半分程度しか読んでおりませんが、まさに「体験

     的現象」

      を論じてあります。この本の内容をそのまま「聖教新聞」に掲載しても全く

     違和感が

      ないと思えました・・・だから、私のような無信心の者には、ショックで

     す。(笑)

      

 

470 名前: 文底 投稿日: 2000/04/16() 02:25

 

     若葉マークさんへ

 

     前回No438のレス読んで頂けましたか?

     又、No457のレスは若葉マークさんのものですか?

 

     >初めから「普遍的真理」など とは言わず、「体験的現象」と言って

     >頂ければ、話は早かったのでは?

 

     それは確かにその通りです、申し訳ありません。

     「普遍的真理」なるものが適切な表現ではなかったと反省しております。

     ただ、「普遍的真理」(まだ使っていますが)をただ「体験的現象」のみ断定

     するのも、

     私の本意ではないのです。

     「普遍的真理」を検証する上では、「体験的現象」は絶対十分条件ではないので

     す。

     それについて話し出すと、この人間が宇宙に存在する必然性から、話しをしなけ

     れば

     私の「普遍的真理」論はあくまで誤解を生むでしょう。

     それにそれは、推論であり、私の私見ですから新たな誤解を生む原因にもなり

     かねません。

     まずここは、「公明 創価」の掲示板であり、日蓮仏法に対しての討議をする

     事が

     論議の中心ですから、しばらく、私の「普遍的真理」論は心の中にしまってお

     きます。

     そして、「普遍的真理」論なるものがもう少し誰でも分かる平易な解釈を推考

     した後、

     「時」「場所」が許されたら発言させて頂きます。

 

471 名前: 文底 投稿日: 2000/04/16() 02:27

 

     >「体験的現象」=功徳については、論議はできないと思います。

 

     若葉マークさんにも論議不能な事項は存在するのですね。

     「昼行灯さん」なら文献的解釈で説明してくださるかも知れませんよ。

 

     >この考え方は、文底さんらしくないですね。

     >「体験談」は、あくまでも個人的なものですから、事実を知りえるのは、

     >その個人および、近親者のみだと思います。(中略)

     >「体験談」がすべてそうであるとは 言いません。

     >中には、いくら検証しても「不思議な」ものもあるかもしれ ませんし、

     >そのようなことがあって欲しいという気持ちも多少はあります。

 

     私らしくないですか・・・・私も若葉マークさんが仰ろうとする論旨はわかり

     ますし、

     理解できます。

     ただ、私が述べた意見の中で「偽証」と言う言葉が、誤解されているのかも知

     れません。

     それは、正確に言うと「捏造」です。

     もし創価学会が、対外的にも社会的責任のある「聖教新聞」なるものに、

     個人の実名(?)や顔写真を載せて体験手記なるものを発表している事に

     「捏造」なる操作が働いていたら、大変社会的重要性があると考えるのです。

     匿名性の強いネット上の体験談や、AさんB夫人など実際匿名を使った体験談

     は数多くあります。

     しかしそれらの多くは、実際反証しようと行動を起こしてもその本人に逢える

     確率は、

     限りなく低くなります。

 

472 名前: 文底 投稿日: 2000/04/16() 02:29

 

     私は、「地名」「名前」「写真」など反創価学会の人々なら容易に調べる事が

     出来、かつ、

     その上、その事象に立ち会った医師や創価学会とは無縁の組織の関係者の弁と

     して

     「大変興味に満ちた稀な出来事で、医師学会等に発表するつもりです」など

     と、

     その医師や病院名を記し、社会的組織の肩書きやその意見を述べた方々の実名

     を堂々と乗せている

     その姿勢から推察するに、これは対外的にも十分 耐え得る論証を持っているで

     は?

     と感じただけです。

     一つお断りをしておきますが、私は、毎日聖教新聞を読む立場におりませんの

     で、

     あくまで私が見た範囲の私見であり、その私見が全てを語っているとは思って

     いません。

     もしこれらの行為そのものを創価学会の意図として「捏造」していたならば、

     まさに、糾弾される組織そのものではないのでしょうか?

 

473 名前: 文底 投稿日: 2000/04/16() 02:30

 

     >文底さんは、読まれたかどうかわかりませんが、三国人発言で、問題になっ

    

     >いる石原東京都知事の著書「法華経を生きる」というのがあります。

     >図書館で借りてきて、まだ半分程度しか読んでおりませんが、まさに「体験

     的現象」

     >を論じてあります。(後略)

 

     私が感じる法華経観は、昼行灯さんの述べられている文献的解釈に近い物があ

     ります。

     十如是辺りの下りで、はたして石原さんは法華経の何を拠り所して解釈してい

     るか

     疑問に思います。

     その辺りは、どうか昼行灯さんにご質問ください。

     又私が、「体験的現象」が創価学会のみにあるとの認識は、全くの所抱いてお

     りませんので、

     その点に付きましても、どうぞ御理解ください。

     私の基本的論理構築の発生点は、第7の外道さんにも少しお話しいたしました

     が、

     私は、哲学的思考から申しますと、スコラ哲学の中でもどちらかと言うと、

     アリストテレス的「実在論」になります。(あまり使いたくない言葉ですが)

     これは歴史の流れから言って二つに分かれた一派と解釈して頂ければ良いでし

     ょう。

     もし、若葉マークさんが私の言っているある基本概念についてお知りになりた

     ければ、

     その辺りの歴史書を御考察ください。(これは結構有名なのですぐ調べられま

     すよ)

 

474 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/16() 14:55

     文底さんへ

 

     >前回No438のレス読んで頂けましたか?

     >又、No457のレスは若葉マークさんのものですか?

 

      No438のレスは読んでいます。No457は、私がカキコしたものです。

 

     >まずここは、「公明 創価」の掲示板であり、日蓮仏法に対しての討議をする

 

     >事が 論議の中心ですから、(略)

 

      『日蓮って』から外れてしまっていますので、私もその方が良いと思いま

     す。

      「普遍的真理論」を私に問われても、返答できませんし・・・(^^

 

     >>「体験的現象」=功徳については、論議はできないと思います。

 

     >若葉マークさんにも論議不能な事項は存在するのですね。

     >「昼行灯さん」なら文献的解釈で説明してくださるかも知れませんよ。

 

      これもこの板の主旨から外れてしまいますね。

      下記で、「唱題の検証」として、論議しています。(私は参加していません

     が)

 

      http://whiteangel.tonet.ne.jp/room_01/read.bbs?BBS_MSG_000404095644.html

 

      私は、昼行燈さんが、この論議から降りた理由を、論点が「文献的解釈」で

     はなく

      「体験的現象」に移ったからだと「勝手に」思っています。

 

      「聖教新聞」は、現在購読しています。というよりも、”頼まれて取ってい

     る”です。

      ほとんど読んでいませんが、嫌でも1面の記事は目に入ります。(笑)

      ”捏造””偽証”は分かりませんが、そのまま受け入れるわけにはいかない

     と思って

      います。 「文底さんらしくない」とは、学会に対して客観的に見れるので

     すから

      新聞に対しても、そのように見て欲しかったということです。

        

 

475 名前: 文底 投稿日: 2000/04/16() 22:47

 

     若葉マークさんへ

 

     色々ご感想有難うございました。

 

     >下記で、「唱題の検証」として、論議しています。(私は参加していません

     が)

 

     早速拝見させていただきました。

     何だか、私と同じような事を論じている方もいらっしゃいますね。

     色々考えさせられました。(客観的に見ると)

 

     >私は、昼行燈さんが、この論議から降りた理由を、論点が「文献的解釈」で

     はなく

     >「体験的現象」に移ったからだと「勝手に」思っています。

 

     もしそうであるならば、責任は私にありますね・・・

     少なくとも若葉マークさんがそうお感じになられたという事は、

     間違いの無い事実ですから。

 

     >「文底さんらしくない」とは、学会に対して客観的に見れるのですから

     >新聞に対しても、そのように見て欲しかったということです。

 

     客観性に欠けていましたか・・・

     その辺り、もう一度自分で反省してみます。

 

     何れにせよ、もう一度このスレッドにおける自分の立場を見直します。

     若葉マークさん貴重な御意見、どうも有難うございました。

 

476 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/16() 23:27

     文底さん

 

     丁寧なご説明ありがとうございます。文底さんが「普遍的法則」といった概念

     を提示される理由の一端がよく理解できました。以下で書かせていただく話

     は、以前どこかのスレッドにも同趣旨のものを書いたことがあるのですが、こ

     こで再論させていただきます。

 

     >これを一言で言ってしまうと「体験的現象」です。

     >宗教一般では、「御利益」とか「神の御恵み」とかで表現するのでしょうが、

     創価学会では、

     >これを、「功徳」と表現しているようです。(他の教団でも使うようです

     が・・・)

     >私は、統計学なる物に長けてはおりませんから、その「功徳」なるものが、ど

     れだけ科学的に

     >偶然ではなく必然的に存在するか述べられません。

 

     こうした「体験的現象」は、人の個人的歴史そのものと溶け合っている場合が

     多いわけですし、第3者があれこれ言ってみても始まらないものが多いです

     ね。基本的には、各人の主観的確信は、それがどういうものであれ当然尊重さ

     れるべきものだと思います。が、こうした「体験的現象」の客観性を確信し、

     「万人にとっても妥当するはずだ」と主張したり、あまつさえそれを人に押し

     付けたり、別の考え方への批判攻撃の根拠としたりする場合には、その考え方

     に対して批判的検討を行ってみる権利は、第3者にも十分あると思います。以

     下は、文底さんの意見に対する批判というのではなく、文底さんが提示された

     話題に対する私の所感といったところのものです。

 

477 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/16() 23:29

 

     >その「功徳」なるものが、どれだけ科学的に偶然ではなく必然的に存在する

    

 

     「唱題」等の行為を「因」、「功徳」などの体験を「果」とした場合に、その

     間に必然的な因果関係が成り立っているかどうか。「必然的に成り立ってい

     る」ということを言うためには、「体験談」をたくさん集めるというだけでは

     不充分で、以下の2点の問題(A、B)をクリヤーしなければならないと私は

     思います。

 

     A、反証不可能化する論法の問題

 

     「唱題すれば必ず功徳がある」という命題について、

 

     (1)実際唱題したら功徳があった。ゆえにこの命題は真である。

     (2)実際唱題しても功徳はなかった。しかしそれは唱題に「真剣度」等が欠

     けていたせいである。従ってこの命題は偽とは言えない。

 

     という論法ができあがっている場合、上記命題は反証不可能なものになりま

     す。言うまでもなく、その命題が「真実」だから反証不可能なのではなく、反

     証不可能なように論法が組み立てられているからそうであるに過ぎません。当

     然その命題は「科学的」であるとも「普遍的」であるとも言えないでしょう。

     こうした詭弁的論法を回避するためには、「唱題」「功徳」(特に後者)をい

     かに客観的に定義するか、そして「唱題」しても「功徳」がなかった例がない

     かどうか、十分な検証が必要です。「唱題したら功徳があった」という実例だ

     けをいくら集めて「ゆえに真である」といっても、語句の定義や功徳がなかっ

     た例も同時に検証しなければ、とてもそれは「科学的」態度とは言えません。

     (ただし(2)の条件を受け入れれば、「功徳」には「唱題」よりも「真剣

     度」のほうが重要であり、後者こそ功徳の真の「因」であるということを認め

     ざるをえなくなります。)

 

478 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/16() 23:31

 

     B、適当な解釈の選択の問題

 

     上の(1)の条件について、仮にそれが成り立つにしても、突っ込む余地が依

     然としてあります。

     というのも、(1)のような事態が成り立ったとしても、それを別の概念で解

     釈することが可能だからです。例えば、

 

     (3)「一つのこと(例えば「祈り」)に全精神を集中させ、他を省みない」

     →「生活全般に対する迷いや拘りがなくなり、平静な精神状態で事に当たるこ

     とができるようになる」→「生活全般に対する判断がおのずと誤らなくなる」

     →「状況が好転し、思い通りに物事が運ぶようになる」

 

     「唱題したら功徳があった」ということも、実は(3)のような事態が起こっ

     ていた可能性があります。(3)が正しいのなら、「精神を集中させる」こと

     は特に「唱題」でなければならない必然性はなくなります。出来事の因果関係

     を明らかにするのに、複数の解釈を比較し検討することは重要です。(1)と

     (3)を比較し、(1)と解釈するほうが普遍妥当的である、ということが明

     らかにならないことには、最初の命題を「真」とするのには待ったをかけなけ

     ればならないでしょう。唱題を絶対化する人たちに、こうした視点が果たして

     存在するのかどうか? もしこれがなければ、リンゴが地面に落ちるのを見

     て、「大地がリンゴを引き寄せている。だから大地はリンゴに恋をしているの

     だ」というのを「普遍的」だとしても一向に構わないことになってしまいま

     す。

 

     以上、何事かを「普遍的」「科学的」な「法則」として打ち立てるには、それ

     に相応しい検証が必要です。そうした手続を省いて自分たちの説の絶対性を主

     張する態度は、やはり批判は免れないのではないかと思います。科学者が言っ

     ているからある命題は「科学的」なのではなく、科学的手続に基づいて結論さ

     れているからこそそれは「科学的」なのですから。

 

479 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/16() 23:43

 

     >その事象に立ち会った医師や創価学会とは無縁の組織の関係者の弁として

     >「大変興味に満ちた稀な出来事で、医師学会等に発表するつもりです」など

     と、

     >その医師や病院名を記し、社会的組織の肩書きやその意見を述べた方々の実

     名を堂々と乗せている

     >その姿勢から推察するに、これは対外的にも十分 耐え得る論証を持っている

     では?

     >と感じただけです。

 

     従って、これも「つもりです」ではなく、実際に発表され、様々な視点から検

     証を受けた上ではじめてそれは十分論証されたものになるのだと思います。科

     学者は様々な立場から様々な仮説を提示します。その仮説が常識から外れたも

     ので仮にあったとしても、科学者がそれを恥じて実名等を伏せなければならな

     い理由はないでしょう。しかし仮説は即真実ではありません、少なくとも科学

     においては。

 

     結局私の言いたいことは、「体験的現象」すら、「文献的解釈論」を受け付け

     ないものではないということです。何度も言いますが、ある「体験的現象」が

     その人にとってかけがえのないものであるならば、それを「批判」などするの

     は明らかに筋違いです。しかし「体験的現象」から得た結論を、「科学」とか

     「普遍」のもとに語り、さらにその客観的な(時に、絶対的な)正しさを主張

     するのであれば、それに批判的に接するのは決して筋違いなことではないと思

     うのです。

 

     結局、文底さんにまたもや絡むような内容になってしまいましたが、主旨をご

     理解くださりご容赦いただけたら幸いです。

 

480 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/17() 01:04

     文底さんへ

 

     途中から割り込んでしまい申し訳ありませんでした・・・。

     創価学会の友人がいるので、前々から学会関連の掲示板は見ておりましたが、

     仏教の本

     を手にしたのは、2ヶ月前。 そのきっかけとなったのが、他の掲示板で論議

     していた

     HN 昼行燈さん のカキコでした。

     2chに来て、第七の外道さんのカキコを興味深く拝見しているうちに、蓮日

     さんが

     昼行燈さんになったことを知りました。

     そんなこともあって、ここを見るようになり、性懲りもなくカキコしてしまっ

    

     わけです。

     文底さん、ありがとうございました。

     第七の外道さん、お騒がせ致しました。m(__)m

      

 

481 名前: 文底 投稿日: 2000/04/18() 16:34

 

     第7の外道さん

 

     いつも丁寧な御意見有難うございます。

 

     >基本的には、各人の主観的確信は、それがどういうものであれ当然尊重され

     るべき(中略)

     >あまつさえそれを人に押し付けたり、別の考え方への批判攻撃の根拠とした

     りする場合には、

     >その考え方に対して批判的検討を行ってみる権利は、第3者にも十分あると

     思います。

 

     つまり、「自分自身が主観的に感じた事実は尊重される事だが、それを何の科

     学的(論理的)

     根拠も無く他人に押し付けたり、他の思想の批判の根拠とするべきではない。

     また、当事者以外にはそれを批判する自由もある。」

     と仰るわけですね。

     それは、まさに仰る通りだと思います。

 

     >「唱題」等の行為を「因」「功徳」などの体験を「果」とした場合に、その

     間に必然的な

     >因果関係が成り立っているかどうか。

     >「必然的に成り立っている」ということを言うためには、「体験談」をたく

     さん集めると

     >いうだけでは不充分で、以下の2点の問題(後略)

 

     私も、「必然的に成り立っている」ためには、「体験談」のみでは、不十分だ

     と思います。

     わたしの私見では、どちらかと言うと(3)の考えに近く、ある出来事に対し

     集中し「祈る」

     行為が、人間のまだ科学では、全て解明されていない「能力」を引き出させ、

     (医学的には、

     プラシーボ効果など)結果として、「祈り」が「叶った」と実感させるのだと

     思います。

     この考えであれば、宗教、思想が「独善的」にはなり難いと思います。

 

482 名前: 文底 投稿日: 2000/04/18() 16:35

 

     >これも「つもりです」ではなく、実際に発表され、様々な視点から検証を受

     けた上ではじめて

     >それは十分論証されたものになるのだと思います。(後略)

 

     この「体験談」を例に挙げたのは、「体験談」自体の科学的是非を述べようと

     したのではなく、

     「体験談」そのものの信憑性を論じたかったのです。

     つまり、科学的に結論が出た事ではなくとも、その個人が正に「体験」した事

     実が、

     組織拡大のための「捏造ではないであろう」と述べたかったのです。

     したがって、その「体験談」を見ても「偶然」とみるか「宗教の力」と見るか

     は、

     全く個人の自由であり、第7の外道さんの仰る事も正にその通りです。

 

     >結局私の言いたいことは、「体験的現象」すら、「文献的解釈論」を受け付

     けないものでは

     >ないということです。(中略)「体験的現象」から得た結論を、「科学」と

     か「普遍」

     >のもとに語り、さらにその客観的な(時に、絶対的な)正しさを主張するの

     であれば、

     >それに批判的に接するのは決して筋違いなことではないと思うのです。

 

     最初に私が発言した内容が、「体験的現象」から得た結論を「科学」とか「普

     遍」などと

     述べているかのような誤解を生む結果になったことは、私の言語力の無能さを

     露呈しています。

     申し訳ありませんでした。

     私は、第7の外道さんが仰るように「客観的な(絶対的な)正しさを主張す

     る」のであれば、

     それに「批判的に接する」のは、間違っていないと思います。

     むしろ私も、ある出来事に対し「ある方向性」に「偏っているな」と感じたと

     きは、

     自分の思うところを述べて反証するでしょう。(これがそもそも論議のきっか

     けなのですが)

 

483 名前: 文底 投稿日: 2000/04/18() 16:36

 

     第7の外道さんも感じられているようですが、私と第7の外道さんとの論議の

     推移において、

     その述べようとする意図は、それほど大きな隔たりが無くなってきたと思いま

     す。

     それから、これは、若葉マークさんに対するレスの意味もあるのですが、

     私の愚見が、このスレッドの趣旨に反し、昼行灯さんやその他の方の発言を封

     じ込めて

     しまっているのであれば、これは私の本意ではありません。

     若葉マークさんからご指摘があったように、スレッドの趣旨を私の発言が乱し

     ているならば、

     私はもう一度このスレッドの趣旨について、反省しなければなりません。

     また、「日蓮所見」のスレッドについても大変興味深く拝見させていただきま

     した。

     このスレッドの進行を妨げているのも、第7の外道さんが私との討論に時間を

     費やしてしまっているのであれば、私にも責任があります。

     その辺りのところ、第7の外道さんの所感としてお聞かせください。

 

484 名前: 文底 投稿日: 2000/04/18() 16:45

     「日蓮所見」ではなく「日蓮私見」でした。

     謹んでお詫び申し上げます。

 

485 名前: mori 投稿日: 2000/04/19() 16:08

     とにかく、創価学会から若い人を抜けさせたい。

     年寄りはしょうがない。

 

486 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/21() 10:30

     文底さん、レスが遅れて申し訳ありませんでした。

 

     >私と第7の外道さんとの論議の推移において、

     >その述べようとする意図は、それほど大きな隔たりが無くなってきたと思>

     います。

 

     のように感じます。ただ上の(3)のような解釈も、あくまで「解釈」の一つ

     に過ぎないわけですから、それも「文献的解釈論」の一種であろうという思い

     は依然としてありはしますが。

 

     ただこれ以上の議論を進めるのならば、内容的にはさすがに別の板のほうがふ

     さわしかろうと思います。近隣(?)の板では、「宗教学@あめぞう」あたり

     が雰囲気的にも相応しいと思います。

 

     http://www17.big.or.jp/~amezo_/religion/

 

     です。もしこのテーマで論ずるなら、続きはそこでどうですか?

 

     ここいらで、このスレッドも本来の主旨たる「日蓮及び学会の教義などに対す

     る疑問を提示するスレッド」に戻したいと、個人的には考えるのですが。いか

     がでしょうか?

 

487 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/04/22() 02:22

     第7の外道さん

     文底さん

 

     個人的な理由で一時撤退していましたが、再び書き込めそうです。

     もし、板を移られるのであれば、是非参加致したく思いますが、

     よろしいでしょうか?

 

488 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/22() 02:30

     昼行燈さん

 

     お久しぶりです。

     上で紹介したところは、かなり議論にも熟達した学会員の方も時折出入りされ

     ているようです。

     回転は遅いですが、かなりしっかりした論客の方もおられますよ。

     文底さん次第と思っているのですが。

     ただこの板(将来どうなるか分かりませんが・・・)でも

     一つ位は教義に関連するスレッドがあったほうがいいかなとも思いますし、

     どの板を選ぶかは、テーマ次第ですね。

 

     昼行燈さんのほうで、何かお勧めの板はありますでしょうか?

 

489 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/04/22() 03:13

     お話になるような板はありませんね(笑)

     「誰それがこのような見解をとっている」とか、「誰々はこのように解釈して

     いる」

     と言った、先達の言葉の紹介ばかりで、自分の考えは無い人ばかりだった気が

     します。

     若葉マークさんは、おそらくあの板の「超初心者さん」なのでしょうが、同様

    

     最近は見えらてはいないようです。もっとも私も行ってはいませんし・・・ハ

     ッキリ

     とは分かりませんが。

       

 

490 名前: 文底 投稿日: 2000/04/22() 13:43

 

     第7の外道さん・昼行燈さんお久しぶりです。

 

     >「日蓮及び学会の教義などに対する疑問を提示するスレッド」に戻したい

     と、

     >個人的には考えるのですが。いかがでしょうか?

 

     私も同意見です。私は「文献的教義」には懐疑的ですが(まだ言ってますね

     ・・・)

     自分の考えを客観的に見直すにも、このスレッドが、

     「日蓮及び学会の教義などに対する疑問を提示するスレッド」

     に戻すことに賛成です。

 

     >是非参加致したく思いますが、 よろしいでしょうか?

 

     昼行燈さんお待ちしておりました、

     第7の外道さんに随分鍛えられましたので、あまり精神的にお疲れになるよう

     な、

     無謀な突っ込みはしないつもりです。

     是非また多岐に渡る書き込みを期待しております。

 

     >「宗教学@あめぞう」あたりが雰囲気的にも相応しいと思います。

 

     そうですか、そこに於いての論議も吝かではありません。

     そこに、新しいスレッドを建てるという趣旨でよろしいのでしょうか?

     それとも、現在立っているスレッドのいずれかに書き込むのでしょうか?

     何れにせよ、私は創価学会の方か、法華講の方に、日蓮仏法における、

     「自分達の位置付けがどうなっているのか」を伺いたいのが、正直なところで

     す。

     この板にも、現在創価学会の方のご意見は、殆ど聞かれませんので、

     日蓮仏法における創価学会と法華講の文献的位置付けの違いなども、

     その当事者の方々にご発言して頂ける場所が良いのですが・・

 

491 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/22() 18:50

     昼行燈さん

 

     ご無沙汰?です。

     ご察しの通り、あの掲示板の「超初心者」です。(^^

     相変わらす、進歩がありませんので、ゆきぞさんの所の掲示板は

     レベルが高くてついて行けません・・・ROMはしていますが。

     昨日から、『原始仏教』(中村 元 著)を読み始めましたが、

     自分の頭が原始的?なのがよく分かりました。(笑)

     昼行燈さんがいなくなった理由を勝手に決めつけてしまい申し訳

     ありませんでした。 お詫び申し上げます。

 

     文底さん

 

     文底さんにも謝らなければいけませんね。

     私の勝手な思い込みで、意見を申し上げてすみませんでした。

     お許しください。

 

     第7の外道さん

 

     はじめまして。

     あめぞうさんのところは、(仮)になっていますが、このまま継続

     されるのでしょうか? ”荒らし”や”サーバーの負荷”の関係で、何度か

     引越ししていたようですが、その度に過去ログが全て消えてしまうというのも

     寂しいですが・・・でも2chよりは、環境が良さそうですね・・・

     もうキン○ンコは、見飽きました。(笑)

 

492 名前: 文底 投稿日: 2000/04/24() 02:23

 

     若葉マークさん

 

     >文底さんにも謝らなければいけませんね。

     >私の勝手な思い込みで、意見を申し上げてすみませんでした。

     >お許しください。

 

     こちらこそ、皆さんに色々不愉快な思いをさせたかも分かりません。

     カキコの部分をレスと間違えたりして・・・(初歩的ミスです)

     いづれにしても昼行燈さんが戻られたのは、良かったです。

 

     第7の外道さんがちょっとお忙しそうなので、若葉マークさんにレスします

     ね。

     「日蓮って」から少し外れてしまいますが・・・第7の外道さんお許しくださ

     い。

 

493 名前: 文底 投稿日: 2000/04/24() 02:25

 

     >「文献的解釈論」と「普遍的真理」を同列に考えていらっしゃるのでしょう

     か?

 

     「普遍的真理」(一部体験的現象)=「文献的解釈論」

     この2つのご質問に対する答えなのですが、

     結論から述べれば、「文献的解釈論」を踏まえた上で、人間には言葉で表現で

     きない。

     「第六感」とかに代表される「何か見えない力」が人間には備わっているので

     はないか?

