日蓮ってver.1 4/4

 

765 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/22() 12:20

     1について。

 

     >これは日蓮大聖人が生きている間に縁を切っています。

 

     恥ずかしながら、初めて知りました。それは歴史的事実なのですか?

 

     >二代の日興聖人以外の五人の僧侶が、日蓮大聖人の考えを理解せず、道を誤

     ったからだといいます。(例・御本尊を亡くなった人と一緒に埋めてしまっ

     た)

 

     この考え方は日興側の見解ですよね? 日興側の意見が常に正しく、五人の側

     が常に誤っているという前提でもあれば「道を誤った」という言い方も可能で

     しょうが(そして学会員であるあなたは日興側の立場なのでしょうが)、日興

     の方を正しいとされる理由を説明してくださらないでしょうか? ここで、

     「日興がこう言っている〜」という論拠では「論拠」になりませんので、あな

     た自身の判断・主観で結構ですから、日興側が正しいとされる理由をお教えく

     ださい。因みに、

 

     >日蓮宗は寺院の敷地内に神社を祭るなど、神仏習合が激しく、原型をとどめ

     ていません。

 

     ですが、日蓮は神・天の存在を認め、国が守られたりするのも直接的にはそう

     した神・天などの力によるもの、と考えていたはずですから、これらを本仏よ

     りも上に見たりするのは変かも知れませんが、別に神社などをつくって祭って

     も、日蓮の教えに反するというわけではないと思うのですが、どうなのでしょ

     う?

 

     とりあえず以上にとどめます。

 

766 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 20:46

     >文底さん(引用が多くなるので、長文になります。申し訳ありません)

 

     >>僕も生物だけに生命があると定義してはいません。そこは文底さんの勘違

     いです。

     と述べられた後

     >生命という概念は生物からしか生まれ得ないのではないですか?

     とのひゃっきまるさんの言葉は、どのように定義付けたら良いのでしょうか?

     この二つの定義付けは、私にとっては矛盾して感じられるのですが・・・

 

      『生命という概念は生物からしか生まれ得ないのではないですか? 』という

     のは、定義として出したのではなく、単なる僕の憶測、予測です。これを定義

     として出して以前したような考察をしたわけではありません。僕が出した4つ

     の生物の特徴は、生物だけにあるものではありませんし。

      例えば、ある哲学者は太陽に生命を見るかも知れません。あるいは、エネル

     ギーという概念に生命をみるかもしれません。しかし、いずれにしても、まず

     生物から生命という概念が生まれ、その概念が他にも適用できるものとして生

     命の定義が広がっていくか、生物と他のものとの関連の中に生命をを見るか、

     どちらかではないかと、「予測」したのです。

      文底さんの言葉によれば、歴代の哲学者は生命を生物と関係無しに認識して

     いたようですから、例えば生物以外の何に生命をみたのか、ひとつだけ例をあ

     げてもらえれば、僕はすぐさま納得するのですが。

 

767 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 20:49

     >しかし、私にとっては、この論理的思考なるものも、確固とした哲学的歴史

     の裏付けから述べているつもりなのですが、ひゃっきまるさんにとっては、私

     の述べる内容自体が正に「人を煙にまくような抽象的な言葉の羅列」であり

     「この胡散臭さに昔から辟易としてきた」事になってしまうのでしょうね・・

 

      むろん、上記の僕の言葉は創価学会に向けての言葉であり、文底さんに向け

     てのものではありません。文底さんは単に自分の考えを述べていて、僕はそれ

     に対して理解しようと疑問を発しているだけですから。もし僕の発言が「非

     難」にように思えてしまったのならおわび致します。僕は考え方の違う人の考

     えを理解することは自分にとってプラスになると信じているので、ご迷惑でし

     ょうがしつこく質問させていただいているわけです。

      また、確認しておきますが、別に僕は論理的矛盾を追求するために論議して

     いるわけではありません。それ以前にまず理解しようとしています。

 

768 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 20:50

     >しかし、貴方の文面の奥からは、自分自身に対する日蓮仏法(創価学会の教

     義)の理性に対する拒否感と、自我の奥に刷り込まれてしまった信仰(祈り)

     への執着心との葛藤が随所で感じられます。

     (中略)

     貴方は、気付かれていないかも分かりませんが、貴方の文体には意識・無意識

     を問わず、自己の正当化の為の論理付けが、貴方が一番嫌われている「創価学

     会」の論理付けと相似的になっています。

 

      ご忠告ありがとうございます。しかし、確かに葛藤はあるものの、自分の発

     言や論理にはなるべく正当化や矛盾のないようにしているつもりです。お分か

     りの通り、僕は知識もないし、普段から論理的に考えている方ではないので、

     ここでは肩を借りるつもりでスレッドに参加しています。それゆえに、間違い

     は素直に認めようと心がけているし、ナイーブな問題なのでいたずらに人を傷

     つけたり、怒らせたりしないように、普段は使わない丁寧語なども使っている

     次第です。

      こうした議論は誤解やすれ違いは恒常的に起こるものです(特に今のよう

     な、相互に相手の言葉を理解していない状況ならば)。相手の考え方の確認の

     ないまま、「理性に対する拒否」「執着心」「正当化」「矛盾」という言葉を

     使われれば、正直カチンときます。

      もちろん、文底さんの僕に対する思いやりの心からこうした発言をされてい

     ると重々承知していますが、一歩間違えればいわゆる「人格攻撃」となること

     をご承知おき下さい。

 

769 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 20:52

     >私が述べた事は、ひゃっきまるさんが疑問に思われた、私の「生命論」なる

     ものの説明です。

 

      よく理解していないのでなんとも言えないのですが、文底さんの説明されて

     いたことはその「生命論」の説明ではなく、周辺的なことの説明のように思え

     てしまったので、もう少し具体的に分かりやすく説明してもらえないか、と思

     ったのです。

     『私は、哲学的私見から、宗教の効能(御利益・功徳)を類推すれば、科学で

     証明された「祈り」以上の効果を期待すると述べているに過ぎません。 』とい

     うのが、生命論の内容なのでしょうか? そうだとすれば、その辺をもう少し

     詳しくお願いします。前に書いた部分と重なるのであれば、その番号を指摘し

     ていただけませんか。

 

     > 教義を認めずに立場を認めるなら、何故貴方は創価学会から脱会されるので

     すか?

 

      教義を信じないなら脱会するのは当然だと思っていましたが、どこか変でし

     ょうか? 僕が大聖人を純粋な信仰者だと思ったのは、とことんまで法華経を

     信じ、自分の信念のもとに徹底的に行動したからです。といっても、まあこれ

     は僕の限られた知識の中で判断しているにすぎません。しかし例えばアインシ

     ュタインを尊敬しているからといって、彼の全てを知らなくては尊敬する権利

     はない、ということはないでしょう。

 

     >貴方が、貴方の哲学的思想として「日蓮仏法」を論じるのは勿論自由です

     が、貴方が創価学会を「嘘つきの団体」と結論付けるには、貴方の論法はあま

     りにも矛盾しています。

 

      僕は僕の哲学的思想として「日蓮仏法」を論じたことはありません。ちょっ

     とした感想や、今の態度、ぐらいのことならいったかもしれませんが。

      僕が創価学会を嘘吐きだというのにもちいた論法とはなんでしょう? 矛盾

     とはなんでしょう?

