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日蓮ってver.1 -3/4-

 

657 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/13() 02:54

 

     若葉さん

 

     >「知的に理解できないものには、知的な理解を超えた真実が示されている」

 

     ですが、お察しの通り、勿論これは批判的なニュアンスで書かせていただきま

     した。

     はっきり言って、こういう思考方法自体は誤謬推理以外の何ものでもないと思

     いますが、これを力づよく、確信をもって主張されると、論理外の様々な効果

     が働いて、それが「正しい」ように感じられてしまうのでしょうか。

     そうした論理外の効果、即ち「感動」「カタルシス」といった感情的効果を与

     える力を「生命」といってしまえば、なるほど「生命こそ全て」というのは筋

     は通りますが・・・

     もしそれが「生命」ならば、「生命」自体は「正しさ」とは何の関係もないも

     のとなります。詐欺師は話の内容以外に様々な効果を演出することによって人

     をだますわけですし、ヒトラーは発言内容の「正しさ」よりはこの「効果」に

     よって人を動かした(しかもそのことを十分計算していた)わけですから。「生

     命」が詐欺行為やファシズムを可能にするということになるわけです。別の人

     には確かに「救い」ももたらすのかも知れませんが。

     キノコを食べてラリっても、それが「神との一体化の陶酔」となるか、単なる

     「中毒」となるかは、経験が置かれる文脈によって異なります。ラリっている

     生理的状態そのものをさして「これが真実だ」などといわれても困りますよ

     ね。大切なのは「文脈」の検討だと思います。

 

658 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/13() 03:08

 

     若葉さん

 

     「我即宇宙」ですか・・・

     そういう主張ならば、学会以外にもいくらでもあると思うんですが・・・汎神

     論というやつですよね、単純に言えば。

     それに「我即宇宙」が既に成り立っているのならば、その上何を求めて唱題し

     たり、何を求めて現状に対して何かを付け加えようとするのでしょうか。

     「我即宇宙」が正しいのならば、学会員であろうがそうでなかろうが、人間で

     あろうがミジンコであろうが「即宇宙」なのであり、その上に何か特定の組織

     に属した上での信仰など全く必要ないと思うんですが、学会の方はその辺はど

     うお考えなんでしょうか?

     ・・・という質問をすると、「おまえはそれを頭でわかっているだけだ。『我

     即宇宙』という真実を体験から会得していないからそんな疑問を抱くのだ」と

     いう返事が返されるのでしょうか(^^;

 

659 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/13() 05:41

     若葉マークさん

 

     >学会においては、宇宙にあるすべての物は、「宇宙生命」という「一つの生

     命体」

     >という考え方のようです。「我即宇宙」「宇宙即我」です。

     古代インドから、現在までインド人の思想を貫く(であろう)ウパニシャッド

     の哲学と

     同様の見解ですね。「宇宙の根本原理であるブラフマン」と「我・アートマ

     ン」の合一。

     そのバラモンの思想が、どうして仏教徒を自認する創価学会で提唱されるので

     しょう。

     釈迦の教えは、本来「無我(アナートマン・ニラートマン)」だったと思いま

     す。

     (「無我」に関しての記述は、スッタニバータに豊富です。)

     仏教に「我即宇宙」「宇宙即我」の思想が持ち込まれたのは、後期大乗である

     「密教」

     に依る処が大なのですが、日蓮は初めから阿含経典に価値を認めていませんの

     で、

     検討・採用しなかったのだと思われます。日蓮の仏教観は、釈迦本来の教えよ

     り、バ

     ラモン教の影響色の強い、密教的解釈により、仏教を体系化したのではないで

     しょうか。

 

     学会の唱えらる「我即宇宙」「宇宙即我」を、仏教の教えであるとみなすか、

     非仏教と

     感じるかは、私にとって今後の課題と致したいと思います。

 

      

 

660 名前: くらくら 投稿日: 2000/05/13() 07:14

     仰るごとく、梵我一如は、明確にバラモン説でしょう。ただ仏教が

     大衆に教化する段階で「我即宇宙」なる論を説くのは良いだろうと

     思います。世俗諦の範ちゅうではとのことではありますが・・・。

     ただし、これは常見外道の説ですから、これをもって仏教とするの

     は如何かと存じます。

 

661 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/13() 07:46

     え?学会って最近そんな教義になったの?

     び、びっっくり。。それじゃヒンズー教ですな。

     日蓮上人は、日本人受けしない宗祖かもしれない。

     はっきりものを言うからね。でも、怒りや恩讐からの行動ではないと

     思う。

     排他的といえばそうだけど、理由があって排斥しているから筋は

     通っていると思います。

     真理を探究した上での結論ですね。

     信仰は、私にとっては「魂を成長させるもの」です。

     奇跡とか、利益とかでするものじゃないんじゃないかな?

     奇跡は、今生きてる事自体が奇跡みたいなものだからね。

 

662 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/13() 22:00

 

     「我即宇宙」の思わぬ反響?に、書いた本人が慌てています。(^^

     「バラモン」もよく分からない私が、「法華経の智慧」という池田大作氏の著

     書だけを

     読み、書いたコメントですので、学会の教義からは外れているかもしれませ

     ん。

     (”トンデモナイ横レス”と書いた理由は、これです)

     この本は、機関紙?「大白蓮華」に連載したものを纏めたものであり、池田大

     作氏、

     教学部長、副教学部長(2名)の4名が座談会形式で、法華経を解説している

     という

     ものです。知人の学会員からの推薦図書です。(^_^;)

     私がこのような結論に至った文面(発言)を抜粋してカキコしておきます。

 

     戸田氏の「仏とは生命」より、「仏法」→「生命論」となるようです。

 

     池田氏 『日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です』

         『生命論こそが、仏法の本体であった』

         『学会は、生命論に始まり生命論に終わるといってよい』

         『戸田先生は、「(人間は宇宙に)溶け込んでいるっていうより、宇

     宙の生命

          それ自体なのです。それ自体が変化を起こしているのだ」と言われ

     ているね』

         『(生命とは)無限の「大宇宙」でもあり、同時に無数の生命体=

     「小宇宙」

          でもある、ひとつの実在。ダイナミックに変転し続けながら、しか

     し永遠常住

          である巨大生命。この宇宙生命というべき厳たる実在を「仏」とも

     いい、

          「妙法」ともいう』

         『天台も「一色一香も中道に非ざること無し」と言った。一色一香と

     は、

          微細な物質を指します。いかなる微細な物も中道実相の当体、すな

     わち

          宇宙生命の当体だということです。(略)自然も人間も同じ宇宙生

     命の

          部分であり全体である』

 

     続きます。

 

663 名前: 池田 大臭 投稿日: 2000/05/13() 22:01

 

     ここに書いてる人達、ホントに喪禍(多くの既存の宗教)に思想が存在すると

     思ってるの???

 

     権力への異様な執着、殺人、デマ、盗聴、恐喝、洗脳、金権等々彼らが延々と

     繰り返してきたことを見て、まだわからないの???

 

     数多の宗教が執拗に自分の正当性を主張するものの、欲という本質に拾ってき

     た理論を貼り付けただけにすぎないのに。。。

 

     うわべの理屈ではなく、物事の本質と現状をきちんと把握した方がいいので

     は???

 

664 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/13() 22:03

     教学部長 『戸田先生は、「自己の生命は即宇宙の生命であり、即仏の生命で

     ある」

           と喝破されました。その「我即宇宙」「宇宙即我」という点から

     見ます

           と(略)』

          『「諸法すなわち個々の生命」が即「実相すなわち宇宙生命」と一

     体で

           ある― 部分が即全体であるという、この不可思議な関係を明ら

     かに

           したのが諸法実相の法理ですが、(略)』

 

     戸田氏の発言の引用

      (我について)

      『我という名前をつけるけれど、我というのは宇宙のことなのだ。宇宙の生

     命と

       君らの生命と違うかというと、違うのは肉体と心であって、生命には変わ

     りは

       ない』

      (例えば、1本の大きな木があるとして、それを大宇宙とします。そこら葉

     や花が

       沢山でてくる。これが個々の生命のようなものである−こう言えないでし

     ょうか?

       という問いに答えて)

      『出たものというのではないのです、この水(卓上の茶碗)を大宇宙とする

     のです。

       風が吹いてここに波ができるでしょう。波の立ったそれが、われわれの生

     命なの

       です。また大宇宙の生命の動きの一種なのです。だから、風がなくなれ

     ば、また

       元通りになってしまう』

 

       この本は、入門書のようなものでしょうから、くらくらさんのいうよう

     に、

      大衆の教化が目的ということで、このような内容なのかもしれません。

 

      お騒がせ致しました。m(__)m

 

665 名前: 池田 大臭 投稿日: 2000/05/13() 23:08

 

     喪禍を信じる人って、バカすぎて自分で物事を考えることができないのかな?

 

     >麻原氏 『日蓮大聖人の仏法自体が生命哲学です』

     >    『生命論こそが、仏法の本体であった』

     >    『学会は、生命論に始まり生命論に終わるといってよい』

     >    『戸田先生は、「(人間は宇宙に)溶け込んでいるっていうより、

     宇宙の生命

     >     それ自体なのです。〜〜〜

 

     若葉マークさん、あなたはちょっと本を読んだだけで、生命という大切な言葉

     をキンマンコの定義のままに信じてしまうのですか?

 

     私は、生命や精神の定義や価値観は永遠に探し求めるべきものだと思います

     し、まして疑うことなく他人の定義を受け入れることはできません。

 

     キンマンコのうさんくさい真理を信じるくらいでしたら、いっそ死んだほうが

     ましだと思います。

 

     あなたも生命という言葉の答え、自分で探してみてはどうですか?

 

     今すぐ答えが見つからなくてもいいじゃないですか。

 

666 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/14() 00:26

     663さん

     >ここに書いてる人達、ホントに喪禍(多くの既存の宗教)に思想が存在する

     と思ってるの???

 

     以下、とりあえず「学会」という特定組織を離れた仕方で書きます。

     思想は既存の宗教においても、確かに存在するでしょう。ただ、それは組織に

     属する個人が人生かけて真剣に追求しているものから、単なる権力欲等を隠蔽

     するために仮装しているだけのもの、あるいは組織を防衛するための単なるイ

     デオロギー的なものに至るまで、様々なレベルのものがあると思います。

     単なる論理的仮装、あるいはイデオロギー的なものであれば、そのようなもの

     は相手にせず、その組織自体の反社会性を徹底追及していくというのは一つの

     有効な批判方法であると思います。

     しかしそうした仮装、ないしイデオロギーが、その内容によって組織の人をつ

     なぎとめる説得力をもち得ている場合、その説得力を論理的省察によって奪っ

     ていくというのもまた、有効な批判方法の一つです。

     まして特定個人が人生かけて追求している思想に対して批判を行う場合は、そ

     れを単なる「欲の正当化」という視点から扱うのは、十分な批判方法とはなり

     えないでしょう。大体そういうなら、そういう批判を行う我々のほうこそ、自

     分の「欲の正当化」をしているに過ぎない、という側面ももっているわけです

     から。

     続きます。

 

667 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/14() 00:37

 

     さらに事が宗教である場合、その教義思想がたとえ「仮装」「イデオロギー」

     「欲の正当化」の結果であるにせよ、その思想を信じた人が一般常識に対して

     真っ向から立ち向かってくることもありえるのです。それは、例えば「人命の

     尊重」といった、一般常識においては自明の前提すら、それ独自の根拠をもっ

     て否定してくる場合があるのです(オウムの場合がそうでした)。

     こうした挑戦に対し、単に「そんなの常識的じゃない」「人の命は大切に決ま

     っているじゃないか!」という以上の根拠を示せず、逆に説得され取りこまれ

     てしまうという例は数多くあります。

     こうした挑戦に対応したり、またそうした組織に対して批判を行う場合には、

     やはりその「思想」が「欲の正当化」であることが自明であったとしても、や

     はりその「思想」の説得力を、地道な論理的省察によって奪っていく必要は、

     依然としてあるわけです。

 

     ですから、

 

     >数多の宗教が執拗に自分の正当性を主張するものの、欲という本質に拾って

     きた理論を貼り付けただけにすぎないのに。。。

 

     というのを仮に全面的に正しいと認めるとしても、その「理論」の理論的検討

     は不必要になるわけではありません。(それがなければダメだというわけで

     も、勿論ありませんが。)

     まして、宗教思想が単に「自分の立場と欲の正当化」である以上のものを含ん

     でいる場合(私はそう思っているわけですが)、それについて議論することは

     決してムダなことでもないと思います。

     続きます。

 

668 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/14() 00:46

 

     また、このスレッドでは特に学会の思想に関して議論がなされているわけです

     が、学会は「仏教」を標榜しています。

     仏教に対して個人的な関心を持っている人は多くいます(学会に属している個

     人はもちろんです)。仏教に対して、自分なりの解釈や意見を持っていたりす

     るわけですが、こうした関心を持っている者にとっては、「学会」の「思想」

     というものは全く避けて通るわけにはいかないのです。弁護するにも、賛同す

     るにも、批判するにも。どちらにしても、そうした関心を持っている者は、学

     会組織の主張するところに対して、自分の意見・立場を確立していかなくては

     なりません。というのも、日本で仏教について語る者は、どうしても学会とい

     うものに出会わざるをえないからです。自分はその気がなくても、学会のほう

     から近づいてくるものだからです。

     これは仏教(あるいは宗教思想)に関心のない方にとってはどうでもいいこと

     でしょう。しかし関心のない方に対して特にご迷惑をかけたりしているのでな

     ければ、それはそれであってもいいことなのではないでしょうか。

     続きます。

 

669 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/14() 01:03

 

     >うわべの理屈ではなく、

 

     このスレッドの内容に関心のない方にとっては、ここの議論自体をとれば「う

     わべの理屈」と見えるのでしょう。そういう感想を持たれることは仕方ないこ

     とと思いますし、それを否定するつもりも(私としては)ありません。ただ、

 

     >まだわからないの???

     >物事の本質と現状をきちんと把握した方がいいのでは???

 

     とおっしゃっていますが、663さんのおっしゃる「物事の本質と現状」につ

     いてこのスレッドで論じていないから、このスレッドでもそれを論じるべき

     だ、とおっしゃりたいのでしょうか? だとしたら、私はこのスレッドであえ

     てそれを論じなくても、他にここでしかできないことがあるから別にいいと思

     っています。

     それとも、このスレッドの参加者は「本質と現状」を知っていない(このスレ

     ッドでその話題が出ていないからといってどうしてそう決め付けることができ

     るのか、よくわかりませんが)から、知るべきだ、とおっしゃりたいのでしょ

     うか? だとしたら、今までも勉強を怠っていたわけではないと思うのです

     が、今後も精進させていただきます。それはそれとして、このスレッドでしか

     できない議論は引き続き継続させていただきます。

     続きます。

 

670 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/14() 01:10

 

     因みに、「若葉マーク」さんは

 

     >あなたはちょっと本を読んだだけで、生命という大切な言葉をキンマンコの

     定義のままに信じてしまう

 

     わけではありません。若葉さんは立場はアンチ学会です。学会の思想を表すも

     のの一例として、戸田氏の言葉を引用してくださっただけです。若葉さんの立

     場がここでは一貫してアンチ学会的であるというのは、少しレスをさかのぼっ

     ていただければ直ぐに分かっていただけると思います。ここいくつかのレスで

     は、一見しただけではそれがわかりにくくなっていましたけど。

     おしまいです。

 

671 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/14() 04:13

     池田大臭さんの「死んだほうがまし」発言は笑いました。

     同感です。

     学会員の方々は、一体なぜキンマンコが好きなのか

     どうしても理解出来ません。

     あの顔、発言は、どこをどう考えても品性が下劣だとしか考えられないし

     理屈抜きで、誰にだって見抜けるくらいの話だと思うのに。

     今や、そんなのが、日本の政権とっちゃってるんですよ?