     と、類推する事が私の私見です。

     つまり「文献的解釈論」プラスアルファ「普遍的真理」(体験的現象)

     と定義しているわけです。

     ですから、第7の外道さんの仰る「文献的解釈論」を全く否定するわけではな

     いし、

     「文献的解釈論」は物事を考える上で重要な事であります。

     しかし、それのみを絶対とした定義に当てはめる事に私はいささか、疑問を持

     ち、

     それを全て「文献的解釈論」で説明されようとする第7の外道さんと

     論議を展開しているのです。

 

494 名前: 文底 投稿日: 2000/04/24() 02:32

 

     これはある例えですが、仮に「普遍的真理」を「3本のくの字に並んだ煙突」

    

     考えてください。(ちょっと無理がありますがお許しください。)

     「普遍的真理」である「煙突」は、その場において勝手に動く事の無い絶対的

    

     「普遍的真理」です。(と定義します)

     しかしそれを見た、ある人は、「煙突は3本である」との「文献的解釈論」を

     唱えたとします。

     しかしまた、ある人は、「いや、煙突は2本である」との異なる

     「文献的解釈論」を唱えます。

     そして、またある人は、「煙突は3つの丸い三角形である」との「文献的解釈

     論」を

     導き出すわけです。

     「煙突」と言う「普遍的真理」は何も変わっていないのに、これだけの「文献

     的解釈論」

     が、導き出される訳です。

     その上、彼らの言葉は、ある一面はその真理に対して、間違いの無い「真実」

     を「善意」

     で述べているわけです。

 

495 名前: 文底 投稿日: 2000/04/24() 02:35

 

     私が述べようとする「文献的解釈論」とは、ある物事を先人が「何かを発見

     し」

     それを、後の人々に言葉(文章)で残そうとする時、「意識」「無意識」を問

     わず、

     先人の思いもしない意図によって歴史上、曲解され、事の本意が間違って

     伝わっている事もあるのではないかと思う点です。

 

     それぞれの話を聞いた、実際に「煙突」など見た事も無い人間達は、「煙突は

     3本である」

     所からの「文献的解釈論」で後の人々にそれこそ「伝言ゲーム」のように伝わ

     り、

     歴史的変遷において、およそ先人が見た、「3本のくの字に並んだ煙突」と

     は、

     程遠い「文献的解釈論」に行き着くのではないでしょうか?

     当然、後の二人が見た「いや、煙突は2本である」や「煙突は3つの丸い三角

     形である」

     についても、それぞれのその人々に近い立場の人(弟子達)は実際には「普遍

     的真理」

     など見ていない訳ですから、それぞれまた、「伝言ゲーム」式に「文献的解釈

     論」が

     歴史的に意識、無意識を問わず変遷し、最初見た人々の「普遍的真理」である

     「煙突」

     とは、全く違う見解になってしまう危険性があるのです。

 

496 名前: 文底 投稿日: 2000/04/24() 02:37

 

     ですから、「文献的解釈論」について絶対性を述べる方々に対しては、以上の

     簡単な

     例えで述べるように、”その解釈する人間が本質的に「過ちを犯す生き物」”

     である以上、

     「文献的解釈論」のみで全てを片付けてしまうことに懐疑的にならざる得ない

     のです。

 

     「普遍的真理」そのものに付いては、また書くと長くなってしまい、このスレ

     ッドでは、

     第7の外道さんに怒られてしまうかも分かりませんので、他のスレッドでチャ

     ンスが

     与えられれば、述べさせて頂きたいと思います。

     本当は、日蓮仏法を実践されている方々から、実際の立場のでのご意見を

     伺いたかったのですが、その様な方々からのご意見が無く残念に思っていま

     す。

 

     若葉マークさんも、ぜひ自分自身の御意見がありましたら、どんどん御発言く

     ださい。

     他の文献を参考にするのも、もちろん大切な事ですが、その上で

     「自分はこの様に思っており」「あなたのこの部分と見解が分かれる」との、

     私見を述べられると、論議が白熱しますよ。(第7の外道さんも先ほどの私の

     意見に

     突込みを入れたくて仕方が無いと思いますよ)

     若葉マークさんの私見も是非期待しており、お待ちしております。

 

497 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/24() 23:08

 

     文底さん

 

      私は、難しいことはわかりません・・・(^^

      よろしくお願いします。

 

     >つまり「文献的解釈論」プラスアルファ「普遍的真理」(体験的現象)

     >と定義しているわけです。

 

      「体験的現象」を「普遍的真理」というのは、どうでしょうか?

      仮に「体験的現象」が存在したとしても、それが「普遍的」であるとは

      いえるのか? 「普遍的」というならば、同じ事をして同じ結果がでないと

      いけないと思います。

      学会員にとって、唱題して功徳を授かることが、「普遍的真理」になるのか

    

      しれませんが、一般人にはとても受け入れられません。

 

     >私が述べようとする「文献的解釈論」とは、ある物事を先人が「何かを発見

     し」

     >それを、後の人々に言葉(文章)で残そうとする時、「意識」「無意識」を問

     わず、

     >先人の思いもしない意図によって歴史上、曲解され、事の本意が間違って

     >伝わっている事もあるのではないかと思う点です。

 

      つづく

 

498 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/24() 23:12

     文底さんへA

 

     >ですから、「文献的解釈論」について絶対性を述べる方々に対しては、以上の

     簡単な

     >例えで述べるように、”その解釈する人間が本質的に「過ちを犯す生き物」”

     である以上、

     >「文献的解釈論」のみで全てを片付けてしまうことに懐疑的にならざる得ない

     のです。

 

      私も、全くその通りだと思います。

      では、「文献的解釈論」の絶対性を述べているのは誰か?

      それは、創価学会員だと思いますよ。 法華経や御書に書いてあることは

     「正しい」

      「文証」だというわけです。

      信心している人以外は、法華経や御書が「絶対正しい」などと思っていない

     と思います。

      では、なぜ「文献的解釈論」で批判するのか? それは、学会員が「文献」

     が絶対に

      正しい と言うからです。 「絶対正しい」(と思っている)ものから反証

     を探せば

      矛盾を指摘できるわけですから・・・。

      たとえば、今の学会のやっていることが、日蓮聖人の教義と異なっていると

     します。

      反学会派は、「日蓮は、〇〇と言っているのに、どうしてそうしないのか

     ?」

      と批判するでしょう。 反学会派の人にしてみれば、〇〇が、正しかろうが

     間違って

      いようが関係ないのです。相手が「絶対」と言っている文献を元に反論すれ

     ば、こちらも

      「絶対」ではないでしょうか?

      目には目を ではありませんが、「文献的解釈」には「文献的解釈」を だ

     と思います。

 

499 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/24() 23:15

     文底さんへB

 

     文底さんは、前に「その開祖の本意として述べたかは、 開祖が現存していない

     場合、

      論議不能」 と述べられていますが、御書に関しては、開祖の「本意」と考

     えて良いの

      ではないしょうか? 真筆の残っているものに関しては、間違いなく日蓮本

     人が書いた

      ものであり、「本意」(日蓮の解釈)と考えて間違いないように思います。

      文底さんの言うように、それを読む人によって、「本意」が間違って解釈さ

     れることも

      あるかもしれませんが、それは、一つの「文献的解釈論」として良いと思い

     ます。

      第7の外道さんも、ご自分の解釈論が、”絶対正しい”とは思っておられな

     いと思います。

      あくまでも”私はこう解釈しました”であり、それに反論があるのならば、

     それを覆すだけ

      の理由が必要になるだけであると思います。

 

      学会員である知人にも言われましたが、「教義じゃなくて、実践なんだよ

     !」と。

      「そういう細かいことに拘っていたら、信心できない・・・」とも。

      学会は、教義(文献的解釈)ではなく、「体験的現象」を重んじるだなと思

     いました。

      やはり、

      「日蓮仏法をこころみるに道理や文証とにはすぎす、又道理証文よりも現証

     にはすぎず」

      ですか?

 

500 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/25() 09:34

     皆さん、レスが遅れまして申し訳ありません。

     ここしばらく仕事に追いまくられておりまして、きちんとしたレスができませ

     んでした。

     もう少しこの状態が続きそうです・・・

 

     昼行燈さん

     >お話になるような板はありませんね(笑)以下略

     それは残念です。「誰それが・・・」でも、勉強にはなりますからいいんです

     が・・・。

 

     文底さん

     >そこに、新しいスレッドを建てるという趣旨でよろしいのでしょうか?

     ということになると思いますが、ただ今私の方で新スレッドを立てる余力がな

     いので・・・

     もう少しお待ちを。あるいは、文底さんのほうで何か新規に立てていただいて

     ももちろん結構です。

 

     若葉マークさん、初めまして。

     >あめぞうさんのところは、(仮)になっていますが、このまま継続

     >されるのでしょうか?(以下略)

     私もよくは知らないんです。(仮)がなかなか取れないですしね。

     ただ板の雰囲気が、ここの「心と宗教」よりは、今までのテーマに合っている

     と思われたので。

     畳まれないのを「祈る」ばかりです(笑)

 

     >第7の外道さんも、ご自分の解釈論が、”絶対正しい”とは思っておられな

     いと思います。

     >あくまでも”私はこう解釈しました”であり、それに反論があるのならば、

     それを覆すだけ

     >の理由が必要になるだけであると思います。

     代弁ありがとうございます。

 

     一応「日蓮関係に・・・」と言いましたが、そんなに拘っているわけではあり

     ません。

     ご自由に議論なさってください。

     できれば学会系の方が口を出してくれるといいんですが、無理でしょうね・

     ・・

 

501 名前: あめふらし 投稿日: 2000/04/25() 11:52

     第7の外道さん、昼行燈さん、文底さん、若葉マークさん、名無しさん方々は

     じめまして。

     私は、以前からこのスレッドを読むのが楽しみです。っと、言うより

     大変に勉強になっています。

     私の仏教に対するスタンスですがどの団体に所属していませんが、何故か仏教

     に対しては

     非常に興味があり書籍等も購読し楽しんでおります。

     私は、このスレッドが削除されたり、不本意に流れたりするのを危惧して止み

     ません。

     皆さんも個々に仕事や学問に追われる日もあったり、文献などを読み返す時も

     あると思います。

     そこで提案なのですが、私が立てている未使用の掲示板があるのですが、一時

     的でも永久でも

     構いませんので、そちらの方でゆっくりと議論なさてはどうですか?

     私の板では、全Logを確保出来るので流れることはまずありません。

     是非、使ってやってください。

     皆さんどうでしょう。

 

502 名前: 文底 投稿日: 2000/04/25() 16:51

 

     若葉マークさん

 

     ご丁寧なレス有難うございます。

 

     >私は、難しいことはわかりません・・・(^^

     >よろしくお願いします。

 

     こちらこそ、よろしくお願いします。

     私も、難しい事はわかりませんし、色々勉強させて頂いているところです。

     私が述べる意見は、あくまで私見ですから、その辺りの所をご理解下さい。

 

     さて、色々私の意見に対し、ご質問があるようですので、誤解を覚悟で、

     お答えさせて頂きます。

 

     >「体験的現象」を「普遍的真理」というのは、どうでしょうか?

 

     「体験的現象」のみを「普遍的真理」としてはいません、前回の書き込みの中

     にも

     >>「普遍的真理」(一部体験的現象)

     と書いてあるので、そのように御解釈ください。

     ただ、その後の書き方に、「体験的現象」を「普遍的真理」とするくだりがあ

     り、

     その点、誤解を生んでしまいました。

 

503 名前: 文底 投稿日: 2000/04/25() 16:52

 

     >「普遍的」というならば、同じ事をして同じ結果がでないといけないと思い

     ます。

 

     ある意味でその様に考えらても不思議ではありません。

     ただ、「同じ事をして同じ結果」を「普遍的」と定義づけると、若干の誤解を

     生じます。

     例えば、「種に水をあげて、ある一定の温度を保つと芽が出る。」

     と言う事を、「普遍的」な法則と定義付けるとします。(あくまで定義です)

     ここでは、どんな種類の「種」でも「発芽する」前提での話にします。

     この定義付けでは、必ず芽は出ますが、その発芽の種類は、種の種類によって

     異なるはずです。

     つまり、同じ事をしても、その主体となるものの本質的定義(ここでは種の種

     類)

     が異なれば、違う結果(朝顔が咲いたり、ひまわりが咲いたり)が生まれる可

     能性が

     あると言う事です。

     私の言っている「普遍的真理」とは、主体の存在の状態において、その結果が

     予め

     定義されている範疇に例外なく入ることであり、その定義の性質上、その結果

    

     必ずしも同じ答えになるとは限らないのです。

 

     >「文献的解釈論」の絶対性を述べているのは誰か? (中略)

     >「文献的解釈」には「文献的解釈」をだと思います。

 

     私もその方法を使う事に異存は全くありません。(今私も文章を書いていま

     す)

     ある意味、そうしなければならない時もあるでしょう。

     ただ、以前にも書きましたが、「文献的解釈」には「文献的解釈」の方法で、

     「本当に両者が納得して、相手の考えを理解できたか?」

     となると、組織や団体などという、およそ自分自身(個)の意識だけで

     変えられないものに対しては、その歴史の推移を見ていても、

     「文献的解釈」には「文献的解釈」の論法が通じていないように感じるので

     す。

     若葉マークさんも創価学会員の方に対して、「文献的解釈」には「文献的解

     釈」

     の論法が通じない人々だからこそ、現在のようなお気持ちになられたのでは

     ないのでしょうか?

 

504 名前: 文底 投稿日: 2000/04/25() 16:55

     上の文は、省略になっていないので、そのままで結構です。

 

     >御書に関しては、開祖の「本意」と考えて良いのではないしょうか?

     >真筆の残っているものに関しては、間違いなく日蓮本人が書いたものであり

     (中略)

     >第7の外道さんも、ご自分の解釈論が、”絶対正しい”とは思っておられな

     いと思います。

     >あくまでも”私はこう解釈しました”であり、それに反論があるのならば、

     >それを覆すだけの理由が必要になるだけであると思います。

 

     御書に関しては、その出所が絶対本人の物であると「仮定」すれば、たぶん

     「本意」をその時代の書物、社会情勢、科学、などを考慮して、「文献的教

     義」

     として、述べられたのだと思います。

     ただ、それが後の人々に正しく伝わったかどうかは、「文献的解釈」の違いに

     よる、

     多宗派の乱立をみれば、「文献的教義解釈」がいかに「曖昧なもの」かを、

     逆に証明していると思われます。

     私も、第7の外道さんの「解釈論」を、”絶対間違っている”と結論付けては

     いません。

     「人間には文献的解釈論だけでは片付けられない何かが在るのではないか?」

     と、

     疑問を提起しているだけです。

     「ある」と断定しているわけではないので、その辺りの所をご理解ください。

 

505 名前: 文底 投稿日: 2000/04/25() 16:57

 

     >学会員である知人にも言われましたが、「教義じゃなくて、実践なんだよ

     !」と。

     >(中略) 「日蓮仏法をこころみるに道理や文証とにはすぎす、

     >又道理証文よりも現証にはすぎず」ですか?

 

     私は「普遍的真理」なるものの定義を「現証」に結論付ける立場ではありませ

     んが、

     創価学会の会員の方々の「教義じゃなくて、実践なんだよ!」との言葉を、

     「文献的解釈」を超えた「何か」の力を感じているとするなら(あくまで仮定

     ですが)

     その言葉の奥底にある「何か」に付いて考えてみるのも一つの方途ではないか

     と思います。

     逆に、創価学会の「文献的教義」の矛盾や、論法の「過激さ」のみにとらわれ

     て、

     「絶対」には「絶対」「文献的解釈」には「文献的解釈」で対抗する事の方

     が、

     お互いが、永久に「理解不能」「相互不信」の状態に陥る事を危惧するので

     す。

 

     以上ですが・・・・

     私が述べているのは、あくまで私の私見であり、若葉マークさんの人格、人間

     性を

     否定する事では全くありませんので、その辺りの所御了承ください。

     私の論調が、またまた色々不愉快な思いを感じさせてしまうかも分かりませ

     ん。

     ご意見がありましたら、いつでもどうぞ仰ってください。

     長文になり申し訳ありませんでした。

 

506 名前: 文底 投稿日: 2000/04/25() 16:58

 

     第7の外道さん

 

     >レスが遅れまして申し訳ありません。

     >ここしばらく仕事に追いまくられておりまして(中略)

     >ただ今私の方で新スレッドを立てる余力がないので・・・

     >もう少しお待ちを。

 

     まずは、仕事第一です・・・

     お時間ができてからで、結構ですので、体を壊さないよう

     御無理をしないで頑張ってください。

     新規スレッドの件ですが、私が立てて誰も来ないと寂しいので・・

     第7の外道さんの復帰をお待ちします。

     また、あめふらしさんからのご提案もある様なので、

     その件につきましても、第7の外道さんのご意見お待ちしております。。

 

     現在、私は現在、若葉マークさんと討論をしておりますが、

     スレッドの趣旨を大きく逸脱している場合は(いつもの事ですね・・・)

     その旨申し述べてください。

 

507 名前: 文底 投稿日: 2000/04/25() 16:59

 

     あめふらしさん

 

     初めまして、よろしくお願い致します。

     あめふらしさんの御提案に付いてですが、このスレッドは私が立てたものでは

     ありませんので、事の推移については、第7の外道さんのご意見に従います。

 

     私も、このスレッドが消えてしまったり、汚されてしまうのは、本意ではあり

     ません。

     私見としては、この板で書き込みをさせて頂いているのは、基本的に(あくま

     で)

     「どんな意見でも管理者が削除しない」との、趣旨が同意できるからです。

     この掲示板の中には、「荒らし」と呼ばれる方々もおりますし、言葉遣いなど

     が、

     必ずしも適切とは思われない方々もおります。

     しかし、ある意味「本音」とは、この様な板にしか見られない所もあるのでは

     ないでしょうか?

     私は、個人的には、どのような書き込みも基本的に「制限」される事を嫌いま

     す。

     一見、無用なコピペであったとしても、猥雑な表現であっても、それはその

     人々の

     「主張」であり、尊重されるものだと思っているからなのです。(限度もあり

     ますが)

 

     何れにせよ、他の方々のご意見もおありになると思いますので、

     私の愚見としてお聞き流し下さい。

 

508 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/25() 23:12

     文底さんへ@

 

      不適切な表現などもあるかもしれませんが、ボキャ貧なものですから、お許

    

      ください。 内容についても、あまり突っ込まないでください・・・^^;

 

     >「体験的現象」のみを「普遍的真理」としてはいません、前回の書き込みの中

     にも

     >「普遍的真理」(一部体験的現象)

     >と書いてあるので、そのように御解釈ください。

 

      「体験的現象」とは、「普遍的真理」に含まれるものなの

      でしょうか? これは、文底さんの解釈だと思いますが、私見では、「体験

     的現象」

      は、「普遍的」ではない と考えています。

 

      ふへん‐てき【普遍的】

      ある範囲におけるすべてのものにあてはまるさま。(広辞苑より)

 

      すべての人(学会員)が、「体験的現象」を体験しているというのならば、

      「普遍的」だと思いますが・・・そう判断するには、第三者の客観的な判断

    

      必要だと思うのですが? 「体験的現象」を否定しているわけではありませ

     ん。

      「何か」という段階で、「普遍的」と言ってしまうのはどうか?と思うわけ

     です。

 

     >私の言っている「普遍的真理」とは、主体の存在の状態において、その結果が

     予め

     >定義されている範疇に例外なく入ることであり、その定義の性質上、その結果

    

     >必ずしも同じ答えになるとは限らないのです。

 

      文底さんの言うことは分かります。

      しかし、「種に水をあげて、ある一定の温度を保つと芽が出る」という定義

    

      結果は、「芽が出る」であって、どんな芽が出てもよいのです。花は違って

    

      「花が咲いた」で良いと思います。花の種類まで、言及するならば、定義を

      見直さなくてはならないのでは?

 

509 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/25() 23:14

     文底さんへA

 

     >「文献的解釈」には「文献的解釈」の論法が通じていないように感じるので

     す。

 

      その原因は何でしょう? 文底さんのいう「曖昧さ」かもしれませんが。

      学会に限定すれば、「信じて疑わない」のが原因のような気もしますが・

     ・・。

 

     >御書に関しては、(以下略)

 

     >ただ、それが後の人々に正しく伝わったかどうかは、「文献的解釈」の違いに

     よる、

     >多宗派の乱立をみれば、「文献的教義解釈」がいかに「曖昧なもの」かを、

     >逆に証明していると思われます。

 

      そう考えると、創価学会の御書の解釈も正しいとは言えない・・・。

      法華経にいたっては、”伝言ゲームの最後の人”と同じですから、”正し

     い”

      なんてもんじゃない と言えそうですね。

      それを「教義」とすることが、正しいかどうか・・・。

 

     >私も、第7の外道さんの「解釈論」を、”絶対間違っている”と結論付けては

     いません。

     >「人間には文献的解釈論だけでは片付けられない何かが在るのではないか?」

     と、

     >疑問を提起しているだけです。

     >「ある」と断定しているわけではないので、その辺りの所をご理解ください。

 

      私は、第7の外道さんの「解釈論」を”絶対正しい”と結論付けていませ

     ん。(^^

      「何か」という問題は、文献的解釈論と分けて考えるべきだと思うのです。

      第7の外道さんは、「文献的解釈」において批判をしていただけであり、学

     会の

      すべて(「何か」を含む)を否定していたわけではないと思います。

 

510 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/25() 23:16

     文底さんへ B

 

     >創価学会の会員の方々の「教義じゃなくて、実践なんだよ!」との言葉を、

     >「文献的解釈」を超えた「何か」の力を感じているとするなら(あくまで仮定

     ですが)

     >その言葉の奥底にある「何か」に付いて考えてみるのも一つの方途ではないか

     と思います。

 

      その「何か」を一番身近に感じている学会員に方々に、論じてもらうのが一

     番良いと

      思うのですが・・・体験談集みたいなものは無いのでしょうか?

 

     >逆に、創価学会の「文献的教義」の矛盾や、論法の「過激さ」のみにとらわれ

     て、

     >「絶対」には「絶対」「文献的解釈」には「文献的解釈」で対抗する事の方

     が、

     >お互いが、永久に「理解不能」「相互不信」の状態に陥る事を危惧するので

     す。

 

      実質無宗教の私から言わせてもらえれば、「文献的教義の矛盾」の方が、ま

    

      理解できます。 「何か」は、「理解不能」です。 だって、「何か」です

     から。

      文底さんも、暇があったら、他の掲示板を覗いてみてください。

      学会員と非学会員の結婚問題などで、悩んでいる人たち(非学会員)の書き

     込みを見る

      と、「何か」に対する不信感が最後の壁になるようです。

 

      

 

511 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/04/25() 23:47

     第七の外道さん。

 

     下記の掲示板は如何でしょう。

     http://www61.tcup.com/6104/maruzo21.html

 

     勉強には為ると思います。

 

512 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/04/26() 00:06

     文底さんの言われるように文献的解釈には危険があります。

     しかし、それは一辺に偏る場合ではないでしょうか?

     日蓮の遺文の一つのみを取り上げて、日蓮を論ずる愚。

     釈迦の言葉の一つのみを取り上げて固執する愚かさ。

     残された文献の全体を読みこなし、把握すれば結論は同じように

     出るのではありませんか?

     では、何故宗派に依り教団に依り、教義が異なるのか?

     それを利用し、権威付けるために「意図的」に解釈しているからであると

     思えてなりません。

     日蓮にしても、法華経最上を説くために、未顕真実であるから捨て去れ!

     と貶めた他の経典の都合の良い箇所は用い、自分にとって都合の悪い経典に

     関しては、「一部引用」し、都合よく解釈しています。

     これは「文献的解釈」ではなく、「文献的利用」に過ぎません。

 

     文底さんの言われる「文献的解釈論」は「文献的利用論」を混同・混用されて

    

     るのではないかと感じます。

 

      

 

513 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/26() 00:54

     あめふらしさん、はじめまして。

 

     私も同じ事を考えました。 無料の掲示板もありますし・・・。

     しかし、私は小心者なので、「管理」を考えると腰が引けて

     しまいました・・・(^^

     それと、もう一つ考えたことは、第7の外道さんや昼行燈さんの

     書き込みをHPに仕上げたらどうか?と。

     掲示板だと流れてしまうし、1つにまとめた方が見易いと思った

     からです。 第7の外道さんの書き込みに関しては、すでに他の方が

     纏めてHP上に載せていましたね。

     とにかく、書き込みが消えてしまうのは、勿体無いと思いますので、

     あめふらしさんの掲示板に保存されることは、賛成致します。

     ついでに、私のカキコは削除して頂ければ、大賛成です。(^^;

 

514 名前: グラァ 投稿日: 2000/04/26() 15:05

     ひひひひひひひほとけきちがぁいみちゅけたにょ

     きちがぁいきちがぁい

     おまえらみんにゃきちがぁい

        グラァ

 

515 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/27() 12:51

     age

 

516 名前: 文底 投稿日: 2000/04/27() 15:39

 

     若葉マークさんへ

 

     丁寧なレス有難うございます。

 

     >不適切な表現などもあるかもしれませんが、ボキャ貧なものですから、お許

    

     >ください。 内容についても、あまり突っ込まないでください・・・^^;

 

     では、少しだけ・・・のつもりで・・述べさせて頂きます。

 

     >「種に水をあげて、ある一定の温度を保つと芽が出る」という定義の

     >結果は、「芽が出る」であって、どんな芽が出てもよいのです。花は違って

    

     >「花が咲いた」で良いと思います。花の種類まで、言及するならば、定義を

     >見直さなくてはならないのでは?

 

     これは、私の比喩的表現のそれこそボキャブラリーの貧困さを物語っていま

     す。

     確かに根本的定義付けに無理があります。

     ただ、私は「体験的現象」なるものの「原因」となり得るものが、仮に現代科

     学で、

     認識できない事であるにせよ、「体験的現象」なるものが数多く存在し、

     その現象の出方が、宗派や人々それぞれで違うにせよ、ある意識(想念)を能

     動的に

     集中(祈り等)させることにより、「何か」を感得し、その信仰(創価学会だ

     けでは

     なく)となる対象に対して、「文献的解釈」では納得しがたい、

     「確信」となるものが、厳然と過去から現在まで、殆ど例外なく人類史上「宗

     教」

     と言う名のもとで存在している・・・それ自体の推移を見て

 

517 名前: 文底 投稿日: 2000/04/27() 15:40

     >ある範囲におけるすべてのものにあてはまるさま。(広辞苑より)

 

     との御指摘のとおり、ある範囲とは、人類の歴史そのものであり、

     すべてのものとは、歴史上信仰を体験した人々全てであり、

     あてはまるとは、必ずどの宗教にも「体験的現象」が記されている。

     との認識の上から、「普遍的」と表現したに過ぎません。

     もちろん、信者全員が同じ「体験」をしたとは思っていません。

     それは、その人々がその教えとなる「教義」なるものを、

     開祖の「本意」どおり「実践」したかどうかによるものだと思います。

     (これは、色々な宗教団体が祈った結果、叶わない場合の詭弁としても

     良く使われますので、注意が必要ですが・・・・)

     ただ、私の本当の「普遍的定義」とは、上記の「体験的現象」のみではなく、

     もっと、人間が、まだ現代科学では証明出来得ない「潜在能力」のような物で

     す。

     これは、「宗教」「思想」や医学などに代表される「科学」を貫く、

     人間の持ち得る、根本的「生命傾向」を体現し得る「何か」です。

     それを論じるには、やはり「文献的教義解釈論」になるでしょう、

     しかしそれ自体が、もはや現代科学で証明できないものが含まれている場合、

     その「文献」を信じるか否かは、「文献的教義解釈」では無理だと思うので

     す。

 

518 名前: 文底 投稿日: 2000/04/27() 15:41

 

     >その「何か」を一番身近に感じている学会員に方々に、論じてもらうのが一

     番良いと

     >思うのですが・・・体験談集みたいなものは無いのでしょうか?