 

770 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 20:53

     >貴方の論法から行けば、創価学会の方々が池田氏を「信仰対象としてではな

     く、人間として尊敬している」のは、貴方が今まで述べた事とまるで同じであ

     り、貴方が創価学会の教義に対し抱く矛盾は、外部の人間から見れば正に「創

     価学会的」思考そのものなのです。

 

      僕が大聖人を尊敬している、といっただけのことがここまで大げさにとられ

     るのは少し驚きですが、正直言って文底さんがなにをいいたいのかもよく分か

     らないし、僕がどのような矛盾をおかしたのかもよくわかりません。

 

     >ならば伺いますが、貴方が述べた「釈尊が直接説いた本来の教え」とは、一

     体どの様な教義なのですか? その論理的根拠を教えてください。

 

      前に言いましたが、無神論であるという点です。宗教というのは「信じたい

     ものを信じる」という側面が強いですが、釈迦の試みたのは、どのようにした

     ら「苦」を解決することができるか、徹底的に考えてみる、というアプローチ

     であったと思うのです。それを教義ということばで説明できるかは難しいと思

     っています。

 

     > 私の立場において、貴方の述べている宗教的思想と創価学会の述べている宗

     教的思想は、その論理の展開において、全く同一のものとしてしか認識できま

     せん。

 

      創価学会の宗教的思想とは、文底さんの中ではどのように受け取られている

     のでしょうか。僕の考えでは、それはおそらく「信じる」ということと、「祈

     る」ということだと思います。僕が一度でもそれを肯定した発言をしたでしょ

     うか? いや、論理展開が同じと言うことですか? またこれも僕には分かり

     ません。詳しく説明して下さい。

 

771 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 21:12

     >第7の外道さん

      外道さんの詳しい解説を聞いて、ようやく外道さんがずっと言ってきたこと

     が分かりかけてきたようです。得たものがあった、という手応えを感じられて

     嬉しいです。『スッタニパータ』を読んでみようと思いますが、詳しい解説な

     どついた入門者用のものでなにかおすすめがあれば紹介していただけません

     か。

 

772 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 21:32

     >ZEGAさん

     >2.祈りによる効果

     これは「功徳」と「罰」に分かれます。 (後略)

 

      本当に恐ろしい話を聞いてしまいました。僕もこうした罰に関する話をたく

     さん知っており、脱会するのが心理的にいかに難しいか痛感します。

      ZEGAさんに対するきちんとした反論になるかどうか分かりませんが、創

     価学会の功徳と罰の解釈はずいぶん「節操がないな」と思うことがあります。

 

      アンチ学会員に対しては悪いことがおこれば全て「罰」となりますが、学会

     員に対してだったら、主に次の二つの説明がされます。

     1・三障四魔、法難(信心をやめさせようとする、様々な魔の働き)

     2・宿命転換(悪業を精算させる働き)

      例えば学会員が交通事故などで死ねば、四魔のうちの死魔が働いたんだ、と

     なるわけです。なにが起こっても困難に前向きになれる、というのは素晴らし

     いことですが・・・。

 

      なにが言いたいかというと、功徳、罰というものを判断する基準を、学会員

     がもっているとは思えないところがあるのです。例えば、日本が戦争に負けた

     のは、学会が国家に弾圧されていたためだ、とし、戦後日本が復興したのは創

     価学会が発展したからだといい、また、近年少年犯罪が増えているのは学会の

     仏法が世間に認められていないからだ、といい、良いものは全て学会のおかげ

     で、悪いものは全て学会が迫害されているせいにされで、まさに節操がないよ

     うに見えるのです。そういうところを聖教新聞などを読んでいて感じません

     か?

 

      とくに、天気に関することなどは本当に首をかしげたくなります。学会員は

     本気で、日顕猊下が来れば雨が降り、池田名誉会長が来れば晴れるなどと信じ

     ているのでしょうか? ZEGAさんはどうですか?

 

      第7の外道さんとの議論に水を差してしまい申し訳ありません。

 

773 名前: 学会嫌いの学会員 投稿日: 2000/05/22() 21:55

     ちょっとだけ参加したいのですけれど。

     「顕猊下が来れば雨が降り、池田名誉会長が来れば晴れる」

     これってうちの親も言ってたけど、疑問に思ったのは

     「雨は恵みの雨」なんじゃないのかなって。もちろん晴れも

     草木にや生命にとって必要だけど雨も生命には必要ですよね。

     池田さんも、日顕さんも表裏一体という意味で学会のみんなは

     使っているのかな・・。ごめんなさい議論の邪魔して。

     僕は教義や仏教についてはサッパリわからないです。

     ただ、ひゃっきまるさんの言うように、罰があたると言われて

     育ってきたので正直言って怖いところあります。でも

     罰あてるなら当てろって気持ちで人に対して良い行為をしていって

     それでも罰があたるなら創価学会に都合の悪い(退転した人?)人

     にだけあたる節操の無い罰としてみても当然だと思います。

     失礼しました。

 

774 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 22:00

     >メディスンさん

      大変読みごたえがあり、面白かったです。このスレッドは個性的なメンバー

     がそろって、まるでストーリーのある面白い読み物のようですね。

 

     >「暗在系では、明在系(物質界)のすべての物質、精神、時間、空間など

     が、全体として畳み込まれており分離不可能です。」

 

      デビットボームが精神までも暗在系で説明しようとしていたとしたら、本当

     に驚きです。この精神とは何を指しているのでしょうか? 人間の意識のこと

     だったら今の脳神経学者は反論するでしょうね。

      暗在系、明在系の概念は、僕らが日常とらえることのできる常識的な世界観

     (物質、空間、時間、因果など)が、量子力学レベルのミクロな世界では成り

     立たず、全く違う原理が働いている、しかし、そのミクロな世界の原理を基盤

     にして僕らの世界が出来上がっている、ということだと思います。そういうこ

     とであれば、物理学者は皆これを認めています。

      ただ、多くの物理学者の意見を代弁したとすると、この暗在系なるものは通

     常生活する上で認識する必要もないし、認識することも不可能だし、理解する

     ことも不可能なもので(因果の法則が崩れているので、人間には理解不可能と

     されています)、また、それが人間の精神と関わっている、ということはあり

     えないと考えられています。

 

775 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/22() 22:02

     >実際素粒子の世界では、現代科学で説明出来ない事ばかり起こっているので

     す。

     そして素粒子の世界を極めていくと、なぜか仏典とだぶるらしいんです。

     もちろん、まだまだ主説ではありませんが。

 

      そういうことが本当にあれば、非常に面白いのですが、やはり僕としては

     「少し」懐疑的なのです。どうしてかというと、今までに科学の発見や法則が

     宗教や哲学に故意に結びつけられて解釈されたようなことがたくさんあったか

     らです。

      現代科学のいきついた素粒子の世界を、なぜ釈尊やその後世の人物が知り得

     たか(たぶんこれは文底さんの普遍的定理と関係してくるのかも知れません

     )、また、彼らはどういう意図でその仏説をといたのか、検証してみる必要が

     あるでしょう。また、それが本当であれば、その検証の課程で有意義なことが

     分かると思います。

 

776 名前: 文底 投稿日: 2000/05/23() 01:17

 

     ひゃっきまるさん

 

     >相手の考え方の確認のないまま、「理性に対する拒否」「執着心」「正当

     化」「矛盾」

     >という言葉を使われれば、正直カチンときます。

     >一歩間違えればいわゆる「人格攻撃」となることをご承知おき下さい。

 

     不適切な言葉を使い不愉快な思いにさせてしまった事をお許しください。

     改めて、お詫び申し上げます。

 

     大変申し訳ありませんでした。

 

     >>しかし、貴方の文面の奥からは、自分自身に対する日蓮仏法(創価学会の教

     義)の理性に対する拒否感(中略)解消されて行く事を願っております。

 

     >>貴方が、貴方の哲学的思想として「日蓮仏法」を論じるのは勿論自由ですが

     (中略)私の立場において、貴方の述べている宗教的思想と創価学会の述べて

     いる宗教的思想は、その論理の展開において、全く同一のものとしてしか認識

     できません。

 

     貴方のお立場、お考えを一方的に決め付けて発言した内容(上記の文)に付き

     ましては、全て撤回させていただきます。

     私の発言は、時々飛躍して、ひゃっきまるさんにもご迷惑をお掛けするとは思

     いますが、これに懲りず又宜しくお願い致します。(不愉快な文等ありました

     らご遠慮無く仰って下さい)

 

     続きます

 

777 名前: 文底 投稿日: 2000/05/23() 01:23

 

     >例えば生物以外の何に生命をみたのか、ひとつだけ例をあげてもらえれば、

     >僕はすぐさま納得するのですが。

 

     >文底さんの説明されていたことはその「生命論」の説明ではなく、

     >周辺的なことの説明のように思えてしまったので、

     >もう少し具体的に分かりやすく説明してもらえないか、と思ったのです。

 