     しかし、戸田先生の時代は、まだまともだったと思ってましたが

     この時代から教義は、学会教だったんですね。

     言ってる事は「アートマン」と「ブラフマン」の教義と同じです。

     私は個人的にはヒンズー教は嫌いではないですが、少なくとも

     日蓮正宗には、そんな教義はないですよ。

     「法華経の知恵」とか言いつつ法華経にもそんな事は書いていません。

     どうなってるんでしょうか?めちゃくちゃです。

 

672 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/14() 06:11

     くらくらさん

 

     レスを有り難うございます。

     釈迦の教えを広めると云う意味では(世俗に対して)、確かに効果的なのでし

     ょうね。

     戒律重視の出家に対する教えでは、仏教の広範な伝播は無かったのかも知れま

     せんね。

 

     独り言です。

     仏教(特に大乗)が教義を発展的に解釈し、流布した功績は多大であろうかと

     思いますが、

     発展するに連れて「釈迦本来」の教えから遠ざかっているようにも感じられま

     す。

     仏教流布のために最終的には、バラモン教や、道教・儒教・神道まで入り交じ

     り、その中で

     「我が思想・我が教え一つのみが正しい。」と主張する教団まで現れるとは、

     お釈迦様でも

     御存知無かったでしょう。

 

673 名前: くらくら 投稿日: 2000/05/15() 01:08

     昼行燈さん

 

     >発展するに連れて「釈迦本来」の教えから遠ざかっているようにも感じられ

     ます。

 

     お釈迦さんは法説を留めようと思ったが、梵天さんらに

     そそのかされて説いたのでありました(笑)。思うに、

     お釈迦さんは現状はご存じだったのだと思います。我の

     説く言説でさえ無常である。その一点を身をもって示し

     たかったがゆえに・・・。なんて夢想しております。

 

674 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/15() 01:39

 

     第7の外道さん

 

     私の立場の説明までして頂き、ありがとうございました。

     知れば知るほど、学会というものが分からなくなってきました。()

     法華経の解説にしても、コジツケ としか思えない・・・。

 

     話は脱線しますが、TV朝日のサンデープロジェクトで、逮捕された

     法の華の福永氏のことをやっていましたが、世界の著名人に会うために

     12億円の金を注ぎ込んだとか・・・。

     一体、”あの人”は、いくらお金を使っているのだろうか?

 

675 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/15() 14:25

     >文底さん

     >私は「祈る」事の”縁”が「願いが叶う」との”果”に結びつける戸田氏の

     考えには、懐疑的です。

     > まして、それが日蓮仏法のみにおいて存在するなどと言う事は、私の思想と

     対極的な立場にあります。

     > したがって、私の生命論と戸田氏の生命論には、その点において決定的に異

     なります。

 

      僕は、むしろ戸田先生の考えと近いものを感じました。戸田先生は日蓮仏法

     を普遍的な法則ととらえていたので、その枠の中で、というよりは、その枠を

     枠とは思っていなかったのでしょう。(宗教者は普通そう考えるものです)

      祈る、ということに関しては、宇宙を生命と呼ぶのと同じぐらいには無茶な

     主張ではないと思います。

      まあ、はっきりしないことをネタに論議するつもりではなく、(元)創価学

     会員としての印象を述べたまでです。

 

      戸田先生にしても文底さんにしても、なにか、科学世界観に対する解釈の仕

     方ではないか、と思うのです。きついことをいえば、文底さんは「科学的」に

     生命という結論にたどりついたのではなく、科学が明かした自然の姿を、生命

     という言葉で解釈した、ということではないでしょうか。その解釈が間違って

     る、間違ってない、ということはそもそもないのです。解釈にすぎないのです

     から。そして、自然をそうやって解釈したからといって、(「祈り」という部

     分を省いてしまえば、)感動させることはできても、それで人を救える訳でも

     ないのではないでしょうか。

 

676 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/15() 14:28

     >ZEGAさん

      いっぺんにカキコが集中してしまいましたね。同情いたします(^^)。

      宗教を信じるか信じないか、と、創価学会(日蓮仏法)は正しいか正しくな

     いか、では、全く論旨が違います。このスレッドでは、前者の論議を中心とし

     ていません。ZEGAさんとしては、後者の立場から意見を述べる方が、皆に

     とってわかりやすいと思いますが、いかがでしょうか。

 

      あと、「宗教を信じるか信じないか」というのは、現代科学では解明できな

     い超自然的現象が祈りによっておこるか、おこらないか、とした方がいいと思

     います。宗教のすべてがオカルト的な力を掲げているわけではありませんの

     で。

 

      ここからが質問なのですが、ZEGAさんは折伏、選挙活動をやっています

     か? Yes,No,どちらにしても、そうである理由を教えていただけないでしょう

     か。というのは、ZEGAさんは「祈りによって不可思議な現象が起こった」

     ことを信仰の理由としていますが、その信仰への確信と、創価学会という組織

     に対しての信頼が同調するか、ということが大変重要であると思っているから

     です。

 

677 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/15() 14:31

     >昼行燈さん

     >仏教(特に大乗)が教義を発展的に解釈し、流布した功績は多大であろうか

    

     >思いますが、発展するに連れて「釈迦本来」の教えから遠ざかっているよう

     にも

     >感じられます。

 

      中国では確かに大乗仏教は発展しましたが、インドでは常に少数派だったと

     きいています。(つまり大衆に広めるためにできたわけではない?)

      密教の時代になると、大乗、小乗共にヒンズー教化していったようで、つい

     に仏教はその「存在意義」を失い、消滅していきました。釈尊の教えをゆがめ

     ることは、少なくともインドにおいてはマイナスにしかならなかったのでは、

     と思えてなりません。

 

678 名前: 文底 投稿日: 2000/05/15() 16:50

 

     若葉マークさん

 

     色々、大変でしたね・・・(私も大変でした)

     この板では、創価学会に対し好意的な文面を取り上げただけで、その意図はと

     もかく、アンチの方々から、一気に攻撃が始まりますから・・

     お互い気をつけましょう。

 

     ひゃっきまるさん

 

     問題提議有り難うございます。

     この件は、私の封印事項に入らないので(多少ありますが・・)少し私見を述

     べさせて頂きます。

 

     >文底さんは「科学的」に生命という結論にたどりついたのではなく、

     >科学が明かした自然の姿を、生命という言葉で解釈したということではない

     でしょうか。

 

     私は「科学的」に生命という結論を導き出したとは申しておりません。

     科学的アプローチから、哲学観を経て、あくまで個人的思想として「生命論」

     に至ったと述べているのみです。

 

     >自然をそうやって解釈したからといって、(「祈り」という部分を省いてし

     まえば、)

     >感動させることはできても、それで人を救える訳でもないのではないでしょ

     うか。

 

     私が述べ、定義付けたものは現在、倫理・哲学観の域を越えたものではありま

     せん。

     しかし、思想的な論理がその思想を信じた人間の行動規範に影響を与え、その

     結果、人間に幸福を与える場合もあるでしょう。(それが人を救ったと定義す

     るかは別として)

 

     続きます

 

679 名前: 文底 投稿日: 2000/05/15() 16:51

 

     しかし、それを私は「宗教」と定義付けてはおりません。

     人を不幸にも幸福にもする思想は、政治、倫理、哲学など幅広い分野に存在し

     ます。

     私はひゃっきまるさんが仰った「祈りという部分を省いてしまえば」と言う点

     が上記に述べた思想とは、決定的に異なる点なのです。

     思想・倫理・哲学は、その行動規範の範疇において、基本的には主体性を持っ

     た行動しか出来ません。

     つまり、その思想・倫理・哲学を理解した人間が「働きかけをした事のみ」の

     結果と言う事です。

     しかし「祈り」を伴う「宗教」には、自己だけではなく「他者」「周りの環

     境」など、その「祈り」によってあらゆるものを変革させようとする意図があ

     るのです。

     ここに、私が「宗教」と言うものに対し、期待する所でもあり、また、危惧す

     る所でもあるのです。

     少なくとも、日蓮仏法は「祈り」と言う行為が自己の改革のみならず「他者」

     「周りの環境」などに、その具体的な働きかけを行う事を啓示しています。

     (立正安国論など)

     この事を踏まえて、日蓮仏法の意味付けを論じていけば、その教えを根本とし

     ている「創価学会」の行動性も見えてくるでしょう。

     そして、それを賛否両論、色々な見地から論じる事がこのスレッドの異議でも

     あると考えております。

 

     続きます。

 

680 名前: 文底 投稿日: 2000/05/15() 16:54

 

     ところでひゃきまるさんは、日蓮仏法と創価学会のご自身における位置付けに

     ついては、如何に考えていらっしゃいますか?

     創価学会の現在の状態については、懐疑的立場のひゃっきまるさんだとは思い

     ますが、それでも「題目三唱」ぐらいは唱えられているとの事でしたよね、そ

     の辺りのひゃっきまるさんのとっての日蓮仏法とは、どのような位置付けなの

     ですか?(ひゃっきまるさんが立てられたスレッドと重複するかもしれません

     が・・・)

     お題目を唱えられるひゃっきまるさんにとっては、日蓮仏法は、正しい教えで

     すか?

     その辺りの見解宜しければお教えください。

 

     以上です。

 

681 名前: 文底 投稿日: 2000/05/16() 00:35

 

     >色々な見地から論じる事がこのスレッドの異議でもあると考えております。

     >色々な見地から論ずる事がこのスレッドの意義でもあると考えております。

 

     訂正してお詫びいたします。

 

682 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/16() 03:32

     長時間かけて書いたレスが消えてしまいました……。

     今日はもう眠いのでまた改めてレスします。

 

683 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/16() 06:51

     私は、想念もまたパワーだと考えていますので、

     祈る事で祈りが現実化する事も、当然有りうると思っています。

     そう考えている物理学者も少なくありません。

     それは、必ずしも宗教というファクターを通していなくても

     起こりうる事です。

     ただ宗教という枠組みを作る事で、想念が非常に強くなりますから

     奇跡が起こりやすいという事は言えるかもしれません。

     宗教で言う罰などは、罪悪感という想念が現実化したものです。

 

     日蓮仏法は、仏教界では特異な排他的な教義ですから

     その分祈りの想念も強く、それゆえに罰もまた大きいと解釈して

     います。

     排他的な教義はたくさんの弊害があります。

     学会は、その上仏法をねじまげて、人の欲望に火を焚きつける事で

     人々を餓鬼界に落としたり、戦いをあおる事で修羅界に

     落としたりしているので、

     学会員の想念はどんどん質が落ちてきています。

     学会ではよく「仏法は勝負」などと言っていますが、

     「勝負」というような教義は仏教には有り得ない事です。

     成仏が目的なのに、修羅を目指してどうするのでしょう?

     お寺の法主に「地獄に落ちろ」などと手紙を書いたりする方も

     あるようですが、人の地獄落ちを願う大乗仏教者なんて

     初めてです。

     特に法華経は、悪人成仏も書かれている経典です。

     例え、悪い思想を持つ方がいても慈悲の心で祈っていくというのが

     仏教者の姿だと思います。

     低レベルのセックススキャンダルなどで大騒ぎしたり、反逆者への

     常軌を逸した罵詈雑言。もうその事自体が、その姿自体が地獄です。

     地獄そのものです。

     そのことに、なぜ気づかないのか?

     私には不思議で仕方ありません。

 

684 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/17() 00:02

     >ひゃっきまるさん

     > いっぺんにカキコが集中してしまいましたね。同情いたします(^^)。

     ありがとうございます(微苦笑)。話について行けず往生しました。

 

     > 宗教を信じるか信じないか、と、創価学会(日蓮仏法)は正しいか正しく

     ないか、では、全く論旨が違います。このスレッドでは、前者>の論議を中心

     としていません。ZEGAさんとしては、後者の立場から意見を述べる方が、

     皆にとってわかりやすいと思いますが、いかが>でしょうか。

 

     はい、最初からそのつもりです。

     ところで、宗教を正しいかどうか判断する基準は何であるとお考えですか?

 

     > あと、「宗教を信じるか信じないか」というのは、現代科学では解明でき

     ない超自然的現象が祈りによっておこるか、おこらないか、とし>た方がいい

     と思います。宗教のすべてがオカルト的な力を掲げているわけではありません

     ので。

 

     そうですね。以後、ご指摘の通りの立場で書かせて頂きます。

 

     > ここからが質問なのですが、ZEGAさんは折伏、選挙活動をやっていま

     すか? Yes,No,どちらにしても、そうである理由を教えていた>だけないでし

     ょうか。というのは、ZEGAさんは「祈りによって不可思議な現象が起こっ

     た」ことを信仰の理由としていますが、その信仰>への確信と、創価学会とい

     う組織に対しての信頼が同調するか、ということが大変重要であると思ってい

     るからです。

 

     答えはYesです。そうである理由は、世界平和を標榜する学会の行動に嘘偽りが

     ないことを芯から納得していますし、実際に功徳も現れてきているからです。

     しかし、組織に対しての信頼と同調するわけではありません。

     組織は必ず堕落します。学会とて例外ではありません。学会員はいっぱいいま

     すが、中には明らかにおかしいと思われる発言をする人もいます。

     ですから、相反する意見に出くわしたとき、確り学んでいないと、どちらが正

     しいことを言っているのか判断できませんし、確り行じていないと自分を見失

     います。何が正しいのかを見極めるよう、監視の目を持っていなくてはならな

     いと思います。

 

685 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/17() 02:18

     こんにちは。本筋からはやや離れたレスをドカドカ書いたがいいは、

     その後また「仕事に追われ」モードに突入して毎日が眠たくてしょうがありま

     せん。

 

     皆さんのレスを拝見していますと、ようやく「日蓮」思想や「創価」思想へと

     話題が収束しつつあるようで、この先の展開を楽しみにしております。個人的

     には、ひゃっきまるさんとZEGAさんが確認なさった方向で話が展開してい

     くことを期待しています。

 

     私のほうはと言えば、無責任ですがしばらくはまたまともには議論に参加でき

     そうにもない状態になりそうで、申し訳なく思います。ただ皆さんのレスはこ

     まめにチェックしていますので、どんどんよろしくお願いします。

     私もまた、仕事からの逃避もかねて(苦笑)突然何かを書きこむかも知れませ

     んが。

     よろしくお願いします。

 

686 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/17() 05:51

 

     ここは自作自演スレか

 

     さようなら

 

687 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/17() 12:07

     ひゃっきまるさん

 

     >中国では確かに大乗仏教は発展しましたが、インドでは常に少数派だったと

     きいています。

     >(つまり大衆に広めるためにできたわけではない?)