 

     沢山出ていると思いますよ。

     体験談集でしたら、創価学会に限らず殆どの宗教団体は、

     出版しているのではないしょうか?

     特に創価学会の方々は、「現証」第一主義ですから、体験談の書籍であれば、

     最寄の会館か、信濃町の学会の出版センターでも行かれたら如何でしょうか?

     また、「聖教新聞」を購読されているようですから、販売員の方に伺えば、

     それこそ「喜んで」体験談集を持ってきてもらえるはずですよ。

 

519 名前: 文底 投稿日: 2000/04/27() 15:42

 

     >学会員と非学会員の結婚問題などで、悩んでいる人たち(非学会員)の

     >書き込みを見ると、「何か」に対する不信感が最後の壁になるようです。

 

     私も幾つかの掲示板を見させて頂いているのですが、私の立場から申し上げさ

     せて

     もらえば、「何か」に対する不信感を「最後の壁」(信仰)にすりかえて、

     お互いの立場を「正当化」しているだけにしか見えません。

     「何か」に対して答えるなら、それが「信仰」でなくても、

     家柄の違い・職業・国籍・趣味・性格・・それこそ、何でも「最後の壁」の対

     象になります。

     そして、仮に結婚問題であれば、その「最後の壁」を取り払うのは、二人の信

     頼関係であり、

     「最後の壁」を乗り越えるのは、二人の行動力でしょう・・・・

     それが出来ないのを「最後の壁」(信仰)としているのは、二人の信頼関係が

     もはや、脆弱になり、自分の不信感を他人の意見(掲示板)等で確認している

     に過ぎません。

     これは、学会員と非学会員の結婚問題以外でも、巷には沢山あります。

 

     少しだけ申し述べるつもりだったのですが、やはりまた長文になってしまいま

     した。

     重ね重ね申し訳ありません。

     私が述べだすと、若葉マークさんが危惧された「日蓮って」から外れた

     論旨になってしまいますから・・・愚か者の讒言と御読み流しください。

 

520 名前: 文底 投稿日: 2000/04/27() 15:43

 

     昼行燈さんお久しぶりです。

 

     私の書き込みが昼行燈さんの気分を害していたならば、

     謝らなければいけません。

     申し訳ありませんでした。

 

     >日蓮の遺文の一つのみを取り上げて、日蓮を論ずる愚。

     >釈迦の言葉の一つのみを取り上げて固執する愚かさ。

     >残された文献の全体を読みこなし、把握すれば結論は同じように

     >出るのではありませんか?

 

     私もこの点、昼行燈さんと同意見です。

     私もこの考えをずっと述べてきたつもりなのです。

     ただ、この考えの論じ方が、「不変的法則」「文献的解釈論」などと

     比喩したばかりに、皆様から、多大なる御批判を頂戴しております。

 

     >文底さんの言われる「文献的解釈論」は「文献的利用論」を混同・

     >混用されているのではないかと感じます。

 

     私のボキャブラリーの貧困さゆえの結果であり、御批判は、

     真摯に受け止めたく思います。

     有難うございました。

 

521 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/27() 23:31

     文底さんへ @

 

     丁寧なレス有難うございます。>ある範囲とは、人類の歴史そのものであり、

     >すべてのものとは、歴史上信仰を体験した人々全てであり、

     >あてはまるとは、必ずどの宗教にも「体験的現象」が記されている。

     >との認識の上から、「普遍的」と表現したに過ぎません。

 

      そのように言ってしまって、いいのでしょうか?

      旧オウム真理教もOKってことになりますが・・・。

      創価学会がいう「邪教」においても普遍的な「何か」があるということを

      認めるということは、他の宗教を認めるということですね。

      『「体験的現象」が記されている』ということですが、これも一種の「文

     献」

      ですよね? そうなると、文底さんが言われるように、この解釈も「怪しい

     もの」

      ではありませんか?

 

     >もちろん、信者全員が同じ「体験」をしたとは思っていません。

     >それは、その人々がその教えとなる「教義」なるものを、

     >開祖の「本意」どおり「実践」したかどうかによるものだと思います。

 

      文底さんが「文献的解釈論」の問題で言われていたようなことを考慮する

     と、

      日蓮の「本意」云々の前に、日蓮の解釈が正しいかどうか? 法華経は正し

     いのか

      どうか?の問題が生ずると思うのです。

      いくら「本意」通り実践したところで、その「本意」が間違った解釈であっ

     たならば

      無意味だと思いますが・・・。

 

     >(これは、色々な宗教団体が祈った結果、叶わない場合の詭弁としても

     >良く使われますので、注意が必要ですが・・・・)

 

      これは、「普遍的」を否定すると思いますが・・・。

      「普遍的」の説明のために、「殆ど例外なく」や「必ずどの宗教にも」とい

    

      言葉がありましたので、矛盾しています。

 

522 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/27() 23:33

     文底さんへ A

 

     >ただ、私の本当の「普遍的定義」とは、上記の「体験的現象」のみではなく、

 

     >もっと、人間が、まだ現代科学では証明出来得ない「潜在能力」のような物で

     す。

 

      文底さんの言いたいことはよくわかりますが・・・。

      この「潜在能力」とは、自分の「内」にあるものですか? それとも、

      それプラス外からの働きかける力もあるとお考えですか?

      内にある力でしたらば、なんとなく納得できますが、どうも学会員の発言を

      みていると、外の未知なる力のような気がしてなりません。

      掲示板で、誰かが困っていると「題目を送ります!」というのを目にしま

     す。

      学会員って、「超能力者」かと思いました。

 

     >体験談集でしたら、創価学会に限らず殆どの宗教団体は、

     >出版しているのではないしょうか?

 

      いろいろと本屋を探してみましたが、ないですね・・・。

      友人に聞いてみます。 私のような人間が読むと逆効果かもしれませんが。

     (^^;

 

523 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/27() 23:35

     文底さんへ B

 

     >私も幾つかの掲示板を見させて頂いているのですが、私の立場から申し上げさ

     せて

     >もらえば、「何か」に対する不信感を「最後の壁」(信仰)にすりかえて、

     >お互いの立場を「正当化」しているだけにしか見えません。

 

      私の書いた「何か」とは、まさに信仰のことであり、信心による功徳(体験

     的現象)

      のことであります。決して、すりかえではなく、そのものだと思います。

 

     >「最後の壁」を乗り越えるのは、二人の行動力でしょう・・・・

     >それが出来ないのを「最後の壁」(信仰)としているのは、二人の信頼関係が

 

     >もはや、脆弱になり、自分の不信感を他人の意見(掲示板)等で確認している

     に過ぎません。

 

      「信仰」が原因で、二人の信頼関係が、脆弱になっているのは確かでしょう

     ね。

      学会員の親に、「退転するなら、親子の縁を切る」とか、「信心しないと結

     婚を許さない」

      とか言われたら、仕方がないと思います。無宗教の人間には考えられないこ

     とですから。

      両親の承諾も得ずに駆け落ちするのが「行動力」として評価されるものかど

     うか・・・。

      非学会員にしてみれば、相手に信仰をやめてくれと言っているわけではない

     のです・・・

      なぜ、自分も信仰しなくてはいけないのか?信仰の自由を与えられないの

     か? ということ

      だと思います。この問いの答えは、「信心すれば幸せになれる」なのです、

     文底さんのいう

      「何か」=「体験的現象」です。 信心とは、この「体験的現象」を信じる

     か信じないかで

      しょう。 教義なんて、どーでもよいことです。 学会員である文底さん

     と、私の違いは、

      結局、ここに辿り着くのです。   

 

524 名前: 文底 投稿日: 2000/04/28() 23:09

 

     若葉マークさん

 

     若葉マークさんの論ずる争点が、なぜ私と噛み合わないかここに来て、

     漸く分かるような気がしました。

     若葉マークさんは、私を「学会員」であるとの前提でお話しをされています

     ね。

 

     >学会員である文底さんと、私の違いは、結局、ここに辿り着くのです。

 

     私は、私自身の哲学・思想において、ある一種の考えを持っております。

     それは、以前から申し述べているように、「宗教」と言うジャンルには、

     「体験的現象」なるものが多く存在し、「教義的解釈」だけでは説明できな

     い、

     「何かがあるのではないだろうか?」というような、ある種漠然とした、

     主観的「実在論」です。(皆さん懐疑的なそれです)

     ですから、私の主張する事は、特定の宗教団体の為の理論でもなければ、

     ある宗派の擁護でも非難でもありません。

     ただ、沢山の宗教の中には、およそ「宗教」と呼ぶには、相応しくないものが

     多く存在し、世間や社会を混乱させるものも事実です。

     もはやそれは、私の定義上の「宗教」ではありません。

 

     若葉マークさん、私が「学会員」ではなく、客観的第三者であることを

     前提として、今までの争点をご確認して頂けないでしょうか?

 

525 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/29() 12:47

 

     文底さん、こんにちは。

 

     >若葉マークさんは、私を「学会員」であるとの前提でお話しをされています

     ね。

 

      初めからそのつもりだったのですが、私の文章力の無さが原因ですね。

     (^_^;)

 

     >「体験的現象」なるものが多く存在し、「教義的解釈」だけでは説明できな

     い、

     >「何かがあるのではないだろうか?」というような、ある種漠然とした、

     >主観的「実在論」です。(皆さん懐疑的なそれです)

     >ですから、私の主張する事は、特定の宗教団体の為の理論でもなければ、

     >ある宗派の擁護でも非難でもありません。

 

      私からすると、「体験的現象」を第一と考える宗教は、すべて同じに

      見えます。 したがって、文底さんが学会員でなくても、そのような

      宗教を信心(主張)している人であれば、私の見解は同じになります。

      文底さんの言われる「体験的現象」の存在する「宗教」の中の一つで

      ある創価学会を例に取り上げて指摘したまでです。

      正直言って、学会以外の他の宗教がどんなものか?わからないという

      情けない理由もありますが・・・(^^

      結局、「体験的現象」に肯定的か、否定的か ということになると思いま

     す。

      ところで、文底さんの言われる「体験的現象」とは、具体的にどのような

      ものなのでしょうか? 

 

526 名前: 文底 投稿日: 2000/04/29() 18:51

 

     若葉マークさん

 

     >文底さんの言われる「体験的現象」とは、具体的にどのような

     >ものなのでしょうか?

 

     私が本来考えている「体験的現象」とは、本当は宗教のみを定義している

     ものではないのです。

     ただ、宗教にも「体験的現象」なるものを語る「文献的教義」が多いので、

     このスレッドでも、色々述べさせて頂いている訳です。

 

     私が基本的に考えている「体験的現象」とは、本来人間が持っている

     「潜在的能力のようなもの」とお考え下さい。

     具体的に述べれば、医学における「プラシーボ効果」やスポーツなどに

     よく使われる、「イメージトレーニング」など、本来その目的達成の

     直接的手段では無いにも関わらず、一定の物理的現象が起きうる事です。

     ですから、私の考える所の「体験的現象」は他力本願(神や仏に救ってもら

     う)

     では無く、「自分自身のまだ知りえない未知の力を自分の意志によって、

     変革し得るのではないか?」という推測です。

 

     しかし、若葉マークさんも感じられている思いますが、宗教にはこの

     「体験的現象」なるものを「悪用」している輩も多いですよね・・・

     若葉マークさんは、どのように「体験的現象」なるものをお考えですか?

 

527 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/29() 20:05

     なっちのンコ食べたい( ● ^  ^● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´

     ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食

     べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● )

     なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ●

     ´ ー ` ● ) なっちのマンコなっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● )

     なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ●

     ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマン

     コ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ●

     ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい

     i ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちの

     マンコ食べたい( ● ´ ー ` ● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー `

     ● ) なっちのマンコ食べたい( ● ´ ー ` ● )

 

528 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/29() 20:06

 

         / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ

         /   ,――――-

       /  /  /   \ |

       |  /   ,(・) (・) |

        (6       つ  |

        |      ___  |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

        |      /__/ /  < いいかげんにしろ!!

      /|         /\   \________

 

529 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/29() 22:16

     文底さん

 

     やはり、文底さんは、変わった学会員ですね・・・(良い意味で)

 

     下記は、私の前回の書き込みの下書きの一部です。書き込む時には

     削除してしまいましたが・・・。

 

     『私が現段階で肯定できる「体験的現象」は、信心することによって、自分の

     考え方

      や行動が変わり、それによっておこる「現象」のみです。その現象を体験し

     た本人は、

      ”信心はすごい!”と思うかもしれませんが、客観的に見れば、「自分が変

     わった」

      ことによるものだと思います。 自分では気付かない「自力」で変わること

     です。』

 

      というわけで、文底さんの考えには全面的に賛成します。

      「何か」に随分と振り回されてしまったようです。(^^

 

     >しかし、若葉マークさんも感じられている思いますが、宗教にはこの

     >「体験的現象」なるものを「悪用」している輩も多いですよね・・・

 

      私の周りだけかもしれませんが、「体験的現象」を「未知の他力による救

     済」

      と考えている人がほとんどのような気がします。(開祖もそうだったので

     は?)

      「方便」だと思えばよいのかもしれませんが・・・。

 

      文底さんのように考えていたら、「題目」によるプラシーボ効果が半減して

      しまうのでは?? ()

 

530 名前: 文底 投稿日: 2000/04/30() 12:09

 

     若葉マークさん

 

     >やはり、文底さんは、変わった学会員ですね・・・(良い意味で)

 

     やはり私は、学会員になってしまいますか・・・・

     どの辺りが、その様に感じるのでしょうか?

 

     >というわけで、文底さんの考えには全面的に賛成します。

     >「何か」に随分と振り回されてしまったようです。(^^

 

     振り回してしまって申し訳ありません。

     私のボキャ貧の為せる所です。

 

     >私の周りだけかもしれませんが、「体験的現象」を「未知の他力による救

     済」

     >と考えている人がほとんどのような気がします。(開祖もそうだったので

     は?)

     >「方便」だと思えばよいのかもしれませんが・・・。

 

     確かに宗教の多くの教義的文献には、「未知の他力による救済」的論述も

     多々見受けられますよね、また、そのように考えている人々も多いかもしれま

     せん。

     ただ、このスレッドの趣旨である日蓮仏法には、「未知の他力による救済」よ

     りも、

     自分の中にある「仏性」を引き出す「縁起」として、「曼荼羅」なるものを

     顕したような気がするのですが・・如何でしょうか?

 

     >文底さんのように考えていたら、「題目」によるプラシーボ効果が半減して

     >しまうのでは?? ()

 

     全くその通りですね、ただ、私は天邪鬼なのか何事も盲目的に信じられないの

     です。

 

531 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/30() 22:21

     文底さん

 

     >やはり私は、学会員になってしまいますか・・・・

     >どの辺りが、その様に感じるのでしょうか?

 

      もしかして、文底さんは、学会の方ではないでしょうか?

      前の書き込みを見ていましたが、確かにどこにも「学会員」である根拠は

      ありませんでした。 ここの掲示板は、アンチ創価学会の巣窟だと思ってい

      ますので、反論的?な書き込み=学会員 と思ってしまいました。(^^

      私がそう感じた点は・・・

 

      @第7の外道さんの日蓮に対する文献的解釈論に異論を唱え、「体験的現

     象」

       があることを主張された。(学会は、現証第一主義なので)

      A聖教新聞の体験談を容認する発言をなされた。 

      (聖教新聞の記事に関しては、好意的に読んでみても・・・(_)です)

 

      でしょうか。 ひゃっきまるさんに対するレスを見ると、”本部面接”とか

      言われていたようですし・・・謎です。()

      もし、間違っていたのでしたらば、謹んでお詫び申し上げます

 

532 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/30() 22:24

     文底さんへ

      

     >ただ、このスレッドの趣旨である日蓮仏法には、「未知の他力による救済」よ

     りも、

     >自分の中にある「仏性」を引き出す「縁起」として、「曼荼羅」なるものを

     >顕したような気がするのですが・・如何でしょうか?

 

      日蓮仏法においての「曼荼羅」とは、「御本尊」のことですよね?

      「仏性」を引き出すかどうかはわかりませんが、これも「方便」なのではな

     いか?

      と思う私は、無間地獄行きなのかもしれません・・・。

      祈る時に、その「対象」があった方が判り易いと思いますし、気合いも入る

     のでは

      ないでしょうか?

      本物か?偽物か? とか、日顕ご本尊をどうする?とか、信心している人に

      とっては、大問題らしいですが、私のような無信心の者にとっては、理解し

     難い

      です。プラシーボ効果を期待するならば、ブランドには拘らないといけませ

     んね。

      私も今年の2月頃までは、「御本尊」(他の宗派も含む)は、”当たり前”

     という

      考えだったのですが、下記の掲示板の「釈迦が仏教を開いた時、本尊なんて

     あったの?」

      を読んで、目からウロコが落ちたような・・・。

 

      http://www.alles.or.jp/~maruzo21/think/bbs/20000206.htm

 

533 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/04/30() 22:34

     文底さん、訂正です。 m(__)m

 

     >もしかして、文底さんは、学会の方ではないでしょうか?

              ↓

          学会の方ではないのでしょうか?

               

 

534 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/30() 23:44

     どうもです。しばらくここに来ない間にここも相当流れていて、

     どういう方向に話が流れているのかよくわからなくなってしまいました(^^;

     とりあえずご返事を。

 

     あめふらしさん

     ご提案ありがとうございます。ただそのような板を提供していただいた上に、

     一体どういう議論をしていけばいいのか、ちょっとイメージができません。

     また、「いちげんさん」というか、通りすがりの冷やかしなんかもあったほう

     がいいのではないかと内心思っているところがありまして、今もって態度を決

     めかねています。ここの混沌とした雰囲気を、何だかんだいっても気に入って

     いるのかも知れません。今後「日蓮・学会」以外で新規にテーマが産まれた場

     合は考えさせてください。

 

     昼行燈さん

     ありがとうございます。ご紹介のページですが、内容がなかなか難しくてすぐ

     には詳細が理解できないのですが、確かに勉強になると思わされる半面、議論

     が全体としてどういう方向に向かって流れているのか、私には今のところ読め

     ません。もうちょっと様子をうかがってみます。

 

     文底さん、若葉マークさん

     お疲れ様です。見ると、議論の方は一応終息に向かいつつあるようですね。

     文底さんのおっしゃられる考え方は、ここで示されているものから推す限りで

     は、

     学会の教義思想とは明らかに調和しないであろうと思われます。

     もし、人間の根本的生命傾向を「久遠本仏の・・・」という形で言い換えない

     限りは。

     文底さんは、日蓮や学会の思想・活動に対してはどのようなご意見をお持ちな

     のでしょうか。

 

535 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/01() 00:15

     若葉マークさん

     少し感じたことがあるので、感想書かせていただいていいでしょうか?

 

     >祈る時に、その「対象」があった方が判り易いと思いますし、気合いも入る

     のでは

     >ないでしょうか?

     >本物か?偽物か? とか、日顕ご本尊をどうする?とか、信心している人に

     >とっては、大問題らしいですが、私のような無信心の者にとっては、理解し

     難い

     >です。プラシーボ効果を期待するならば、ブランドには拘らないといけませ

     んね。

 

     まさにそうなのでしょうね。「祈る」ときに、その祈る対象に批判的視座を同

     時に持っていては、

     「潜在能力」などの開放も困難になるでしょう。

     つまり、「祈り」からそういった効果を引き出すためには

     ある種の「無批判的追従」「盲目性」といったものが必要なのでしょう。

 

     しかしそれが「宗教」の進む道だ、ということになれば、私はイヤですね(

     笑)

     そういった思想に支えられた集団の中では、「批判的視座」だの相対化だのと

     いったものは

     生息の余地がなさそうですから。何せこれほど邪魔で目障りなものはないでし

     ょうからね。

     どうも私の思うに、日蓮(の思想)は支持者に対して「無批判性」「盲目性」

     といったものを

     必須のものとして要求するものであるように見えてしょうがないです。

     釈迦が説いた法とは、むしろ「批判的視座」「相対化」といった傾向を

     鍛え育てていく方向で展開するもの、と個人的には思うので、なおさらそう感

     じます。

 

     >「釈迦が仏教を開いた時、本尊なんてあったの?」

 

     という台詞は、昼行燈さんが随分以前にここで書かれてましたが、

     こと仏教においては、こうした問題提起はもっとまともに受け止められるべき

     だと

     私は思います。

 

536 名前: 文底 投稿日: 2000/05/01() 19:01

 

     若葉マークさん

 

     >前の書き込みを見ていましたが、確かにどこにも「学会員」である根拠は

     >ありませんでした。

 

     私の立場としては、あくまで客観的第三者として、「創価・公明」の掲示板

     なるものに対し論じているだけであり、他の意図は全くありません。

     私は、他の宗教や、思想、哲学の掲示板であれば、それに類するハンドルネー

    

     を用い、その方々と論議をするでしょう。

     ですから、私は、「創価・公明」に対し、主観的にみて論ずるに値する「スレ

     ッド・

     書き込み」だと思えば、事の是非に関わらず、自分の思う処を述べて、自分の

     意見

     の是非を他の方々(創価学会の方・アンチの方問わず)に御判断して頂きたい

    

     思っております。

     その為に、出来るだけ誠実で、真摯的に発言されているこのスレッドを選ばせ

    

     頂きました。

     また、私のような讒言に、それぞれの御立場から、

     誠実に発言されている、第7の外道さん、昼行灯さん、若葉マークさんに、

     大変感謝しております。

 

537 名前: 文底 投稿日: 2000/05/01() 19:02

 

     >@第7の外道さんの日蓮に対する文献的解釈論に異論を唱え、「体験的現

     象」

     >があることを主張された。(学会は、現証第一主義なので)

     >A聖教新聞の体験談を容認する発言をなされた。

 

     @に関しては、事の発端は、昼行灯さんの日蓮仏法の文献的解釈論に対し、

     宗教の本意は、「文献意外にもあるのではないか?」という、懐疑的スタンス

     であり、

     これは、たまたま、日蓮仏法における意見の相違であっただけで、他の教義で

     も、

     同じようなスタンスの論法があれば、私は、同じ質問をしたでしょう。

 

     Aに関しては、「文献的教義解釈」の限界性を述べる方途として、「体験談」

     を記しただけであり、私は、「体験談」なるものの是非を「肯定」も「否定」

    

     してはいないのです。

 

     >ひゃっきまるさんに対するレスを見ると、”本部面接”とか

     >言われていたようですし・・・謎です。()

 

     私の知人(創価学会)の方が、私の「へ理屈」に対し辟易して

     「じゃ本部面接でも行くか?」との話しから、引用させていただきました。

     ちなみに、法華講の方からは、「じゃお寺にでも行くか?」

     と同様のお誘いを受けました。

 

538 名前: 文底 投稿日: 2000/05/01() 19:04

 

     >日蓮仏法においての「曼荼羅」とは、「御本尊」のことですよね?

     >(中略)掲示板の「釈迦が仏教を開いた時、本尊なんてあったの?」

     >を読んで、目からウロコが落ちたような・・・。

 

     確かに、祈る時に「対象」があったほうが分かり易いですが、歴史の推移を見

     ても、

     宗教の論争の本質的定義は、「何を」どう「祈る」かでずっと揉めているので

     す。

     宗教の本質的定義の是非は、私自身も推考中ですが、私の論法から考えれば、

     「何を」どう「祈る」かで揉めるよりは、「本当は何が言いたかったのか?」

     と言う、

     論議の方が、事の本質が見えて来ると思うのです。

     ちなみに私見ですが、私は、釈尊自身は、自分の振る舞いを現在の「宗教」と

     言う

     枠の中では考えていなかったように思います。

     逆に日蓮仏法には、明確に「宗教性」があります。

     御書の中にも「私の教えを信じなさい」との下りがあり、「曼荼羅(御本尊

     )」は

     その祈りの中心的存在です。

     問題は、その強迫的とも取れる文献をどう解釈するかです。

     そのとうり解釈すれば、正に日蓮宗各派の教えになるでしょう(含創価学会)

     しかし、私は、それだけのような気がしないのです・・・・

 

539 名前: 文底 投稿日: 2000/05/01() 19:05

 

     第7の外道さん

     お久しぶりです、お元気でしょうか?

 

     >文底さん、若葉マークさん

     >お疲れ様です。見ると、議論の方は一応終息に向かいつつあるようですね。

 

     若葉マークさんの速攻レスには、さすがに少し疲れました・・・

     もちろん、それに速攻レスする私に責任があるのですが・・・

     論議の流れが、第7の外道さんのスレッドの趣旨を外してしまうようで、

     それが一番気になってました。

     もしそうであるなら、責任は、私にありますので、御容赦ください。

 

     >文底さんのおっしゃられる考え方は、ここで示されているものから推す限り

     では、

     >学会の教義思想とは明らかに調和しないであろうと思われます。

     >もし、人間の根本的生命傾向を「久遠本仏の・・・」という形で言い換えな

     い限りは。

 

     「久遠本仏の・・・」のと言うくだりの表現は、私が最も懐疑的立場をとる表

     現ですね。

     ただ、人間の根本的生命傾向は「何か」と言う定義には、私の性格から言っ

     て、

     大変興味を持つ命題です。

     何時の間にか、「久遠実成の釈迦牟尼仏が実在し、一切世間は釈迦牟尼仏の教

     えに

     包まれているそのものが普遍的真理です」なんて言い出したりして・・・・

 

540 名前: 文底 投稿日: 2000/05/01() 19:07

 

     >文底さんは、日蓮や学会の思想・活動に対してはどのような

     >ご意見をお持ちなのでしょうか。

 

     私も第7の外道さんとこの点に付いて論じたい所なのですが、

     ここ数日、私用でカキコする事が出来そうにありません。

     申し訳ありませんが、その辺り少しご猶予下さい。

     その代わりと言っては、変ですが「創価学会」の方々に問題提起しておきます

     ので、

     もしそれによって論議が活発になればと思います。

 

541 名前: 文底 投稿日: 2000/05/01() 19:09

 

     もし、このスレッドを創価学会の方々が御覧になっていたら、

     問題提起しておきたい事があります。

 

     この板の最近の流れでは、「創価」な方々は、なかなか現れず、「アンチ」

     で埋め尽くされている感があります。

     私は、せっかく創価学会なる掲示板がこの様な巨大掲示板の中で一つのカテゴ

     リー

     として成り立っているのに、「荒れている」と言う理由だけで、創価学会の

     方々が、

     具体的、論理的発言をされない事を非常に残念に思います。

     「荒れている」=「論ずるに値しない」ではなく、

     「荒れている」=「なぜ自分達の組織は、この様に荒らされるのだろう?」

     と言う、懐疑的精神を持ち、どんな発言にもそれなりの主張としての意味付け

     で、

     自分達が思う所為を、自分達の言葉でそれこそ「淡々」と論じて頂けたら、

     この板のもつ意義が、より創価学会の方々にとって有意義な場所になると思う

     からです。

 

     第7の外道さんのように、やや哲学的見地から、「法華経」「日蓮仏法」を

     述べられている方もいらっしゃいますし、

     昼行灯さんのように、仏教的教義的解釈から、日蓮論に思いをはせている方も

     いらっしゃいます。

     また、若葉マークさんのように他の色々な掲示板や周りの「学会員」の言動に

     より、

     懐疑的立場をとられている方もおります。

     私は、出来得れば「創価」と「アンチ」の方々の論争に対して、客観的「第三

     者」

     として、思うところを論じたいと考えいるのですが、如何でしょうか?