     私が述べようとする生命論をフィヒテの哲学論を引用して、私自身の生命論と

     対比させて頂きます。

 

     フィヒテ

     「自然は植物と動物においてみずからに回帰して、組織と運動を産出し、最後

     に人間という自然の傑作においてみずからに回帰するが、それはただみずから

     に内的に働きかけるためのみならずみずからを観想するためでもある」

 

    

     「生命は一見植物と動物に共通に見られる特徴であるが、それは、自分自身

     (人間)が定義した内的動機付けに他ならず、その絶対性(普遍性)は人間の

     思考を超えて導き出しえるものではないか?」

 

     フィヒテ

     「私に外的な力の個体的な諸規定へとうち立てられる。個体と普遍の連結符と

     して役立つのは、因果律である。私は個体的な自我から出発して、私の人格を

     構成する、そして、夫々の組織・運動・思考を可能にする諸条件を規定する」

 

    

     「因果律の考察により、自分を取り巻く全ての現象は、その意識上において、

     夫々の組織・運動・思考が規定され、その概念を規定しているものが、私自身

     の直感的思考により、因・縁・果の三つの基本的原則と類推する」

 

     続きます。

 

778 名前: 文底 投稿日: 2000/05/23() 01:27

 

     フィヒテ

     「一緒に捉えられた一切の個体のこの生命は、宇宙がみずからに対してもつ完

     全的な意識を構成する」

 

    

     「自分自身が捉えた生命観は、その延長線上において宇宙全体(本当はもっと

     広義)に適応しその意味において、生命は生物を包含しつつもそれを超えた概

     念として定義付けられる」

 

     以上ですが・・・(言葉にするとやっぱり分かりにくいですね)

 

     必ずしもフィヒテの哲学論と私の哲学論が相似的ではありませんが、類似して

     いる個所を抜粋する事により、ひゃっきまるさんに少しでも私が云わんとする

     所をご理解して頂けたらと思います。

     また、私の「生命論」の自由性ですが、それは、ベルクソンが「自由とは、見

     通すことができないような、予め思い浮かべることができないような出来事の

     新しさにこそある」との発言から、私も私自身の発想の自由さも、その予見の

     出来ないものの範疇として、許されるのではないかと思い定義致しました。

     私の表現が稚拙である故の讒言ですので、ひゃっきまるさんに又、ご理解頂け

     無いかも知れません。

     ご不明の点は、随時御指摘下さい。

     何れにせよ、ひゃっきまるさんのお人柄に関しましては(お会いした事はあり

     ませんが)論議の真摯的展開を見ましても私自身敬意を持って拝見させて頂い

     ております。

     本当に色々申し訳ありませんでした。

 

     以上です。

 

779 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/23() 10:43

     >第7の外道さん

      大学の教科書にスッタニパータの一部が載っていました。ちょっとこういう

     形式はよみにくいですね。

      ミリンダ王の問い<第一 名前の問い>(車のたとえ)も載っていて、そち

     らの方が面白く、分かりやすかったです。

 

780 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/24() 01:00

     まずはお詫びをば。

     >第7の外道さん

     >>これは日蓮大聖人が生きている間に縁を切っています。

     >恥ずかしながら、初めて知りました。それは歴史的事実なのですか?

 

     失礼!これは「日興聖人」の間違いでした!とんでもない事実誤認で第7の外

     道さんを混乱させてしまったことをお詫びします。

 

     >ぽっぽっぽっさん

     うっは、それは失礼しました。もうこの板を読んでいないと思ったもので。

 

781 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 01:10

     ひゃっきまるさん

 

     「『スッタニパータ』を読め」と偉そうに言いはしましたが、

     私も岩波文庫・中村元訳で読んでいるだけです。

     『スッタニパータ』専門の詳しい解説書、というのも存じません。ですから全

     くお役に立てなくて申し訳無いです(^^;

     また私の釈迦観も、伝統的な仏教思想から発想を得たものではなく、西洋の何

     人かの哲学者から学んだものによって形成されたものが大きいです。ですか

     ら、上で私がレスしたようなことを、そのままの形で『スッタニパータ』から

     見出すことはできないと思います。

 

     ただ『スッタニパータ』を読むと、現実生活の苦を徹底的に直視しようという

     姿勢、そしてその根本原因をどうつかみ、どんな言葉で表現するか、そしてい

     かにすれば苦から解放されるのかを、あの手この手で追求している釈迦の姿を

     見ることができます。そこには、私たちが「現実」であって動かせないと思い

     こんいるものを揺さぶり、相対化し、それへの拘りから解放させようとする強

     い意志を感じることができます。しかも、それが知のための知の追求ではな

     く、あくまでも「安らぎ」や「平安」を現実に達成するための方法として追求

     されているのです。

     そして、その中には、宇宙像や世界観に関するような話がほとんど全くないの

     にも驚かされます。てんで形而上学的ではないのです。

     そんなわけでこれを読むと、仏教とは、批判的精神は捨て去ってひたすら超越

     者を「信仰」するとか、やたら神秘主義的性格を強調したりとかいう、一般に

     抱かれがちな宗教のイメージとは対極的なものであることを痛感します。私は

     ここに、仏教の本来の姿(勿論「私の考える」仏教ですが)が集中的に表現さ

     れているように思うのです。ですからお勧めしました。

 

782 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/24() 01:28

     >業と功徳

     「何が起こってもどちらかで説明しきれる都合の良いロジックだな」と思われ

     ても仕方ないと思います。

     何らかの現象について、「それは罰だ」「それは功徳だ」と判断するには、そ

     れ相応の理由があります。

     それが罰や功徳なのかは、その人を日頃からよく見ていないと判断できないこ

     とだと思います。

     例に挙げられた交通事故であれば、その人の信心の状態を見て判断すべきでし

     ょう。

     僕なら、当事者が退転状態であれば罰と、信心に励んでいる人なら死魔である

     と捉えます。

     しかし、本当のところはどうなのかは分かりません。他の人の業の絡み、例え

     ば家族の業に影響を受けている可能性が考えられるからです。

     過去世をも視野に入れれば、業と言うものは複雑に絡み合っており、それを正

     確に見抜けるような超越者がいるとは考えにくいです。

 

     次に、天気の話ですが、「ありえるかもな」とは思います。学会と全く関係な

     いところで、どうも因縁めいた気象の変化がある例を知っているのでそう思う

     のですが。

 

     生命論にも触れたいのですが、時間が許さないのがツライです。

     過去ログ読破中なので、今日はこの辺で。

 

783 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/24() 01:36

     すみません、ちょっと第7の外道さんに質問なんですが。

     法華経というのが釈迦の説法でないというのは確かな事なんでしょうか?

     釈迦が書いたものではないにしろ、そこに釈迦の説はまるで存在しないという

     事まで

     わかっているのでしょうか?

     それは、いつわかった事で、何が根拠になっていて、どんな本にその事が書か

     れているか

     出来れば教えていただけないでしょうか?

     私の友達に、その事に固執する人がいるのでぜひ知りたいのです。

     それから「スッタニパータ」って何ですか?

     それは、法華経に比べて確かに釈迦の説といえるものなのでしょうか?