     >密教の時代になると、大乗、小乗共にヒンズー教化していったようで、つい

     に仏教はその

     >「存在意義」を失い、消滅していきました。釈尊の教えをゆがめることは、

     少なくともイ

     >ンドにおいてはマイナスにしかならなかったのでは、と思えてなりません。

     (適時段落を変更しました。)

     法顕や、玄奘の旅行記に依りますと、四世紀後半〜五世紀にかけては、部派・

     大乗の共立関係

     に有ったことが記されています。インドでは大乗経典の創作が進み、中国から

     の僧も、新しい

     知識(経典)を大乗に求めています。決して『インドでは常に少数派だった』

     訳ではありませ

     ん。

     仏教が存在意義を失ったのは、大いにバラモン化した事も理由に挙げられます

     が、消滅したの

     は西方よりの宗教「イスラム教」の侵略によるものと考えられています。

     部派(小乗)仏教徒(主に僧侶)が、雨安吾の為に留まっていた寺院が安住の

     場所としての修

     行場と化し、煩瑣な理論に明け暮れていた時、大乗仏教は世俗の間に広まるの

     ですが、バラモ

     ン教の巻き返しにより、大乗仏教もバラモン的教義を採り入れざるを得なくな

     ったと考えられ

     ます。(ブッダ・ゴータマすら、ヴィシュヌ神の化身として仏教を取り込みま

     す)

     その辺の事情を説明するのは、目的では有りませんので割愛させていただきま

     すが、イスラム

     教に依る侵略という事から推察するに、『釈尊の教えをゆがめることは』イン

     ドでの仏教消滅

     に関しては大きな意味を持っていたとは思えません。

     東南アジアの諸国では、大乗仏教から、スリランカ上座部仏教への転身は多く

     見られますので、

     「四重興廃」は、宗教批判の原理から見て、明らかに矛盾しますね。

 

688 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/17() 13:07

     ひゃっきまるさん

 

     >中国では確かに大乗仏教は発展しましたが、インドでは常に少数派だったと

     きいています。

     に関しての説明に誤解を招く表現が有りました。

     仏教教団としての「大乗仏教〜常に少数派」云々なのですね。

     確かに、僧伽としての集団としては大乗仏教は「常に少数派」ではあります。

 

     ですが…。

     仏教運動としての「大乗」は決して少数では無かった事は、部派仏教では禁じ

     られている

     僧侶の「仏塔経営」を、インド各地に於ける「仏塔建立・仏塔崇拝」の例か

     ら、明らかに広

     範に大乗仏教が栄えていたかを物語っているものと言えるでしょう。

 

      

 

689 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/17() 14:23

     >ZEGAさん

     >ところで、宗教を正しいかどうか判断する基準は何であるとお考えですか?

 

      学会の主張するとおり、「文証、理証、実証」の三つによって判断できると

     思います。しかし、このうち客観的な判断基準となりうるのは文証のみです。

     7の外道さんがよく言われているとおり、理証では言葉遊びになることを避け

     られないからです。ならば実証か、ということになりますが、その前にとりあ

     えず、文証の正当性を論じた方がずっと早道です。主観的、経験的なことを他

     人に伝えるのは難しいし、自分自身でもなんらかの錯覚をしている可能性を否

     定できないものです。しかし文証ならば誰にとっても簡単に検討できるでしょ

     う。ちなみに、2chで学会の主張する文証の正当性を示すことが出来た人を僕は

     一人も知りません。ZEGAさんがそのはじめの一人になれることを願ってい

     ます。

 

     >答えはYesです。そうである理由は、世界平和を標榜する学会の行動に嘘偽り

     がないことを芯から納得していますし、実際に功徳も現れてきているからで

     す。

 

      ということは、学会の教義は基本的に全て正しいと信じているわけですね?

      しかし、僕にはそれは非常に不思議に思います。というのは、「祈り」によ

     る効果を掲げているのは創価学会のみではありません。そして、それらの団体

     はやはり体験談がたくさんあるからです。雑誌などの裏表紙などにある、あや

     しげなペンダントでさえ体験談があるのです。「祈り」によって効果があるの

     と、創価学会の教義が正しい、というのがどのようにむすびついているか、そ

     のあたりをもっと詳しく解説してもらえないでしょうか。

 

690 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/17() 14:27

     >昼行燈さん

      ご教授いただきありがとうございます。

      浅学故、これからもたくさん間違ったことをいうかもしれませんが、どうぞ

     ご容赦下さい。

 

691 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/17() 14:29

     >文底さん

     生命論について・・・

 

      すでに終わったはずの「普遍的真理=生命」論をむしかえしてしまって申し

     訳ないのですが、この辺、僕としてはこだわりたい理由があるのです。長くな

     りますが、このスレッドにとっても重要だと思うので、あえてカキコさせても

     らいます。

      他の方から創価学会からの引用を多数してもらいましたが、お分かりの通

     り、学会では仏法を説明する言葉として生命という言葉を多用しています。

      人を煙にまくような抽象的な言葉の羅列。この胡散臭さに僕は昔から辟易と

     してきたのです。

 

      「生命」という言葉を使うからには、この言葉にはこの言葉が指すところの

     意味があるはずです。さてそれは何でしょう?

      「生命は生物に備わっている現象である」、というところからはじめて異論

     はないと思います。そこから初めて、それは宇宙全体にも適用できる現象であ

     る、と結論づけられればいいのですが・・・。

     (すぐに見つかる矛盾点/宇宙全体が生命なら、生命でないものがなくなって

     しまい、生命という言葉は意味を失ってしまう)

 

      生物に特有の特徴を挙げてみると、

     1・自己複製能力をもつ、あるいは自己の遺伝子の一部を持った子孫を残す

     2・代謝によって外部からエネルギーを摂取し、自己を保存する

     3・合目的性をもった無数の分子(蛋白質など)が複雑に関係しあいながら、

     自己として統率された働きをする

      これらは生物学から言えることですが、魂=生命と考える人もいるでしょ

     う。そこで、

     4・意志、意識、思念がある

     を一応つけ加えます。

 

692 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/17() 14:31

      戸田二代会長の考え、あるいは文底さんの考えを見てみると、それは梵我論

     というよりは、ガイア仮説に近いもののように思います。これは、ガイア(地

     球)は実は全ての動植物及び無機物を体の構成として持つ、一個の生物であ

     る、という考えです。生態系がそれを構成する生物の調和を統率する仕組みを

     持っていることから考え出された説でしょう。

      これを拡張して、文底さんは、「原子、分子、細胞、個体(生物)、生態系

     (社会)、銀河系、宇宙・・・といった各段階の存在も実は生命なのだ」と言

     っているのではないか、と僕は推測しました。

 

      1〜4の生物の特徴を検討してみることにしましょう。(なお、人間の作っ

     た機械などは考慮に入れないことにします)

      まず1ですが、一見してこれは生物だけの特有の特徴だと分かるでしょう。

      次に2ですが、これも生物特有の特徴だとはっきり言うことができます。全

     ての存在(宇宙全体でさえも)は熱力学第二法則によって、エントロピーが不

     可逆的に増加していく(即ち衰退していく)運命にあります。生物は、外部の

     エントロピーを増加させることによって自身のエントロピーを低く保つとい

     う、巧妙なメカニズムを持っているのです。

      3をとばして4ですが、意志が神経系から生じているとすれば、バクテリア

     のような単純な生物にはもちろん当てはまらないので、生物の中でさえ4の特

     徴は普遍的でないと言えます。

      最後に3ですが、これを生物特有の特徴だと断言することは少し難しいで

     す。どのような存在も、それを構成している無数の因子の相互作用によってな

     っているわけですから(これはむしろ当然すぎるほど当然のことですが)。し

     かし、それらの構成因子が「合目的性」を持っている、という点と、構成因子

     の働きがはるかに「複雑である」という点でやはり他とは一線を画すと言えま

     す。

     (たぶんここで反論が出ると思います。出たらまた詳しく解説します)

 

693 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/17() 14:32

      このように考えていけば、宇宙を生命と呼ぶのがいかに無茶なことであるか

     分かると思います。それは生物の巧妙な特徴が見せる神秘性を借りた、詩的表

     現以上のものではないのです。

      とはいっても、自分が宇宙の一部であること、自分が細胞によって成ってい

     ること、を意識することは有意義であると思います。僕としては、生物が如何

     にこの宇宙の中で珍しい存在であるか意識することも、有意義であると思いま

     すが。

 

      生物と生物以外が明確に区別できることを確認した上で、「因、果、縁」に

     ついてを考えてみましょう。

 

      「因、果、縁」は、何も生命をもちださずとも良いのです。それは僕の私見

     では、唯物論だと思います。言い換えれば、ことさらに言い立てることはな

     い、当たり前の事なのです。物質の関係性のみが世界にはあり、それを外れた

     奇跡や、神はないということではないでしょうか。ただ、『普通は計り知るこ

     とのできない巧妙な仕組みをもった生物』を例にとって示した方(下記)が、

     世界の裏にある隠された法則の存在を強調できる、という事でしょう。

 

      植物の種子という眠った状態の細胞(因)

      水、温度、空気、日光、土などの条件(縁)

      成長し、花が咲く(果)

 

      ここで但し書きをつけねばならないのですが、人間の目に見えない隠された

     法則であっても、それは現在の生物学の成果を見れば分かるとおり、オカルト

     を意味しないということです。

 

      実は、「因、果、縁」と「生命」を結びつけるところから、「祈り」に飛躍

     するのです。(下記)

 

      宇宙・環境、自身(因)

      祈り←→悪業(縁)

      功徳←→罰(果)

 

694 名前: 心理学初心者 投稿日: 2000/05/17() 14:33

     横レスですが

     信じるという行為は向精神作用があります。

     治療不可能な病気が「信じる」事によって救われるというケースや

     小麦粉を「特効薬」として飲ませたら病気が治ったというのもあります。

     信じる、信じたい力が強ければ強いほど(祈れば祈るほど)病気が治ったり

     ストレスが改善されたり、ポジティブな状態になれるのは 人間の自然治癒能力

 

     と結び付けられるでしょう。 ですからどの宗教でも祈れば適うという表現は

     「信じる力が強いほど」当てはめられるものと考えられます。

     超能力のような超常現象は説明ができません。

     また、因果律も証明は事実上不可能なところでしょう。

 

     「創価学会信者のマインドコントロールを解くには」との

     流れでZEGAさん、どう思いますか?

 

695 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/17() 14:35

      この「因、果、縁」がどうしてそうなのか、という説明をする必要はありま

     せん。なぜなら、生物の仕組みがあまりに複雑すぎて未知であるように、宇宙

     や自身の仕組みはあまりに複雑で計り知れないからです。しかし祈りによって

     確かに功徳があれば、その背後に隠されている仕組みの存在があることは分か

     りますし、その仕組みを探求するよりも、祈って幸福になる方がいいではない

     か、ということです。

      戸田二代会長はこれを説明するのに、「テレビの仕組みを知らなくとも、ス

     イッチをひねれば画面は映る」という例えを使っています。驚くことに、僕の

     友達のキリスト教の人も、全く同じ例えを使って、神に祈ることによって奇跡

     がおこることを説明しました。日蓮仏法、創価学会特有の考え方ではないので

     す。

 

      しかし前に説明したとおり、生物と他とは明確に区別される以上、宇宙その

     ものにも生物のような複雑な仕組みがあるか、ということには疑いをもってか

     からねばなりません。少なくとも、生命のイメージの元になった生物が唯物的

     に解析可能であることを考えれば、「祈り」のシステムも唯物的に解析可能で

     あるはずです。

 

696 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/17() 14:37

      実は「祈り」によってなぜ効果があるか、というのは、医学の分野では立証

     されつつあります。宗教を問わず、功徳としてもっともよく聞くのが、「病

     気、けがの治癒」です。他の、偶然とも説明できることに比べて、これははっ

     きりと功徳として認識できることです。治る見込みのない病気が、とか、常識

     では考えられないスピードで、とか。

      テレビで見たのですが、子供を対象に、まず免疫システムの仕組みを擬人化

     して語り、そのあと催眠術師が、「体の中で免疫細胞が戦っている」という暗

     示をかけます。その後、血液を採取して免疫力を調べると、著しく高くなって

     いることが分かりました。また、ウェイト・トレーニングなどで、鍛える部分

     の筋肉を意識してやると、効果が高い、ということも言われています。

      こうして考えてみると、どのようなイメージをもって祈るか、というのが重

     要になってきます。そして、それを知ってか知らずか、創価学会ではかなりそ

     の部分にこだわってるところがあるのです。

      神や阿弥陀仏のような、外に向かって救済の意味で祈るのではなく、自分自

     身の内に秘められているものに対して祈る、ということがよく強調されます。

 

      このような意味で、僕は「祈り」の効果を認めています(免疫ということに

     限らず)。ですが、だからといって創価学会のやり方が全て正しいとは思いま

     せん。教義の破綻も明確ですし。それでZEGAさんにもあのような質問をし

     ました。僕は、宗教を信じることによって理性が破壊されることの恐ろしさを

     身をもって味わったので、今はアンチ創価学会の立場をとっています。

 

697 名前: 文底 投稿日: 2000/05/17() 18:35

 

     ひゃっきまるさん

 

     大変熱い書き込み有り難うございます。

 

     >すでに終わったはずの「普遍的真理=生命」論をむしかえしてしまって申し

     訳ないのですが・・・

 

     この問題において、私がレスをつけると、又話しが、スレッドの主旨から逸脱

     する懸念がありますので、このスレッド上で私がこの提議について述べて良い

     かは、第7の外道さんの了解を待ちたいと思います。

     暫くお待ちください。

     もし、不適当と言う事であれば、どこか適当な場所を考えましょう・・・

 

     何れにしても、大変貴重な話しであり、重要な内容だと思いますので、真摯に

     拝見させて頂いております。

 

     以上御了解下さい。

 

698 名前: 廃仏毀釈 投稿日: 2000/05/17() 20:54

     シャーマンという言葉があります。祈祷によってまじないを施し、ほとんど何

    

     根拠の無い擬似治療行為を行い、助からなければ僧侶役に移行します。

     発達段階の低い社会では、よく見られる社会的装置です。

     言わずもがなでしょう。祈って、どうにかなることなどあるのでしょうか。

     思考放棄は、何も生みません。

 

     とか、書いてみました。

 

699 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/18() 01:04

     >この問題において、私がレスをつけると、又話しが、スレッドの主旨から逸

     脱する懸念がありますので、このスレッド上で私がこの提議について述べて良

     いかは、第7の外道さんの了解を待ちたいと思います。

 

     私は少し上で「日蓮の思想の方へ話が収束すれば・・・」といった旨

     のことを書きましたが、ひっゃきまるさん&文底さんが「この問題」について

    

     議論をお望みならば、私は一向に構いません。どんどんどうぞ。

 

700 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/18() 01:14

     >心理学者初心者さん

 

     偽薬を処方して、実際に治療効果を上げるという治療及び心理学の実験が多数

     あること即ちプラシーボ効果、いわゆる「鰯の頭も信心から」というやつです

     ね。

     また、全く関連のない現象Aと行為Bの間に、仮想の法則Cを補填して、架空の因

     果関係を構築するというものもありますね。

     思い込みが強いほど、また論理思考をしない人ほど嵌まり易い落とし穴だと思

     います。

 