 

542 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/02() 01:04

     文底さん

 

     毎度毎度、丁寧なレスを頂き、ありがとうございます。

     文底さんの立場まで詮索してしまい申し訳ありませんでした。

 

     >「私の知人(創価学会)の方が、私の「へ理屈」に対し辟易して

     >「じゃ本部面接でも行くか?」との話しから、引用させていただきました。

 

      私も連行されないように気をつけます。()

 

     >問題は、その強迫的とも取れる文献をどう解釈するかです。

     >そのとうり解釈すれば、正に日蓮宗各派の教えになるでしょう(含創価学会)

 

     >しかし、私は、それだけのような気がしないのです・・・・

 

      このスレッドのはじめの方に”ドキュンの星”という書き込みがありました

     が、

      文献をそのまま解釈すれば、そんな気もします。(苦笑)

      学会のイメージがあったからか、日蓮に対してはあまり良いイメージを持っ

    

      いませんでした。 文献を見て、さらにイメージが悪化したのは事実です

     が、

      その反面、命を張って信仰を貫いた生き方には、賞賛に値するものがあるよ

    

      にも思います。

      (文献的にはダメですが、人間的には好感を持っていたりする (^^ゞ )

      比叡山で、十年修行した日蓮が、単なる「ドキュン」だったのか?

      それとも、「何か」を会得して「故意に」(方便で)そうしたのか?

      私にはわかりませんが、後者であってほしいと願います。

      またまた「体験的現象」の話なのですが、文底さんは、修行を積んだ「高

     僧」と

      呼ばれるような人は、一般人とは違った能力(潜在能力)を持っていると思

     いますか?

      文底さんのいう「何か」には、プラシーボ効果などというレベル以上ものが

     含まれて

      いるのではないか? と勝手に思っているのですが・・・。

      

 

543 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/02() 01:07

 

     第7の外道さん

     コメントを頂き、ありがとうごさいます。

 

     >どうも私の思うに、日蓮(の思想)は支持者に対して「無批判性」「盲目性」

     といったものを

     >必須のものとして要求するものであるように見えてしょうがないです。

 

      文底さんも、この点に疑問を感じていらっしゃるようですね。

      とても好意的に考えれば、「一切衆生の救済」を実現するために、「無批判

     性」や

      「盲目性」を要求したのかも?・・・日蓮にしてみれば、とにかく信じて

     「唱題」

      させて、文底さんのいうような「体験的現象」を経験させようと考えた・

     ・・。

      取っ掛かりを作ることによって、各人の仏性を引き出そうとした?

      そして、「批判的視座」「相対化」といった傾向を鍛え育てていくのは、次

     のステージ?

 

      これは、私の空想ですので、あまりマトモに受け取らないでください・・・

     (^^

 

     >>「釈迦が仏教を開いた時、本尊なんてあったの?」

     >という台詞は、昼行燈さんが随分以前にここで書かれてましたが、

     >こと仏教においては、こうした問題提起はもっとまともに受け止められるべき

     だと

     >私は思います。

 

      これも、昼行燈さんが他の板に書いたものです。

      宗門とケンカして「友人葬」を実現した学会でしたが、さすがに「御本尊」

     は捨て

      られなかったようで・・・純粋に「仏教」を考えるならば、寺や僧あり方な

     ども

      考え直すべきでしょうね。

 

544 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/02() 02:03

     若葉マークさん

     「ゆきぞさん」の掲示板には、過去ログが残っているのですね。

     私は、過去ログが残っていないと「勝手に」思い、あの掲示板を

     離れたのですが、(それまでの書き込みが徒労に終わると考え)

     もう少し、頑張れば良かった気もします。

     デーヴァ・ナーガリーと言われるサンスクリット文字の経典の撮影

     が終わり、その整理もあって思うように参加も出来ない状況で有っ

     た事が大きな要因でも有ったのですが。

 

     文底さん

     「文献的解釈論」は有効足り得ないのでしょうか?或いは限界が

     有るのでしょうか?

     私は少なくとも「否定的」にはなれません。

     あらゆる文献を多角的に読み、判断する。おそらく人類にのみ許

     された特権だと思います。文献(経験を文字化した)に基づいて出

     される結論が、反論の余地のない程のものであれば、到達点は

     誤りのないものであると思います。

 

     以前、文底さんが述べられていた、3本の煙突を喩えに、私論を

     述べてみたいと思います。

 

545 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/02() 02:11

     三本の煙突 (1)

 

     文底さんが、「三本の煙突」を普遍的真理と譬えてくださったので、その煙突

     に基づき

     ながら、釈迦の真意を探ってみたいと思います。

     「三本の煙突」を一カ所から眺めて、「この煙突はこのような形をしている」

     と唱える

     立場を「常見」とか「断見」としているのです。

     それでは、そのような事柄を述べてはいないのか。と問われれば、述べていま

     す。

     「対機説法」と呼ばれ、矛盾に感じる説を述べています。

     そこで、「文献学的解釈」を要する事になります。

     釈迦が各々の所、各々の人に説いた事柄を、統合する為には、「文献的解釈」

     は必要だ

     と思います。

     釈迦は、この場所から眺めれば煙突は見える。しかし煙突の本来の形状だろう

     か?

     この見える形状を全てだと思っても善いのだろうか?

     一点に留まり、そこで眺めた煙突の形状を「正しい」と納得しても善いのだろ

     うか?

     と問いかけているように思えます。

 

     「このように見える」とも、「この様にしか見えない」という立場に拘る事を

     戒めてい

     るのではありませんか?

 

      

 

546 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/02() 02:24

     三本の煙突 (2)

 

     「正しく思惟」し「正しい結論を出せるよう、智恵を巡らせなさい」

     宗派仏教の多くが、一点からの観察で、「この煙突はこの様な形態をしてい

     る」と説き、

     「他から見える煙突の形態は間違っている」と声高に主張していますが、釈迦

     の教えに

     基づけば、正しく見える位置を探るには如何にすれば良いのか、そのために為

     すことは

     何なのか?自ずから理解できると思います。

     「八つの正しい道」に従って観察をすれば、煙突という普遍的真理は存在する

     事が理解

     出来ます。この煙突が存在するという事を、「縁起」と名付けている訳です。

     その「存在する三本の煙突(因)」は「見る人、見る角度(縁)」に依って、

     「違う見

     え方をする(果)」という教え(法)だと思います。

     後に、煙突の材質や、長さや高さを煩瑣に考え、本質から離れた事柄を論じて

     「論」が

     出来上がりますが、それらは決して「法と呼ばれる普遍的真理(煙突そのも

     の)」では

     ありません。

     正しく煙突の形状を眺め正しく把握する為には、「様々な位置から眺め、留ま

     らず、ど

     のようにすれば善いのかすら、考え実行しなさい」

     釈迦のいいたかった事ではないでしょうか?

     煙突という普遍的真理を見るには、どのようにすれば善いのか?

     その為の「八正道」を説いているのです。

     「八正道」は文献的解釈に依るものですが、少なくとも理論に矛盾は

     無いと感じます。「八正道」の理論を理解するのに、体験的現象は不

     要です。

     体験的現象は、「八正道」の実践の範疇に収まると思います。

 

                  

 

547 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/02() 02:30

     訂正です。

 

     体験的現象は、「八正道」の実践の範疇に収まると思います。

 

    

 

     体験的現象は、「八正道」に基づく実践の範疇に収まると思います。

 

     です。お詫びして訂正致します。

 

       

 

548 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/02() 18:41

     「学会二世なのですが、脱会しようか揺れています」というスレッドを立てて

     いるものです。

 

      あらしと野次しか存在しないようなところに、こんなに真面目でためになる

     スレッドがあるとは驚きです。

      まだほとんど読んでいないのですが、仏教に詳しい人がいるようなので、僕

     の疑問を聞いてもらってもよいでしょうか?

 

     1・法華経が釈迦によって説かれたのではなく、後世の人の創作だということ

     は、現在広く認められていることだと思いますが、日蓮正宗、創価学会以外の

     法華系の宗派は、それに対してどのような態度をとっているのでしょうか?

      もし認めているなら、認めた上で、どのような教義を組み立てているのでし

     ょうか? 認めてしまったら、日蓮大聖人の論が根本から崩れさると僕は思っ

     ているのですが・・・。

 

     2・僕は、大聖人が自分で自分のことを、釈迦を越える仏である、と言ったと

     は思えないのですが、そうだとすればいつから教義が変わったのでしょうか?

      末法の世では法華経を唱えてもだめで、題目を唱えないといけないとか、法

     華経に書いてあることとは違う教義がいろいろありますが、誰がそれを決めた

     のでしょうか? やはり日興上人ですか? そうだしたら、なぜそんなことを

     する必要があったのでしょう。

 

     3・日蓮正宗、創価学会で、「五老僧」と呼んでいる、裏切り者の実体はどう

     だったのでしょう? 彼らが身延の日蓮宗を継続した人たちですよね? よく

     創価学会では、彼らは大聖人がひらがなで書かれた御書を、恥だとして焼い

     た、とか、達磨大師やお稲荷さんを奉っている、とか言われています。

      法華宗はその後、どのように分岐して、現在どのくらいの宗派、団体に分か

     れるのでしょうか? 日興上人からの系譜は日蓮正宗と創価学会だけですよ

     ね?

 

549 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/03() 02:37

     ひゃっきまるさん

 

     お答えになるか否かは分かりませんが、「文献的解釈」で述べさせて頂きま

     す。

     1・大乗仏教経典は、仰せの通り「非仏説(歴史的釈迦とは無縁)」です。

       しかしながら大乗経典は釈迦のおしえ(の意義)を多く含み、「非仏教」

     では

       無いと思います。釈迦の教えが出家に対するものであるように、大乗経典

    

       在家信者に対する経典と言えるのではないでしょうか。

       特に天台法華宗では、戒壇を梵網経に基づく「大乗戒」に依って建立して

     います。

       多くの日蓮系教団も、歴史的な経緯を勘案しながら統合性を模索している

    

       態だと思います。

 

550 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/03() 03:10

 

     ひゃっきまるさん

 

     2・日蓮の遺文を読むと、法華経への帰依・唱題を末法の修行と位置づけては

       いますが、自分を「本仏」などとは書いてはいません。

       日蓮宗系は、日蓮滅後に幾つかの教派に別れますが、大別して「本・述」

    

       一致か勝劣に別れます。

       池上(日朗系統)に属する本門派の日隆師が「日蓮本仏説」を唱えたのが

       歴史的に最初ではなかったかと思います。(手元に「日蓮宗宗学全書」が

       ありませんので、不確かですが)本門派及び、その分派した本門八品派が

       大石寺日有師以前に唱えています。

       大石寺系の文書は、「百六箇抄」とか「生死一大事血脈抄」などを文証と

    

       れていますが、偽書に擬せられています。

       少なくとも、信頼の出来ると思われる日興師の文書や、日蓮の遺文には存

       在しません。

     >そうだしたら、なぜそんなことをする必要があったのでしょう。

       それをしなければならなかった理由を、断定する資料はありませんが、他

    

       派に対する差別化と、自派教団の正統性を図るためだと思っています。

       以降、日蓮教団で「日蓮本仏論」と言えば、興門派と言われる程、浸透し

     ました。

 

       

 

551 名前: 文底 投稿日: 2000/05/03() 03:55

 

     若葉マークさん

 

     本当は、ここ数日レスする暇が無いと思ったのですが、

     少し時間が出来たので、レスしますね(お互い体には気を付けましょう)

 

     >またまた「体験的現象」の話なのですが、文底さんは、修行を積んだ「高

     僧」と

     >呼ばれるような人は、一般人とは違った能力(潜在能力)を持っていると思

     いますか?

 

     修行を積んだ「高僧」=一般人とは違った能力(潜在能力)

     と必ずしも考えていません。

     修行の方向性が、私の考えている(潜在能力)を論理的に引き出せるか、

     その方法論その他に、疑問があるからです。(主体性行動力)

     また、世間に「高僧」と呼ばれる人々がいらっしゃる事は、事実ですが、

     その方々が、人間的基本的規範における価値基準に照らして、はたして

     「高僧」と呼ぶに相応しい方々かも私には、まだ検証中です。

     何れにせよ、真摯な目を持って、事象に対し積極的に取り組むその推移におい

     て、

     何かを「悟る」事はあるような気がします。

 

     >文底さんのいう「何か」には、プラシーボ効果などというレベル以上ものが

     含まれて

     >いるのではないか? と勝手に思っているのですが・・・。

 

     はい、あります。

     それに付いては、私と日蓮仏法に至る過程から、説明せねばなりませんので、

     もう少し時間のご猶予ください。

 

552 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/03() 03:55

 

     ひゃっきまるさん

 

     3・日興師に擬せられる「五人所破抄」に依れば日蓮正宗・創価学会の言われ

    

       通りですね。しかし「日蓮宗宗学全書」興尊部(日興師の書を集めたも

     の)や、

       上聖部(五老僧や有力檀那の書)では、少し様相が違います。

       日蓮の遺文(御書)の散失を恐れ、保存に努力したのは常木日常師や、波

    

       井日円師であることは、歴史的事実です。

 

       天台沙門と名乗ったのは、おそらく日蓮自身が「非受戒僧(私度僧)」で

     あった

       為、幕府に独立した一宗派と認められなかったからではないでしょうか。

       鎌倉末期には完全に律令制度は崩壊しますが、それまでは私度僧は、国禁

       でしたから、鎌倉をはじめとする関東の教団は教団を維持するには天台宗

    

       名を借用するしか無かったものと思われます。(将軍お膝元ですから)

       その点、駿河方面では緩やかだったのではないでしょうか。

 

       日蓮系教団は、新興宗教団体も含めれば、およそ五十前後に別れていま

     す。

       日興師の系統・系列は京都要法寺や西山本門寺等の旧日蓮本門宗など、単

    

       寺院を含めると、幾つか有るようですが、骨肉の争いは、他の日蓮宗系よ

     り激

       しいようです。

       日興師の系譜に属する寺院の多くは、諸日蓮宗と共に単称日蓮宗に属して

    

       ます。

 

     >達磨大師やお稲荷さんを奉っている、とか言われています

      私は確認してはいませんし、日蓮学は得意ではありませんので、この件に関

    

      てはお返事が出来ません。私見ですが(と断りをいれて)

      稲荷はともかくとして流石に「達磨大師」はお祀りしてはいないと思いま

     す。

      (稲荷=稲が成るの意)は農家の信徒の切実な気持ちの現れとして、あり得

    

      と思います。

 

     満足行くお返事と成ったかは疑問ですが、第7の外道だんや文底さん、そして

     若葉マークさんのご意見は如何でしょうか?

 

       

 

553 名前: 文底 投稿日: 2000/05/03() 04:07

     ひゃっきまるさんさん

 

     ようこそこのスレッドへ

 

     >法華宗はその後、どのように分岐して、現在どのくらいの宗派、

     >団体に分かれるのでしょうか?

 

     その件につきましては、「信濃町富士宮研究所」掲示板の中で

     創価学会と日蓮宗の「対話」の可能性について 波木井坊竜尊さん

     が詳しく述べられております。

     御参考までに。

 

     http://whiteangel.tonet.ne.jp/room_01/read.bbs?BBS_MSG_000421184906.html

 

554 名前: 文底 投稿日: 2000/05/03() 04:12

 

     昼行燈さん

 

     私の稚拙な定義付けに付きまして、仏教的史観から、わかりやすい方途で

     ご説明頂き有難う御座いました。

 

     私も昼行灯さんの仰る文献解釈論を否定する立場ではありません。

     確かに、懐疑的立場は、現在も全く捨て去る事は出来ませんが、

     文献的解釈論を第一義として、事象に取り組むことは、大切だと思います。

 

     ところで、昼行灯さんにとっては、真に精神的に疲れる聞き飽きた台詞かも

     分かりませんが、釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期である末法説と言うも

     のは

     釈尊自身の説でしょうか、それとも、歴史の変遷により中国の「鳩摩羅什」

     による意訳かまたは、鑑真が伝えた時か最澄により天台教学の時点か、はたま

     た、

     日蓮による勝手な、「解釈」なのかその辺りの所、何か教学的文献など

     御存知でしたら、お教え願えないでしょうか?

 

     愚問で申し訳ありません。

 

555 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/03() 04:51

 

     文底さん

 

     >釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期である末法説と言うものは

     >釈尊自身の説でしょうか、それとも、歴史の変遷により中国の「鳩摩羅什」

     >による意訳かまたは、鑑真が伝えた時か最澄により天台教学の時点か、はた

     また、

     >日蓮による勝手な、「解釈」なのかその辺りの所、何か教学的文献など   

     云々

     先ず、法華経分別功徳品大十七には(漢訳でも)

     『末法悪世の時こそ法華経が大切なのだ(意訳)』とあります。

     「鳩摩羅什」 の誤訳・意訳ではないと思います。

     しかし、釈迦自身の言葉として「正法・像法・末法」という言葉はありませ

     ん。

     この言葉の出典は「大集経・月蔵分」に期間を定めたものとして書かれていま

     す。

     各時期を五百年とするものや、五百年と千年を組み合わせたもの。千年毎に区

    

     ったものが存在します。

     浄土系や、日蓮はこの「大集経・月蔵分」を拠り所にして「正法・像法・末

     法」の「時」

     論を展開しているものと思われます。

     「大集経・月蔵分」は、イスラム教がインドに侵攻し仏教を破滅的な方向へと

     導いた

     状況を現して書かれたものであろうと推測していますが、これは推測にすぎま

     せん。

     日蓮が「末法」と称した釈迦滅後には、法華経が広宣流布すると述べられてい

     る事

     と比較すれば、日蓮は法華経を読み違えたか、「大集経」をより真実の言葉

     (経典)

     だと信じていたと言っても過言ではないでしょう。

     実のところ日蓮は伝・最澄著の「末法燈明抄」を信じての事なのですが、この

     「末法

     燈明抄」は偽物であろうといわれています。これを最澄の著作だと信じている

     のは、

     末法思想を強く訴える、浄土系と日蓮系教団だと云うのも当然でしょうが・

     ・・。

 

556 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/03() 04:54

     法華経分別功徳品大十七 は 法華経分別功徳品第十七

 

     のタイプミスです。

 

      

 

557 名前: くらくら 投稿日: 2000/05/03() 05:34

     横レス失礼します。

 

     >『末法悪世の時こそ法華経が大切なのだ(意訳)』とあります。

     >「鳩摩羅什」 の誤訳・意訳ではないと思います。

 

     梵本からの直訳によれば「悪世末法時」は、「この世の堕落の

     時期」とされています。(岩波文庫法華経下P67)

 

     法華経には正像二時思想までは表現されていますが、正像末の

     いわゆる「末法」を意味するものとしては表現されていないと

     思います。ただ、後の経典に正像末三時思想が現れると羅什訳

     の「末法」部分が同化したカタチで法華経は末法に有為な経典

     であるという解釈を産んでいったと思います。

 

558 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/03() 05:54

     くらくらさん

 

     ご指摘ありがとうございます。

     付け焼き刃の法華経解釈ですので、間違いも有ろうかと感じていますが、

     今後もご指導をお願い致します。

 

      

 

559 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/03() 06:05

     >法華経は末法に有為な経典

     であって、日蓮正宗や創価学会云うところの「末法に無益な経典」では無いで

     すね。

     これが、私には理解しがたい箇所なのですが、如何でしょうか?

 

       

 

560 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/03() 09:00

     日蓮スレッドは、公明創価スレッドと関係ないのでよそでやってくれ。

 

561 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/03() 09:01

      

 

     日蓮スレッド反対。  

 

562 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 14:34

      文底さんの提起した議題があまりにも面白かったので、僕からも何か言いた

     くなりました。一月前(4/3)の、文底さんのはじめてのカキコ(234235)に

     対するものですが。

      それにしても、第7の外道さんのレスがいちいち適切で分かりやすいのにびっ

     くりしています。

 

     >キリスト教や仏教その他色々歴史的にも十分社会的影響力を持っている宗教

    

     >ありますよね、

     >これらの宗教には、教義を超える何か普遍的真実があるような気がするので

     す。

 

     >1、自分、他人の不幸を救済すること。

     >2、それをある種の現代科学を超えた方法で実践すること。

     >3、そして、それらを信じている人々が、大なり小なり宗教的力を実感してい

    

     >  こと。

 

     >これらは、教義、手段は別にしても歴史に残る宗教には、共通しているように

    

     >じられます。

 

      僕の考えは、少し似ていますが違います。2、3には、宗教には科学を越え

     (オカルト的)救済能力がある、ということですが、おそらく少なくとも仏教

     は違うと思うのです。誰かが指摘していましたが、純粋な意味でもはじめの仏

     教は哲学であったと思います。他の宗教も、そうやってはじまったものばかり

     でないと思っています。

 

563 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 14:36

      僕は法華経を読んでみて、その思想性が、仏教でありながら非常にキリスト

     教に近い、と感じました。以下にまとめると、

 

     1・超越的絶対的救済者への信仰 (神:釈尊)

     2・他者への献身的愛(慈悲、布施行)を教義の中心とすること

     3・この宗教が唯一であり、他のは間違っているという主張

     4・まず信じることが重要で、理屈よりも先行する

     5・この宗教を広めることこそが価値的生き方であると説くこと

     6・信じないこと、改宗することはこの上ない最大の罪であること

 

      僕が思うには、発展しやすい宗教と、そうでなく消えていきやすい宗教があ

     るのではないか、と思うのです。僕が連想するのは、リチャード・ドーキンス

     の「利己的な遺伝子」で語られる遺伝子の挙動です。

      遺伝子は目的があるわけでなく、ただ盲目的に自己増殖していきますが、増

     殖するための「戦略」を持つのです。3〜5はその戦略に見事に沿っているよ

     うに感じます。これらの性質は、これらをもともともってない宗教が後天的に

     身につけるようになる、ということも考えられます。

      1は、たぶんこれこそが世界宗教と呼ばれるものにとっての要なのでしょ

     う。この絶対者がたとえ存在しないとしても、これを仮定することによって人

     間は強くなれるし、救われるのだと思います。この信仰を行うに当たって、厳

     しい修行等が必要でない、とした方が広まりやすいでしょう。キリスト教では

     単に、祈る、というだけですし。法華経を読むよりも、唱題を唱える方がこの

     目的に叶っています。

      2は、人間が社会的存在であり、人間関係の中で幸福が築かれる、というこ

     とを見抜いたものだと思います。

 

      ですから、

 

564 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 14:37

     >教義全体が非社会性の強い宗教であれば、やがて淘汰されるでしょう。

     >少なくとも1000年単位で残っていく事は、出来ないはずです。

 

      という文底さんの意見には反対です。教義が正しいか・正しくないか、非社

     会性であるかないか、ということとは無関係に、宗教の残る・残らない、が決

     まると思うのです。

      最近の事例で言えば、オウム真理教は明らかに非社会性をあらわしたにも関

     わらず、未だに熱心な信仰者がいます。たとえ国家が団体の存続を許さなかっ

     たとしても、熱心な信仰者がいれば宗教は残るものだと思います。

 

     >他のスッレドでかなりの学会員の非常識な行動が非難されているようですが、

 

     >その非常識な行動が、果たして創価学会としての意図的教義の中で行われてい

     るかが

     > 問題だと思います。

     >少なくとも、現在実在している団体ですから、確認の仕方がありますよね。

 

      非常に大事な観点だと思います。学会員自身も非社会的行動をとりたいとは

     思っていないはずです。というのは、名誉会長はしばしば、「常識が大事であ

     る。常識のない人間は信用されない」ということを言っているからです。

      にも関わらず、なぜ彼らは非常識な行動に出るのでしょうか? 僕は、「折

     伏」、という一点において彼らは非常識であると思うのです。「他者に対して

     どう接するか?」という人間にとっての基本的姿勢が、折伏という考え方に支

     配されているように思うのです。

 

     1・我が宗教は絶対である

     2・信じない者は不幸である

     3・故に、信仰していない人間には折伏すべきである

     4・それが自分の存在意義である

 

      そして、これらは法華経から(歴史的釈尊からではない)えんえんとつなが

     れてきた、教義に問題があると思っています。

 

565 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 14:39

     >一番大切な事は、今社会を変革できる意識をもった生きた宗教が、

     >本当に存在するのか?

     >また、その教義は、普遍的でありあらゆる慣習を持った

     >国々に受け入れられる寛容性があるか?

     >はたして、それが宗教か?イデオロギーか?道徳か?哲学か?

     >私は、宇宙の始まりから現在、

     >未来永劫に至るまで普遍的心理と言うものを色々な宗教や、

     >教義の文面の中に隠されている何かにあると思っています。

 

      特にはじめの二行が、たいへん重い言葉だと思います。今、日本だけでな

     く、世界規模で無宗教者が増えているとどこかで聞きました。その理由は何で

     しょう?