     無学ゆえ、ぜひそこのところを教えていただきたいのです。

     よろしくお願いいたします。

 

784 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 03:26

     メディスンさん

     私は仏典にそんなに詳しいわけではなく、「アマチュア仏典研究家」からさえ

     程遠い人間です。ですから既成の解説書などから引用したり、要約したりする

     ことしかできません。(この方面については昼行燈さんが圧倒的にお詳しいで

     す。)

     しかしせっかくのご質問ですので、精一杯簡略化してご説明したいと思いま

     す。

     ただ結論から先に言うと、歴史的個人「ゴータマ・シッダッタ」=釈迦が「法

     華経」を説いた、という説は、学問的には全く葬り去られている説だとはいえ

     ると思います。メディスンさんはそのお友達と議論などなされているのかも知

     れませんが、そうした主張をするということ自体が、仏教に対して全く知的関

     心を持っていないというか、まともに仏教を勉強するという姿勢自体が欠けて

     いるということが、現代の常識からは言えると思います。ですからもしそうし

     た議論をされているのだとすれば、きっと「証拠は!?」の連発があるのみで

     全くの水掛け論みたいになっているのではないでしょうか。

     続きます。

 

785 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 03:28

 

     先に「スッタニパータ」について、

     釈迦自身いつの時代に生きたのか、はっきりした年代は決定されていません。

     大体前6世紀から前4世紀の範囲内だと推定されています。勿論彼に著作はあ

     りません。

     彼の言葉は、彼の死後、何度かの「仏典結集」(釈迦の言葉を思い起こし、そ

     れをまとめる会合)を通じて次第にまとめられていきました。それらはいわゆ

     る「部派仏教」教団によって保存されてきたもので、大きく分けて「経蔵」と

     「律蔵」に、彼の言葉が文書化されて残されました。

     ただしこれは釈迦の死後、相当の年月を経て編纂されたものですから、最初か

     ら他人によってある程度解釈された姿で残されており、「これが釈迦のナマの

     言葉だ」と断言できるものはありません。ですから文献の比較研究によって、

     年代の古いとされるものが、より釈迦のナマの言葉に近かったろうと推理する

     のが精一杯です。

     さて、釈迦の思想(とされるもの)は主に「経蔵」にまとまっており、現存す

     るものではパーリ語(南伝)のもの(5部、その中に大小多数の「お経」や

     「お経集」が収録されている)が最も完全とされますが、漢訳のもの(「阿含

     経」と呼ばれます。4部)も古い資料を含んでいるとされ、重視されます。

     さて、「スッタニパータ」とは、パーリ語「経蔵」(そのうちの「小部」)の

     中に含まれるもので、膨大な経典の中でも特に古い資料を含み、釈迦のオリジ

     ナルの思想をうかがうには重要な資料とされています。これは漢訳阿含経には

     なく、従って漢文のお経という形ではないようです。訳としては上にあげた岩

     波文庫版が最も入手しやすいものと思います。

     なお、釈迦を知るのに重要な資料となるはずの「阿含経」は、大乗仏教が主流

     である日本などでは「小乗経典」として軽んじられ、あまり重視されてきませ

     んでした。

     続きます。

 

786 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 03:29

     「法華経」について。

     さて、釈迦を継いで存続してきた仏教教団は、次第に一般大衆との密接な関係

     を失い、言わば「象牙の塔」に閉じこもるような傾向を見せ始めました。こう

     した既成教団に対し、在家の仏教信者が民衆の生活に即した仏教の再興運動を

     紀元前後から起こしたとされますが、こうして成立してきたのがいわゆる「大

     乗仏教」です。彼らは既成教団を「小乗」と貶め、自ら自前で経典を創作し、

     新しい傾向の思想を表現・実践しました。従って「大乗経典」、即ち我々にも

     馴染み深い「華厳経」「般若経」「浄土三部経」「法華経」といった経典は、

     大乗仏教者のグループ(いろんな傾向のグループが多数存在したようです)

     が、自分たちの思想を表現し、自分たちこそが釈迦の精神を引き継ぐのだ、と

     いう気概を持って作り上げた、釈迦を主人公にした思想書、とでも言うべきも

     のです。従って以上にあげたような「大乗経典」は、いずれも釈迦が直接説い

     たものとは現代では見なされておりません。ただ、釈迦の精神に彼らなりの立

     場で迫ろうとしたものであるという点で、思想的には重要なものだと見なすこ

     とは当然できます。

     因みに「法華経」は、いくつかの段階を経て、紀元前1世紀から紀元2世紀に

     かけて、徐々に形を整えていったものと推定されています。

 

     ですから、

 

     >法華経というのが釈迦の説法でないというのは確かな事なんでしょうか?

 

     これを確かなこととして、現代の仏教研究は成り立っていると言えます。これ

     を否定することは、学問全体を敵に回すような行為とされることでしょう。

 

     続きます。

 

787 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 03:30

 

     >釈迦が書いたものではないにしろ、そこに釈迦の説はまるで存在しないとい

     う事まで

     わかっているのでしょうか?

 

     時代が全く違いますし、釈迦のナマの言葉がそのまま法華経にあるということ

     はありえないと思います(というか、それは確実な形ではどこにもありませ

     ん)。ただし法華経製作者たちは、彼らなりの観点で釈迦の説を解釈し、表現

     しようとしたわけですから、「法華経製作者たちの解釈した釈迦の説」は含ま

     れていることになります。勿論それが歴史的存在としての釈迦の説と一致して

     いるという保証は全くありません。

     因みに法華経は大部の経典ですが、含まれている思想はわりとシンプルであ

     り、阿含経で確認できる釈迦の思想とは全く異質のものです。釈迦の思想とは

     別の独立した思想、と見なすほうが適当かも知れません。

 

     >それは、いつわかった事で、何が根拠になっていて、どんな本にその事が書

     かれているか

     出来れば教えていただけないでしょうか?

 

     「何が根拠」は、文献学的研究による、としか私には言えません。「いつ」と

     いうのは、日本では江戸時代に富永仲基という人が「大乗非仏説」を提唱した

     のが学問的には初めだと思いますが、明治以降の近代的原典研究では、もうこ

     のことは最初から前提になっていたのではないでしょうか。この辺は特に、昼

     行燈さんやひゃっきまるさんの方がお詳しいと思います。また「本」ですが、

     これは仏教の概説書であれば、それが特定教派の教学に基づくものでない限

     り、基本的には全て上記の前提で論がなされています。岩波信書や講談社現代

     新書には仏教関連の入門書がいくつも出ています。どれをとっても直ぐ調べる

     手がかりはつかめると思いますし、岩波文庫版「法華経」には、法華経の成立

     やその背景についてまとまった解説がのっています。

     続きます。

 

788 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 03:30

 

     >それは、法華経に比べて確かに釈迦の説といえるものなのでしょうか?

 

     歴史的個人としての釈迦の思想には、間違いなく法華経よりは「近い」といえ

     るでしょう。しかし釈迦の直説を確認する方法はまずないと言ってよく、ただ

     「近いだろう」といえるだけです。原始経典自体が他人により釈迦の没後に編

     纂されたものですし、それをただ読んだからといって「釈迦の真意がわかっ

     た」と言うことは誰にもできません。

     また大乗経典も、釈迦が直接説いたものではないにせよ、思想的に極めて注目

     すべき内容を持ったものもありますし、釈迦の思想がある種の普遍性を持った

     思考だとするなら、他人がその境地にたどり着くことはできないとは限らない

     わけです。私個人としては、般若経や、大乗仏教の理論家であった龍樹の言う

     「空」の思想は、おそらく釈迦が見出した結論と同質のものを持ったものでは

     ないかと思っています。

     しかし何にせよ、何が「釈迦の思想」かというのは、文献によって「こうだ」

     と確定することは誰にもできません。従って釈迦の思想とは、それを追求しよ

     うとする者の主体的責任において、「私はこう思う」として表現するしかない

     のではないでしょうか。

 

789 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 03:35

     ZEGAさん

     どうもです。「歴史的事実」の件については了解しました。

 

     >生命論にも触れたいのですが、時間が許さないのがツライです。

 

     別にここは急いで結論を出すことを目的としたスレッドではないですから、ご

     ゆっくりどうぞ。

     私も、仕事に追われ時間が一層シビアになりつつあります・・・(^^; 早く寝

     なくちゃいけないのに・・・

 

790 名前: マンダラのアマテラス 投稿日: 2000/05/24() 06:21

     はじめて書き込みます。みなさんの議論、大変に参考になりますね。

      ちょっと私の意見を書かせていただきたいと思います。ご意見お待ちしてい

     ます。

      まず、法華経でいう菩薩乗についてなのですが、これがそもそも釈迦の教え

     のすり替えだと思います。釈迦は苦を解消するための方法論に関する悟りを開

     いて仏になったのであって、他人を救ったから仏になったのではない筈です。

     また、仏の真理は悟りを開く道筋のことであって、悟った後の大衆へのサービ

     ス(慈悲・利他)では無いはずです。ここに当時(BC100頃?)新興宗教だ

     った大乗派の論理の巧妙な論理のすり替えがあると思います。(これが利他を

     必要とするという本当の宗教的確信からきたのか、教勢拡大という現実的な目

     的から来たのか不明ですが。)