701 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/18() 02:04

 

     ひゃっきまるさん

     ちょっと質問させていただきます。691〜696のレスを読んでの感想です

     が、ひゃっきまるさんの立場は、「祈り」のシステムを唯物的に解析し、そこ

     に「世界の裏にある隠された法則」を発見し、それに基づいた「祈り」を行う

     ことが、「宗教」の進むべき道である、というものなのでしょうか。

     そして創価学会は、そうしたシステムに一部のっかりながら、教義的にもその

     システムを把握する方法論を持ち得ず、むしろ現状の「教義」に対して独善的

     な態度をとっているからこそ批判されるべきだ、というお考えなのでしょう

     か。

     また、

 

     >こうして考えてみると、どのようなイメージをもって祈るか、というのが重

     要になってきます。

 

     とおっしゃっていますが、「祈り」の効果を得るためには、祈る主体は、祈る

     対象に対して絶対の(つまり、その真理性を疑わない)帰依(あるいは心理的

     依存)をしていなければならない、と思われるのですが、それについてはどう

     お考えですか。

     というのも、ひゃっきまるさんのアプローチは「教義の確立」というよりは一

     種の「科学的仮説の提示」といった性格のものだと思うのですが、主張の仮説

     性を前提にすることは、祈る主体の対象に対する絶対帰依とは両立しない(少

     なくとも同一人物においては)と思うのです。私もひゃっきまるさんや、心理

     学初心者さんが言われる意味(これらが同じもの、というわけではないのでし

     ょうが)でなら、「祈る」ことの効果を肯定します。しかしそういう理由で

     「祈り」の理解をしている私は、もはや何に対しても「祈る」ことはできない

     でしょう。システムを知的に(仮説を通じて)解析することは、そのシステム

     が有効に機能することの妨げになってしまうのです。従って私は「宗教」につ

     いて肯定的に考える場合は、「祈り」のシステム自体をどうこうする方向でア

     プローチすることはしません。できないのです。

     ひゃっきまるさんは「絶対帰依」的なものを批判的に解体する方向で考えを進

     めてらっしゃるように見えたのですが、その辺はどうお考えなのでしょうか。

 

702 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/18() 13:43

     >第7の外道さん

     >ひゃっきまるさんの立場は、「祈り」のシステムを唯物的に解析し、そこに

     「世界の裏にある隠された法則」を発見し、それに基づいた「祈り」を行うこ

     とが、「宗教」の進むべき道である、というものなのでしょうか。

 

      違います。「祈り」のシステムなどないと思っています。僕が認めている祈

     りの効果とは、人生に対して楽観的、前向き志向になれる、精神を安定させる

     ことができる、気持ちを集中して困難に対する解決法を見つける、などといっ

     たことです。これらは、あくまで僕個人の中で起こることであり、祈りが環境

     や他人に直接及ぶなどということは、因果関係を見いだせないので、ないと思

     っています。(もちろん、自分が前向き志向になったことで他人によい影響を

     与えた、ということはある)

      前のレスで言いたかったのは、「宇宙は生命であるから、宇宙の背後には生

     物のような複雑で神秘的なシステムが隠されていて、祈りによって宇宙に影響

     を与えることができるんだ」ということの誤りです。

      宗教の進むべき道がなんなのか、というのは分かりません。宗教がこれから

     の時代に必要なのかどうかも分からないのですから。ただ、「祈り」は別に宗

     教でなくともあるし、できる、という提案はしたつもりです。(なんでもいい

     というわけでなく、祈りの形式には優劣があるでしょう)

 

703 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/18() 13:46

     (続きです)

     >「祈り」の効果を得るためには、祈る主体は、祈る対象に対して絶対の(つ

     まり、その真理性を疑わない)帰依(あるいは心理的依存)をしていなければ

     ならない、と思われるのですが、それについてはどうお考えですか。

 

      その通りです。ですから、僕の言ったことを創価学会員が認めてしまえば、

     祈りの効果は半減するかも知れません。だからといって「方便」として嘘を吹

     き続ける、ということには反対です。それによって悪影響があるからです。

      創価学会の場合、祈る対象というのは「自分の生命」であるので、そういう

     意味の哲学性は評価されるべきでしょう。神などと違って「自分の生命」は確

     実に存在するのであり、また、僕の仮説に従えば、もっともダイレクトな祈り

     と言えますから。

 

     >しかしそういう理由で「祈り」の理解をしている私は、もはや何に対しても

     「祈る」ことはできないでしょう。

 

      二世として育てられた僕の場合、システムを知的に解析したつもりになって

     いても、やはり信仰心としかいえないものを消えさせることはできません。こ

     れは、僕が幼少から教えられてきたものが心の底から染み着いているから、と

     考えることも出来ますが、もう一つの仮説も出せます。

      唱題することは、理性の領域より深い部分に影響を及ぼすのではないか、と

     いうことです。例えば催眠術は、それがオカルト的力によるものでないと誰も

     が理解しているにも関わらず、「かかる意志があれば」かかってしまいます。

      学会員の常套句になってしまいますが、これを確かめるためにはやらなけれ

     ば分からないでしょう。(ブーイングがでそう・・・)

 

704 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/18() 13:48

      第7の外道さんが言われたことは全て、非常に的確に僕の意見の問題点をつい

     ていると思います。しかしそれに対して僕は明確に答えることが出来ません。

     なぜなら、未だ模索中の部分が多いからです。今のところ僕の態度として決め

     ているのは、「嘘はいけない」ということです。宗教の効果がなくなるからと

     いって集団を「嘘」の幻想に浸すことはよくないと考えます。「嘘」を保つた

     めには正常思考を停止せざるを得ないのですから。

 

705 名前: 文底 投稿日: 2000/05/18() 15:54

 

     ひゃっきまるさん

 

     第7の外道さんの了解を得られましたので、このスレッドで、ひゃっきまるさ

     んの提議について、私見を述べたいと思います。

     予め断っておきますが、私の生命論は、創価学会の生命論を裏付けしたり、説

     明する物ではない事をご了解下さい。

 

     >人を煙にまくような抽象的な言葉の羅列。この胡散臭さに僕は昔から辟易と

     してきたのです。

 

     確かに抽象的表現が、悪意の意図をもって理論付けされれば、洗脳にも繋が

     り、結果として既成宗教の多くが、その悪しき一面を包含している事は認めま

     す。

     然しながら、哲学的解釈法は、その思想の自由さ故に誰がどのように考えよう

     と全くの自由であり、その思想を理解するか否かは、相対する個人の認識の自

     由であると思うのです。

     私のこれから述べる考察は、哲学的思想であると認識してください。

     また、ひゃっきまるさんの主張を否する事が目的でもない事をご理解下さい。

 

     それでは、ひゃっきまるさんの提議に対する私なりの見解を述べさせて頂きま

     す。

 

     続きます

 

706 名前: 文底 投稿日: 2000/05/18() 15:55

 

     >「生命」という言葉を使うからには、この言葉にはこの言葉が指すところの

     意味があるはずです。

     >さてそれは何でしょう?

     >「生命は生物に備わっている現象である」、というところからはじめて異論

     はないと思います。

     >そこから初めて、それは宇宙全体にも適用できる現象である、

     >と結論づけられればいいのですが・・・。

 

     生命の定義についてひゃっきまるさんは「生命は生物に備わっている現象であ

     る」と、定義付けられていますが、私は「生命は生物にも備わっている現象で

     ある」と定義しています。

     つまり、必ずしも生物で無くとも「生命」なる定義は可能なのです。

     ここで、生命の定義付けに付いてですが、生命とは、哲学的解釈法において、

     機械論的生命の定義がある事を認識してください。

     代表的人物には、カントやロッツェ等がおりますが、カントやロッツェもまた

     その機械論的生命付けの定義において、若干の違いがあり、私の立場は、どち

     らかと言うとライプニッツやロッツェに近い生命哲学とお考え下さい。

     何れにせよ「生命は生物に備わっている現象である」であるとの定義は、数あ

     る定義の中の一つに過ぎないことを御理解ください。

     ですから・・・

 

     続きます

 

707 名前: 文底 投稿日: 2000/05/18() 15:56

     >生物に特有の特徴を挙げてみると(後略)

 

     生物固有の特徴が、生命と相似的でありこそすれ、同義では全く無いという事

     なのです。

     生物固有の特徴を検証してもそれが、生命固有の特徴ではないのですから、ひ

     ゃっきまるさんの論証は、その点においてすでに、私の論ずる生命哲学とは違

     うものになります。

     私の述べる生命の定義は、ある状態での普遍的定義を哲学的に「生命」と論じ

     たのみで、生物学における物質の状態を述べたものではありません。

     ひゃっきまるさんは「それは生命と言う言葉で論ずる必要は無いのではない

     か?」とお考えかも知れませんが、生命哲学なるものは、歴史上私のような理

     論も生命論の一つとして、認知されている事を御承知置き下さい。

 

     >このように考えていけば、宇宙を生命と呼ぶのがいかに

     >無茶なことであるか分かると思います(後略)

 

     逆に下記の説明を用いれば、いかに「宇宙を生命」と論じてもそれ自体が矛盾

     を持っていないかが弁証できます。

 

     生命は、生物と不二の存在と定義付けない以上、生命は、生物を含む全ての縁

     によって出された果の集大成だと言う事になります。

     また、宇宙=生命と言う考え方も一つの定義ですが、私は宇宙ですら、無数に

     存在しそれ自体が数の概念では、表現出来得ないものだと推察します。

     つまり、私が論ずる生命なるものは所詮「時間」「空間」「数量」などは、そ

     の表現方法の違いでしかなく全ての概念が、因・縁・果による無始無終の状態

     であり、その表現方法は、宗教における「生老病死」の実相に近似値的である

     ため、私は、哲学のみではなく宗教にも私が考える「生命論」なるものが存在

     し得ると推察するのです。

 

     続きます

 

708 名前: 文底 投稿日: 2000/05/18() 15:57

 

     しかし、実相としての因・縁・果が分かったとしても、それを「祈りにより」

     「奇跡が起こる」との縁起論は、私の哲学の中で論理的裏付けが出来ません。

     これが、私が哲学から宗教へ動機付けさせない大きな要因になっています。

     この理論を「論理的裏付けをして貰えるのではないか?」と期待する事が、私

     の現在のスタンスであり、それは今も変わっていません。

 

     >生命のイメージの元になった生物が唯物的に解析可能であることを考えれ

     ば、

     >「祈り」のシステムも唯物的に解析可能であるはずです。

 

     ひゃっきまるさんは、私の考えを「生物が唯物的に解析可能」との唯物論的発

     想であるとお考えですが、私はむしろバークリーの主観的観念論やロッツェの

     生命的機械論などの発想を超えたところに、力点を置いているので、「祈り」

     のシステムは当然解析不可能になります。

     祈りのメカニズムは、医学的、科学的には、やがて解明されていくでしょう、

     しかし、人間が何故祈るようなメカニズムを持ち得たのかは、もっと根源的命

     題です。

     全てのメカニズムは、人間の科学の進歩において解明される日は来るでしょう

     が、そのメカニズムがなぜ「本来持ち得たのか?」との根本的命題は、科学や

     医学では解明不能です。

     つまり、メカニズムのメカニズムたる所以をどのように定義するか?

     まあ、これはやはり哲学の範疇に入るのでしょうが、この「祈り」のメカニズ

     ムの根本的命題が論理的裏付けを持ち得ないのも「永遠のテーマ」なのかも知

     れません。

 

     続きます

 

709 名前: 文底 投稿日: 2000/05/18() 15:58

 

     >実は「祈り」によってなぜ効果があるか、というのは、医学の分野では立証

     されつつあります。

     >(中略)どのようなイメージをもって祈るか、というのが重要になってきま

     す。そして、

     >自分自身の内に秘められているものに対して祈る、ということがよく強調さ

     れます(後略)

 

     医学、科学などで「祈り」の効能については、現在かなり解明されて来まし

     た、しかし、それらは宗教と言う範疇では、まだ一部分に過ぎません。

     ひゃっきまるさんに以前もお聞きしましたが、貴方が「アンチ学会」なのは了

     解しました。

     しかし、日蓮仏法に対しては、どのようにお考えですか?(日蓮もやはり嘘つ

     きですか?)

     日蓮仏法の教義の中には、「他の環境にも具体的作用する超自然的な祈り」も

     入っておりますが、それらに付いてはどうお考えですか?

     ひゃっきまるさんが「祈り」自体を認めている訳ですから、ひゃっきまるさん

     の日蓮仏法におけるお立場を明確に述べて下さい。

 

     続きます

 

710 名前: 文底 投稿日: 2000/05/18() 15:59

 

     最後に・・・

     「祈り」の非論理性についての一考察

 

     「祈りは非論理的である」との認識を持つことは、宗教の存在そのものを否定

     する事にも繋がりかねないと考える。

     しかし、人間の歴史、民族、国家、どれをとっても、宗教に影響されたものは

     無い、したがって「祈り」そのものの概念を否定する事は、人間の尊厳それ自

     体を否定する事にも繋がると考える。

     しかしながら、論理性の乏しい、非科学的意味あいの強い「祈り」は、しばし

     ば人々の思惑によってその存在自体を甚だ胡散臭いものにしてしまった。

     此処に「祈り」の定義を難解なものにしてしまった要因があると考える。

     しかし「祈り」を人間が繰り返し行って来た実態を見るにつけ「祈り」は何か

     の動機付けにはなっているのは間違いない。

     それが、非論理的であれ、非科学的であれ「祈る人々」は存在し続けるのだか

     ら・・・

     その存在自体を認識した上で「祈り」の実態を右顧左眄しながらでも模索する

     事に、人間が人間である存在意義があると思う。

     非論理的「祈り」を論理的科学で追求する人類が行う行動自体が、人間が本来

     持っている「生命」の実相ではないのだろうかと・・・・

 

     繰り返し断っておきますが、私の意見は、創価学会の生命論を裏付けしたり、

     説明する物ではない事をご了解下さい。

 

     以上です。

 

711 名前: 文底 投稿日: 2000/05/18() 16:22

 

     宗教に影響されたものは無い

 

     宗教に影響されなかったものは無い

 

     に訂正いたします。

 

712 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/18() 21:53

     >文底さん

 

      また私の勘違いかもしれませんが・・・

 

      文底さんのカキコを見ていると、「祈り」による「奇跡」的なことを「肯

     定」される

      スタンスのような気がするのですが・・・。

      心理学初心者さんやひゃっきまるさんの言われた「祈り」による「効果」以

     上のもの

      があるとお考えなのでしょうか?