      僕は、科学知識の普及、発達がその原因だと思います。科学的真実というの

     は、まさに昔から宗教が解きあかそうとしてきた、「宇宙の真実」の姿という

     ことです。

     (科学法則について僕がどう思っているか、については説明がいると思います

     が、とりあえず質問されたら答えることにしておきます)

 

      しかし、その真実というのは、いろいろな宗教が予言してきたものとは違う

     ものであったようです。

      仏教の中には見事に一致している、と思うものもありますが(因果、無我な

     ど)、これはもともとの仏教が、理性と論理をよりどころにして追求されたも

     のであることの証明かも知れません。

 

      もし、現代に通じる宗教があるとすれば、この科学的真実を無視したもので

     はありえないでしょう。なぜなら、そうでないと信じることができないからで

     す。そうでないと人は救えないのです。それは当然のなりゆきとして、オカル

     ト性を廃した哲学ということになるでしょう。

      それが本来の仏教であるかも知れないとは思いますが、原始仏教は厭世的側

     面が強いと感じることもあり、新しい思想が必要なのかも、とも思います。

      文底さんがおっしゃる、宗教に秘められた普遍的真理とは、僕は錯覚ではな

     いかと思います。(居もしない)絶対的救済者に対しての渇望、深い憧憬の感情

     が、陶酔感、トランス的感覚を引き起こすのではないかと思います。

 

566 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 14:41

     >「文献的解釈論」について

      論議についていけてないところがあったのですが、僕の考えを述べさせても

     らいます。

      ある真理を悟った聖人が、言葉、もしくは文章でそれを残したとして、それ

     を各人が別々に受け取る、ということはあり得ると思うし、むしろそれは悪い

     ことではない、いいことだ、と僕は思います。

      しかし、それが今のように仏教が無数の宗派に別れた原因では決してないは

     ずです。真の原因は、あえて言うならば「時間」「環境」ということだと思い

     ます。

      大乗経典は後世の人間によって創作されたものだ、ということは解釈うんぬ

     んの話ではないですよね?

      考古学的研究から、歴史経過につれて、どのように経典・教義が変わってい

     ったのか、そのころの社会状況も踏まえて、ある程度客観的な意味でも証明で

     きるわけです。むしろ文献にこだわるのは大変有意義なことだと思います。

      別の言い方をすれば(すでに出た意見ですが)、やはりそのときどきの人間が

     都合のよいように捏造したり、勝手な解釈をしたりしたのでしょうね。(私利

     私欲のためでなく、救おうという都合も含みます)

 

      体験談については、友人などに直接聞いたものなどあるので、実際どんなも

     のなのか、知りたければ教えることができると思います。僕が創価学会でどの

     ような経緯を経て、今このような考え方になっているのか興味がおありでした

     ら、「学会2世なのですが、脱会しようか揺れています」というスレッドを見

     てもらえると嬉しいです。

 

      それにしてもすさまじい荒らしがあったのですね。やる方も大変な労力がか

     かると思うけど・・・。

      2chはひどいところだな、と常々思っていましたが、ここを見たら大抵の

     下品な悪口なんてどうでもいいですね。これからは無視した方がいいかな(不

     覚にもいちいちレスつけてたので・・・)。

 

567 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 14:44

      文底さん、昼行燈さん、丁寧に質問に答えてくださりありがとうございま

     す。

      じっくり読んでからレスしたいと思います。

 

568 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 22:05

     >昼行燈さん

     >質問に対し、詳しい説明ありがとうございます。実は僕は歴史などは昔から

     大の苦手で、仏教も創価学会というつながりでしか知らないので、用語など難

     しくて・・・。ちょっと解説してもらってもよいでしょうか?

 

     >1・

     >特に天台法華宗では、戒壇を梵網経に基づく「大乗戒」に依って建立してい

     ます。

 

      戒壇とは僧に戒律をさずけるための場所のことですね? 大乗戒とは、その

     システムの方法を記したものということでしょうか。なぜ戒壇というものが仏

     教にとって重要なのか、よく分かりませんでした。正式な僧と認められるため

     の免許のようなものですか? 仏が成仏の記別を授けることと関係があるので

     しょうか?

 

     >2・

     >日蓮宗系は、日蓮滅後に幾つかの教派に別れますが、

     >大別して「本・述」の一致か勝劣に別れます。

 

      「本・述」の意味が分かりませんでした。これは、釈尊と日蓮聖人を同一視

     するか、どちらかを勝っているとするか、という意味ですか?

 

     >池上(日朗系統)に属する本門派の日隆師が「日蓮本仏説」を唱えたのが

     >歴史的に最初ではなかったかと思います。

     >本門派及び、その分派した本門八品派が大石寺日有師以前に唱えています。

 

      本門派というのは、身延山の方の派ということですか。とすると、興門派

     (これは日興聖人からの派という意味ですね)以外にも、大聖人を本仏とする

     派があって、しかもそちらの方が先にそれを主張していたのですね。

      時代的には、日隆師および日有師は何代目の方なのでしょうか?

 

569 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/03() 22:07

     >大石寺系の文書は、「百六箇抄」とか「生死一大事血脈抄」などを

     >文証とされていますが、偽書に擬せられています。

 

      この二つの文書は日蓮正宗・創価学会では大変重要なものなので、偽書の可

     能性というのは驚きです。その辺の事情などもし解説できたらおねがいしま

     す。

 

     >3・

     >天台沙門と名乗ったのは、おそらく日蓮自身が「非受戒僧(私度僧)」であ

     った

     >為、幕府に独立した一宗派と認められなかったからではないでしょうか。

     >鎌倉末期には完全に律令制度は崩壊しますが、それまでは私度僧は、国禁

     >でしたから、鎌倉をはじめとする関東の教団は教団を維持するには天台宗の

     >名を借用するしか無かったものと思われます。(将軍お膝元ですから)

     >その点、駿河方面では緩やかだったのではないでしょうか。

 

      2・の質問にも関連するのですが、五老僧と日興上人が決裂した理由がよく

     分からないのです。日興上人が日蓮本仏説を唱えたのではないし、天台沙門と

     名乗ったことにもここまでの理由があるとすれば。

      日蓮大聖人が、日興上人を後継者としたというのも本当でしょうか?

 

570 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/03() 23:26

 

     お久しぶりです。また少し見ない間にレスがすごく増えているので驚いていま

     す。

 

     ひゃっきまるさん

     初めまして。別スレッドでお書きになっていることを興味深く読ませていただ

     いていました。

     今後ともよろしくお願いします。

 

     >「本・述」の意味が分かりませんでした。これは、釈尊と日蓮聖人を同一視

     するか、どちらかを勝っているとするか、という意味ですか?

 

     基本的に私は昼行燈さんの語られることに付け加えられるだけの知識などはな

     いのですが、まだ昼行燈さんは登場されていないようなので、一応私がお答え

     します。

 

     「本・迹」とは「本門」「迹門」のことで、法華経前半(序品〜安楽行品の1

     4品)を「迹門」、後半(従地涌出品〜普賢菩薩勧発品の14品)を「本門」

     といい、天台大師智が法華経を解釈するにあたって設けた区分です。

     「本門」とは、釈迦が久遠の昔に悟りを得ており、ずっと衆生を教化し続けて

     いた存在(久遠本仏)であったことが明らかになる部分ということで、ここで

     は釈迦はまさに超越者あるいは神的な存在として規定されることになります。

     その中心は「寿量品」です。一方「迹門」は、釈迦が衆生を救済するため、ブ

     ッダガヤで初めて悟りを開いた限りある命を持つ存在、つまり「人間」の姿で

     現れている部分であるということで、本地から迹(あと)を垂れた、といこと

     でそう呼ばれます。その中心は「方便品」です。

     日蓮は特に本門を重視したのですが、弟子たちが日蓮の立場を解釈していくに

     あたって議論がなされ、本門と迹門の一体性を重視する立場と、本門を勝れ迹

     門を劣ったものとする立場に分かれました。前者が一致派、後者が勝劣派で、

     興門流は勿論後者の筆頭格ということになります。

 

571 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/03() 23:38

     昼行燈さん

 

     >「ゆきぞさん」の掲示板には、過去ログが残っているのですね。

 

      ゆきぞさんの掲示板は、自動でログを取れるようなものではないようなの

     で、

      おそらく、ゆきぞさんが手動で纏めておられるのではないかと思います。

      有り難いことです。

 

      ところで、「煙突」の件でお聞きしたいことがあるのですが・・・

 

     >「八つの正しい道」に従って観察をすれば、煙突という普遍的真理は存在する

     事が理解

     >出来ます。この煙突が存在するという事を、「縁起」と名付けている訳です。

 

     >その「存在する三本の煙突(因)」は「見る人、見る角度(縁)」に依って、

     「違う見

     >え方をする(果)」という教え(法)だと思います。

 

      「縁」によって「果」が変わってくるわけですが、それぞれの「縁」によっ

    

      生じた「果」としては、それぞれ”正しい”(普遍的真理として正しいわけ

     ではない)

      ということでよろしいのでしょうか?

      それとも、それぞれの「縁」によって生じた「果」は、「因」を正確に捉え

     てない

      ことによる”間違い”である捉えるべきなのでしょうか?

      つまり、多様な「縁」によって生じた「果」というのがあるから、いろいろ

     な見方を

      受け入れた上で、「真理」を見つけなさい なのか?

      それとも、「真理」は一つであり、他の見方は、間違いであるから受け入れ

     るのではなく、

      排除していかなければいけないなのか?

 

      ヘンな質問ですが、よろしくお願い致します。

 

572 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/04() 00:05

 

     ひゃっきまるさんは、法華経の思想の核心として

 

     >超越的絶対的救済者への信仰(以下略)

 

     というのをあげておられましたが、法華経にこのような性格を与えているもの

     がまさに「本門」、それも「涌出品」と「寿量品」ということになると思いま

     す。

 

     ここからは私見になりますが、「本門」には、何らかの思想的メッセージを発

     するとか、生き方や物事のあり方について説くとかいう内容がほとんど全く欠

     落しており、あくまで超越者の存在の啓示が主眼となっております。そこに

     は、「なぜ?」とか「どうしてそうなる?」という問いを許容するような余地

     はほとんどなく、ここで語られていることを信ずるか信じないかの二者択一の

     みが要求されているように感じられます。

     おそらく、「迹門」での一切皆成思想に実体論的な裏付けを与えるためには、

     超越者の存在が不可欠であると判断されたからこそ、「涌出品」「寿量品」は

     つくられたのでしょう。しかし日蓮自身も言うように、「本門」の内容は「迹

     門」と比してすらあまりに辻褄が合わないと思わせる要素に満ち満ちており、

     これを知的に理解することは難しい、というより不可能です。日蓮自身もそこ

     のところを合理的に説明できているとはとても思えません。

     しかし、そうした知的理解を挫折させるということが、逆説的に「信仰」を可

     能にする・・・「知的に理解できないものには、知的な理解を超えた真実が示

     されている」・・・ということはキリスト教思想のなかにもたびたび見られた

     ものですが、日蓮もこの点に関してはそれらと同じ立場に立っているものと思

     われます。「本門」を特に重視する、という立場は、こうした「信仰至上主

     義」的姿勢と直結しているのではないか、というのが私の感想です。

 

573 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/04() 00:30

 

     若葉マークさん

     私は昼行燈さんの「煙突の比喩」に基本的に共感するのですが、若葉マークさ

     んのおっしゃるような疑問は当然出てくるものと思います。そこでちょっと横

     からでしゃばらせていただこうかと思うのですが、昼行燈さん申し訳ありませ

     (^^; またフォロー&つっこみお願いします。

 

     >それぞれの「縁」によって生じた「果」としては、それぞれ”正しい”(普

     遍的真理として正しいわけではない)

     >ということでよろしいのでしょうか?

     >それとも、それぞれの「縁」によって生じた「果」は、「因」を正確に捉え

     てない

     >ことによる”間違い”である捉えるべきなのでしょうか?

 

     基本的には、後者の立場よりは前者の立場のほうが「仏教的(というのも乱暴で

     すが、とりあえずそう言わせていただきます)」なのではないかと思います。

     後者の立場だと、人間による「間違い」を超えた真実そのものである「因」

     が、実体として存在することが想定されます。しかし人間の認識は常に相対的

     でありますから、結果的に「因」=実体とは、人間によって正しく認識される

     ことはほぼ不可能であるにも関わらず、ただ「実体」として存在することのみ

     が知られているといった、奇妙な存在になるでしょう。あるいは言い方を変え

     れば、後者の立場は「縁」などからは独立した実体としての「因」が実在す

     る、という結論を導きやすいといえるかも知れません。こうした考え方は、釈

     迦や龍樹の批判するところでした(と私は思いこんでいます(^^;)

     因・縁・果は、それぞれの項が他から独立して実在する(自性)ことはなく、相

     互に関係し合う形でしか存在しえないというのが、(特に)龍樹の考え方です。

     龍樹の思想と釈迦の思想を同じ立場に立つもの、と仮定すれば、後者の立場は

     「仏教」の認識論・存在論とは調和しないと思われます。

 

574 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/04() 00:43

 

     一方前者の立場では、明らかに錯覚や妄想・幻覚・誤解と思われるようなもの

     もそれなりに「正しさ」がある、という結論に行きつきそうですが、私は「仏

     教」の根本には、まさにそうした思想が存在するものと思っています。そして

     それらを超えた「究極の正しさ」というもの(=普遍的真理)は存在せず、ただ

     説得力の大小があるだけだ、というのが釈迦の思想の前提にあったのではない

     でしょうか。考えてみれば、私たちにとっては錯覚としか言いようのないこと

     もある文化においては「客観的真理」だったりするわけですし、その逆も十分

     ありうるでしょう。

     ですから釈迦は「正しさ」を主張して他と争うことを否定的に評価しました

     し、どんな意見にも偏るな、とも説きました。また釈迦仏教のもつ寛容性も、

     そうした思想を前提にして初めて成り立つものと私は思います。釈迦自身の人

     間的力量も勿論ですが、どんな「真理」も錯覚でありえ、どんな「錯覚」も真

     理たりえるという「思想」があるからこそ、「仏教」は寛容の思想たりえたの

     ではないのでしょうか。

     (こうした考え方は「相対主義」「ニヒリズム」と紙一重のものと思われます

     が、これが「虚無」ではなく「救い」の条件となるところに仏教の最大の「秘

     密」があるというのが私の考えです。)

 

     横レス失礼しました。

 

575 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/04() 01:33

     幾つかの質問のお答えを、第7の外道さんに代わって頂いた形に成りました。

     フォローをありがとうございます。

 

     ひゃっきまるさん

     >戒壇とは僧に戒律をさずけるための場所のことですね?(略)

     >仏が成仏の記別を授けることと関係があるのでしょうか?

     初めに「戒律」について申し上げなければなりませんが、「戒」とは為しては

     行けないこと。

     「律」とは為さねば成らないことです。仏の教えを守るにあたっての行動規範

     ですね。

     絶対に守らなければ成らない事柄は、五戒と呼ばれるものですが、他の多くは

     (煩瑣なもの)

     緩やかで気候や風土、生活環境に依って異なります。

     「仏の教えを守るぞ!」 「仏の教えに従って、教団を維持するために共同生

     活を乱さないぞ」

     と云う決意を表明し、宣誓する儀式が「受戒」だと思います。

     釈迦在世当時には当然、戒壇などは在りませんでした。戒壇の発生が何時なの

     かは不明で

     すが、形式化した仏教教団では重要なものとなったようです。

     大乗戒は、本来、在家の為の戒律なのですが、最澄は日本は「大乗相応の国」

     と意識し、

     叡山に大乗戒を授けるための戒壇院の設立を申請します。

     実際は、叡山で僧侶と成っても、奈良で受戒した僧が、戻らなかった例が余り

     に多く、宗旨

     替えしてしまったからだとも云われています。

 

      

 

576 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/04() 02:02

     ひゃっきまるさん

 

     2の本・迹については、第七の外道さんが丁重なお答えをして下さいましたの

     で、略させて

     頂きます。

 

     >本門派というのは、身延山の方の派ということですか。とすると、(略)

     >時代的には、日隆師および日有師は何代目の方なのでしょうか?

     日隆師は、池上派(日朗門流)の御僧侶で、身延山(日向門流)の御僧侶では

     ありません。

     池上門流は、本迹勝劣を唱える方が輩出し、本迹一致を唱える日向門流とは何

     度か

     法論を交わしていたと思います。(例としては池身問答でしょうか)

     日隆師は池上門流でも異端だと思われますが、1384〜1463年の方で

     す。

     日有師は、少し遅れて1409〜82年の方ですね。1432年(永享4年)

     尼ヶ崎での対面

     で、教学的影響を受けたと云われています。

 

       

 

577 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/04() 02:22

     ひゃっきまるさん

 

     >五老僧と日興上人が決裂した理由がよく分からないのです。(略)

     >日蓮大聖人が、日興上人を後継者としたというのも本当でしょうか?

     日興師は厳格な方であったのであろうと推測しています。

     墓番制の遵守をしない(出来ない)老僧や、鎌倉の情勢について深く理解して

     いなかった

     のではないでしょうか。同じ様に、千葉中山でも富木日常(常忍)師も、五老

     僧の名乗る

     天台沙門等について、苦言を呈していたと思いますが、鎌倉に近いとは云って

     も、鎌倉

     そのものではありませんので、幕府の影響は及ばなかったのではないでしょう

     か。

     後継者云々の件ですが、日興師の書き残したもの(真筆が現存している筈)に

     は六老僧

     は対等な立場で、後進の指導にあたるように書かれていたと思います。

 

578 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/04() 02:31

     ひゃっきまるさん

 

     >五老僧と日興上人が決裂した理由がよく分からないのです。(略)

     >日蓮大聖人が、日興上人を後継者としたというのも本当でしょうか?

 

     http://www.geocities.co.jp/HeartLand/8731/

 

     この掲示板で、詳細は分かると思います。

 

       

 

579 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/04() 02:37

     追記です。

 

     >大石寺系の文書は、「百六箇抄」とか「生死一大事血脈抄」などを

     >文証とされていますが、偽書に擬せられています。

 

     これらも、詳細は「伊吹山さん」の掲示板でご確認下されば幸いです。

 

      

 

580 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/04() 03:00

     若葉マークさん

 

     おおよそ私の言い分を第七の外道さんが代弁して下さいましたので、付け加え

    

     言葉もありません。第七の外道さん。ありがとうございました。(感謝)

 

       

 

581 名前: くらくら 投稿日: 2000/05/04() 07:37

     昼行燈さん

 

     こちらこそ宜しく願います。

 

     >であって、日蓮正宗や創価学会云うところの「末法に無益な経典」では無い

     ですね。

     >これが、私には理解しがたい箇所なのですが、如何でしょうか?

 

     どうなんでしょうね。私も理解しがたいのですが・・・。屁理屈は

     いかようにもつけられるという見本ではないでしょうか(笑)?

 

      

 

582 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/04() 22:14

     第7の外道さん

 

     レスを頂き、ありがとうございました。

 

     >釈迦自身の人間的力量も勿論ですが、どんな「真理」も錯覚でありえ、

     >どんな「錯覚」も真理たりえるという「思想」があるからこそ、

     >「仏教」は寛容の思想たりえたのではないのでしょうか。

 

      やはり、そのような結論で良いのですね・・・どうも「真理」という

      ものを「絶対」のように捉えていたものですから、矛盾を感じてしまいまし

     た。

      それと、そこまで「寛容」になってしまって、良いのだろうか? という気

     持ちも

      ありました。(^^ゞ  創価学会とはエライ違いですね・・・しかし、”同

     士”に

      対しては、釈迦に劣らないような寛容性があったりするので、驚いてしまい

     ます。

 

      HN通り、今までは思想や宗教などには、無縁で過ごしておりましたので、

     分からない

      事だらけです。 これからもよろしくお願い致します。

      ありがとうございました。

 

583 名前: 文底 投稿日: 2000/05/08() 06:00

 

     第7の外道さん・その他の皆さんへ

 

     >文底さんは、日蓮や学会の思想・活動に対してはどのような

     >ご意見をお持ちなのでしょうか。

 

     少し時間が取れたのでレス致します。

 

     まず、このゴールデンウィーク中に幾つかの宗教団体の教義について、

     私になりに、勉強してみました。(諸外国も含めて)

     総じて、カルト色の濃い宗教の方が、「普遍的真理」や「宇宙の法則」などと

     言う、

     語彙を多用する傾向があるように感じました。

     第7の外道さんを初め皆さん、私が「普遍的真理」などと言う表現を使ってし

     まったので、

     一様に、私の立場に対し懐疑的スタンスを持たれたのだと言う意味も良く分か

     りました。

     この辺り、もう一度語彙の適切な表現について、再考察しなければと思ってお

     ります。

     何れにせよ、このスレッドは、日蓮仏法に対してのスレッドが中心ですので、

     この辺りについて、私見を述べさて頂きたいと思っております。

 

584 名前: 文底 投稿日: 2000/05/08() 06:01

 

     日蓮仏法に対しての私見(やや文体が硬くなりますが御容赦ください)

 

     先ず概略から

     日蓮仏法の根幹は、国土、衆生の救済であり、その方法として具体的に、

     自分の顕した曼荼羅(御本尊)により、その対象となる個人はもとより、

     その周りの一切の自然現象に対し、科学的現象を起こさせ、

     その現証から、信者の信仰心を深めさせる教えを中心とする。

     一個人の人間のみの体験的現象は、功徳と言う形で表記され、それは「色心不

     二」という、

     理論に基づき体系だてている。

     また、一個人の体験的現象のみでは無く、その体験的現象は、国土規模(地球

     規模)で

     「依正不二」という理論に基づき表現され、一個人の祈りが「諸天善神」など

     を通し、

     「自然現象」や「他の人々の生命活動」にまで、及ぶ力があると説いている。

     彼の自分自身における立場は、釈尊の経典に予言されている(と言われてい

     る)

     末法を救済する、仏の立場である事を、数々の法難から確信する。

     (如来の予言とされる三類の強敵)等、(尚、釈尊の経典における真贋は、比

     喩的表現の

     日蓮仏法の行動思想(現証仏法)には、あまり影響しない)

     この確信の上から、世の中の乱れは、「正法」に国民が背き「邪法」の思想・

     信仰にあると結論付け、「立正安国論」なるものを時の執権に訴えるが、

     正法を誹謗しているとの批判を受けた、他の宗派の僧侶などの妨害により、

     佐渡、伊豆などの流罪の刑を受ける事となる。

 

585 名前: 文底 投稿日: 2000/05/08() 06:01

 

     そして、竜の口で死罪の刑を受けるところを、「ひかりもの」の出現により免

     れ、

     (これが何であるかは不明、但し超自然現象により処刑中止になったことは事

     実)

     自分が法華経の行者である事を認識し、弘安二年「本門の本尊」顕し出世の本

     懐とする。

     日蓮死後、一致派と勝劣派とに分かれ、さらに一致派は、山梨県の身延山久遠

     寺を

     総本山とする単称の日蓮宗のほか、日蓮宗不受不施派、日蓮宗不受不施講門派

     に分かれ、

     勝劣派は、本門法華宗、法華宗、本妙法華宗、顕本法華宗、本門宗、日蓮正宗

     に分かれた。

     この日蓮正宗の教えを根本とする団体が、「創価学会」である。

 

     多少、文献学的に見て、歴史上違う点がある事を御容赦願いたい。

     夫々の宗派によっても見解が異なるので、ある程度のアウトラインだけであ

     る。

 

586 名前: 文底 投稿日: 2000/05/08() 06:02

 

     さて、日蓮仏法の教義の中で、ハッキリしているのが、

     「自分の教えのみを信じなさい。この教え以外は間違っており、不幸になる」

     「この曼荼羅を信じ南無妙法蓮華経と唱えなさい、それ以外に幸福の方法は無

     い」

     「この功徳は、自分自身だけでなく周りをも変革させる力を持っている」

     つまり、図らずも創価学会の問題点である「独善的」「排他的」要素をこの教

     えは、

     全て兼ね備えている事になる。

     特に日蓮仏法における「他宗の排斥行動」を創価学会では、「折伏」と言う形

     で、

     実現され、それによる、数々の社会問題も「御書」における、「難来るを以て

     安楽と

     意得可きなり」との言葉から、これは法難の一種であるとの認識を持ってい

     る。

     勝劣派の最右翼の日蓮正宗の教義を依所としている以上彼らの行動をどう攻め

     ても、

     日蓮仏法の信者としての認識を改めない以上、彼らには何を言ってもナンセン

     スである。

     「独善的」「排他的」な行動を捨て去る事は、彼らの教義の根幹を捨て去る事

     になるからである。

 

587 名前: 文底 投稿日: 2000/05/08() 06:03

 

     しかしながら、創価学会と日蓮仏法の活動において、創価学会がその宗祖の本

     意を

     意図的に解釈している点もまた、否めない。

     まず、選挙活動であり、次に、新聞啓蒙である。

     また、創価学会の組織自体の絶対性である。(現在日蓮正宗も邪教と位置付け

     る)

     何れも、日蓮直筆の御真筆には、出てこない(出て来ようが無い)事実であ

     る。

     しかしながら、彼らがその拠り所となる、「御書」の教義的解釈論を駆使し

     て、

     自己の正当性を主張し、他の批判に対し真摯に受け止める姿勢がないのは事実

     である。

     彼らの発祥の母体となった「日蓮正宗」もその辺りの行為に対し、危惧し警鐘

    

     鳴らし、文献的解釈論により、創価学会を指導しようとしたのであるが、

     結局のところ、創価学会も同じ教義の中の文献的解釈論で応酬し、

     最終的には、私の自説の通り「文献的解釈論」の陥る最悪のシナリオである、

     相手に対する「人格攻撃」その物に成り下がった次第である。

 

588 名前: 文底 投稿日: 2000/05/08() 06:04

 

     私は、どちらの団体の行いが正しいかを論ずる立場に無い。

     然しながら事の推移は、正に日蓮仏法の持つ普遍的「独善性」「排他性」の成

     せる技である。

     これらを根幹に持つ団体は、他の団体に対し基本的に相容れる要素を持たな

     い。

     ここに日蓮仏法に対する根本的問題を感じさせる。

 

     然しながら、日蓮ほど明確に自分の行いにおいての宗教性を打ち出した人物も

     稀有である。

     また、七百年を超える歴史の推移において、日本において宗教界に絶大なる影

     響を持っているのも

     否定する事はでき得ない。

     そして、戦後創価学会の飛躍的発展は、単なる新興宗教団体のブームではな

     く、

     現在も多くの信者の方々が、確信的信念を持ち、行動されているに付け、「何

     か」

     彼らを動かす、「体験的現象」の影響力の大きさを痛感せずにはいられない。

     日蓮仏法、創価学会を理解するのは、文献的教義解釈や、その行動性からは絶

     対無理である。

     彼らは、体験主義者であり、行動を持ってその教義の裏付けを確信している

     人々である。

     理論で日蓮仏法を捉えようとする人々は、彼の持つ「独善的」「排他的」思想

     に対し、

     嫌悪感をもよおし、その信仰団体を非難するであろう。

     しかしながら、そのスタンスにおいて、両者の理解は望めないし、また、

     相互不信感は、拭い去る事は出来ないである。

 

589 名前: 文底 投稿日: 2000/05/08() 06:05

 

     私が、あえて「普遍的真理」と述べる意図的恣意的な表現を理解して頂きた

     い。

     これは、宗教だけに限らず、全ての価値観の異なる相手を本然的に理解する手

     法として、

     誤解を承知で、定義したまでである。

     文献的解釈のみによって、相手が納得し歴史上和解が見られた事象を多く掲示

     していただければ、

     私もまた、新たな認識を持つ事は吝かではない。

 

     以上長文駄文になりましたが、これが私の私見であり。

     第7の外道さん並びに、ひゃきまるさん、昼行灯さん、若葉マークさんに対す

     るレスの意味もこめて

     述べさせて頂きました。

 

590 名前: ところで 投稿日: 2000/05/08() 18:21

       

 

     あんたたち創価学会を、どう思ってるの?