      さらに法華経の作者の巧妙なところは「方便」という語の使い方だと思いま

     す。これによって今までの小乗の教えはキャンセルして法華経のみを学びなさ

     いと釈迦に言わせてしまうあたり、さすが頭のいい人が書いたんだなあという

     感じです。さらに、釈迦が方便自体を否定しきっていないので、きっと法華経

     を広めるための方便は許されるんでしょうから、(例えば当時であれば法塔を

     作ったり、菩薩や仏の名を唱えたり。いまなら神仏習合の曼陀羅を作ったり題

     目を唱えたりというところ。)とても便利です。

 

791 名前: マンダラのアマテラス 投稿日: 2000/05/24() 06:22

     また、「久遠の本仏」もすでに他の大乗教典で阿弥陀や大日などの久遠仏が唱

     えられていた(この順序で成立したとは限りませんが・・。ちょっとだけ五時

     八経理論によってみました。)とはいえ、卓越した発明です。つまり、他の仏

     でなく釈迦が本仏であること、釈迦が存命中の悟りではなく遙か前世からの布

     教(広宣流布)によって成仏したこと(こうしないと成仏の契機が悟りから布

     教に移らない。)、(本来より劣った存在である)観音等の菩薩の神性との均

     衡、釈迦がこの世に生まれたり死んだりする理由、釈迦入滅後に各修行者が布

     教を行うチャンス(すなわち菩薩行をして成仏するチャンス)が与えられるこ

     と等を上手く説明できるからです。釈迦は悟りに至る方法の発見者ではなく、

     真理(本当は学僧による学説に過ぎないのですが)は昔から存在しているの

     だ、だから本当に肝心な点はその真理を広めることによって人々を救うことだ

     ということも説明できます。

      この菩薩行というのも特に法華経ではくせ者です。法華経の教えを広めれば

     広めるほど仏に近づく、そして誰でも仏になれる、ということは、言葉は悪い

     ですがちょっと○○○商法に似ていないでしょうか?

      結局一定の学僧群が、自分たちの主張する真理の正統性とその流布の必要性

     を説くために、ヒンドゥー的多神論・呪術崇拝を絡めて釈迦の教えとして創作

     したのが法華経だと思います。

      これに対して、日蓮は、社会不安による民衆教化の好機を捉え、大衆の知的

     水準にあわせて元々呪術的な経を更に平易化して、実践の方法を発明した点

     で、卓越したアントレプレナーだったのではないでしょうか。しかし、ただ、

     これでは無知な大衆に対してラテン語聖書の解釈権を独占していた宗教改革前

     のカトリック教会とあまり変わりがありません。

      知的水準が鎌倉時代よりも高くなっている現在、歴史的経緯を踏まえた上で

     なお法華経(その他の大乗仏典)に信仰すべき真実があるか否かをきちんと検証

     する教学的作業がない限り、教義の破綻という指摘から免れることは難しいか

     も知れません。

 

792 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/24() 08:27

     ↑根拠レスで推測が混じりすぎでは?

 

793 名前: 反省 投稿日: 2000/05/24() 10:23

      790791に書き込んだ者です。(本人です。)

      書き込んでから考えたのですが、この内容は天台宗や日蓮関係の信仰を

     持っている方には非常に失礼だったとおもいます。自分としては大乗仏教に関

     する歴史・

     認識というつもりで書いたのですが、読み返してみると筆が滑ってとんでもな

     いことを書いた

     部分が多々あったと思います。

     信仰・信念というのはお互いに大切にし合うものでけなし合うものではないと

     いうことを忘れていました。お詫びします。

      管理人さんには削除をお願いしています。失礼しました。

      ひとり相撲ですいません。

 

794 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 10:44

     >メディスンさん

     ぜひ書いておかねば、と思うことを抜かしていました。付け加えます。

     近代文献学的には、「法華経は釈迦が説いたもの」という主張はほぼ荒唐無稽

     に近いものがあるといいましたが、それでもあえてこうしたことを主張なさる

     人は、釈迦を歴史的個人としてではなく、法華経に書いてあるとおり、明らか

     に人間ではないもの・超自然的な神的存在者(久遠実成の本仏)としてとらえ

     ているのであろうと思います。一方、この主張を否定する者は釈迦をあくまで

     「歴史的個人」として見ているわけで、そもそもこの二つの立場(?)は立脚

     点が全く違うといえるでしょう。

     では「法華経」自身はこの点をどう処理しているのかというと、「歴史的個

     人」としての釈迦(つまり菩提樹の下で悟りを開き、80歳位で死去した釈

     迦)は、「久遠実成の本仏」(永遠に近い寿命を持ち、はるかの昔に悟りを得

     て教化を続ける神的存在としての釈迦)としての釈迦が仮に示した方便の姿で

     ある、とするわけです。

     従って法華経の原理主義的信仰(ここでは経典を「象徴」として解釈せず、

     「文字通り」のまま信仰する立場のことを仮にこう呼んでおきます)を貫く立

     場にとっては、近代学術的な立場は、釈迦の方便の姿に拘って真実を見ない偏

     狭な立場、ということになるのかも知れませんね。

 

     ですからこの問題は「学術」上の対立ではなく、「信仰」上の対立、あるいは

     「信仰」と「学術」との対立と言っていいのかも知れません。

     ですから仮にメディスンさんが様々な資料を駆使して「歴史的個人」としての

     釈迦が「法華経」を説くことの不可能性を論証したとしても、相手が釈迦を

     「歴史的個人」と思っていなければ、やはり議論は平行線に終わることと思い

     ます。

 

795 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/24() 10:56

 

     790,791,793さん

     初めまして。

     あなたのレスを削除するかしないかは管理人さんが決めることで私がどうこう

     言うことではないですが、確かに「推測」的要素は多いかも知れませんが、そ

     れなりに筋の通った内容ある推測(客観的に正しいかどうかは別問題ですが)

     と見えますし、「天台宗や日蓮関係の信仰を持っている方」に対する批判的な

     コメントにはなるにせよ、礼を失するような類のものとは違うと、第3者的に

     は思います。

 

     >信仰・信念というのはお互いに大切にし合うものでけなし合うものではない

     ということを忘れていました。

 

     というのは全く同感ですが、それは、信仰・信念を持っている方に対して自分

     の意見を言ったり批判的な考えを提示したりするのを封ずることとは、おのず

     と別のことだと思います。これくらいのレスで削除要請がかかるのであれば、

     私などとっくに存在自体を削除されなきゃいけなくなるでしょう(笑)。

     余計なおせっかいで失礼しました。

 

796 名前: >マンダラのアマテラス様 投稿日: 2000/05/24() 10:58

     私は天台宗の者ですが、なるほどと思える部分もあります。

     菩薩行の押し付けをするのが創価学会なのですが

     本来押し付けなどしなくても「良い」行動をすれば

     自然と人は付いてくるのですよね。日蓮の菩薩行の強要や

     創価学会の強要行為によってたしかに信者は増えました。

     しかし、何か勘違いをされてる学会員が多いのが目につきます。

     菩薩行とは何かをもう少し考えてみてほしいものです。特に

     リーダーである池田大作さんには。

 

797 名前: 796 投稿日: 2000/05/24() 11:04

     補足ですが、なぜか天台宗(比叡山)が信者数が創価学会より少ない

     のを「菩薩行を行わない小乗仏教に成り下がった」と学会の方から

     言われた事があります。小乗仏教(上座部)的な態度はあるのかもしれない

     ですが、基本は「仏教を通して自分も他人も幸せになればいいか」の

     スタンスの違いだと思います。押し付け、強要等の極端な独善による傲慢に気

     付かずに

     布教をするのが宜しいのか静かに清貧(貧しくも無いのですが)に信じるの

     か。

     正しい事をすれば、人は自然に付いてくると思います。末法の世だろうが

     現実の世界をそのような悲観的な言葉で定義するのもよしましょう。

     それとも、私は信心が少ないのかな、ごめんなさい。ゴミレスでした。

 