      たとえば、日蓮が言うように「謗法によって天災が起こる」ようなこともあ

     り得ると

      いう考え方ですか?(理論的裏付けは別として)

 

713 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/18() 23:59

     ひゃっきまるさん、ご返事ありがとうございます。

     少し感想を付け加えさせていただきます。

 

     >創価学会の場合、祈る対象というのは「自分の生命」であるので、そういう

     意味の哲学性は評価されるべきでしょう。

 

     そうなんですか? 学会員の方は「自分の生命」に対して祈っているのです

     か? もっとも彼らは「生命」=「仏」=「法華経における久遠本仏」=「法

     華経そのもの」=「題目」と次々にシフトしていくのでしょうから、確かにそ

     ういうことなのかも知れませんが・・・。

     日蓮の思想は法華経の原理主義的把握をはずしては決して成り立たないと思い

     ます。もし学会が、以前若葉さんが引用しておられたように「題目」=「生

     命」のシフトを行い、法華経の世界を「生命論」の観点から解釈しているのだ

     としたら、法華経は「生命」を表現するための形式の一つに過ぎないことにな

     り、法華経の原理的絶対性は崩れます。もはや「南無妙法蓮華経」には何の特

     権的な意味もなくなるでしょう。

     続きます。

 

714 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/19() 00:08

 

     >神などと違って「自分の生命」は確実に存在するのであり、また、僕の仮説

     に従えば、もっともダイレクトな祈りと言えますから。

 

     上のような「生命」=・・・=「題目」という妄想的(失礼!)等式はさてお

     くとしても、私には「自分の生命」に祈る、というスタンスは理解できませ

     ん。もし祈る対象として「自分の生命」というのを定立するならば、それは単

     に医学や生理学・生物学の対象としての「生命」ではありえないのではないか

     と思います。有機体、及びそれに対する既成の知に還元されない「生命」を対

     象とするのであれば、とりあえず自分にとって未知なものを「生命」と名づ

     け、それに対して祈っていることになります。自分にとって未知なものに対し

     て適当な名をつけ、それを認識したり分析したりする前に(あるいは、それを

     しばしば拒否して・・・ひゃっきまるさんがそうでないのは承知してますが)

     「祈る」というのは、一般的な「宗教的信仰」の枠を出るものではないと思え

     るのですが。

     さりとて有機体・・・に還元される「生命」を対象として祈るというのは、成

     り立たないと思います。自分がその振るまいや仕組みを熟知している対象に

     「祈る」というのは考えにくいでしょう。

     ただ、自分の生命の未知な部分を「信頼」する、或いはそれが持つはずの可能

     性に「賭ける」というのなら話はよくわかります。でもその場合、「信頼」を

     「祈り」と言いかえるのは、物事を強引に「宗教的」文脈に引き込むようにも

     見え、「生命」を「仏」と言いかえるのと同じような、怪しげな等式化という

     気もしないでもないです。

     実際、ひゃっきまるさんは、「自分の生命」を対象に祈っておられたりするの

     ですか?

 

715 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/19() 00:26

 

     文底さん

     文底さんの立場は、触れれば触れるほど、以前にあげた新プラトン主義やベル

     クソンの思想を思い起こします。言語や論理による分析的認識を超えた、実在

     そのもの(生命)を直観(あるいは「祈り」や宗教的「体験」)によって把握

     する、というような。たぶんそういうスタンスが、若葉さんの言われる

 

     >「祈り」による「奇跡」的なことを「肯定」されるスタンスのような気がす

    

 

     という印象を与えておられるのでは? と思います。もし私の推測が正しけれ

     ば、文底さんは「祈り」に「効果」以上の意義を認めてはいるが、「奇跡」的

     なことを「肯定」されるスタンスでは必ずしもない、ということになりそうで

     すね。

     ただ私が不思議に思うのは、そういうものを言葉で記述する際に「因・縁・

     果」といったタームを使われることです。文底さんの考えの根幹を「実在その

     もの」としての「生命」だとするのならば、それを「因・縁・果」という本来

     極めて分析的な概念を用いて語られているのが不思議に思います。

 

716 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/19() 02:21

     >ひゃっきまるさん

 

     >「祈り」によって効果があるのと、創価学会の教義が正しい、というのがど

     のようにむすびついているか、そのあたりをもっと詳しく解説し>てもらえな

     いでしょうか。

 

     「創価学会の教義」という言葉がありますが、創価学会が日蓮仏法に対して独

     自の教義を付け加えたという例を目にしたことはありませんので、「学会の教

     義」=「日蓮仏法」であり、日蓮仏法が正しいと考えています。では、なぜ日

     蓮仏法が正しいと考えるかと言えば、

     ・祈りによって効果が現れた

     ・日蓮仏法の哲学が、全く納得のゆくものであった

     ・日蓮仏法の実践者と、非実践者の辿る道の違いをこの目で沢山見てきた

     からです。

 

     僕は学会の全てが正しいと考えるものではありません。

     「学会の行動」と一口に言っても、様々な人間が学会の中で動いているわけ

     で、一見すればみな「学会」の行動でも、行っている人間は別人である場合が

     殆どです。営業に来た一人の人間や、スーパーのレジ係の対応が悪かったから

     といって、一企業の体質を云々することが正しくないのと同じです(往々にし

     てそのようなことはありますが)。ただ、長い間付き合ってきて、世界平和を

     目指すという活動家たちの言葉に一片の下心も曇りもないこと、そうした身近

     な人の正しさを見て、「学会は正しい」と判断するものです。

 

717 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/19() 02:25

     ところで、ひゃっきまるさんは2世のようですが、僕は学会において理性を破

     壊されるような破目にあったことがありません。それは具体的にはどのような

     ことを指してらっしゃるのでしょうか?また、「嘘」とは何を指すのかを語っ

     ていただけると嬉しいのですが。

 

     >唱題することは、理性の領域より深い部分に影響を及ぼすのではないか、と

     いうことです。

 

     「やってみなくてはわからない」……正しく学会の常套句になってしまいます

     ね(苦笑)。でも突き詰めればこれ以外に言いようがないのも事実ですが。日

     蓮仏法では、南無妙法蓮華経と唱えることで本来備えている生命の根底に縁

     し、本質的な部分から生命力を湧現する、となるでしょう。

     しかし、催眠術の一種であるなら、別段信じていないどころか、強烈に否定す

     る人間にまで影響を及ぼすのは何故なのでしょう?

     「やってみたことのある」ひゃっきまるさんは、心理的な効果としての功徳は

     肯定してらっしゃるようですが、「罰」についてはどうお考えですか?

 

718 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/19() 10:38

     ZEGAさん、ご質問させていただきます。

 

     第1に、

 

     >「学会の教義」=「日蓮仏法」であり、日蓮仏法が正しいと考えています

 

     ですが、では創価学会以外の団体が日蓮を信奉している場合、そうした団体の

     日蓮把握はどう位置づけられるのでしょうか。

     また、他の団体は日蓮を誤ってとらえており、学会だけがそれを正しくとらえ

     ているとするなら、それはどういう理由から言えることでしょうか。

 

     第2に、

 

     >祈りによって効果が現れた

     >強烈に否定する人間にまで影響を及ぼす

 

     ですが、ZEGAさんは度々こうした主旨のことをお話されておりますが、正

     直言って私などはそれを疑わしいものと受け取っております。もう少し具体的

     な説明をいただけないでしょうか。

 

     第3に、

 

     >日蓮仏法の哲学が、全く納得のゆくものであった

 

     ですが、日蓮の哲学のどのようなところに納得なされているのか、ZEGAさ

     んなりにそのエッセンスをご説明願えないでしょうか。

 

     続きます。

 

719 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/19() 10:39

 

     第4に

 

     >日蓮仏法の実践者と、非実践者の辿る道の違いをこの目で沢山見てきた

 

     これについても是非具体的な説明をいただければと思います。例えば「日蓮仏

     法の実践者」である人が他人を苦しめたり、独善的な振るまいで周囲の顰蹙を

     買ったり、自分の欲求不満を「義憤」と勘違いしたり、総じて「全く救われな

     い」ようになってしまっている例を私もこの目で沢山見てきましたが、それで

     もそうしたことの原因を「日蓮仏法」のみに還元することはできないだろうと

     思いますし、その逆もまたそうでしょう。ですから私は、ZEGAさんが「日

     蓮仏法が正しい」理由としてこのことを挙げている主旨そのものが理解できな

     いのです。

 

     続きます。

 

720 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/19() 10:39

 

     第5に、

 

     >身近な人の正しさを見て、「学会は正しい」と判断するものです

 

     とありますが、以前の書きこみから判断しても、ZEGAさんは「身近な人」

     の人格性からその信仰の正しさを判断しているように思います。それはそれで

     一つの価値観であると思いますが、同じ理由でキリスト教徒はキリスト教を、

     ゾロアスター教徒はゾロアスター教を、オウム真理教徒はオウム真理教を、

     「正しい」と判断するでしょう。従ってZEGAさんの判断は、今のZEGA

     さんがおられるような環境において、ZEGAさんにとっては正しい、という

     ことにはなると思いますが、客観的に言って他の信仰体系や思想に比べて「学

     会が正しい」と言える理由には全くなっていないと思われます。

     ZEGAさんが「学会の正しさ」を主張なさるのであれば、それは他の思想と

     の比較の上で、あなたが考える日蓮仏法の真理性を、あなたが説明しなくては

     ならないものと考えます。ZEGAさんがあげられたような仕方で「正しさ」

     を判断するのであれば、まさに私は

     「身近な人の破綻ぶりを見て、『学会は間違っている』と判断するものです」

     といっても、ZEGAさんと全く同等の資格で自説の「正しさ」を主張できる

     ことになります(私自身はそういう論法自体正しいと思っていませんので、身

     近な学会員が破綻しているように見えるからという理由で、学会自体が間違っ

     ていると判断するわけではありません。従って、「たまたまよくない学会員が

     外道さんの周囲にいただけです」という反論(?)はお受けできません。)

     第4と第5の質問は内容的に重なるところがあるので、合わせていただいて結

     構です。

 

     第6に、

 

     >南無妙法蓮華経と唱えることで本来備えている生命の根底に縁し、本質的な

     部分から生命力を湧現する

 

     ですが、こうしたことがどうして言えるのか、その因果関係等についてご説明

     いただけたら幸いです。第3の質問と重ねていただいて結構です。

 

721 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/19() 17:58

     またまた横レスですみません。

     今までのすべての経緯を4時間かかって読みました。

     ここは、大変質の高いスレッドで、すばらしいと思いました。

     非常に勉強になり、感動しています。

     これからの議論の展開を楽しみにしています。

     特に文底さんのご意見には、とても賛同しています。

 

     私は右脳派なので、レベルについていけませんが

     時々横レスさせてもらってもいいでしょうか?

 

722 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/19() 18:42

     >ZEGAさん

     >ところで、ひゃっきまるさんは2世のようですが、僕は学会において理性を

     破壊されるような破目にあったことがありません。それは具体的にはどのよう

     なことを指してらっしゃるのでしょうか?また、「嘘」とは何を指すのかを語

     っていただけると嬉しいのですが。

 

      創価学会の教義についての当然出てくる数々の疑問を、信じなければならな

     いという周囲からの重圧によって禁じられるということです。

      例えば、創価学会のみが世界で唯一正しい宗教であることを説明する数々の

     説明だとか、創価学会の政治に対する関わり方だとか、創価学会の運営方針だ

     とかです。決して末端信者に対しての疑問ではありません。

      最も大きな「嘘」を挙げるとすれば、法華経は釈尊が説いたものではない、

     ということです。これだけで日蓮系の宗派の主張のほとんどは妄想と大差ない

     ものになると思いますが?

 

     >「やってみたことのある」ひゃっきまるさんは、心理的な効果としての功徳

     は肯定してらっしゃるようですが、「罰」についてはどうお考えですか?

 

      宗教をからめなくても、普段からの心がけが良い、悪い、というのはいずれ

     表に出てくるでしょう。

      それとは別に、退転することの罰について考えてみると、「退転することは

     とてつもなく大きな罪である」ということを思いこんでしまった人が、退転せ

     ざるを得ないとき、当然大きな心理的効果が働くと考えます。無宗教者の宗教

     に対しての警戒心は、まさにこの部分に対してのものです。一度信仰してしま

     ったら、その宗教の論理の中から抜け出すことが非常に難しくなるのです。

      『・日蓮仏法の実践者と、非実践者の辿る道の違いをこの目で沢山見てき

     た』とおっしゃいましたが、もしこれが上記した心理的足枷のせいだとすれ

     ば、まことに恐ろしいことと言わざるを得ません。

 

      他にいいたいことはたくさんあるのですが、第7の外道さんが僕よりもずっと

     的確に質問されているようなので、とりあえずZEGAさんは外道さんに答え

     るのを中心にスレッドをすすめていくのがよろしいのでは、と思います。

 

723 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/19() 18:45

     >第7の外道さん

      僕自身、仏教に詳しいわけでも、学会教学に詳しいわけでもないのでうまく

     答えられるか分かりませんが、御本尊に祈るというのが学会の中でどのように

     理解されているかを説明したいと思います。(僕は今、いかなる学会関連の書

     物も調べる気になれないので、もうしわけありませんがもし間違いがあればZ

     EGAさんが訂正して下さい)

      念のため言っておきますが、僕は以下からの教義を信じているわけではない

     ので反論にお答えすることは出来ません。

 

      1・御本尊は生命(仏)を図式化した曼陀羅である。

      2・人間の十の生命状態(六道+四聖)のうち、最高のレベルを仏界とする

      3・人間の精神のメカニズムとして、五感(一識〜五識)、五感を統合する

     意識(六識)、好悪などの無意識の領域(七識)、カルマの貯蔵庫(八識)に

     続き、最も精神の深い部分にあるのが九識(仏界)である

 

      ※2と3の仏界の概念の違いはよく説明できません(分かりません)

 

724 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/19() 18:46

      人間は誰でも精神の内奥(九識)に仏界があるのだが、それはカルマ(八

     識)からの影響によって、それよりも低い生命状態(三悪道など)になってし

     まっている。しかし仏界を図式化した曼陀羅に祈ることで、生命状態を仏界に

     引き上げることが出来る。

      祈ることについて説明すると、例えばお稲荷さまに向かって祈ると、狐に向

     かって祈ることになるから、畜生道の生命状態におちるとされます。また、死

     者の位牌に向かって祈ると、死者の今いる生命状態に落ちるとされます。つま

     り、死んだ人が餓鬼界に落ちていると、餓鬼界の生命状態になるというわけで

     す。御本尊には、南無妙法蓮華経の下に、日蓮の文字がありますが、人である

     日蓮に祈ってもよいと聞いたことがあります。これは、日蓮が仏界の生命状態

     であるからでしょう。(だったら釈尊でもよいはずですが、なぜかダメな様で

     す。)

      余談ですが、お気づきの通り、ここで語られる仏界とは、バラモン教のアー

     トマンと極めて近い概念です。「そのまんま」といって良いでしょう。アート

     マン自体は汚れない清浄な魂であるが、それが汚れてしまっているからきれい

     にする、という発想です。

 

725 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/19() 18:50

      こうした原理に従えば、

     『法華経は「生命」を表現するための形式の一つに過ぎないことになり、法華

     経の原理的絶対性は崩れます。もはや「南無妙法蓮華経」には何の特権的な意

     味もなくなるでしょう。』

     ということは確かに言えます。サンスクリット語でナームサダルマフンダリカ

     スートラと祈ってもよいということになりますし、南無仏、とか、南無生命、

     と言ってもいいことになります。しかし学会員は、「南無妙法蓮華経」や御本

     尊に表される曼陀羅が最も生命の奥深いものを表現するものとして適している

     と認識して、絶対としているのではないでしょうか。確か戸田二代会長が同様

     の発言をしていたはずです。(こうして見ると、最近の教義解釈のほとんどは

     戸田二代会長が考え出したもののようですね)

      例えば地球以外で文明があったとして、創価学会の論理から言えばそこでも

     法華経が信仰されているわけです。そこで、中国語である「南無妙法蓮華経」

     を唱えていることはどう考えてもありえません。しかし、意味としては同じこ

     と(つまり「生命」)を唱えているであろう、と学会員は考えるのです。

 

726 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/19() 18:52

     >もし祈る対象として「自分の生命」というのを定立するならば、それは単に

     医学や生理学・生物学の対象としての「生命」ではありえないのではないかと

     思います。

 

      もちろん、創価学会員が『医学や生理学・生物学の対象としての「生命」』

     を祈っているわけではありません。その生命の概念は、外道さんのおっしゃる

     とおり、未知(仮説的)なものであると思っています。

      『神などと違って「自分の生命」は確実に存在するのであり、また、僕の仮

     説に従えば、もっともダイレクトな祈りと言えますから。』と誤解をまねくこ

     とを書いてしまいましたが、この場合の生命とは自分自身の可能性とでもいう

     意味で使いました。学会の教義に従う意味で書いたのではなく、僕自分の解釈

     での生命です。

 

      生命について生物学的観点から説明しようとしたのは、文底さん、及び戸田

     二代会長の「生命」という認識が自然を観察して得られた認識ではないといい

     たかったからです。学会教学の仏界(生命)とは、「想定」以上のものではな

     いと思っています。しかし、それの存在を信じることによっての祈りの効果は

     あるのではないか、と思います。僕自身について言えば、それを理性では拒否

     していても、無意識には信じていると思います。

 

727 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/19() 19:52

 

     文底さん

 

     昨晩の発言は取り消します。

     第7の外道さんのカキコを見て、やっと文底さんの主張されていたことの意味

    

     分かりました。(^^ゞ アタマが悪いもので、申し訳ありません・・・m(__)m

     しかし、学会に「理論的裏付け」を求めてはいけません・・・()

 

     現役の僧侶の方もいる下記で質問してみたらい如何でしょうか?