     それを、書かなきゃダメでしょ

     お約束なんだから

 

       

 

591 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/08() 19:25

     >第7の外道さん

     >釈迦自身の人間的力量も勿論ですが、どんな「真理」も錯覚でありえ、

     >どんな「錯覚」も真理たりえるという「思想」があるからこそ、

     >「仏教」は寛容の思想たりえたのではないのでしょうか。

      非常にうなずかされました。確かに言われてみると、そうだなあ、と思いま

     す。

 

     >文底さん

      大変よく分析されていると感心しました。

      大体のところ納得できたのですが、ひっかかった点をレスさせてもらいま

     す。

      先ほど自分のカキコを見直して、宗教に対して軽視する傾向があるな、と感

     じました。今は精神的にそうなりがちな時期なのだと思います。

 

     >さて、日蓮仏法の教義の中で、ハッキリしているのが、

     > (略)

     >「独善的」「排他的」な行動を捨て去る事は、

     >彼らの教義の根幹を捨て去る事 になるからである。

 

      僕は、「独善性」「排他性」という特徴は、日蓮仏法の特徴というわけでな

     く、多くの宗教(特に世界宗教とよばれるもの)に備わっているものだと思い

     ます。というのは、僕は最近キリスト教の人達と知り合いになったのですが、

     彼らも同じような特徴が見られたからです。

      ちなみに、体験的現象についても、創価学会と全くと言っていいほど同じ主

     張を持ち、その体験を通して、自分たちの信仰を深く確信していました。

      そういうタイプの宗教では、自分たちが“唯一正しい信仰している”、とい

     う確信がなければそれは信仰とは呼べないし、そうなれば自然と「独善的」で

     「排他的」になるでしょう。

 

      創価学会が、他の宗教に比べて特別「攻撃的」に見えるのは、文底さんが分

     析されている通り、「折伏」という教義によってだと思います。日蓮大聖人自

     身が闘争的性格と闘争的行動をとったということを習っているのでしょう。

 

592 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/08() 19:27

     >文底さん2

 

     > しかしながら、創価学会と日蓮仏法の活動において、

     >創価学会がその宗祖の本意を意図的に解釈している点もまた、否めない。

     >まず、選挙活動であり、次に、新聞啓蒙である。

 

      選挙活動は、仏法の下に政治を行えば、国は平和になる、という考えからで

     す。僕はここに矛盾や意図的解釈は感じません。矛盾があるとすれば、政治改

     革の方法論という部分でしょう。

      新聞啓蒙は折伏の一環と捉えられています。これもやはり、問題があるとす

     れば、ノルマ的になってしまっているという方法論の部分でしょう。

 

     > 彼らの発祥の母体となった「日蓮正宗」もその辺りの行為に対し、

     >危惧し警鐘を鳴らし、文献的解釈論により、

     >創価学会を指導しようとしたのであるが、結局のところ、

     >創価学会も同じ教義の中の文献的解釈論で応酬し、

     >最終的には、私の自説の通り「文献的解釈論」の陥る最悪のシナリオであ

     る、

     >相手に対する「人格攻撃」その物に成り下がった次第である。

 

      僕は日蓮正宗が、創価学会に問題を感じて指導しようとしたのではないと思

     います。実際、正宗の僧侶が堕落しているのは事実だと思います。というの

     は、僕の両親を始め、僧侶にひどいめにあった、という話がたくさんあるから

     です(創価学会が正宗と別れる前の話です)。正宗の僧侶は学会員と違って信

     仰に対する熱心さもなく、信徒にはずいぶん無礼な態度をしていたようです。

      おそらく、分離したのは、金銭がらみの問題と、名誉欲が原因でしょう。

 

      人格攻撃があるのは確かですが、文献的解釈は道具としてしか使われてない

     ようです。文献解釈で教義上いろいろ言っている部分は「血脈」の解釈ぐらい

     でしょうか。他にもありますが、要は学会側の主張は、僧侶の信徒に対する態

     度を改めろ、ということなのです。

 

      「独善性」「排他性」も二団体の争いの原因かも知れませんが、少なくとも

     創価学会に関して言えば、その原因は上層部の言うことを鵜呑みにすることが

     原因だと僕は思っています。

 

593 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/08() 19:31

     >理論で日蓮仏法を捉えようとする人々は、

     >彼の持つ「独善的」「排他的」思想に対し、嫌悪感をもよおし、

     >その信仰団体を非難するであろう。

     > しかしながら、そのスタンスにおいて、両者の理解は望めないし、

     >また、相互不信感は、拭い去る事は出来ないである。

 

      確かにそうなのですが、一方、信仰者も普通の人間の理解力で(むしろずっ

     と深く煮詰めて)文献を読み、それをよりどころに信仰しているわけです。

      理性がないのではなく、理性が一つの目的にしか使われていない、と言った

     方がいいでしょう。

      「どう解釈するのか」ではなく、客観的な考古学的研究から、「事実はどう

     なのか」を論議することによって、同じ文献から同じ認識を得られるのではな

     いかと思います。

      ただ、信仰者は普通そんなことをやろうとも思わないし、それは価値の低い

     行動だ、と思うことでしょう。それはそれでいいことではないか、と僕は思い

     ます。

 

      信仰は「生き方」の問題ですから、信じたいものを信じて生きることに対し

     て、誰も非難は出来ないでしょう。しかし、「文献」を客観的証拠として、

     「創価学会は絶対的に正しい」と向こうが主張し、社会的に許されない行動を

     とったときは、それに対して、ビシッと文献をもって応酬すればよいわけで

     す。

      彼らは、客観的に正しい、ということと、自分の信念(意志)として正し

     い、ということを混同しているところがありますから。

 

594 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/08() 19:33

     >文底さん4

 

     >私が、あえて「普遍的真理」と述べる意図的恣意的な表現を理解して頂きた

     い。

     >これは、宗教だけに限らず、全ての価値観の異なる相手を本然的に

     >理解する手法として、誤解を承知で、定義したまでである。

 

      “宗教以外”の分野では、まさに文献的解釈(いいかえれば科学的分析)に

     よって共通認識が得られていくのではないでしょうか? つまりは、客観的証

     拠、最も考えうる可能性、実験による証明・反証、理屈が通っているか、そう

     いうものによって。

 

     >文献的解釈のみによって、相手が納得し歴史上和解が見られた事象を

     >多く掲示していただければ、

     >私もまた、新たな認識を持つ事は吝かではない。

 

      確かに文献的解釈によって二つの宗教団体が同じ見解をもつように、教義を

     互いに「修正」することは考えにくいと思います(しかし不可能ではないと思

     う)。それは宗教全般が持っている本来的性質(独善性、排他性)のためで

     す。

 

      しかし、「普遍的真理」という概念によっても無理なのではないか。もしそ

     れをやろうとすれば、新しい宗派ができるだけでしょう。そして、そうやって

     生まれた宗教はたくさんあるはずです。

      新宗教の多くは、従来までの宗教の全てを含む、他の宗教を越えたものとし

     て作られます。そしてそれは「独善性」「排他性」を持つのです。

 

595 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 16:45

 

     ひゃっきまるさん

 

     御丁寧なレス有り難うございました。

 

     >僕は、「独善性」「排他性」という特徴は、日蓮仏法の特徴というわけでな

     く、

     >多くの宗教(特に世界宗教とよばれるもの)に備わっているものだと思いま

     す(中略)

     >自分たちが“唯一正しい信仰している”、という確信がなければそれは信仰

     とは呼べないし、

     >そうなれば自然と「独善的」で「排他的」になるでしょう。

 

     「独善性」「排他性」が宗教の根幹に備わっている事は認めます。

     しかしながら、キリストや釈尊など、世界宗教の開祖と言われる人達は、

     生前の自分の振る舞いの中で、「自分が神(仏)であり、私のみを信じなさ

     い」

     との明確な教えはありません。

     キリストでも釈迦でもその振る舞いの原点は、人間救済であり、悩める民衆に

     対し、

     その不幸の原点を多くの言葉を通し哲学的、倫理的に救済していったのが、

     歴史上の流れであったはずです。

     その振る舞いにおける指導等を後の弟子達が「宗教」としての意図的位置付け

     として、

     それこそ文献的教義解釈で「神格化」していったのが現在の宗教の流れでしょ

     う。

 

     しかし日蓮は違います。

     「日蓮等の類い聖霊を訪う時法華経を読誦し南無妙法蓮華経と唱え奉る時・

     題目の光無間に至りて即身成仏せしむ」と述べている通り。

     明確に、自分の宗教者としての位置付け、そして救済の方法論を具体的に述べ

     ています。

 

596 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 16:59

 

     >僕は日蓮正宗が、創価学会に問題を感じて指導しようとしたのではないと思

     います。

     >(中略)正宗の僧侶は学会員と違って信仰に対する熱心さもなく、

     >信徒にはずいぶん無礼な態度をしていたようです。

     >おそらく、分離したのは、金銭がらみの問題と、名誉欲が原因でしょう。

 

     もし、分離した原因が「金銭がらみの問題と名誉欲」ならば、どちらもあまり

     にも低俗な

     宗教団体ですね。

     私は、創価学会の破門問題を法華講・創価学会両方の機関紙等から客観的に見

     た者ですが、

     ひゃっきまるさんが仰った事は、創価学会の言い分にしか過ぎません。

     宗門側にすれば正宗の僧侶に対し無礼な行為を行ったのは、創価学会員あり、

     事の発端は、平成二年十二月に起きた、ベートーヴェンの歓喜の曲の中のシラ

     ーの詩に関する

     教義的解釈ですが、実はその前、昭和五二年から五十五年における、「本尊模

     刻事件」

     「学会経本製作事件」など、以前から創価学会の教義的解釈法が宗門側にとっ

     ては、

     問題となることが多々あったのです。

     私などから見れば、それこそ文献的解釈の正当性をお互いが譲らない結果であ

     り、

     双方、文献的解釈のみでお互いを屈服させようとした愚から生じた結果だと認

     識しています。

 

597 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 17:08

 

     >信仰者も普通の人間の理解力で(むしろずっと深く煮詰めて)文献を読み、

     >それをよりどころに信仰しているわけです。 (中略)

     >信仰者は普通そんなことをやろうとも思わないし、それは価値の低い行動

     だ、

     >と思うことでしょう。それはそれでいいことではないか、と僕は思います。

 

     普通の信仰者の拠り所の文献は、自己の教義のみを述べた文献であり、

     その位置付けは、自分が信仰しているポジィショニングの確認だと思います。

     文献的解釈が信仰の根幹ではなく、その教えを実行した結果の「功徳」が信仰

     者の

     その信仰を続ける意義であり、拠り所なのではないのでしょうか?

     逆にその「功徳」を体験していない人間は、その教えに対し「懐疑的」スタン

     スを持ち、

     やがて、離れていくでしょう。

     文献的解釈に疑問をもてば、宗教書ほど疑わしい書物はないわけですから。

 

598 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/09() 17:09

 

     文底さん

 

     またいくつか質問させてください。

 

     >さて、日蓮仏法の教義の中で、ハッキリしているのが、

     >「自分の教えのみを信じなさい。この教え以外は間違っており、不幸になる」

 

     >「この曼荼羅を信じ南無妙法蓮華経と唱えなさい、それ以外に幸福の方法は無

     い」

 

      この教義は現実と照らし合わせると、明らかに間違っていると言えると

      思います。 世の中には、「日蓮仏法」を実践していないにも関わらず、

      「幸福な人」が沢山存在しているという「現証」がありますから。

      この間違った「教義」を実践して、「確信」を持ったり、「体験的現象」を

      経験するということは、一体、どのようなことなのでしょうか?

      もしも、教義の「正」「誤」に関係なく、確信的行動をとれば「体験的現

     象」

      (功徳)がある というのであれば、「日蓮仏法」である必要性もないと

      思いますが・・・。

 

     >彼らは、体験主義者であり、行動を持ってその教義の裏付けを確信している

     >人々である。

 

      「体験的現象」というのは、とても主観的なものだと考えます。

      その「体験的現象」によって得られた「確信」もまた同じではないでしょう

     か?

      「体験談」と呼ばれるものの中に客観的検証に耐えうるものがどのくらいあ

    

       のか? ということが問題であると考えます。

      本当の「体験的現象」による「確信」なのか、それとも、単なる「思い込

     み」

      による「確信」なのか? これは、創価学会だけでなく、体験主義を第一と

     する

      宗教に共通の問題だと思います。(↑クレームがつくので入れました(笑

     ))

 

599 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 17:11

 

     >信仰は「生き方」の問題ですから、信じたいものを信じて生きることに対し

     て、

     >誰も非難は出来ないでしょう。しかし、「文献」を客観的証拠として、

     >「創価学会は絶対的に正しい」と向こうが主張し、社会的に許されない行動

     をとったときは、

     >それに対して、ビシッと文献をもって応酬すればよいわけです。 (後略)

 

     創価学会に限らず、体験的現証を持ってその信仰を持っている人間は、

     基本的に文献的対応では納得しません。

     では、社会的に許されない行動を相手が取ったときはどうするか、それは、

     その社会が属する法律によって裁いてもらうのです。

     「悪法も又法なり」との言葉は有名ですが、現在の私達では、その様なスタン

     スのみでしか

     宗教的価値観を決める事が出来ません。

     そして、法律によって裁けない事象については、世論に対しその反社会性を、

     粛々と訴えかけ、やがてその声が司法を動かすのを待つしかないのです。

     それが私達が生きている民主主義の本来あるべき姿ではないでしょうか?

 

600 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 17:18

 

     >“宗教以外”の分野では、まさに文献的解釈(いいかえれば科学的分析)

     >によって共通認識が得られていくのではないでしょうか?

     >つまりは、客観的証拠、最も考えうる可能性、実験による証明・反証、理屈

     が通っているか、

     >そういうものによって。

 

     科学的分析は、我々の現在のスタンスから見て「客観的証拠、最も考えうる可

     能性、

     実験による証明・反証、理屈が通っているか」との「共通認識が得られてい

     る」と言う

     錯覚を起こしているだけであり、その共通認識の危うさは、過去の歴史におけ

     る全ての

     分野の変遷を見れば明らかだと思います。

     つまり、科学的定義により客観的文献を現在の歴史上100回行い100回同

     じ結果が出ても、

     これは、現在の時点での共通認識と言うだけで、101回目の違う結果の可能

     性を全く

     否定する物ではないのです。

     宗教というジャンルが、現在非常に「胡散臭い」ものになっているからと言っ

     て、

     他のジャンル「科学」「芸術」「医学」どれをとっても、その意図する人間

     の思惑により、その正当性は、捏造、歪曲され、その真実がどこにあるか、価

     値的定義が

     混沌としている以上、その定義づけはどんな立場の人間でも慎重な気持ちで、

     見極めないと、過去の歴史における「魔女裁判」的立場に一般人も陥りやすい

    

     危惧するのです。

 

601 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/09() 17:23

 

     昼行燈さん

 

     以前、昼行燈さんが書き込んだ下記の意味がわからないのですが・・・。

 

     >>法華経は末法に有為な経典

     >であって、日蓮正宗や創価学会云うところの「末法に無益な経典」では無いで

     すね。

 

      日蓮正宗や創価学会は、そんなことを言っているのですか?>昼さん

 

602 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 17:27

 

     >しかし、「普遍的真理」という概念によっても無理なのではないか。

     >もしそれをやろうとすれば、新しい宗派ができるだけでしょう。(後略)

 

     私の「普遍的真理」の定義付けがいつも曖昧になっているため、皆さんにご迷

     惑を

     おかけしております。

     「普遍的真理」の定義付けについては、我見でありこれが絶対正しいとは思い

     ませんが、

     生命が全て持っている「宿業」とでも述べておきましょう。

     これについて述べだすと、「日蓮って」の論旨から外れる恐れがありますの

     で、

     深くは述べませんが、この「宿業」を宗教の上からのみ論じる所に、

     現代の社会的行き詰まりがあると考えています。

     私がしばしば例として、掲げるのが「歴史の変遷」ですが、歴史を見れば見る

     ほど、

     人間は、科学を代表とする進歩によって物質的な変化をしていても、心の内面

     は、

     太古の昔から、何ら変化していない事に気付くはずです。

     医学、科学などテクノロジーの発達によって人間は進化したかのような錯覚を

     持っていますが、

     生老病死に関わる基本的命題は、なんら変わっていません。

     苦しみ、悩み、愛、憎しみ、全ての想念があらゆる分野の進歩を促しました

     が、

     それらの進歩は、結局のところ新たな、苦しみ、悩み、愛、憎しみ、を生み出

     す結果にも

     なっています。

     これら、人間が乗り越えられない一つの定義を「普遍的真理」と名づけている

    

     御理解ください。

     決して新たな宗教観ではなく、もっと広義な全ての分野に共通する価値観で

     す。

 

603 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 17:31

 

     ひゃっきまるさん 若葉マークさん

 

     ひゃっきまるさんへのレスの途中、若葉マークさんのカキコと交錯してしまい

     読み難くなってしまった事をお詫びします。

 

604 名前: 文底 投稿日: 2000/05/09() 17:57

 

     若葉マークさん

 

     お久しぶりですお元気でしょうか?

 

     >世の中には、「日蓮仏法」を実践していないにも関わらず、

     >「幸福な人」が沢山存在しているという「現証」がありますから。

 

     日蓮仏法の定義づけの幸福感には「仏界」と言う境涯があります。

     若葉マークさんの仰る「幸福な人」は、日蓮仏法で言う「天界」

     にあたります。

     したがって、「幸福」に関する根本的定義付けが違うので、

     日蓮仏法が間違っているとは結論付けられません。

 

     >本当の「体験的現象」による「確信」なのか、それとも、単なる「思い込

     み」

     >による「確信」なのか? これは、創価学会だけでなく、体験主義を第一と

     する

     >宗教に共通の問題だと思います。

 

     日蓮仏法には、「冥益」「顕益」なるものが存在し、体験的現証は「顕益」に

     相当します。

     これは日蓮仏法では目的ではなく、信仰に目覚めさせる「方便」と考えてくだ

     さい。

 

     ちなみに、前文で私は、日蓮仏法についての私見を述べているだけであり、

     その教義の是非については、結論付けておりませんのでその辺りの所どうか、

     御了解ください。

 

605 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/09() 22:38

 

     文底さん、レスを頂きありがとうございます。

     判らないことだらけなものですから、ヘンな質問かもしれませんが、

     よろしくお願いします。

 

     >日蓮仏法の定義づけの幸福感には「仏界」と言う境涯があります。

     >若葉マークさんの仰る「幸福な人」は、日蓮仏法で言う「天界」

     >にあたります。

     >したがって、「幸福」に関する根本的定義付けが違うので、

     >日蓮仏法が間違っているとは結論付けられません。

 

      日蓮仏法は、「十界互具」だと思っていました。

      日蓮の言う「不幸」とは、どの「界」のことなのでしょうか?

      「仏界」=「幸福」と定義付けるとしたら、それ以外の九界を指して

      「不幸になる」と仰せになったのでしょうか?

 

     >日蓮仏法には、「冥益」「顕益」なるものが存在し、体験的現証は「顕益」に

     相当します。

     >これは日蓮仏法では目的ではなく、信仰に目覚めさせる「方便」と考えてくだ

     さい。

 

      「顕益」が「方便」ならば、その先にあるのは、どんなものなのでしょう

     か?

 

      

 

606 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/10() 01:12

     文底さん

     お久しぶりです。お仕事のほうはよろしいのですか?

     今の流れとして、文底さんはひゃっきまるさん・若葉マークさんと議論してい

     る形になっていて、

     私が口を挟むと負担が大変になるかと思いますが、どうしても気になるところ

     があったので、

     とりあえず書かせていただきます。お許しください。

 

     >キリストや釈尊など、世界宗教の開祖と言われる人達

     >(中略)の原点は、人間救済であり、悩める民衆に対し、

     >その不幸の原点を多くの言葉を通し哲学的、倫理的に救済していったのが、

     >歴史上の流れであったはずです。

 

     というのもまた、「文献的解釈」に従って得られた結論ではないのですか?

     もしそうでないとしたら、「文献」以外の何によってこれらの認識を得られた

     のですか?

 

     >私などから見れば、それこそ文献的解釈の正当性をお互いが譲らない結果で

     あり、

     >双方、文献的解釈のみでお互いを屈服させようとした愚から生じた結果だと

     認識しています。

 

     「文献的解釈」が両者の衝突の原因というわけではないでしょう。「文献的解

     釈」が、お互いの立場を正当化するために多いに利用された、ということはい

     えると思いますが。

 

607 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/10() 01:32

 

     文底さん

 

     >科学的分析は、我々の現在のスタンスから見て「客観的証拠、最も考えうる

     可能性、

     >実験による証明・反証、理屈が通っているか」との「共通認識が得られてい

     る」と言う

     >錯覚を起こしているだけであり、その共通認識の危うさは、過去の歴史にお

     ける全ての

     >分野の変遷を見れば明らかだと思います。

 

     全くその通りだと思います。そこで質問なのですが、文底さんは、普遍性や確

     実性において「科学的分析」や「文献的解釈」を超えた認識、というのはあり

     うるとお思いですか?

     ある人は「科学」の認識などを超える認識(?)として「信仰」をあげるでし

     ょうし、「体験」や「直観」

     と言う人もいるでしょう。文底さんは、そもそもそこのところをどうお考えな

     のでしょうか?

     私は以前にも言ったとおり、人間の認識に「絶対」などというものはなく、た

     だ「自分の認識は絶対だ」と思いこむことができるだけだ、という立場であ

     り、「信仰」「体験」「直観」の、「分析」「解釈」に対する優位に対しては

     懐疑的です。人間の認識は、それがどんなものであれ、危うさをはらんでいる

     ものだと思います。この危うさを覆い隠しがちな「体験」「直観」というほう

     が、「危うさ」においては上であると思います。

 

608 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/10() 01:45

 

     文底さん

 

     >人間は、科学を代表とする進歩によって物質的な変化をしていても、心の内

     面は、

     >太古の昔から、何ら変化していない事に気付くはずです。(中略)

     >これら、人間が乗り越えられない一つの定義を「普遍的真理」と名づけてい

     ると

     >御理解ください。

 

     という点ですが、それならこれは「釈迦」や「キリスト」といった「偉大な宗

     教者」だけが知り得ることではないと思います。また、文底さんのこのような

     規定は、以前文底さんが言われた

 

     >私は、「苦しみを抜き喜びを与える」と言う宗教者の普遍的心理を信じます。

 

     >それは、特定の宗派ではなく、地球上の人間のみに留まらず、宇宙や未来永

     劫まで、

     >どのような場所でも、どのような時でも、どのような物に対しても存在する

     >「法則」だと、自分では考えています。

     >それを、生命で感得し表現しようとしたのが、歴代の宗教者達ではないのでし

     ょうか?

 

     の「普遍的心(真?)理」や「法則」とは、内容上かなり違うもののように感

     じられます。

 

     率直に言わせていただくと、やはり文底さんのおっしゃる「普遍的真理」の概

     念は、あまりに多くのものを許容しすぎて、議論をしていく上での確たる手が

     かりにはなりえていないように思えてならないのです。

     「普遍的真理」という言葉だけが、くっきりとした内容を伴わないまま、とき

     に「体験的現象」と重なったり、ときに「人間が乗り越えられない一つの定

     義」となってみたり、ときに「文献的解釈」と対立するものになってみたり

     (これはどうも基本線であるようですが)、ときに「宗教者が生命で感得し表

     現しようとしたもの」になってみたりと、大変つかみにくいものに見えてしま

     っているのです。

 

609 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/10() 01:53

     若葉マーク さん

 

     >以前、昼行燈さんが書き込んだ下記の意味がわからないのですが・・・。

     くらくらさん曰く

     >>>法華経は末法に有為な経典

     昼行燈の疑問

     >>であって、日蓮正宗や創価学会云うところの「末法に無益な経典」では無

     いですね。

     更に、若葉マークさんの質問

     >>日蓮正宗や創価学会は、そんなことを言っているのですか?

 

     折伏経典・第五章「釈尊と我々が関係なき理由」より

     『今日末法の時は釈迦仏の時ではないのである、釈迦の法はもう死んだ法で何

     の利益も

     ないのである。この故に釈迦の法である天台宗とか念仏宗とかのお寺で拝んで

     いるのは

     仏法の定理を知らず去年の暦を見て居る徒輩で馬鹿というより他には言い様が

     ない(中略)

     しかも事実釈迦自身が末法と言いきっておる。末法とは「末の法」と言うこと

     ではない。

     釈迦の仏法に功徳のなくなった時と言うことで釈迦滅後二千年以後を指すので

     ある。』

     と説き、唯一「末法の法華経」すなわち「南無妙法蓮華経」こそが末法で唯一

     の正法であ

     ると教えています。これは、日蓮正宗も同じです。

 

610 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/10() 02:03

     文底さん

 

     >日蓮仏法の定義づけの幸福感には「仏界」と言う境涯があります。

     >若葉マークさんの仰る「幸福な人」は、日蓮仏法で言う「天界」

     >にあたります。

     >したがって、「幸福」に関する根本的定義付けが違うので、

     >日蓮仏法が間違っているとは結論付けられません。

     日蓮正宗と創価学会が蜜月で在った頃の出版物に、「折伏教典」と云うものが

     ありました。

     曰く

     『人生の目的は幸福生活を営むことである。』

     『人生の目的は絶対かつ永遠を求めるにある。そしてその幸福は成仏という境

     涯である。』

     『しからば成仏とはいかなる事か。……永遠の幸福を獲得するということであ

     る。我々の

     生命というものはこの世限りのものでは絶対にない。永遠に生きるものであ

     る。(中略)

      成仏の境涯といえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命にあふれ、生ま

     れてきた使

     命の上に、思うがままに活動してその初期の目的を達し、誰にもこわす事ので

     きない福運

     をもってくる。このような生活が何十回、何百回、何千回、何億回と楽しくく

     り返される

     としたら更に幸福な事ではないか。』云々。

     バラモン教や、バラモン化した仏教の「天界」の説明です。

     この考え方を現在も踏襲しているのか、捨て去っているのかは不明ですが、

     「一貫して日

     蓮の教えを厳守している」と言われていますから、多分引き継いでいるのでし

     ょう。

 

     続きます。

 

611 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/10() 02:06

     横レスごめんなさい!