798 名前: 反省 投稿日: 2000/05/24() 12:23

     レス有り難うございます。

      ただ、私は現在活動中の宗教団体のうち特定のものをの優劣・可否を論ずる

     意図は全くありません。大乗仏教とは何かについていろいろな方の意見を

     読んであのときふと、大乗仏教の中身の体系についてああ思ったというだけで

     す。ですから、私の書き込みへのレス、ご支持は全く不要です。

      書いているときは自分の意見を誰かに聞いてもらいたいと少し興奮していた

     のですが、落ち着いて考えると多くの方の気分を

     害してしまうことを書いてしまいました。別にただ心にしまっておけばいいこ

     とでした。深く深く今は反省し、お詫びします。

      とにかく今は前の私の書き込みを早く消したい思いでいっぱいです。

 

799 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/24() 16:21

     >798

 

      反省する必要性なし。

      

 

800 名前: >798 投稿日: 2000/05/24() 16:33

     人の感性はさまざまあってよろし。

     感性を統一させるような創価学会こそ反省すべし。

     これからも思った事書いて。

 

801 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/24() 16:57

     >798さん

     面白かったです。「反省」もあなたの心理状態なので私がとやかく言う筋合い

    

     ありませんが、自由な思想・発言が許されているからこそ、このスレッド

     が成立しているのだと思います。そんなに自虐的にされるとなんか哀れで・

     ・・

 

     第7の外道さん、みなさん。はじめまして。

     ROM中心ですが楽しく読んでいます。仏教専門家、創価学会会員、哲学系の

     方、

     学会体験者などいろいろな立場と思想の方がいらっしゃるので思想界の同人誌

    

     対談記録みたいですごく好きなのです。しかも商魂がないのでなおさらいいで

     すね。

     自分のファイルに「電脳掲示対談:日蓮仏法を巡って〜戦後最

     大の日蓮系教団とその教義〜」なんてつけて楽しんでいます。

 

802 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 17:44

     >文底さん

     >不適切な言葉を使い不愉快な思いにさせてしまった事をお許しください。

     改めて、お詫び申し上げます。

      大変申し訳ありませんでした。

 

      ネット上ではこういうことはよく経験します(加害者側にしろ被害者側にし

     ろ)。僕も同じ間違いを犯す危険性と常に隣り合わせですので、気にしていま

     せん。お気遣いありがとうございます。僕も文底さんの真摯な態度、人柄には

     敬意の念を持っておりますので、ご安心下さい。今後も有意義な議論ができる

     ことを楽しみにしています。

 

     >私が述べようとする生命論をフィヒテの哲学論を引用して、私自身の生命論

     と対比させて頂きます。(後略)

 

      目下、熟読して理解に励んでおりますが、やはり哲学の素養がないらしくな

     かなか難しいです。しかし今までの説明よりもずっと具体的でとっかかりがあ

     るので考えやすいです。

      ちょっと納得いかないのは、フィヒテや文底さんの哲学での生命も『いずれ

     にしても、まず生物から生命という概念が生まれ、その概念が他にも適用でき

     るものとして生命の定義が広がっていくか、生物と他のものとの関連の中に生

     命を見るか、どちらかではないか』という僕の「予測」に沿うように見えるの

     ですが。

 

803 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 17:48

      もしかしたら文底さんと僕の、世界に対しての認識の仕方に根本的な相違が

     あるのかもしれません。

      僕は、人間は生まれた時点では世界に対する如何なる概念(言葉)も持って

     いないと考えています。成長して経験していくに従って、既存の概念を理解し

     て自分に取り込んだり、自然を観察して、ある同じ性質を持った個々のものを

     くくる言葉を発明したり、あるいはすでにある概念と概念を関係づけたり合成

     したりして新しい概念を作ったりするのではないか。従って、ある新しい概念

     が産み出されるためには、世界(これには自分自身の内観も含まれる)から与

     えられる何らかの情報が必要だと思うのです。

      もし世界からの情報を遮断した状態で何らかの新しい概念を生み出せるとし

     て、それを直感と名づけるのなら、僕はこの意味での直感を妄想だと断定しま

     す。

      故に、新しい概念が妄想でないことを確認するためには、まずその概念が産

     み出される契機となった「世界の情報」が何かを確認し、その後にその「世界

     の情報」を正しく解釈しているかを検証することが必要だと考えます。

 

      僕は上記の前提(また、これらの前提は、「世界は確かに存在している」と

     いう前提をもっています)を自明のものとして今まで議論を展開してしまいま

     したが、文底さんはどう感じられるでしょうか。

 

804 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 17:52

     >ZEGAさん

     >しかし、本当のところはどうなのかは分かりません。他の人の業の絡み、例

     えば家族の業に影響を受けている可能性が考えられるからです。過去世をも視

     野に入れれば、業と言うものは複雑に絡み合っており、それを正確に見抜ける

     ような超越者がいるとは考えにくいです。

 

      こうした見方は当然だと思います。キリスト教には、人の罪を知っているの

     は神のみであるので、「人が人を裁いてはならない」という考え方がありま

     す。ニュアンスは違いますが、ZEGAさんはまさにそういう意味の発言を上

     でされたのだと思います。

      にも関わらず、なぜ創価学会員は「安易に」人の罪を断じるのでしょうか。

     「安易に」と申し上げたのは、天気のような、何が原因で決定しているかまる

     きり不確定なものまでも、罰でそうなったのだ、功徳でそうなったのだ、と断

     定しているからです。

      ZEGAさんはそうでなく、あくまで可能性として認識しているにしても、

     連日のように聖教新聞等に掲載されているのはまさにそういうことでしょう。

     そして、それを多くの学会員は違和感なく受け入れているのは恐ろしいことで

     はありませんか?

      僕が思うには、功徳や罰というものの受けとめ方は、あくまで自分自身の信

     仰に対してのものであって、それを用いて他人の罪を断じたり、攻撃するもの

     ではないと思うのです。この意見には賛同して下さるでしょうか?

      創価学会員には、こうした当たり前の倫理の欠如が非常に目立つように思い

     ます。この点で、キリスト教より劣っていると考えるのは変でしょうか?

 

805 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 17:55

      家の近所に住んでいる、学会員の婦人の話なのですが(大変明るくいい人で

     す)、彼女の職場に嫌な上司がいて、困っていたのだが、突然その上司が急死

     した、という事件があったそうです。それを彼女は功徳と受けとめていまし

     た。

      また、人徳もあり、僕も非常に尊敬している学会幹部の話なのですが、「日

     本は他の先進国に比べて障害者に対する配慮が足らない」という主旨の話をし

     ていたところ、「障害者は悪業を背負って、苦労して生きる宿命をもって生ま

     れてきたのだから、普通の人間と同じように暮らせるような配慮する必要はな

     いのではないか」ということを言いました。宗教というのはこういう恐ろしい

     差別を生むのだなあ、と身震いしました。

      また、本部幹部会の同時中継放送の中で、例によって男子部が宗門の悪を論

     じる時に、「学会員の間で評判の悪かった○○住職が、癌で倒れた」というこ

     とを発表したとき、大きな歓声と、激しい拍手がわきおこりました。皆目を輝

     かせているのを見て、「なんて恐ろしいところだ」と感じざるを得ませんでし

     た。

 

      これらの例に限らず、学会員には、「アンチ創価学会は即ち悪」だとか、

     「活動していない学会員は劣った人間である」という決め付けが強いと思うの

     です。そして、そのような態度を本部が注意したり、警告したりすることは一

     度もありません。おそらく、こういう論法が働いているのではないか。「創価

     学会は常に正しい行動をしているから、それに対して反対する人間は間違って

     いるに違いない。頭の良い人間なら創価学会の正しさをすぐに分かるはずだか

     ら、それが分からないのは頭が悪い証拠」

      ZEGAさんはこういう創価学会の特性を感じたことはありませんか? 僕

     はこのようなわけで、「創価学会が絶対正しいと思いこんでしまったが故に理

     性が正常に働かなくなってしまっているのではないか」ということを考えるの

     です。

 