 

     http://www.aaacafe.ne.jp/free/beat_libra/main.bbs

 

728 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/19() 20:08

     >文底さん

     >生命の定義についてひゃっきまるさんは「生命は生物に備わっている現象で

     ある」と、定義付けられていますが、私は「生命は生物にも備わっている現象

     である」と定義しています。

 

      もちろん、最終的に「生物以外にも生命現象がある」ことを目的した考察な

     ので、僕も生物だけに生命があると定義してはいません。そこは文底さんの勘

     違いです。生物には間違いなく生命があるのならば、生物の特徴を分析するこ

     とによって生命とはなにか?が明かせるのではないかと試みたのです。

      しかし文底さんの文章を読むと、そういうアプローチは本質的に間違ってい

     る、ということでしょうか。正直言って、文底さんの定義する「生命」だと

     か、それに対する説明は僕にとって非常に難解に思えます。ですから、文底さ

     んの文章を理解できず、反論も同意もできないでいます。

 

     >ひゃっきまるさんは「それは生命と言う言葉で論ずる必要は無いのではない

     か?」とお考えかも知れませんが、生命哲学なるものは、歴史上私のような理

     論も生命論の一つとして、認知されている事を御承知置き下さい。

 

      まさしくその通りで、どうしてその概念に「生命」と名付けるのかが分かり

     ません。文底さんは、クローンに関するところから生命を考えたのではなかっ

     たのですか? 生命哲学にどのような歴史があるのかは知りませんが、どのよ

     うにして始まったにしろ、生命という概念は生物からしか生まれ得ないのでは

     ないですか?

 

     >ひゃっきまるさんは、私の考えを「生物が唯物的に解析可能」との唯物論的

     発想であるとお考えですが、私はむしろバークリーの主観的観念論やロッツェ

     の生命的機械論などの発想を超えたところに、力点を置いているので、「祈

     り」のシステムは当然解析不可能になります。

 

      文底さんの考えを推測したわけでなく、あくまで僕の考えとして言いまし

     た。しかし僕は哲学は知らないので、カント、ロッツェ、などと言われてもな

     んのことだか分かりません。なるべくそういった言葉なしでシンプルに文底さ

     んの考えを説明できないものかと思います。

 

729 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/19() 20:10

     >文底さん

      でも結局、文底さんは何がいいたいのでしょう? 今のところ僕が理解した

     ことと言えば、「宇宙は因・縁・果でなっているよ」というだけのことで、そ

     れだったら「生命」という言葉を使う必要もないし、わざわざ言われなくても

     分かってる、と感じてしまうのですが。

 

     >しかし、日蓮仏法に対しては、どのようにお考えですか?(日蓮もやはり嘘

     つきですか?)日蓮仏法の教義の中には、「他の環境にも具体的作用する超自

     然的な祈り」も入っておりますが、それらに付いてはどうお考えですか?

     ひゃっきまるさんが「祈り」自体を認めている訳ですから、ひゃっきまるさん

     の日蓮仏法におけるお立場を明確に述べて下さい。

 

      702703のレスを見て下さい。日蓮大聖人に関して言えば、僕は大変尊敬し

     ています。しかし、信仰対象としてではなく、人間として尊敬しているという

     ことです。当時の時代では法華経が釈迦によって説かれたわけでないことは知

     り得ないわけですから、むしろ大聖人は非常に純粋な信仰者だったと思いま

     す。しかし、だからといってそれによってものごとの真偽が影響されるわけで

     はありません。

      あと、僕は仏教は他の宗教よりも優れているのではないか、と思っていま

     す。深い哲学性があるというのと、無神論である、という点でです。しかし、

     これも釈尊が直接説いた、本来の教えに関して言えば、という話です。

 

      ひとつ断っておきたいのは、僕は「祈り」を軽視しているわけではありませ

     ん。子供が死にそうなとき、親は祈らずにはいられないでしょう。祈りが子供

     に作用するかどうか、という問題ではなく、そうやって祈る人を誰がばかにで

     きるというのでしょう。

 

730 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/20() 00:41

     ひゃっきまるさん

     詳しいご説明ありがとうございます。しかしひゃっきまるさんの要を得たと見

     えるご説明を読んでも、論理の運びに突込みどころがありすぎて、とても部外

     者にはついていけない内容ですね。

     最初から決まっていることをひたすら肉付け(「裏づけ」ではない)するかの

     ような、煩瑣ではあるが本質的に空疎な言説、というのが「学会の思想」とい

     うものに触れる際に私が抱く感想です。

 

     >あと、僕は仏教は他の宗教よりも優れているのではないか、と思っていま

     す。深い哲学性があるというのと、無神論である、という点でです。しかし、

     これも釈尊が直接説いた、本来の教えに関して言えば、という話です。

 

     私もほぼ同じような立場です。仏教はあらゆる固定的な存在者や、いかなる状

     況においても自己同一性が維持される存在者(「超越者」「神」を含む)を否

     定し、今風に言うならニヒリズムや相対主義すれすれまで行きながら、そこに

     むしろ「救い」と「平安」の可能性を見たところに、他の宗教・思想にはない

     決定的な特質を持っていると思います。

 

     >ひとつ断っておきたいのは、僕は「祈り」を軽視しているわけではありませ

     ん。

 

     私も「祈り」にいそしむ人を、そのゆえに軽視するような意思は全くないし、

     祈るしかない状況もある、というのも自分なりにわかっているつもりです。特

     に一個人の無力さが突き詰められてしまうようなときには。しかしそこで自分

     の望んでいた方に偶々事が運んだからといって、「祈りに応えてくれる超越

     者」を措定したり、「祈り」に絶対的な価値を与えたり、あまつさえそこから

     「宗教」をつくってしまおうというのは、誤っている、と思うだけです。

 

731 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/20() 00:47

     メディスンさん

     いつでもどうぞ。横レス大歓迎です。

 

732 名前: 文底 投稿日: 2000/05/20() 02:43

 

     第7の外道さん

 

     私が哲学的生命論を論ずる事により、第7の外道さんが「新プラトン主義やベ

     ルクソンの思想」を思い起こすのは、無理もないと思います。

     第7の外道さんは「フィヒテ」と言う哲学者を御存知でしょうか?

     彼もまた、ベルクソンに影響を与えた一人であり、彼の思想には、二つの時期

     があり第一期は自我を中心にして述べられ、第二期は神へと思想が変遷するの

     です。

     デカルト(コギトと存在論的証明との二重の位置づけの証明)の思想からカン

     ト(普遍妥当的認識の先験的可能性)へ移行し、そして、フィヒテは「もし概

     念が統覚の一性から導出されることが証明されるとしたら、われわれは直観の

     質料そのものが形相の創造であると主張することに至るであろう」と意志主義

     的・理想主義的哲学を展開しました。

     その延長線上にベルクソンの哲学は見出されたと思うのです。

     何れにせよ、彼らの哲学思想のいたる所に「神」と「人間」との位置付けが模

     索されているのは、カントが述べた「我思う」処の本質的命題であり、私がそ

     の延長線上の哲学的命題を「直感」(私の場合は医学的遺伝子の解明ですが)

     に基づいて導き出したのが所謂「生命論」です。

     私は、宗教における論理的証明法によって私自身の「生命論」を確立できれば

     と思っているのですが、未だ、その命題に対し論理的説明付けのある「教義」

     に出合った事がありません。

     その為、あくまで私的な定義として「生命論」に宗教的意味合いの深い「因・

     縁・果」と言う言葉を使ったのです。

     ここで、話しは戻りますが「フィヒテ」は自身の哲学的命題を論証する上で、

     因果性(非我が自我を規定する)に付いて述べている所があるのです。

     この辺りの部分においても私が「因・縁・果」を私の生命論に付け加える動機

     付けがありました。

 

     これが

 

733 名前: 文底 投稿日: 2000/05/20() 02:45

     >「因・縁・果」という本来極めて分析的な概念を用いて語られているのが不

     思議に思います。

 

     に対する私の答えです。

     了解して頂けましたでしょうか?(第7の外道さんが哲学にある程度知識がお

     ありになるとの前提で述べさせて頂きました)

     しかし、私にとっては、この論理的思考なるものも、確固とした哲学的歴史の

     裏付けから述べているつもりなのですが、ひゃっきまるさんにとっては、私の

     述べる内容自体が正に「人を煙にまくような抽象的な言葉の羅列」であり「こ

     の胡散臭さに昔から辟易としてきた」事になってしまうのでしょうね・・

 

     >若葉マークさん

 

     いつも誤解を生む発言ばかりで申し訳ありません。

     若葉マークさん御紹介の板も存じ上げてはいるのですが・・・あそこで私のよ

     うな「抽象的発言」をすると、一層、普通の方々にとっては「意味不明」の論

     議になってしまいそうで躊躇しております。

 

     >メディスンさん

 

     私の愚見に御賛同頂き有り難うございます。

     私も、第7の外道さん同様大歓迎です。

     メディスンさんの御発言お待ちしております。

 

734 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/20() 07:42

     第7の外道さん、文底さんありがとうございます。

     ここ論客のみなさんは、意見を異にしながらも

     感情的になる事もなく、あくまでも純粋に議論されてる所が

     すばらしいと思いました。だから読みごたえがあります。

 

     私は彼氏が学会員だったため、なんとか脱会させたくて

     1年間学会の真実を調べ、5年前に彼を脱会させる事が出来ました。

     そのために、学会と宗門の事にはかなり詳しくなってしまいました。

     でも私は信仰自体を否定するわけではなく、もともと仏教が好きなので

     仏教に関する本を読んだり、瞑想したりはしています。

     でも宗教団体は苦手です。団体になると、なぜ宗教は腐敗しがちなのでしょう

     か?

     釈迦のやっていた事は宗教団体でしょうか?そもそも釈迦は信仰を

     していたのでしょうか?私には疑問です。

     釈迦は菩提樹の下で瞑想していたのではないですか?そして人々も

     同じ悟りを得れるように、指導していただけ。

     仏典と原子物理学の類似を見るにつけ、これは宗教ではなく、哲学であり

     物理学であると感じます。

     もともと、科学と宗教はひとつのものだった。そこに垣根はなかったはずで

     す。

     そして今科学のほうは、かなり宗教に歩みよりを見せてきています。

     今度は宗教の方も歩みよる番ではないのでしょうか?

     稚拙な言い方しか出来ませんが、私が今思っている事です。

 

735 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/20() 18:20

      日蓮仏法(もしくは天台に至る教学)が、なぜ九識(仏界)を想定しなけれ

     ばならなかったのか、昔から考えていることがあります。ここには仏教に詳し

     い方々がいるので、せっかくなので審議してもらいたいと思いました。よろし

     く御願いします。

 

      もともと釈尊が説いたものは、我(アートマン)の否定であり、輪廻するの

     は魂ではなくて業(カルマ)である、という思想だったと思います。釈尊の発

     想は全て貫徹した因果論によってなされているように感じます。しかし、因果

     論を徹底させていくと、それは自然と決定論に向かっていくのではないか?

 

      一識〜五識(五感)は、外界からの情報(「縁」)を受け取る器官です。一

     方、八識(「業」の貯蔵所)の影響によって七識(好悪などの無意識の個人の

     性格)があり、これはその人の持っている「因」と言えます。「縁」と「因」

     が出会う場所である六識(意識)で、身(行動)、口(発言)、意(思うこ

     と)の判断がされ、行われたものが「果」となります。(これは同時に、次の

     因、縁になるのですが)

 

736 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/20() 18:21

      こうして考えてみると、実はその人の自由意志なるものは存在せず、環境

     (縁)と業(因)のみによって、行動(果)が決まっていると言えそうです。

      例えば、道に財布が落ちている状況(縁)があったとして、悪業(因)を持

     っている人はそれゆえにネコババし(果)、それが更に悪業(因)として蓄積

     され、そういう悪循環の宿命から逃れることは原理的に不可能ということにな

     ります。

 

      しかし、八識(業)のもう一段奥には、誰もが九識(仏界)をもっていると

     いう発想によって、その決定論を破ろうとしたのではないかと思うのです。創

     価学会でよく「宿命転換」というのは、そういう意味合いだと思います。

      釈尊自身はどう考えていたのでしょうか? その因縁果の仕組みを知り(悟

     り)、その仕組みから超越することによって宿命(輪廻)を打破させようとし

     たのでしょうか? それとも、自分自身や、仏法に「縁」させることによって

     悪循環を断たせようと思ったのでしょうか。(どちらにしろこの論理の上では

     「我」の存在の必要性はないのですが、)曼陀羅(御本尊)に祈るというの

     は、後者の発想の変形のように思います。

 

737 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/20() 18:22

     >第7の外道さん

     >論理の運びに突込みどころがありすぎて、とても部外者にはついていけない

     内容ですね。

 

      論理の仕方の真偽はともかく、十界論(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・

     声聞・縁覚・菩薩・仏)で人間の生命レベルを分類することには、子供のころ

     から感心していたものでした。なるほどとうなずかされるところがあるので

     す。お腹がすいてるときは、「今、餓鬼界だな」とか、怒りに我を忘れている

     ときは、「今、地獄界だな」と、客観的に自分の状態を知り、戒めることがで

     きました。そういう意味で無用のものではないと思ってます。ただ、仏界とい

     う生命状態だけは未だにわからないです。学会員で「今、仏界の生命状態だ」

     という人を見たことがありせんし。

      同様に、九識論もうなずかされるところがあり、無用のものではないと思っ

     てます。

 

738 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/20() 18:24

     >メディスンさん

     >仏典と原子物理学の類似を見るにつけ、これは宗教ではなく、哲学であり物

     理学であると感じます。

     >もともと、科学と宗教はひとつのものだった。そこに垣根はなかったはずで

     す。

     >そして今科学のほうは、かなり宗教に歩みよりを見せてきています。

     >今度は宗教の方も歩みよる番ではないのでしょうか?