     第7の外道さんの身近に、真摯に活動している学会員の方はいますか?もしい

     るなら、その人の人格をよく見てください。

     その人は宗教を抜きにしても必ず尊敬に値する人だと思います。いないのなら

     こちらからはどうしようもありませんが……。

     「人格が優れているのと宗教が正しいのとは別」だというのは重々承知の上で

     す。しかし、人は疑うより先にまず信用の置ける人間の言うことを信じます。

     それは両親であったり学校の先生であったりしたはずです。信用出来る人の重

     みのある言葉は、第7の外道さんの考えを変えることと思います。

     どれほど言を尽くしても、「宗教は信じない」という前提のある限り、議論は

     平行線を辿るばかり。

     それが不毛に思えてならなかったので、失礼とは思いながら横レスしてしまい

     ました。

     是非、一度は信心を始めてみて下さい。

     これにて失礼!

 

612 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/10() 02:13

     文底さん   続きです

 

     >若葉マークさんの仰る「幸福な人」は、日蓮仏法で言う「天界」

     >にあたります。

     >したがって、「幸福」に関する根本的定義付けが違うので、

     >日蓮仏法が間違っているとは結論付けられません。

     創価学会や、日蓮正宗の「幸福な人」は、日蓮仏法とは根本的定義が違うと言

     うことです。

     少なくとも、「折伏教典」に語られる「仏界」と、「天界」の境界は存在しな

     いように思え

     ます。

 

     「文献的解釈」にすら耐えられない「体験的現象(と言っても誰も証明できな

     い)」の、

     限界が露呈しています。行き着く先は「最高ですか!」と叫んだ『天声』と同

     じ、「信ず

     る者のみ理解できる」世界に他なりません。

 

     続きません。 

 

613 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/10() 11:35

     ZEGAさんこんにちは。

     「あめぞう」のほうにいらした方ですか? 向こうと違ってこちらは落ち着い

     て議論のしにくい所ではありますが、どうぞよろしくお願いします。

 

     >第7の外道さんの身近に、真摯に活動している学会員の方はいますか?もし

     いるなら、その人の人格をよく見てください。

 

     外部から見てどういう人を「真摯に活動している学会員」と見なせばよいのか

     実はよく分からないのですが(例えば選挙活動に熱心な人? よくお題目をあ

     げている人? 折伏してくる人? それとも折伏などはせず、自分の信仰を押

     し付けたりしない人?)、残念ながら学会員の方はどちらかというとネガティ

     ヴな印象を与える人のほうが多かったです。

 

     >「人格が優れているのと宗教が正しいのとは別」だというのは重々承知の上

     です。しかし、人は疑うよ>り先にまず信用の置ける人間の言うことを信じま

     す。(中略)

     >信用出来る人の重みのある言葉は、第7の外道さんの考えを変えることと思い

     ます。

 

     全くその通りでしょうね。しかし私にとってはあくまで「人格が優れているの

     と宗教が正しいのとは別」です。人間的に尊敬できる学会員の方と出会ったと

     しても、その敬意はその人の人格に対するものであって、決して信じている宗

     教についてではありません。私は今までもそういう態度できましたし、これか

     らもそうでしょう。

     もしZEGAさんの言うような仕方で信仰が決まるのであれば、私は学会員よりも

     クリスチャンになっていた可能性のほうが大きくなるでしょう。私が知ってい

     る中でも、敬意の持てる人というのはクリスチャンのほうが圧倒的に多かった

     ような気がします。もちろん、数の問題でもないでしょうが。

 

614 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/10() 11:39

 

     ZEGAさん

 

     >、「宗教は信じない」という前提のある限り、議論は平行線を辿るばかり。

     >それが不毛に思えてならなかったので

 

     このスレッドに関して言えば、私はその議論を「不毛」と思ったことはありま

     せん。結論が一致せず、議論が平行線をたどっているからといって、その議論

     が不毛であることにはなりません。例えば文底さんと私とでは結論が完全に一

     致するということはたぶんないでしょうが、だからといってその議論が「不

     毛」に終わろうとは全く思いません。少なくとも私にとっては、立場の違う人

     に対して自分の考えをちゃんと説明しようと努めることは、それだけで非常に

     プラスのことであります。

     しかし議論に「勝ち負け」という目的がある場合は別でしょう。「信じない」

     と言っていた相手に「信じる」と言わせるのが目的だとかね。もしそうなら、

     結論が一致しないと分かっている相手と議論しても、勝ち負けは決まらないで

     しょうから、その議論は不毛でしょう。察するところ、ZEGAさんは議論をあま

     りに勝ち負けという観点から見過ぎているのではないでしょうか? 人間の考

     え方や結論は一致して当然という「先入観」が強過ぎるのでは?

 

     というわけで、

     >是非、一度は信心を始めてみて下さい。

     といわれても、私にはセールスマンに「騙されたと思って買ってみてよ」とい

     われているようにしか感じられません。あなたは、「一度、イスラム教も信じ

     てみてくださいよ、いい人いっぱいいますよ」と突然言われて、じゃあ信じて

     みようという気持ちになれますか?

 

615 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/10() 11:41

     とは言うものの、「これにて失礼」とおっしゃらず、

     またお暇ならここにいらしてください。

     どうぞよろしく。

 

616 名前: 総体革命予防委員 投稿日: 2000/05/10() 11:52

     ZEGAさん

     第七の外道氏が言ってるように

     人間の考え方や結論は一致して当然という「先入観」のある人間が

     政治を支配するとどうなるか解りますね?歴史をよく知って

     そして考えて見て下さい。

     横からで申し訳ないが、学会の人間の特性が如実に出てきている

     のが気になりました。

 

617 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:25

 

     第7の外道さん

 

     お久しぶりです。色々御心遣い有り難うございます。

 

     >というのもまた、「文献的解釈」に従って得られた結論ではないのですか?

     >もしそうでないとしたら、「文献」以外の何によってこれらの認識を得られ

     たのですか?

 

     もう一度申し上げますが、私は文献的解釈論に対しその全てを否定する立場に

     ありません。

     私は、ある定義を論じる時は、文献等をその解釈の拠り所にします。

     私が繰り返し申し述べているのは、その文献的解釈をある立場により、一方的

    

     是とするスタンスに対し、その他にも方法があり得るのではないか?と、

     疑問を投げかけているのです。(第7の外道さんの事ではありません)

     文献的解釈におけるあらゆるジャンルの解明は、そのスタンスとして間違って

     おりません。

     しかし、私は、それ「のみ」の討議において、人間はその「業」とも言うべき

     「何か」で、

     意図的に、自分の都合の良い方向に結論付ける「傾向性」があると述べている

     のです。

     したがいまして、私は「文献」を拠り所として、それ以外に何か方途が無いか

     「模索」し「問題定義」しているのが現状です。

 

618 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:27

 

     第7の外道さんは私に対し、しばしば「貴方が執られている方法も文字を表記

     して、

     相手にその真意を伝えようとされているが、その事が正に文献的解釈論ではな

     いか?」

     と仰っていますが、私が文章を用いて、相手に事の真意を伝える事は、あくま

     で、

     一つの方法論でしかないと思っているのです。

 

     例えて申せば、「人間の意思を伝える方法は文字以外にも何かあるのではない

     か?」

     と、問題提起をしたとしましょう。

     私は、人間の歴史において、口頭での言葉のやりとりから、手紙などの表記方

     法など、

     の歴史の変遷において、手紙以外にも何か意思を伝える方途があるのではない

     か?」

     との、推論を導き出して、相手に手紙でその意思を伝えたとします。

     しかし、時代背景が「電話」「無線」などその伝達手段が発明されていない場

     合、

     私は、文字以外に、その疑問を持っている相手に説明をする事が出来ません。

     その手紙を受け取った相手は、「君の言っている事は結局文字を使って相手

     に、

     意思を伝えているではないか?」「その行動自体が矛盾していないか?」

     との結論を私に迫っているようなものです。

 

619 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:29

 

     携帯電話やPHSなど、その実態が日常茶飯事になっている現在では、

     その存在を説明するのは、携帯電話やPHSその物を相手に差し出すだけで十

     分です。

     しかし「普遍的真理」なる定義づけなど、現代の科学でまだ解明されていない

     以上、

     実際に「空を飛んだ」ライト兄弟以前の科学者(飛行士?)にしか過ぎませ

     ん。

     沢山のチャレンジャーの中には、その行動自体が「地位」「名声」など、

     物欲に満ちた人も多かったでしょう、それ故「人間など所詮空は飛べない」と

     の、

     認識が、当時の世論には満ち溢れていたわけです。

     正に空を飛ぼうとした人々は、その時代は「変人」でしかなかったでしょう。

     私は、科学で証明できない全ての事象が「正しい」とは全く思っていません。

     しかし、現代科学では論理的説明の出来ない事をすべて間違っていると、

     結論付けるのも危険であると申しているのです。

     ですから「文献的解釈論」そのものの問題提起よりも、それを使って「意図

     的」に

     「何か」を述べようとした「先人」の根本的定義をあくまで仮に「普遍的真

     理」と

     定義付け、それを過去の歴史から「文献的解釈論」だけでは結論付けるのは

     「危険では・・」と、推論しているのです。

     第7の外道さんと、掲示板上でのみしか言葉を使ってやり取りが出来ない以

     上、

     私が述べるその動機付けをどうか御理解ください。

 

620 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:32

 

     >率直に言わせていただくと、やはり文底さんのおっしゃる「普遍的真理」の

     概念は、

     >あまりに多くのものを許容しすぎて、議論をしていく上での確たる手がかり

     には

     >なりえていないように思えてならないのです。

     >「普遍的真理」という言葉だけが、くっきりとした内容を伴わないまま、

     >ときに「体験的現象」と重なったり、ときに「人間が乗り越えられない一つ

     の定義」となってみたり>ときに「文献的解釈」と対立するものになってみた

     り(これはどうも基本線であるようですが)、

     >ときに「宗教者が生命で感得し表現しようとしたもの」になってみたりと、

     >大変つかみにくいものに見えてしまっているのです。

 

     私が一つの定義づけとして「普遍的真理」という概念を使った事には、意図が

     あります。

     しかし「日蓮って」のスレッドの趣旨から大きく逸脱する危惧があり、あまり

     具体的に

     「普遍的真理」の論理付けには、触れませんでした。

     これが皆さんにご迷惑をおかけしている原因であり、その辺りの所、このまま

     論議を進めて行って良いのかを、苦慮する所でもあります。

     ある部分の疑問にお答えする方便として「体験的現象」をつかったり「文献的

     解釈」と

     対立させてみたり「宗教者が生命で感得し表現しようとしたもの」との表現を

     使ったりして、より一層、第7の外道さんの論点を混乱させてしまったのかも

     知れません。

     しかし、これら述べてきた事は、私の私見そのものであり、私自身何ら矛盾を

     持ちえません。

     あえて述べるなら、その表現方法そのものに、私のボキャブラリーの無能さを

     露呈し、

     皆さんに誤解を与えてしまったのでしょう。

 

621 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:34

 

     この辺りで、私も婉曲に「普遍的真理」等と言わず、

     自分の言葉でその考えを述べてみたいと思います。

     私が考える「普遍的真理」とは、まさに「生命」という事です。

     私は、過去の歴史を紐解く中で「何故人間は同じ間違いを犯すのだろう?」

     という疑問を強く持ちました。

     その疑問を推考するうちに、

     「何故この宇宙は存在しているのだろう?」

     「有機物と無機物はどのような位置付けにおいて必要なのだろう?」

     「宇宙そのものの実態はなんだろう?」

     「物質の最大・最小単位は、どこまであるのだろう?」

     「時間と空間は何故存在するのか?それは本当に普遍的なものなのだろうか

     ?」

     との物理学的考察に至り、

     「何故人間は思考するのだろう?」

     「何故人間は苦しみ悩まなければならないのだろう?」

     「人間の意識は何処から生まれてくるのだろう?」

     「人間は何故その苦しみから逃れようとするのだろう?」

     「生物は何故その個体を残そうとするのだろう?」

     との医学生物学的考察から、

     「人間とはなんであるか?」

     との哲学的考察に至りました。

 

622 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:37

 

     夫々の文献を読み考察する上で私は、物理学者、医学者、哲学者、

     それ以外にも、政治家、経済学者、芸術家、など、

     ありとあらゆる分野での、功績を上げた人々の共通の言葉を見出したのです。

     それは、「自分が信じ努力した上で物事を成就させるには、人間には、

     図り知る事の出来ない何か見えない力が働いている」との共通認識です。

     科学者を初め夫々の分野の人々は、それを「神・仏」とは定義付けてはいませ

     ん。

     しかし、人知を超えた「何か」を実感していることは、

     彼らの言葉から類推する事は出来ました。

     私は、その「何か」とは、何であろうかと考えました。

     「人間の行動だけでなく宇宙全ての現象を説明できるものはないか?」

     この根本的命題について色々考えました。

     この命題について、医学的に一つのヒントとなる出来事がありました。

     遺伝子の解明です。

     クローンを作る上での細胞学的理論から細胞は、ある条件を与えてやれば、

     それが、心臓になったり、肺になったりするという事実です。

     ある特定の細胞が、ある臓器になるのではなく、一つの細胞の中に全て人間を

     作る

     設計図があり、それがある条件で人間そのものになったり、臓器になったりす

     るのです。

 

623 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:39

 

     これを(少々飛躍しますが)宇宙の実態その物に置き換える事ができます。

     宇宙そのものには、本源的に有機物、無機物とのなる全ての条件を予め包含し

     ており(因・種)

     それが、ある条件(縁)になると、その予約されていた事象が起きる(果)

     という事です。

     神とか、仏とか、それらの例えも、全てその事を比喩していたと理解すると、

     宗教は、その因となるものを感覚的に捉え、そして、その方途を種々の文献学

     的教義で

     表現しようとしたと理解出来ます。

     釈尊は数量的例えを非常に多くの数で表現していますが、

     「ある」そのものの実態は、まさしく釈尊の表現どおりであり、

     大きさは、存在するが測ることのできないもの。

     重さは、存在するが量ることのできないもの。

     時間は存在するが、計ることのできなもの。

     つまり時空間は、ある種の現在を知る物差しでしかなく

     「本当の姿は、時間も空間も存在するが、見る事の出来ないものであると・

     ・」

     では、本当の姿とは何か?

     私は「生命」だと思います。

 

624 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:43

 

     生きている事は、人間が認識する医学的状態ですが、その人間となる有機物

     は、

     動的動きの無い無機物から作られます。

     その無機物は、宇宙の塵で構成され、その物理学的最小単位は、現在まだ分か

     っていません。

     しかし、無機物から、有機物、有機物から生物が生まれた事は科学的事実で

     す。

     宇宙塵の中に生命の素があるという考えもありますが、私はそうは思いませ

     ん。

     宇宙自体が本来全て「因」を持っており、それがある「縁」によって石になっ

     たり、

     木になったり、人間になったりすると考えます。

     全ての因を「生命」と置き換え、全ての現実を「縁」による「果」とするな

     ら、

     宇宙のいかなる場所でも、ある「縁」が生じれば、等しく「果」になるのでは

     ないでしょうか?

     人間が人を殺してはいけないと分かっていても、殺人を犯してしまうのは、

     本来、人間には、人を殺す「因」があると説明すれば、その「縁」に触れない

     限り、

     人は殺さないでしょう(果)。

     因果応報という言葉がありますが、大切なのは、その果に至るまでの「縁」で

     あり、

     その「縁」こそが人を殺しもし、また命を捨ててでも助けようとする「果」を

     生むのです。

     この「生命」の定義づけですが、これは、「宇宙を含む全てのもの」と考えて

     ください。

     ビッグバン理論のみで宇宙の定義を片付けてしまうのは、生命論からすれば当

     てはまりません。

     つまり宇宙も一つの「生命」と捉え無始無終の営みの一つと考える事の方が、

     合理的です、また宇宙と呼ばれる物も無数に存在しているのではないでしょう

     か?

     その存在自体が、生まれ、老い、消えていく、正に「生老病死」そのものを実

     相として、

     現していると思います。

 

625 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:46

 

     つまり「普遍的真理」=「生命」です。

 

     私は、ある宗教的教えからこの結論を導き出したわけではありません。しか

     し、

     釈尊を始めとする仏教には、この考え方に相似的な事があると、後に分かりま

     した。

     日蓮仏法における、一個人の人間のみの体験的現象は、功徳と言う形で表記さ

     れ、

     それは「色心不二」という、理論に基づき体系だてています。

     また、一個人の体験的現象のみでは無く、その体験的現象は、国土規模(地球

     規模)で

     「依正不二」という理論に基づき表現され、一個人の祈りが「諸天善神」など

     を通し、

     「自然現象」や「他の人々の生命活動」にまで、及ぶ力があるとも説いていま

     す。

     これらも、生命本来にその因が本源的に存在するという定義なら、納得できる

     のです。

     ただ、日蓮は、自身の教えのみを「唯一」と定義づけましたし、その「果」を

     出す

     方途を「ご本尊に祈る事」で「縁」すると定義づけましたが、私の理論におい

     ては、

     この点、理解不能です。

     ただ、「宗教」なるものが、あらゆる場所、時代においても発生した歴史を見

     るに付け、

     それらは、生命が持っている「因」の一つとして考えられます。

 

     ですから、私の考えは、宗教の教えに対し、相似的、同義的な点があるので

     す。

     しかしながら、その考えが特定の宗教をさすものではないのです。

     また、現代科学や特定の方の考えを否定するつもりもありません。

     これは、私が、私なり考え、導き出した一つの私見なのですから・・

 

626 名前: 文底 投稿日: 2000/05/10() 15:50

 

     私は、私の発言の愚かさゆえ、皆様に余計な疑念を抱かせる結果になってしま

     いました。

     今まで、私が論じたやり取りの全ての原因は、私の無知なる発言によります。

     しかし、何時の間にか、私の本意とは別に、私は宗教者を「代弁」する立場に

     なってしまいました。

     無論これは、私の発言が起因するところですが、私の本意ではありません。

     私は、私の考えている「普遍的真理」なるものが本質的に存在するのか、

     宗教と言う一つの価値的定義を通し、比喩的に問いかけただけです。

     私を含めて皆さん、第7の外道さんの論理的思考を好意をもって見ておりま

     す。

     しかし、私の論理は事の推移を見ても明らかなように、誰一人として賛同頂け

     ません。

     むしろ、懐疑的な方を多数生んでしまいました。

     私は、私の論旨及び、論議の方法を反省せねばなりません。

     どうか、この辺りのところを御理解頂き、私に疑問を投げかける

     全ての皆さんに対するお答えとさせて頂きます。

     この文章に対する御意見は、皆さんの思うところご自由に論議されて下さい。

     ただ、私は「普遍的真理」に対する論議を、この文章を持って一つの区切とさ

     せていただきます。

     皆さんの論議の推移に対して、また論ずる機会がありましたら、是非参加させ

     ていただきます。

     結果として、私の発言が第7の外道さんのスレッドを汚す事となり申し訳あり

     ません。

     以上、長文、駄文、誠に失礼致しました。

 

627 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/10() 18:47

     >文底さん

      なんだか、自分で議論をはじめておいて、受け入れられないからと言って自

     分で幕を降ろしてしまうというのも無責任ではないでしょうか?

      意見を書いてもレスがされないのでは、このことについて議論のしようもな

     いと思います。

      一応以下からレスを書きます。

 

628 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/10() 18:57

     >文底さん

 

     >文献的解釈が信仰の根幹ではなく、その教えを実行した結果の

     >「功徳」が信仰者のその信仰を続ける意義であり、

     >拠り所なのではないのでしょうか?

 

      確かにそうなのですが、僕が言いたかったのは、学会員は文献だけを信仰の

     理由としているわけではないけれども、外部の人間に対しては(折伏するとき

     など)、客観的証拠として文献を挙げる、ということをいいたかったのです。

      そして、客観的証拠があると思うからこそ、独善的になるわけです。

      ですから、話し合いで、「学会の挙げる文献による証拠は、成立しないこ

     と」を分からせることができればいいのでは?と言ったのです。

      そうすれば、自分達の信仰は、客観的真実に基づいての信仰ではなく、意志

     や信念による信仰だと気づかせることができると思うのです。

      だからといって折伏をしてはいけない、というわけでなく、「こういう生き

     方をしてみないか」、というアプローチで折伏できるわけです。

      ただ、自分たちの信仰は客観的真実を伴わない、と理解した人間は、信仰で

     きなくなるのでは?という気もしますが、人間というのは以外とそういう状況

     にも対応できると思っています。

 

629 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/10() 19:06

     >では、社会的に許されない行動を相手が取ったときはどうするか、

     >それは、その社会が属する法律によって裁いてもらうのです。

 

      それはそうだと思うけども、僕の言いたかったのは、創価学会の挙げる、

     「この信仰が唯一正しいという客観的証拠」は成立しない、ということを、も

     っと社会(個人でもいいけど)の側で主張した方がいいのではないか、という

     ことです。

      学会はたぶん法律に触れないような形で強引な折伏を続けるだろうし、それ

     に対して司法が変わるのを待つというのもあまり現実的でないと思います。

      互いに理解できないものどうしが話し合って共通理解を得るのも、民主主義

     の本来あるべき姿だと思います。

 

630 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/10() 19:11

     >科学的分析は、我々の現在のスタンスから見て

     >「客観的証拠、最も考えうる可能性、

     >実験による証明・反証、理屈が通っているか」との

     >「共通認識が得られている」と言う錯覚を起こしているだけであり、

     >その共通認識の危うさは、過去の歴史における全ての分野の変遷を見れば

     >明らかだと思います。(後略)

 

      もちろん、どのようなスタンスの意見、分析であっても、それが絶対という

     わけではありません。しかし、分かってもらいたいのは、それを認めるのも科

     学的考え方なのです。科学は科学自体にも懐疑の目を向けることをよしとしま

     す。

      科学は、世の中にはあまりに嘘や誤り・思いこみが多いということをよく熟

     知した方法論で、徹底的に疑うことを第一義とします。だから結論が得られて

     も、それを絶対とはしません。むしろ、そうでなければ科学の発展はないはず

     です。

      科学は、「真実を追求する」という目的のみのために洗練された方法論で

     す。一方、宗教は「人を幸せにする」という目的を持っており、両者の価値観

     は相容れないのですが、「何が事実なのか」を明らかにするためには、科学は

     非常に有効な手段といえます。

      学問の分野(自然科学、社会科学、考古学...)、裁判、警察の捜査など、

     「事実がどうであるか」が最も重要な分野で科学が用いられるのはこのような

     わけです。

      全ての価値観が混沌として闇のような現代にあって、これほど信頼されてい

     る基準があるのは、驚くべき事ではないでしょうか。その信頼故に、使い方を

     誤れば、文底さんがおっしゃるように悲劇的な事件が起こってしまうのです

     が。

 

      しかし、人の価値観の相違・優劣に対して科学が判断を下せるわけではあり

     ません。科学はまさに客観的事実だけを追求するのであり、主観的事象に対し

     ては沈黙するのですから。

 

631 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/10() 19:15

     >これら、人間が乗り越えられない一つの定義を「普遍的真理」と

     >名づけていると御理解ください。

     > 決して新たな宗教観ではなく、もっと広義な全ての分野に共通する

     >価値観です。

 

      「普遍的真理」に関する主張は、釈尊の主張とほとんど同じではないか、と

     いう気がします(しかもそれ以後の時代の考えも混じってる)。ということ

     は、文底さんの「普遍的真理」は、従来の宗教を包括し(越えて)いるもので

     はないし、やはりそんなことは不可能な気がするのですが。

      そしてそもそも宗教というのは、世界に対する解釈(世界観)を説く以上、

     “全ての分野”に及ぶのは当然のことではありませんか?

 

      「普遍的真理」について具体的に聞けば聞くほど、それはすでにある概念

     だ、と思ってしまいます。創価学会戸田二代会長は、仏=生命である、という

     解釈を述べましたが、それと全く同じ主張ではないですか?

      そして、宇宙に共通に存在する「普遍的真理」はあるのか? と問われれ

     ば、僕はあるのが当然だ、と思います。世界は確かに存在するし、その世界は

     個々人によって見せる姿が違うと言うこともなく(認識の違いではなく、例え

     ば物理法則とか)、共通のルールに従っていると考えれば、そのルールを普遍

     的真理とよんでいいのではないでしょうか。

      人間は五官や、限られた認識力しか持たない脳を通してしか世界を認識する

     ことができないので、普遍的真理は誰にも分からない、としても誤りはないで

     しょうが、一方、古代ギリシャの哲学者達(の一部)は、普遍的真理をイデア

     と呼び、それは論理(ロゴス)によって到達できると考えました。どうです

     か? 文底さんの考える普遍的真理と似ているでしょうか?

 

632 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/11() 02:15

     >第7の外道さん、総体革命予防委員さん

     レスありがとうございます。

     面白そうなので、ぜひ参加させてください。

 

     >「あめぞう」のほうにいらした方ですか?

     はい、あめぞうから2chの存在を知り、こっちへやってきました。

 

     真剣な議論をしているので、僕も誠意を持ってレスしようと思ったのですが、

     過去ログがあまりにも膨大過ぎて、とても読破しきれません。読んでいる間

     に、

     話がどんどん先に進んでしまいそうで。加えて、「ドキュン」「age」などのわ

     からない言葉も

     あってもう何が何やら混乱して。

     7の外道さん、このスレッドを立てた理由と、現在の論点は何なのでしょう?