806 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 17:59

     >第7の外道さん

     >そして、その中には、宇宙像や世界観に関するような話がほとんど全くない

     のにも驚かされます。てんで形而上学的ではないのです。

 

      釈尊のもともと説いたものはおそらく外道さんのおっしゃるような性質のも

     のなのだろう、と納得すると共に、僕の今までの勘違いを恥じるばかりです。

     僕は仏教の広大な宇宙観、形而上学的世界観にひかれていたので。

      釈尊の死後、仏教はどんどんバラモン教化していきましたが、それは必ずし

     も仏教の堕落を意味しないのだな、とも思いました。「バラモン教化した仏教

     =バラモン教」か、というとそうでもなく、そのなかには部派仏教でもなく、

     バラモン教でもない、確実に新しい思想も含まれているのだと思います。ま

     た、バラモン教も深い哲学性を有しており、それがうまい形で仏教に吸収され

     たのでは、と思います。

      釈尊本来の思想から離れてしまうにしても、広大で形而上学的な宇宙観を説

     く、という意味では大乗仏教に学ぶものはあるはずだと思えてきました。

 

807 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 18:06

     >メディスンさん

     >(外道さんから)この辺は特に、昼行燈さんやひゃっきまるさんの方がお詳

     しいと思います。

 

      とんでもありません(^^; 昼行燈さんにおまかせします。僕は法華経研究者

     による大学の講義(創価大学です)を一回受けただけの者です。

      『私の友達に、その事に固執する人がいるのでぜひ知りたいのです。』とい

     うのは、もしかして元学会員の彼氏でしょうか? もしメディスンさんが東京

     近郊にすんでおられるのでしたら、彼をつれて、思いきって創価大学の仏教研

     究者に直接聞いてみたらどうでしょう。きっと教授(そのなかに学会員はいな

     いと思う)も喜ぶと思いますよ。

      僕の手元の本によると、法華経の段階的成立説は諸説あって、決めてはない

     ようです。どちらにしても成立年代は紀元前後付近と推定されています。(以

     下。読み飛ばして結構です)

      僕自身がどうして大乗非仏説に納得しているかというと、「法華経を読んで

     みたから(意訳ですが)」としか言えません。

 

808 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 18:15

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     布施浩岳氏の説(『法華経成立史』1934、大東出版社)

      紀元前一世紀から紀元後150年前後までに四段階に成立(この説が一般的で、

     この説の修正、改良が主らしい)

     ・第一期:序品から授学無学人記品までと随喜功徳品の十品の韻文

     ・第二期:前の十品の散文

     ・第三期:法師品から如来神力品まで(随喜功徳品を除く)の十品の韻文、散

    

     ・第四期:属累品から経末までの七品

 

     刈谷定彦氏の説(『法華経一仏乗の思想』1983、東方出版)

      序品から如来神通力品までの同時成立説

 

     勝呂信静の説(『法華文化研究』第十二号所収の「法華経の成立に対する私見」

     1986)

      提婆達多品を除く二十七品同時成立説

 

      提婆達多品は鳩摩羅什訳に存在しなかったので、いずれの説でも一番遅く法

     華経に組み込まれたと推定されているが、渡辺照宏氏の説(『法華経物語』大法

     輪閣、1977)では、薩曇分陀利経(さつどんふんだりきょう)には宝塔の出現

     と、提婆達多の過去世の物語、龍女成仏が説かれており、しかも簡素な内容で

     かなり古型を保っていることから、提婆達多品の内容が古くから知られていた

     ことを指摘している。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

809 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/24() 18:18

     >反省さん

     > 知的水準が鎌倉時代よりも高くなっている現在、歴史的経緯を踏まえた上

     でなお法華経(その他の大乗仏典)に信仰すべき真実があるか否かをきちんと検

     証する教学的作業がない限り、教義の破綻という指摘から免れることは難しい

     かも知れません。

 

      僕の意見も基本的に同じです。このような立場に立てるなら、創価学会の全

     てを間違っているとはいいません。

      反省さん(マンダラのアマテラスというHNはちょっと皮肉がききすぎてる

     と思ったのでしょうか(^^;)のカキコを削除するのは非常に惜しいと思いま

     す。

 

810 名前: 反省 投稿日: 2000/05/25() 01:10

     なかなか前の書き込みを削除してもらえないので、最後にもう1回だけ書き込

     みをして釈明したいと思います。

      人間の心には批判的態度で考えていくという作用の一方で信仰して心の平安

     を得るという作用が両方備わっていると思います。考えが違う人同士が議論す

     るときに必要なのはそのバランスだと思うですが、私の場合は全体を読み直す

     とトーンや言葉遣いが疑問に答えてもらおうとするよりは自分の主張を正当化

     するために皮肉であげつらう感じになってしまっていることに気付きました。

     (ひゃっきまるさん、HNもそうです。曼陀羅における神仏習合が現代に生き

     ている理由について分からないなら率直に聞けば良かったと思います。)これ

     は議論の態度としてすら問題があるなと。それで率直にお詫びをしようと思っ

     たわけです。

 

811 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/25() 01:44

     第7の外道さん、ひゃっきまるさん、本当にありがとうございます。

     私などの質問に、こんなにもページをさいて下さるなんて・。

     涙が出そうになりました。

     「友達」は、私の彼氏ではありませんが、日蓮仏法を信仰している昔から知っ

     てる友達です。

     でも、第7の外道さんのおっしゃるとおり、彼らには学術的な事実なんてどう

     でもいい事なのかもしれません。

     彼らには日蓮上人の人生が法華経に予言されているという事が重要なんです。

     で、その予言が実現したから、その事が書かれている法華経も正しく釈迦の説

     であると、逆の理屈でいくわけです。

     私には、この論法がさっぱり理解出来ません。

     私は法華経を所々しか読んでないんですが、みなさんは、この考えをどう思わ

     れますか?

     法華経に書かれている上行菩薩は、日蓮上人の事で、末法であう苦難と日蓮上

     人の人生は

     予言といえるくらい、そんなに類似しているのでしょうか?

     私には、どうもそうは思えないのですが?

     質問ばかりですみません。

 

812 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/25() 02:02

     ひゃっきまるさん

 

     >僕は上記の前提(また、これらの前提は、「世界は確かに存在している」と

     いう前提をもっています)を自明のものとして今まで議論を展開してしまいま

     したが、文底さんはどう感じられるでしょうか。

 

     横レスですが、文底さんの挙げておられるフィヒテなどは、こうした前提をま

     さに否定するところから体系構築を行っている哲学者です。ひゃっきまるさん

     の考え方は経験主義的というか、自然科学の認識とは調和しやすいものです

     が、西洋の哲学者に限ってみても、是非はともかく、その前提自体を疑ってか

     かる人は多いですね。

     仏教哲学もそうなのでしょうか? 唯識などは完全にそういう立場だと思いま

     すが。

 

     また、

 

     >釈尊本来の思想から離れてしまうにしても、広大で形而上学的な宇宙観を説

     く、という意味では大乗仏教に学ぶものはあるはずだと思えてきました

 

     ですが、全くその通りでしょう。私はどちらかというとそちらの方向には興味

     が持てないのですが、大乗経典の世界はイマジネーションが豊かで、触発され

     るものが多いと思います。

 

     801さん

     初めまして。このスレッドもいろいろな価値観をお持ちの方が登場されるよう

     になって、面白い雰囲気になってきたなと感じます。それは、文底さんがいろ

     いろなテーマをここに持ちこんでくれたり、ひゃっきまるさんを連れ込んだり

     していただいたおかげではないかと思ってます。多謝。

     801さんもまたいろいろご意見ください。

 

813 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/25() 02:45

     少し来ないうちに様々な意見が交錯して、出る幕が無くなってしまった観があ

     ります。

     しばらくはロムを続けて、全体の流れを把握しないと混乱しそうですね。

 

     第7の外道さん

     「スッタニバータ」は小部では無く、パーリ上座部の相応部に配されてい

     る経典群です。漢訳では雑阿含経ですね。小部に該当するのは、「ダン

     マパタ」等を含むものだと思います。

     こちらは新旧の経典群で成立していますが、或る意味では釈迦の思想

     の原点は小部に多く含まれて居るのかも知れません。

 

     生意気を申し上げましたが、勘違いをなされる方もいらっしゃるのでは?