 

      僕自身、科学と仏教の考え方には何か関連性があるのではないか?という部

     分で仏教にひかれる者です。今のところ、因果論を基礎にした唯物論という部

     分でつながっているのではないかと推測しています(生気や魂のようなものを

     否定する立場)。ただ、仏教的唯物論と科学的唯物論の間にはまだ溝がありそ

     うですが、この論議を通してなにか得られたら良いと考えています。『科学と

     宗教はひとつのものだった』という考えには大きく同意できます。ただ、『科

     学が宗教に歩み寄りを見せている』、ということには少し懐疑的です。確かに

     量子力学の観測問題や、カオス理論など、まるで哲学や宗教で語られていたこ

     とが科学の世界でも認められた、といえるようなことはたくさんありますが、

     僕には、「科学が何か新しい発見をするたびに、哲学や宗教はそれを都合のよ

     いように解釈してきた」ようにも思えるのです。一方宗教は、否応なく科学の

     明かしてきたことを認めなくてはいけない立場にあります。はじめは拒否して

     いても、いずれ認めざるを得なくなるのではないかと思っています。

 

739 名前: 文底 投稿日: 2000/05/20() 20:55

 

     ひゃっきまるさん

 

     色々な方に対しての熱心なカキコ&レスを拝見するにつけ、貴方の真面目さ、

     一途さを感じます。

     大変誠実な方だと思います。

 

     しかし、貴方の文面の奥からは、自分自身に対する日蓮仏法(創価学会の教

     義)の理性に対する拒否感と、自我の奥に刷り込まれてしまった信仰(祈り)

     への執着心との葛藤が随所で感じられます。

     ある意味、脱会したとしても貴方自身が、自己の中に刷り込まれてしまった

     「信心」から解き放たれない以上、貴方は貴方自身の言葉(理性)と心(感

     性)の葛藤にに苦しまれると思います。

     貴方は、気付かれていないかも分かりませんが、貴方の文体には意識・無意識

     を問わず、自己の正当化の為の論理付けが、貴方が一番嫌われている「創価学

     会」の論理付けと相似的になっています。

     その点に付いて、第7の外道さんが言われた「最初から決まっていることをひ

     たすら肉付け(裏づけではない)するかのような、煩瑣ではあるが本質的に空

     疎な言説」との言葉の意味をお考え下さい。

     ただ、この上記の言葉がひゃっきまるさんの書き込み自体を批判している訳で

     はないので、これからもご自由に述べられて下さい。

     そして、その論議の推移において、少しでもひゃっきまるさんの心の葛藤が、

     解消されて行く事を願っております。

 

     それではもう一度、ひゃっきまるさんのレスに対し、私なりのレスを付けさせ

     て頂きます。

 

740 名前: 文底 投稿日: 2000/05/20() 20:56

 

     >僕も生物だけに生命があると定義してはいません。そこは文底さんの勘違い

     です。

 

     と述べられた後

 

     >生命という概念は生物からしか生まれ得ないのではないですか?

 

     とのひゃっきまるさんの言葉は、どのように定義付けたら良いのでしょうか?

     この二つの定義付けは、私にとっては矛盾して感じられるのですが・・・

 

     >僕は哲学は知らないので、カント、ロッツェ、などと言われてもなんのこと

     だか分かりません。

     >なるべくそういった言葉なしでシンプルに文底さんの考えを説明できないも

     のかと思います。

 

     私は、カントやロッツェ等の哲学者の学説を此処で述べた事はありません。

     私は、哲学などを深く知らない人間に対し先人の哲学者の論文をひけらかす事

     を是としてはおりません。

     ただ、相手がある分野の学説を述べればそれに付いてその分野の学説を理解し

     ているであろうとの前提で、専門用語を述べる事はあります。

     ひゃっきまるさんは、創価学会員であるとの認識から、学会における専門教義

     は述べた事はありますが、それ以外の専門用語は、使ったつもりはありませ

     ん。

     では、なぜ固有名詞を使ったか?

 

     >どうしてその概念に「生命」と名付けるのかが分かりません。

 

     何も例証を引用せずに、私の思想のみを述べたならば、この様な疑問をきっと

     生じると感じたからこそあえてカント、ロッツェ等の固有名詞を引用したので

     す。

     私の論理的見解が、突飛な自分自身の妄想などではなく(まあ突飛でも良いの

     ですが・・)過去の歴史において「生命」を無機物や生物以外に命題をもって

     論じている「社会的に認知された学問が存在する」との論証を元に、私の推論

     をひゃっきまるさんに理解して頂きたかったからです。

 

     続きます

 

741 名前: 文底 投稿日: 2000/05/20() 20:57

 

     >でも結局、文底さんは何がいいたいのでしょう?

 

     私が述べた事は、ひゃっきまるさんが疑問に思われた、私の「生命論」なるも

     のの説明です。

     それは、決して特定の宗教団体の思想と同義ではなく、私は、私の哲学的思想

     の中での「生命論」であり、それが哲学的分野においては、過去の歴史からず

     っと命題として論じられており「宗教」だけの範疇に留まっていないもっと広

     義な思想であると言う事です。

     私は、哲学的私見から、宗教の効能(御利益・功徳)を類推すれば、科学で証

     明された「祈り」以上の効果を期待すると述べているに過ぎません。

     哲学は、世界や人生の究極の根本原理を客観的・理性的に追求する学問である

     ので、その範疇においては、全ての哲学的推論は、自由なのです。

     ですから、私の論旨は、私以外の誰かの意見を代弁する者でもないし、その正

     当性を客観的に述べている訳でもないのです。

     以上ご理解頂けましたでしょうか?

 

     続きます

 

742 名前: 文底 投稿日: 2000/05/20() 20:59

 

     >日蓮大聖人に関して言えば、僕は大変尊敬しています。しかし、信仰対象と

     してではなく、

     >人間として尊敬しているということです。(中略)

     >むしろ大聖人は非常に純粋な信仰者だったと思います。

 

     日蓮仏法の教義は、認めていないと認識して宜しいのですね。

     そして、純粋な信仰者としての立場を尊敬していると・・・・

     教義を認めずに立場を認めるなら、何故貴方は創価学会から脱会されるのです

     か?

     先ず最初に述べておきますが、歴史上「日蓮仏法」はその時代(鎌倉時代)に

     おいては、新興宗教の範疇に入ります。

     鎌倉時代における仏教は「天台学派」が本流であり日蓮宗・法然の浄土宗等は

     その教義を独自に解釈した人物であるとの認識が現在の宗教学では主流です。

     つまり、その時代の「純粋な信仰者」としての位置付けは、あまりにも歴史的

     宗教学からはかけ離れた存在だと思います。

     彼の振る舞いは「純粋な信仰者」としてよりも、むしろ、異端的存在であった

     と・・・・

     その証拠が、数々の「迫害(法難)」ですが、これはその時代の幕府の体制か

     ら見ればむしろ当然起きた結果であり「純粋な信仰者」と結論付けるには、あ

     まりにも論理的裏付けが乏し過ぎます。

     (その辺りの文献的論理的裏付けは、昼行灯さんがこれまで此処で述べられて

     います)

     貴方が、貴方の哲学的思想として「日蓮仏法」を論じるのは勿論自由ですが、

     貴方が創価学会を「嘘つきの団体」と結論付けるには、貴方の論法はあまりに

     も矛盾しています。

     貴方の論法から行けば、創価学会の方々が池田氏を「信仰対象としてではな

     く、人間として尊敬している」のは、貴方が今まで述べた事とまるで同じであ

     り、貴方が創価学会の教義に対し抱く矛盾は、外部の人間から見れば正に「創

     価学会的」思考そのものなのです。

 

     続きます。

 

743 名前: 文底 投稿日: 2000/05/20() 21:00

 

     貴方は「釈尊が直接説いた本来の教えに関して言えば、他の宗教よりも優れて

     いるのではないか」と述べられていますが、貴方は「法華経は釈尊の意を述べ

     た教えではない」と仰っていましたね、そして、それ(法華経)をもとにした

     日蓮仏法や創価学会の教義は「嘘」であるとも結論付けてます。

     だから、貴方は脱会を決意されたのですよね?

     ならば伺いますが、貴方が述べた「釈尊が直接説いた本来の教え」とは、一体

     どの様な教義なのですか?

     その論理的根拠を教えてください。

     私の立場において、貴方の述べている宗教的思想と創価学会の述べている宗教

     的思想は、その論理の展開において、全く同一のものとしてしか認識できませ

     ん。

 

     最後に、この発言内容自体が、ひゃっきまるさん自身の人格を否定するもので

     はなく、むしろその文章の量を見て頂き、私のひゃっきまるさんに対する誠意

     とお受け取りください。

     第7の外道さんが「論理の運びに突込みどころがありすぎて、とても部外者に

     はついていけない内容ですね」とのご感想をお持ちになった意味付けを今一度

     考えてみて下さい。

     私は、ひゃっきまるさんをこのスレッドにお招きした人間として、あえて長文

     のレスを付けさせて頂きました。

 

     以上です

 

744 名前: アンチメシア改めメシア 投稿日: 2000/05/20() 21:31

     悟りだよ、悟り。脱会した人だけがわかるんだよ!!

     よって、おまえらには・・・一生わかんねえよ!!!

 

745 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/20() 23:02

 

     >第7の外道さんが「論理の運びに突込みどころがありすぎて、

     >とても部外者にはついていけない内容ですね」とのご感想を

     >お持ちになった意味付けを今一度考えてみて下さい。

 

      これって、ひゃっきまるさんが説明された「学会の理論」のこと

      に対してではないですか?

 

      「(学会の)理論の運びに突込みどころがありすぎて・・・」

 

746 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/21() 00:08

     >第7の外道さんが言われた「最初から決まっていることをひたすら肉付け

     (裏づけではない)するかのような、煩瑣ではあるが本質的に空疎な言説」と

     の言葉の意味をお考え下さい。

 

     >第7の外道さんが「論理の運びに突込みどころがありすぎて、とても部外者

     にはついていけない内容ですね」とのご感想をお持ちになった意味付けを今一

     度考えてみて下さい。

 

     ですが、ここは若葉さんがおっしゃった通り、「学会の理論」に対するコメン

     トであって、ひゃっきまるさんのご発言に対してではありません。

     私個人としましては、ひゃっきまるさんのお考えは、「学会の思想」とは相当

     かけ離れた、一貫性のあるものと感じています。ただ文底さんの「生命論」に

     ついてはあまりピンとはこられていないらしく、それで何となく行き違いが生

     じているのかな、と感じます。

 

747 名前: 文底 投稿日: 2000/05/21() 01:01

 

     ひゃっきまるさん

 

     私が第7の外道さんのコメントを歪曲に解釈し、結果として、不愉快な印象を

     与えられた事を慎んでお詫びいたします。

 

     私が第7の外道さんのコメントを引用した部分に付きましては、全て撤回させ

     て頂きます。

 

     >若葉マークさん

 

     今度は私がやってしまいました。

     御指摘有り難うございます。

 

     >第7の外道さん

 

     第7の外道さんのコメントに対し、不適切な解釈をしてしまい申し訳ありませ

     んでした。

     以後、前後の流れに留意してコメントしたいと思います。

 

748 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/21() 01:29

 

     ひゃっきまるさん

 

     >釈尊の発想は全て貫徹した因果論によってなされているように感じます。し

     かし、因果論を徹底させていくと、それは自然と決定論に向かっていくのでは

     ないか?

 

     ですが、全くの私個人の解釈ではありますが、私の意見を述べさせていただき

     ます。

     因果論を徹底させれば、確かにそれは決定論に行き着くと思います。しかしそ

     れは、因縁果などが実体として客観的に存在しており、理論がそれを正しく反

     映できればの話です。

     釈迦は、因縁果をあくまで仮設的な概念としてとらえていたのであって、世界

     (業も含む)の客観的構造を把握するためにそれを用いていたのではないと思

     います。釈迦は世界の客観的構造の説明には興味を持ちませんでした。それは

     人の心の救いには関係ないと考えていたからですが、そもそも「世界の客観的

     構造」を云々するなどというのは、人間の概念遊びから立ち現れてきた一種の

     妄想であって、その「概念」なるものの恣意性や仮説性などを見ぬけば消え去

     ってしまうものだと考えていたのではないかと思います。この立場は、少なく

     とも龍樹は『中論』で受け継いでいると私は思います。

     続きます。

 

749 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/21() 01:32

 

     例えば、「りんご」という概念で実物のリンゴを表しているとします。これ以

     上意味の明晰な概念はないような気がします。ではリンゴを地面の上において

     ほっておきましょう。リンゴは段段変色し、腐り、形を崩し、土に返っていく

     でしょう。さて、一体どこからどこまでが「りんご」でしょうか?

     自然の過程は、刻々と変化しており、各段階が別の段階と相互浸透し合ってい

     る、言わば動的な流れそのものです。それを適当に区切って我々は「りんご」

     とよんでいるわけですが、それは私たちが自分たちの関心に合わせて世界を組

     織立てるにあたって、都合のよいようにこの「流れ」を切り分けているわけで

     す。「りんご」なるものは、私たちが概念によって世界を解釈しつくした上に

     成り立った、仮想の存在に過ぎません。

     同じ事を人間に当てはめてみたらどうなるのでしょうか? 人間はどこからど

     こまでが「自分」なのでしょうか? どこからどこまでが「自分の生命」なの

     でしょうか? 肉体が「自分」なのでしょうか? 「脳」でしょうか? 「意

     識」がそうなのでしょうか? 「魂」でしょうか? 右手だけをとって「自

     分」というのは変でしょうか? 人間というものを周囲の環境から切り取って

     独立した個体として見るのは、人間の頭の中ではできるでしょうが、実際のと

     ころはどうでしょうか?