 

     よろしければ教えてください。

 

633 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/11() 07:56

     文底さんへ

 

     私のような浅学で、幼稚な文章しか書けない人間が、こんなことを言うのもな

     んですが・・・。

 

      文底さんの言いたいことは、概ね理解していたつもりです。

      (いろいろといちゃもんをつけてしまいましたが・・・(^^ゞ)

 

      「普遍的真理」→「何か」→「体験的現象」→「生命」

 

      と移り変わっていったことも、論議を複雑にしてしまったと思います。

      最初から、「普遍的真理」=「生命」とお考えになっていたのであれば

      まず最初に、そのように提示して頂いた方が分かり易かったと思います。

      「普遍的真理」=「生命」 かどうかは、正直言ってよく分かりませんが、

      ひゃっきまるさんの言われる通り、文底さんの考え方は、学会の本に書いて

      あることに近いような気がします。

 

      戸田氏の言葉

      『仏とは、生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自

     身の命に

       あるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!』

      『宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです』 (法華経の智慧 第1

      p35

 

      池田氏の言葉

      『(略)この宇宙生命ともいうべき厳たる実在を「仏」ともいい、「妙法」

     ともいう。

       万人は、この尊貴なる存在の当体である。法華経は「諸法実相」を説く。

     「諸法」

       とは、すべての個々の生命現象である。その「実相」すなわち真実の相と

     は、

       宇宙生命そのものである。(略)これが分かれば、絶対に「殺」の心など

     起きるわけ

       がない。何かを破壊することは、自分を破壊することになるからです』

     (同p45-46

                              

       宇宙人が地球侵略に来たら、池田氏に和平交渉をお願いしましょう。

 

       昼行燈さんへ

      「折伏経典」の件、ありがとうございました。

 

634 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/11() 08:22

     (長いので省略。レスを全部読むボタンで読めます)

 

     の部分は、

 

      昼行燈さんへ

      「折伏経典」の件、ありがとうございました。

 

      2行です。

 

635 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/11() 11:08

     文底さん

     いろいろ答えにくい突っ込みをしてしまって申し訳ありませんでした。熱いレ

     スをありがとうございます。

 

     文底さんが「普遍的真理」=「生命」その他の規定を行ってくれたおかげで、

     私にもようやくこの概念のイメージするところが分かりました。以前文底さん

     はご自分の立場を「実念論」的だとおっしゃっていたことがあったと思います

     が、私も文底さんのレスを読んでいて、新プラトン主義やトマス・アクィナス

     のことを連想してしまいました。

     私の想定が正しいとするなら、文底さんが「文献的解釈」にも有効性を認めつ

     つ、常にそれを超える何かを示唆しがちであったことも納得がいきます。

 

636 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/11() 11:09

 

     文底さん

     結論から言うと、文底さんの哲学は、やはり一般的な意味で「宗教的色彩」の

     濃いものだと言えるのではないでしょうか? 例えば文底さんは、遺伝子のイ

     メージをてがかりに

 

     >宇宙そのものには、本源的に有機物、無機物とのなる全ての条件を予め包含

     しており(因・種)

     >それが、ある条件(縁)になると、その予約されていた事象が起きる(果)

     (中略)

     >宇宙自体が本来全て「因」を持っており、それがある「縁」によって石にな

     ったり、

     >木になったり、人間になったりすると考えます。

 

     とおっしゃっていますが、ここで言う「因」は万物に内在しつつ万物の存在の

     根拠になっているという点で、プロティノスが言う「一なるもの」に性格がよ

     く似ています。しかしそうした「因」の存在は、通常の科学的認識や論理的推

     理からすれば、想定は可能だが検証も反証もできない概念だと思われます。つ

     まり、形而上学的なのです。従って「普遍的真理=生命」についても同じこと

     が言えると思います。

     ご承知かと思いますが、プロティノスにしてもトマスにしても、こうした「検

     証も反証もできない概念」の究極的裏づけを、「神秘体験」や「啓示」に求め

     ました。そしてそれらは「宗教」「信仰」と直結します。そうした論理を超え

     たものの認識による裏付けを想定しないと、形而上学は「妄想」や「言葉遊

     び」と区別がつかなくなってしまいます。文底さんがそうだと言うわけではな

     いのですが、思想の構造からしても、文底さんのご主張はそういう傾向を持た

     ざるをえないのではないか(実際あるように感じられる)と私には思えます。

 

637 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/11() 11:10

 

     文底さん

     また、これは私の私見ですが、釈迦はこうした「実念論」を、まさに「言葉遊

     び」「妄想」として把握していたのではないかと思います。従って、

 

     >釈尊を始めとする仏教には、この考え方(=「普遍的真理」=「生命」)に

     相似的な事があると、後に分かりました。

 

     というのは、個人的にはやや承服しかねます。

     ただ以上のようなテーマは創価学会の教義思想の検討と全く無縁なものではな

     い反面、そこから大いに脱線していくこともありえるものです。その点、文底

     さんにかなり気を遣わせてしまったのは申し訳なく思っています。ではこれか

     らどうするか? 文底さん自身は

 

     >ただ、私は「普遍的真理」に対する論議を、この文章を持って一つの区切と

     させていただきます。

 

     とおっしゃいましたが、私は、まぁ、流れにまかせることにしましょう(笑)

 

     >皆さんの論議の推移に対して、また論ずる機会がありましたら、是非参加さ

     せていただきます。

 

     ぜひそうしてください。

 

     >結果として、私の発言が第7の外道さんのスレッドを汚す事となり申し訳あ

     りません。

 

     全くそうは思っておりません。またよろしくお願いします。

 

638 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/11() 11:34

     ZEGAさん

 

     >このスレッドを立てた理由

 

     ですが、1で書いてあるとおり、私は日蓮の思想に触れて、その内容に大いに

     疑問を持ちました。それについて誰かと話し合ってみたいと思ったのですが、

     場所を探しているうちにここを見つけ、学会ならば日蓮仏法の実践を標榜する

     日本最大の団体であるし、何か書けば必ず反応が返ってくるかと思い、このス

     レッドを立ち上げた次第です。

     実際やってみると、学会の方の書きこみは少ない代わりに、いろいろな立場の

     人がいろいろな意見を書いてくださるので、すっかり気に入って(?)ここに

     いついているというわけです。

     なお私自身の日蓮に対する暫定的な見解は、「日蓮私見」という別スレッドで

     まとめて書いたので、そちらのほうがわかっていただきやすいのではないかと

     思います。

     そのスレッドはかなり下のほうに沈んでいます。あるいは

 

     http://nagoya.cool.ne.jp/a_killer/gedou/g7Index.html

 

     にまとまった形で掲載させていただいています。

 

     >現在の論点は何なのでしょう?

 

     これは答えにくいですね(^^; 文底さんとおっしゃる方(学会員ではない)の

     意見を中心に、私・若葉マークさん・ひゃっきまるさん(ひゃっきまるさんは

     学会員? だそうです)がつっこみを入れるという展開になっています。これ

     がようやく最近終息しつつあるといった風情です。もし何でしたら、新規にテ

     ーマを出していただいてもかまいません。

 

     >過去ログがあまりにも膨大過ぎて

 

     テーマが錯綜しており、かつ嵐やニセモノが登場したりして、私もわけがわか

     らなくなっています(^^;

     ただ文底さんの登場をもって大まかに流れが二分されているものとお考えくだ

     さい。

 

639 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/11() 12:26

     若葉マークさん、ひゃっきまるさん

     どうもです。

     文底さんの発言ですが、上のレスでも書きましたけれども、それは学会の思想

     と似ているというよりは、宗教的傾向のある哲学一般が持っている構造と似て

     いる、という印象を私は持ちます(勿論私も浅学ゆえ、そんな確固とした自信

     を持って思想の比較ができるわけではありませんが)。

     検証も反証もできない概念をもって「究極的存在」を表そうとするとき、当然

     それは概念による規定をしつくすことができない(なにせ「究極」なもので)

     ので、その裏づけを果たそうとすれば、「直観」「啓示」「体験」というのを

     持ち出さざるをえなくなります。もちろんそれはそれで一向問題はないのです

     が、そうした思想を以って、他の思想や教えを「誤り」だの「邪宗」だの言い

     出せば話は別です。自分は反証しようもない「根拠」に基づいて相手の「根

     拠」を覆そうとするのですから議論はめちゃくちゃになります。

 

640 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/11() 12:29

 

     (引き続き)

     若葉さんが引用された、

 

     >宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです

 

     とか

 

     >すべての個々の生命現象である。その「実相」すなわち真実の相とは、

     >宇宙生命そのものである。

 

     といった言葉は、何ら根拠を持った主張ではなく、自分の詩的感想あるいは

     「思いこみ」を声高に叫ぶものとしてしか受け取れません。これでは議論も何

     もなく、この「思いこみ」を共有できるもの同士で集まって互いの「思いこ

     み」を支えあうか、共有できないものを攻撃し排除するかしかやりようがない

     でしょう。

 

     しかし文底さんはそうした「めちゃくちゃ」な方向には陥らないだけの思慮を

     十分お持ちですし、ご本人も一旦この件についての発言は中止したいとおっし

     ゃっておられるので、文底さんが新規に問題提起しない限りは、「普遍的真

     理」についての議論はいったん仕切りなおしということにしませんか? 文底

     さんにとっても「学会と同じ」というレスがあまりに連発するのでは不本意で

     しょうし・・・

     もちろん、上の件についての発言は控えてもらいたい、というわけではないの

     で、判断はお任せしますが・・・どうでしょうか?

 

641 名前: 文底 投稿日: 2000/05/11() 14:33

 

     ひゃっきまるさん

 

     大変丁寧なレスいつも有り難うございます。

     また、レスを付けようとしていた矢先に一方的な論議の終了の提示は、大変不

     愉快な思いをさせてしまった事でしょう。

     申し訳ありませんでした。

 

     このスレッドを紹介したのも私ですし、ひゃっきまるさんが一生懸命カキコし

     て下さる態度を見て、このスレッドにひゃっきまるさんが来れられた事、本当

     に嬉しく思います。

 

     ただ、私が論議を終了した内容は、あくまで「文献的解釈論」における是非と

     「普遍的真理」における定義づけのみです。

 

     このスレッドが「日蓮って」との内容で立てられているのに、私の安易な書き

     込みが、色々皆さんの疑問を生じさせ、結果として「日蓮って」との内容とは

     別の趣旨でレスが流れていく事が、私には辛い事でした。

     このスレッドの前半部分の日蓮教義や「日蓮私見」のスレッドなどの内容の感

     想に付いて、創価学会の方々に伺いたい事は沢山ありました。

     また、私の論議自体が「創価の方々の発言を促すのでは」との期待もありまし

     た。

     しかし、ZEGAさんのカキコにあった「不毛な論争」との意見を拝見して、

     創価の方々は、私の述べている内容を「論議無意味の無価値なもの」と判断し

     ているように思えたのです。

     私は、このスレッドの他にも「SF研」でも、創価学会の方に意見を求めてい

     たのですが、完全に吊るし上げ状態でした。

     この事も、私の発言自体を反省させるきっかけとなったのです。

 

642 名前: 文底 投稿日: 2000/05/11() 14:39

 

     もし私の発言自体が「創価の方々」の発言を封じているなら、それは本意では

     ありません。

     私も「普遍的真理」における「生命論」なるものは、戸田二代会長の「仏」=

     「生命」に非常に似ていると思います。

     しかし、それは私の思考における結果が偶々、相似的になっただけであり、哲

     学的思考を持って論理を推考すれば、私と同義の意見になる方も出て来るでし

     ょう。

     私は「祈る」事の”縁”が「願いが叶う」との”果”に結びつける戸田氏の考

     えには、懐疑的です。

     まして、それが日蓮仏法のみにおいて存在するなどと言う事は、私の思想と対

     極的な立場にあります。

     したがって、私の生命論と戸田氏の生命論には、その点において決定的に異な

     ります。

     わたしは「普遍的真理」を最初から「生命論」と置き換えて発言する事によ

     り、他の方々から「創価学会的思考」と思われる事を是としませんでした。

     それ故、あえて「普遍的真理」などと言う誤解を招く言葉を使ったのです。

     私は、私の中の「生命論」の行き詰まりを創価学会の方が論破して下さる事を

     内心期待していました。

     しかし、それも無理だと言う事が発言の推移において大体理解できました。

 

     したがって、この論議に一応の終止符を打とうと結論付けたのです。

     しかし、私は、自身の発言そのものを全て控える訳ではありませんから、その

     辺りのところを、今一度御理解ください。

 

643 名前: 文底 投稿日: 2000/05/11() 14:47

 

     若葉マークさん

 

     いつもレス有り難うございます。

 

     >最初から、「普遍的真理」=「生命」とお考えになっていたのであれば

     >まず最初に、そのように提示して頂いた方が分かり易かったと思います。

 

     私も今となっては全くその通りだと反省しております。

     事の推移は、ひゃっきまるさんのレスにも述べてありますのでお読みくださ

     い。

 

     私は「生命論」を持ち出すことで、より一層「創価的」な傾向に見られるのを

     恐れたのです。

     若葉マークさんと私のやり取りの中で、本来は「創価の方」に、ベクトルを向

     けたい私の本意とは別に、何時の間にか私は「創価の代弁者」としての立場で

     若葉マークさんと話さざる負えない状況に陥ってしまいました。

     その他、ひゃっきまるさんのレスにも書いた点が私がこの論議を一応終息させ

     たいと思ったきっかけです。

 

     >私のような浅学で、幼稚な文章しか書けない人間が、こんなことを言うのも

     なんですが・・・。

 

     いいえ、そのようには全く思っておりません。

     これからもどんどんカキコして下さい。

 

644 名前: 文底 投稿日: 2000/05/11() 14:58

 

     第7の外道さん

 

     私のような讒言を戯れる人間に対し、真摯的レスを続けてくださった事、誠に

     感謝致します。

     私は、此処での書き込みは大変有意義であると認識しております。

     第7の外道さんの論述は、相手の論旨の意義を十分踏まえ、かつ、自分の意見

     を客観的また論理的に相手の立場に合わせてお答えになっておられます。

     正に、尊敬と敬意を念を抱かずにはいられません。

 

     私は、前回述べましたように、どちらかと言うと「科学的」スタンスの処から

     思考を重ね「哲学」と言える処で結論を導き出そうとしました。

     この点、第7の外道さんが私に述べられた哲学観は、正にその通りです。

     ただ、その先の答えを導き出そうとする時、どうしても「神秘体験的」な現象

     を伴った「宗教」にたどり着いてしまうのです。(これはきっと私が宗教をど

     こかで求めているせいでしょう・・・)

     私がたどり着いた「生命論」は、意図せず創価学会の戸田氏との「生命論」と

     相似的でした。

     しかし、戸田氏の「生命論」の論理的飛躍は、どうしても自分自身で理論的説

     明が出来ないのです。

     その論理的飛躍を「創価の方」なら明確にして頂けるだろうと思い、あえて

     「普遍的真理」「懐疑的文献解釈論」などと言う表現で、問題提起させて頂き

     ました。

     しかしながら、この提議に対し真摯に答えて下さったのは「創価」とは逆の

     方々ばかりでした(ひゃっきまるさんは一応創価な方ですが・・)その上ZE

     GAさんの言葉を引用すれば、私が行ってきたのは正しく「創価の方」にとっ

     ては「不毛の議論」になってしまうようです。

     このまま、第7の外道さんのスレッドで私の「生命論」を論ずる事は、論旨の

     推移が一層不明瞭になり、ますます「創価の方」を遠ざけてしまうかも知れま

     せん。

     それ故、一応この論議は終息させ、また新たな問題定義で論議を続けたらと思

     います。

     内容は・・・日蓮仏法を通して「創価の方」が論じたくなるようなものが良い

     とは思いますが・・・

 

645 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/12() 00:42

     新参者の私が言うのも実におこがましいのですが、論点を箇条書きの形になる

     まで整理してから

     新たなスレッドを立て直した方が思考が纏まり易いと思います。

     普遍的真理について、僕としても大変興味がありますし、論点が平行すること

     もあるでしょうから、

     複数のスレッドにしてもよいと思います。

     無闇にスレッドを増やすのが2ch利用者にとって迷惑でなければ、ですが。

 

646 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/12() 03:10

     文底さん

 

     >日蓮仏法における、一個人の人間のみの体験的現象は、功徳と言う形で表記

     され、

     >それは「色心不二」という、理論に基づき体系だてています。

     色(肉体などの物質)心(精神・生命・或いは魂?)が不二ならば、肉体(

     色)の滅びた

     精神・生命・霊魂?(心)は何処に行くのでしょうか?

     日蓮仏法(と呼ばれる)の、胡散臭い箇所は、実は此処なのです。

     不二。即ち二つに非ずですね。死後に生命が宇宙にとけ込むと言われる学会教

     義での

     解釈では、色(肉体)は滅しないのでしょうか?肉体が滅すれば、「色心不

     二」は成立致

     しません。

 

647 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/12() 11:53

     >文底さん

      了解しました。

      失礼な発現、お詫びいたします。

      以後は昼行燈さんのように、創価学会の教義への理解を深める意味でこのス

     レッドを使えば有意義かも知れません。

 

     ZEGAさん

      2chにはばりばりに創価学会で活動している人も何人か来て、ある程度は

     議論していったようですが、いきなり来なくなるということがよくあります。

      それはたぶん、両者の価値観の違いによって、学会員の方が「不毛だ」とし

     て来なくなるのだと思います。

      そこで、どのような議論ならば互いにとって価値的で、不毛でないことだと

     思いますか?

      ここでは創価学会の教義について、意義、疑問をなげかける意味で立てられ

     たと思いますが、それに関することでなにか提示してもらえたらやりやすいと

     思います。

      とにかくやらなければ分からない、という主張ならばどうしようもないので

     すが、創価学会が唯一正しいというからには、それなりに説明ができてしかる

     べきだと思うのですが。

      また、ZEGAさん自身は、創価学会の教義についてどんな立場をとっておられ

     ますか?

 

648 名前: 文底 投稿日: 2000/05/12() 12:33

 

     昼行灯さん

 

     御無沙汰しております、レスも付けず申しわけありません。

     実は、事の推移ここに至って、私は「普遍的真理」「懐疑的文献解釈論」に対

     し、一応の終止符を打とうと思った次第です。

     その気持ちの変化については、過去レスをお読み下さい。

 

     何れにしろ、昼行灯さんにも色々な教義を御教授願えて、本当に感謝しており

     ます。

 

     >色(肉体などの物質)心(精神・生命・或いは魂?)が不二ならば、肉体

     (色)の滅びた

     >精神・生命・霊魂?(心)は何処に行くのでしょうか?

 

     これも「普遍的真理」=「生命」論の一つになってしまうので、お答えするの

     は、辛い所なのですが・・・

     あえて、私見を申せば、滅びた肉体は、焼かれるなり、腐敗するなりして(

     縁)また一つの無機物としての状態に変化するのみです(果)。

     心も又、肉体を持った「人間」がその生命活動における「縁」として生じる

     「果」であり、無機物に戻った肉体は、その「縁」(人間)が無くなる事によ

     って「果」が見えなくなった状態と考えます。

     ですから、精神・生命・霊魂?(心)は、何処かに行く訳ではありません。

 

     又このレスについては、御異議等ありましょうが、とりあえずスレッドの主旨

     を考え、此処までとさせて下さい。

 

649 名前: 文底 投稿日: 2000/05/12() 13:31

 

     ZEGAさん初めまして、文底です。

 

     このスレッドを混沌とさせた張本人です。(申し訳ありません)

     スレッドの内容が私の本意では無い方に流れてしまい、私も心を痛めておりま

     す。

 

     ZEGAさんは、他のスレッドで拝見したところ、「バリバリの創価学会員」

     との事で、私も大変歓迎しております。

     このスレッドの方々は、少なくとも「煽る」事を目的とした方は殆どおりませ

     ん。(一見さんを除き)

     ですから、日蓮仏法を実践されている「創価学会員」の方の心情を伺いたいの

     です。

 

     スレッドの整理等につきましては、このスレッドを立てられた「第7の外道」

     さんのご意見に従いますが・・

 

     私としましては、「長い間をかけて、功徳(宗教の効果のこと)を否定しきれ

     なくなった」理由と、他の宗教と創価学会の「宗教の効果」の違いなど、それ

     こそ私見で構いませんから、教えて頂けたらと思っております。

     どうか、「二乗」の精神に毒されている「愚者」(私の事)を折伏するような

     御気持ちで、参加して頂けたらとお願いいたします。

 

650 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/12() 15:35

     age

 

651 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/12() 17:37

     このスレッドの進むペースの早いこと早いこと。

     スレッドの整理につきましては、このスレッドを立てられた第7の外道さんのご

     意向に従わせて戴きます。

 

     しかつめらしい顔をして論議するのは性分に合わないので、勝手ながら砕けた

     文調に改めさせて戴きます。

     これから先、簡潔に意思を伝えようとする余り、失言や、皆さんを不愉快にさ

     せる発言などしてしまうこともあるかと思いますが、その点はご指摘戴ければ

     改めますので、よろしくお願いします。

     あと、学会活動をしているのは僕だけのようなので、とても全てのレスに手が

     回りません。よろしければ、一問一答形式にして下さると助かります。

 

     さて。

     論議に加わる前に、僕の考え方を知ってもらう為、独演することを許してくだ

     さい。

 

     宗教を信じる人と信じない人との違いは何か、と言えば、信じることで何か起

     こると考えるか、考えないかの違いです。この立場を異にする限り、両者のど

     んな議論も、

     「いいことがある!」

     「いや、あるはずがない!」

     という言い合いに終始します。この前提の違いがある限り、両者は絶対に近づ

     きません。僕はこのことを以って「不毛」と考える次第です。

     しかし、答えは「ある」か「ない」かのどちらか以外にありません。(「道徳

     の裏づけになる」とか、「何かを信じることで人間は強くなれる」「偽薬とし

     て有効」といったものは、宗教の効果が「ない」に含むこととします。)

     僕はかつては「絶対ない」と断言する方でしたが、その根拠としては、それま

     での経験や知識によって培った世界観では、「紙にお願いしたり、信者を勧誘

     することでいいことが起こる」というのは非論理的であるとしか思えなかった

     からです。

     が、今は「間違いなくある」と主張する方に回っています。何故かと言えば、

     偶然では片付け切れないことが実際に起こるからです。

 

     具体的な話や質問へのお答えは、また追ってする事にします。

     とりあえずここまで。

 

652 名前: 通りすがり 投稿日: 2000/05/12() 20:53

     >ZEGAさん

     >宗教を信じる人と信じない人との違いは何か、と言えば、信じることで何か起

     こると考えるか、考えないかの違いです。

 

     そうでしょうか。この断定には非常に疑問を感じます。

     ナポレオンヒルの論は宗教ですか?

     ホセ・シルバの論は宗教ですか?

     アーサー・ケストラーは?

 

     「何かが起こる」ことを宗教の判別式にするのは早計過ぎるのではないでしょ

     うか。

     また、ここのスレッドの全レスを良く読まれた方がいいと思います。

     >「いいことがある!」「いや、あるはずがない!」

     という視点で一連の議論がなされているわけではありません。

     問題は、「日蓮ただひとりのみが正しい」「南無妙法蓮華経しか救われる道は

     ない」などといった独善的・排他的な命題に対して批判が生じているのではあ

     りませんか?

 

653 名前: 通りすがり 投稿日: 2000/05/12() 21:20

     ZEGAさん

 

     Lという行為によってXという奇跡的事象が起こった。

     Mという行為によってXという奇跡的事象が起こった。

     Nという行為によってXという奇跡的事象が起こった。

               ・

               ・

               ・

     という事実からでは「Mを行とする宗教のみが正しい」という結論はでないの

     ですよ。論理的にはね・・・

 

654 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/13() 00:52

 

     文底さん

 

     お疲れ様でした。

     昨晩、文底さんのカキコと戸田氏の発言を見比べておりました。

     まるで、一つの山を違うルートで登り、山頂に辿り着いたという感じでしょう

     か・・・。

     私は、文底さんが新しいルートで、戸田氏と同じような「生命論」に到達した

     ことを評価したい

     と思います。

     しかし、戸田氏の発言には、文底さんや第7の外道さんのいう通り、問題あり

      だと思います。

 

     第7の外道さんが

 

     >しかし、そうした知的理解を挫折させるということが、逆説的に「信仰」を可

     能にする・・・

     >「知的に理解できないものには、知的な理解を超えた真実が示されている」

     ・・・  と書かれましたが、前述した学会の本の中には、これに相当する部

     分がかなりあるような

      気がします。 (戸田氏の発言そのものについては、「意図的」であったと

     は思えないが、

      これを引用している点は、意図的だと思う)

      知的理解できないのは、私のアタマの出来のせいかもしれないが、婦人部の

     オバサンの

      話を聞いていると、まず理解してないと思われる・・・(笑)

      分かったような?分からないような? だから、スゴイと思ってしまうので

     しょう。

 

      文底さんにお相手して頂き、いろいろと勉強になりました。 これに懲り

     ず、また

      よろしくお願い致します。

      

 

655 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/13() 01:48

 

      昼行燈さん、トンデモナイ横レス です。

 

     >不二。即ち二つに非ずですね。死後に生命が宇宙にとけ込むと言われる学会教

     義での

     >解釈では、色(肉体)は滅しないのでしょうか?肉体が滅すれば、「色心不

     二」は成立致

     >しません。

 

     学会においては、宇宙にあるすべての物は、「宇宙生命」という「一つの生命

     体」

      という考え方のようです。「我即宇宙」「宇宙即我」です。

      したがって、その一部である人間の死後の肉体は「灰」になっても、宇宙の

     一部で

     あります。肉体は、滅したと考えるのではなく、形を変えたということでしょ

     うか・・。

      生命(心)は、宇宙に溶け込めば、これまた宇宙の一部であります。

      よって、どちらも「宇宙」という「一つの生命体」の中に存在するので「色

     心不二」と

      いうことになります。 この理論?を使うと、すべての物は「不二」であり

     ます。

      やはり、フニ落ちないですよね・・・(^_^;)  お粗末でした。

 

       

 

656 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/13() 02:48

     ZEGAさん、文底さん

     論点の整理の件ですが、もはやこのスレッドにある論点の数は膨大で、それら

     をうまい具合にまとめるだけの気力と時間は今はちょっと持てません・・・

     (^^;

     確かに大筋は、「通りすがり」さんが言われたように

 

     >>「いいことがある!」「いや、あるはずがない!」

     >という視点で一連の議論がなされているわけではありません。

     >問題は、「日蓮ただひとりのみが正しい」「南無妙法蓮華経しか救われる道

     はない」などといった独善的・排他的な命題に対して批判が生じているのでは

     ありませんか

 

     というところにあると私も思っていますが。

 

     というわけで、適当に問題提起していただければ、私自身の考えについては以

     前にこのスレッドで出したものであっても、再度説明させていただきます。

     先ずはご自由にどうぞ。

 

     とりあえずZEGAさんのお話ですが、651のお話だけでは(私には)何とも

     コメントできかねますので、またお暇ならば、もう少し具体的に主張を立てて

     くだされば幸いです。