     我々はどこかで「流れ」を切り分けて、概念を組織し、それなりの世界観を築

     くことができるでしょう。しかしそれはあくまで人間の都合によるものであっ

     て、「流れ」そのものが人間が概念化したように構築されている、という保証

     はどこにもありません。人間は、一定の概念体系が完成し、それに従って生き

     ていても特に問題も矛盾も生じなければ、それ以上は普段は特に概念を疑問視

     しません。少しの問題が生じても、うまく概念を整合化していければそれでや

     っていけます。しかしそれでも、ある流れを「りんご」と呼ぶのも、「原子」

     と呼ぶのも、「人間」と呼ぶのも、全て人間の勝手(個人の勝手、ではありま

     せんが)です。

     続きます。

 

750 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/21() 01:39

 

     釈迦は、業を実体視し、それを客観的に認識することから悟りを得たのではな

     いと思います。彼が問題にしたのは、むしろ「概念」だったのではないでしょ

     うか。概念によって様々な妄想や対象や世界像を描き、それに振りまわされて

     生きていては救われない、そうした概念による支配から脱出しなさい、世界に

     あなたが描いていたような実体などどこにも無いのだよ、というのが釈迦のメ

     ッセージだったのではないかと思っています。彼はその思考の延長として、

     「自己」や「心」、「魂」、つまり「我」といった我々にとっては最も根本的

     とも言えるものまでも、それが結局は概念によって描かれた虚像に過ぎないと

     見なしたのではないでしょうか。

     続きます。

 

751 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/21() 02:03

 

     >例えば、道に財布が落ちている状況(縁)があったとして、悪業(因)を持

     っている人はそれゆえにネコババし(果)、それが更に悪業(因)として蓄積

     され、そういう悪循環の宿命から逃れることは原理的に不可能ということにな

     ります。

 

     ちょっといじわるな言い方ですが、この例の因果は、あくまで客観的・絶対的

     なものではありませんよね。

     先ずこの例が成り立つには、「ネコババ」は「悪」である、という前提が必要

     ですが、これは必ずしも自明ではありません。文化や時代によっても違うでし

     ょう。また例えば、ネコババしても、その金で物を買ったおかげで物の売主の

     生活が救われるようなことがあった場合、ネコババという業自体は悪だったの

     でしょうか? ある行為が悪か善かなどというのは、それこそ条件次第で、相

     対的なものでしょう。一つの行為が同時に複数の意味を持ってしまう、という

     のもあるわけですし。

     そしてその因にしても、たった一つのものを絶対の因だと規定できるでしょう

     か? 財布の存在に気づかなければこの人はネコババすることはなかったわけ

     ですから、財布の存在に気づく、というのも因になりますか? そうした形で

     因が複数挙げられる場合、どれを決定的な因とするかは、議論が必要そうです

     ね。それにネコババするに至った動機も、本来は考察されなればなりません。

     続きます。

 

752 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/21() 02:14

 

     一つの業を理解するにも、実際は極めて多様なファクターが絡んでおり、これ

     をきちんと規定するのは決して容易ではありません。ただはっきり言えるの

     は、一つの業は条件(縁)次第で様々な仕方でその意義を解釈でき、その因

     も、それが及ぼす効果も、様々な条件(縁)を勘案すればするだけ様々な仕方

     で規定することができる、従って一義的に意味が規定できるような業などは存

     在しない、ということではないでしょうか。つまり、全ては条件次第でどうに

     でも解釈され規定できてしまうのであって、独立不変の意義を担ったものは、

     業であれ、事物であれ、存在しえない。絶対的な、唯一正しい解釈など存在し

     えない。

     実はそれが釈迦や龍樹の「縁起説」ではないのかな、と私は思っています。

     従って釈迦は因縁果といった概念を使いこなしてはいましたが、それは物事を

     一義的に解釈するためではなく、むしろ多義化し、一つの解釈に拘る思考を揺

     さぶるために、あくまで仮説的なものとして使ったのではないかと思います。

     すると、釈迦の場合「決定論」は導かれないのですから、「宿命」も成立しま

     せん。概念が描き出すものを実体視し、唯一視し、拘っていたから苦しんでい

     たのであって、実は全てが概念の戯れに過ぎず、拘るべきものなど何もなかっ

     たと知り、心の平安を得ること、それが「悟り」の意味だったのではないでし

     ょうか。そういうものだったからこそ、悟りは、今生きているこの人生のうち

     で得られるものだったとされたのでしょう。

     釈迦の思想のこうした性格を知るには、『スッタニパータ』が一番です。是非

     お勧めします。

 

753 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/21() 03:51

     一日アクセスしないだけでこの量とは。関心が高くて嬉しいですね。

 

     さて、全てのご質問にお答えしたいのですが、ちょっと多すぎるので、順を追

     ってお答えさせていただきます。

     その前に、回答を満足に行うには、

     ・生命論

     ・宇宙についての解釈

     ・態度決定のプロセス

     を説明しなくてはならず、複雑多岐に渡る説明を要します。また、大部に渡る

     仏法哲学を書きこみ出来る程度に纏めるのは不可能です。無理にやれないこと

     もないですが、暗記用英単語集のような、物事を解釈するために必要な周辺の

     部分をまるごと失った無価値な抜け殻になるでしょう。誤解を招いて無用の論

     議に時間を費やすのは本意ではありませんので、ある程度はご自分で既存の書

     物を読んで頂かなくてはなりません。何処に書いてあるかはこちらから指定し

     ますので、まずはそちらを参照していただきたいと思います。

     ただ、逃げだと思われるかもしれないのですが、これまで触れてきた沢山の書

     物の中で、「こういうことが書いてあった」をいうことを覚えていても、それ

     が何処にあったか忘れてしまったり、自分で持っていない本だったり、そもそ

     も本として纏まっていないものもあるので、類似したものを探すのに時間がか

     かる部分もあると思うので、そうしたところは回答が遅れることをご了承下さ

     い。

     続きます。

 

754 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/21() 04:21

     1.日蓮を信奉する他の団体について

     まず日蓮宗ですが、これは日蓮大聖人が生きている間に縁を切っています。理

     由は、二代の日興聖人以外の五人の僧侶が、日蓮大聖人の考えを理解せず、道

     を誤ったからだといいます。(例・御本尊を亡くなった人と一緒に埋めてしま

     った)日蓮宗は寺院の敷地内に神社を祭るなど、神仏習合が激しく、原型をと

     どめていません。

     次に日蓮正宗ですが、これはもう目にする機会も多いと思いますので、それら

     のどれか一冊でも読まれればお解りになると思います。

     他にも沢山ありますが、参考資料は手元にありません。これは追って指定しま

     す。

 

     2.祈りによる効果

     これは「功徳」と「罰」に分かれます。

     「功徳」個人的なことになり、恥ずかしいので触れられない部分もあります

     が、話せる範囲で僕として受けた「功徳」というのは、

     ・イヤな性格が好転した

     ・「車が欲しい」と祈ったら、ひょんな所から無料で手に入った

     ・持病の治療の糸口が得られた

     というところです。

     次に、「強烈に否定する人間にまで影響を及ぼす」というところは、「罰」と

     称している部分です。具体例ですが、僕は一族全員が学会員で、その中に未熟

     児だった従兄がいます。その従兄は僕よりもよっぽど信心をしっかりやってい

     る人間ですが、その従兄を酷くばかにする人がいました。その人が学会を激し

     く攻撃することがありましたが、「宗教などやっているからそんな風になるの

     だ」というような攻撃文句を持ち出したことがありました。しかし、その人が

     神経麻痺で倒れた後、もうばかにする事は無くなりました。

     「そんなことは偶然だ」とお思いでしょうが、ちょっと偶然が続き過ぎるので

     す。

     僕は宗教を否定する人間だったので、こういう奇跡体験みたいなことを読んで

     も、「うぅっさんくさぁ〜〜い」と感じる人の気持ちがよく分かるのですが、

     僕は嘘をついていません。それだけは信じてください。

 

755 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/21() 04:34

     続き

 

     3.日蓮仏法への納得

     第7の外道さんは日蓮仏法をよくご存知でしょうから、説明は省きますが、キ

     ーワードだけで言えば十界論、一念三千、草木成仏、仏性、五重の相対など…

     …キリがありません。ツッコミがあればポイントを絞って議論したいと思いま

     す。

 

     4.実践者と非実践者の違い

     話せば長くなるので、要点だけ。

     ・経済力を始めとする生活状態

     ・性格、人間性といった心理状態

     といったところです。

 

     5.人間から判断していることについて

     これは態度決定のプロセスについて論じるときに詳述します。

 

     6.南無妙法蓮華経と唱えることで〜

     これは現実に起こっている祈りの効果を鑑みて、「どうもそういうことらし

     い」と考えている、ということです。

 

     読むだけでも時間が掛かるので、回答が遅れることをご容赦下さい。

 

756 名前: ぱらのいあ 投稿日: 2000/05/21() 06:55

     法華経その他の話は、御書にわづかでもかかわりを持った私には大変興味深い

     物があります。

     ちょっとお聞きしたいんですが、このスレッドの方々って、「創価系」なんで

     すか?

     それとも「正宗系」なのですか?参考までにお聞きしたいです。

 

757 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/22() 01:05

     僕は現役の創価系です。

     このスレッドで信心している人は僕だけみたいですよ。

 

758 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/22() 03:47

     ひゃっきまるさん。

 

     >ただ、『科学が宗教に歩み寄りを見せている』、ということには少し懐疑的

     です。

     >確かに量子力学の観測問題や、カオス理論など、まるで哲学や宗教で語られ

     ていたことが

     >科学の世界でも認められた、といえるようなことはたくさんありますが、

 

     科学もギリシャ時代の科学は、神秘主義と同じでした。でも17世紀にヨーロッ

     パで

     物と心を分離してしまった。それから300年。

     科学と宗教の戦いは、終結し現代では科学が人々の新しい宗教となっているに

     等しいわけです。

     でも、近年のニューサイエンティスト達は、サイエンスの究極を追いかけてい

     くと、

     どんどん仏典や東洋哲学に近づいていく事に気づき始めています。

     ボーアとかシュディンガー、ハイゼンベルグなどはかなり深く仏教に傾倒して

     いたと聞きます。

     物理学者のデビットボームなどは、その著書「全体性と内蔵秩序」で「この宇

     宙は二重構造になっており、

     我々がよく知ってる物質的な宇宙の背後にもうひとつの目に見えない宇宙が存

     在します。」などと、信じられないような事を書いています。

     その宇宙の事を暗在系と呼んでおり「暗在系では、明在系(物質界)のすべて

     の物質、精神、時間、空間などが、全体として畳み込まれており分離不可能で

     す。」

     とも言っています。

 

     これなどはまさに、「色即是空」「一切皆空」といったところでしょうか?

     暗在系の反映が物質であり、身体であり明在系そのものだと説いています。

     まぁ、この説が正しいのかは今の所知りようもありませんが、これがどっかの

     教祖が言ってるんじゃなくて、

     ノーベル賞まで取った物理学者が言ってるんですから、時代も変わったもので

     す。

 

     実際素粒子の世界では、現代科学で説明出来ない事ばかり起こっているので

     す。

     そして素粒子の世界を極めていくと、なぜか仏典とだぶるらしいんです。

     もちろん、まだまだ主説ではありませんが。

     でもガリレオガリレイから対立してきた科学と宗教も、ここへ来てそろそろ

     再び融合する時代が来たのかなぁと思う今日この頃なんです。

 

     続きます。

 

759 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/22() 03:53

     でも宗教の方は、それに対してまだまだ閉鎖的です。

     信じるか信じないかといったところを基調にしており、科学的な姿勢がまった

     く見られません。

     教義でガチガチに固まって、教祖や指導者に絶対服従するというような姿勢で

     は融合なんてとても無理です。

     特に「脱会すると地獄に落ちる」などの強迫観念を植え付ける事で信者を縛る

     ような宗教では

     真理に至る道は遠のくばかりだと私は思います。

 

     科学が宗教を検証出来る例をひとつ話します。

     これは、文証、理証、現証などとは少し違うお話です。

     オウム真理教の信者が今だにはまっているヨーガや瞑想ですが、瞑想によって

     10神経が興奮し

     ベータエンドルフィンなどの脳内麻薬物質を大量に出すためにすごい幻覚が現

     れる事がわかっています。

     これはモルヒネの6倍以上の麻薬作用なので、癖になるのもわかります。

     そしてオウムでさらにまずいのは、これらを幻覚だと知らないで悟りと勘違い

     する事。

     まだ、深い瞑想が出来ない人のために、本物の麻薬も使った事。これはとんで

     もない事です。

     この物質は人が死ぬ時に、苦痛をやわらげるために出る事がわかっており、ラ

     ンナーズハイと呼ばれるものもこれみたいです。

     禅宗では、このような状態を悟りとは呼ばず昔から禅病と呼んでいて「座禅中

     に神や仏が現れたら迷わずそれを刺し殺せ」と言われています。

     本当の悟りはこのような幻覚のもっともっと後に位置しているようです。

     これは私の考えですが、悟りとはボームの言う暗在系と明在系が完全に融合し

     た意識(?)状態になる事ではないかと思っています。

 

     話がこのスレッドとすっごくずれてしまってすみません。

     いずれにしろ、21世紀は宗教のほうももっともっと柔軟に変わっていかなけれ

    

     生き残っていけないでしょう。

     そのうち科学のほうが、宗教をすっかり解明してしまうほうが先かもしれませ

     んね。

 

760 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/22() 04:54

     ZEGAさん

 

     >まず日蓮宗ですが、これは日蓮大聖人が生きている間に縁を切っています。

     日蓮各宗派の歴史をもう一度お勉強なさることをお勧めいたします。

     ついでに、仏教史も初めから学び直されることもお勧めいたします。

 

       

 

761 名前: "名無しさん" 投稿日: 2000/05/22() 06:28

     無学

 

762 名前: 名有りさん 投稿日: 2000/05/22() 07:05

     美学

 

763 名前: ぽっぽっぽっ>757 投稿日: 2000/05/22() 07:35

     信心と教学と仏教実践はちゃんとやってるよ。

     ただ組織につかないだけなんだが。

 

764 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/22() 12:19

     ZEGAさん、ご返事ありがとうございます。

 

     >複雑多岐に渡る説明を要します。また、(中略)ある程度はご自分で既存の

     書物を読んで頂かなくてはなりません。何処に書いてあるかは《こちらから指

     定》しますので、《まずは》そちらを参照していただきたいと思います。(強

     調《 》は第7の外道)

 

     本などを指定なさる場合は、先ずあなた自身が、その本は読むに値する内容を

     持っていることを相手に納得させてからなさるのが筋だと思います。その本

     が、議論の当事者にとって「共通の教養」であると主張なさるのであれば、先

     ずそれを相手にも納得させなければならないのです。あなたの言葉にその説得

     力がないのならば、「自説に都合のよい文献でも紹介するつもりだったのだ

     な」と相手は思うことでしょう。

     ですから、ご自分の発言の根拠などについて私などが尋ねた場合、「〜という

     本に書いてあるので自分で読んでください」というのは、できれば勘弁してい

     ただきたいと思います。どうしてもそれをなさるのであれば、その概要をあな

     た自身がお示しになり、なるほどこの本は読まねば、と私を納得させるべきで

     す。(無論、その「概要」についても議論はありえますが、その当事者はあな

     たと私であって、その本の著者と私ではありません。)

     また、引用がある場合は、その引用をあなた自身が正しいと判断したから引用

     したので、私は引用を通じてあなたのお考えについて意見すべきだと思ってい

     ます。私は、ZEGAさんと議論をするのですから。この点について、私に何か間

     違いがありますでしょうか?

     多分私の懸念は杞憂に終わると思うのですが、ただ、

 

     >次に日蓮正宗ですが、(中略)それらのどれか一冊でも読まれればお解りに

     なると思います。

     >これは追って指定します。

 

     という「説明」の仕方を見ると、あなた自身のお言葉による説明などは期待す

     べくもないのではないか、と若干不安も感じます。「受け売り」に終始するの

     みで、ご自分の責任によって議論をしようという姿勢が希薄であるような気

     が、どうしてもするわけです。

 

     続きます。