     と指摘させて頂きました。

 

      

 

814 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/25() 09:25

     >ZEGAさん

      804805は、ちょっと論理展開に無理のあるカキコでした。ZEGAさんの

     意見もちょっと勘違いしてとってしまいました。すみません。

      でも僕がこういう考えを持っていることは分かっていただけたと思います。

      あまり外道さんとの議論を邪魔しても悪いと思いましたので、功徳論に関し

     てはしばらくカキコを休むことにします。(別にZEGAさんのレスを禁止す

     るものではありません)

 

815 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/25() 12:05

     昼行燈さん

     お久しぶりです。最近このスレッドは回転が速くてついていくのが大変になり

     ました。

     上で記した「スッタニパータ」や「法華経」の位置付けはあれでよかったでし

     ょうか? またフォローお願いします。

     ただ、

 

     >「スッタニバータ」は小部では無く、パーリ上座部の相応部に配されている

     経典群です。

 

     ですが、岩波仏教辞典や三枝氏「インド仏教思想史」には「スッタニパータ」

     は「小部」(クッダガ・ニカーヤ)に(ダンマパダなどとともに)属するよう

     なことが書いてあるのですが・・・どうなのでしょうか。

     しかし「スッタニパータ」の第4章は「義足経」として漢訳阿含経にも含まれ

     ているみたいですね。

 

     メディスンさん

 

     >法華経に書かれている上行菩薩は、日蓮上人の事で、末法であう苦難と日蓮

     上人の人生は予言といえるくらい、そんなに類似しているのでしょうか?

 

     ですが、「上行菩薩」とは法華経第十五「従地涌出品」で大量に現れる地涌の

     菩薩たちの筆頭格(四人いる)の一つですが、そこ出てくるだけで、具体的に

     どう生きたかなどは一言も書いてないし、日蓮の人生との間には(というか、

     いかなる人の人生とも)類似もなにもありようのないものだと思います。

     私もよくは知らないのですが、この菩薩はただ法華経にちらっと出てくるだけ

     の空想上の存在(?)に過ぎないのではないでしょうか? もっとも、法華経

     を護持した菩薩団の誰かをイメージして描いたものなのかもしれませんが、よ

     く知りません。日蓮が自分を「上行菩薩」の生まれ変わりだとしたのは、文献

     上の根拠も客観的な根拠もなく、ただ本人がそう思いこんでそう主張した、と

     いう以上のいかなる「根拠」もないものだと思っています。

 

816 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/25() 12:17

 

     参考までに、「岩波仏教辞典」から引用しておきます。

 

     (前略)地涌の菩薩の代表である(中略)四大菩薩の筆頭。如来神力品で上行

     菩薩を代表とする地涌の菩薩は、仏に代わって法華経の救いを滅後末法に弘め

     るように付属(布教の使命を与えること)を受ける。日蓮はこの末法弘通の使

     命を持った上行菩薩に深い関心を持ち、自ら(中略)上行の生まれ変わりであ

     るとの自覚を持って、末法の人と社会を救おうと、法難に耐え法華経の弘通に

     その生涯を捧げた。

 

     上行菩薩のあり方にならうとか、それを自分の理想として布教に努めるという

     のなら話はわかりますが、なぜ自分はそれの「生まれ変わり」だと考えること

     ができるのか、私にはさっぱり分かりません。

 

817 名前: 文底 投稿日: 2000/05/25() 17:39

 

     ひゃっきまるさん

 

     >もしかしたら文底さんと僕の、世界に対しての認識の仕方に根本的な相違が

     あるのかもしれません。

 

     私も、ひゃっきまるさんとの間に、根本的相違とまでは行かなくとも、認識の

     違いは感じています。

     ただ、ひゃっきまるさんのお考えに対して全て否定的な立場ではありません。

     これは、第7の外道さんが「フィヒテなどは、こうした前提をまさに否定する

     ところから体系構築を行っている哲学者です」とヘルプして下さったように、

     私の論議的スタンスは、いつも、ある常識的な発想に対し「それ以外にもあり

     得るのではないか?」と言う懐疑的スタンス(単なる天邪鬼?)で物事を見て

     行こうとしているからです。

     ただ、私の論理展開は、一歩間違うと「反証のための反証」に陥る危険性もあ

     るので、なるべく多くの客観的資料をもとに、論証しなければならないと心が

     けています。

 

     ですから「人間は生まれた時点では世界に対する如何なる概念(言葉)も持っ

     ていないと考えています」の言葉も仰る通りだと思います。

     その上で、私は「その定義以上の概念を人間は持ち得るのではないか?」と問

     題提起してしまうのです。(ひねくれ者で申し訳ありません・・・・)

 

     続きます。

 

818 名前: 文底 投稿日: 2000/05/25() 17:40

 

     >僕は、人間は生まれた時点では世界に対する如何なる概念(言葉)も持って

     いないと考えています(後略)

 

     ひゃっきまるさん仰る通り、人間は、成長していく過程で様々な環境を縁とし

     て、新しい概念を作ったりするのは事実です。

     また、その積み重ねが人類の歴史を積み上げて行ったのでしょう。

     ただ私は、それをもって「如何なる概念も先天的に作られている」と述べられ

     る事に若干の反証的論理的考察を持ってしまうのです。

     その客観的材料として、医学による「遺伝的伝承因子」なるものを挙げておき

     ます。

     人間の多くの性格付けは、多くが生後の「外的環境」に大きく左右されること

     が医学的に証明されております。

     ただ、人間の本質的概念(生物学的本能ではない)は胎児の段階に決まってお

     り、それが人間の行動の多くの規範を形作っている事は、医学によって学術的

     にも研究されています。(証明はまだされていません)

     例として、サルが群れを作るのは、後天的性格付けではなく、全く別の場所

     (隔離された)でサル育て、それら完全に外界のサルと違う環境で生まれたサ

     ルでも、多くのサル(全て個別に育てられたサル)と同居させれば、最初は困

     惑するけれども、やがてサルの間で、自然とサル社会が形成されるのです。

     概念=言葉 であれば、それは正にその通り後天的学習の結果ですが、概念を

     無意識下の意識(潜在意識)として捉えれば、人間は生まれる前に既に、その

     両親から遺伝学的概念を受け継いでおり、その概念は、人類が人類として進化

     する前の過程から、生物学的に受け継がれているとされるのです。

     ですから、私は、ひゃっきまるさん仰られた「概念」を包含した上で、もっと

     「普遍的概念が人間にはあるのではないだろうか?」と上記に挙げた科学的裏

     付け(研究段階ですが・・)をもとに推察するのです。

 

     続きます。

 

819 名前: 文底 投稿日: 2000/05/25() 17:42

 

     >もし世界からの情報を遮断した状態で何らかの新しい概念を生み出せるとし

     て、それを直感と名づけるのなら、僕はこの意味での直感を妄想だと断定しま

     す。

 

     これも、正に正論なのですが、ここでは、ひゃっきまるさんに対する反証では

     無く、第7の外道さんやメディスンさんの仏教観とも絡めて、問題提起させて

     いただきます。(皆さんご自由に御発言下さい)

 

     現在論議になっている「釈尊」の仏教の歴史的文献的真贋性にも、関係してい

     るのですが、仏教を語る上で絶対出てくるのが人間としての「釈尊像」であ

     り、問題となるのは、その歴史上の「文献的教義」の信憑性です。

 

     これを、ひゃっきまるさんが仰るように

 

     >新しい概念が妄想でないことを確認するためには、まずその概念が産み出さ

     れる契機となった「世界の情報」が何かを確認し、その後にその「世界の情

     報」を正しく解釈しているかを検証することが必要だと考えます。

 

     と考えると、正にその通りで、物事の本質を見極める上で、これは、大切な条

     件だと思います。

     ただ、それを踏まえた上で(いつもの私のスタンスですが・・)仏教の教義

     は、過去から現在にいたるまで、中々その教義の正邪を見極める「教判」が明

     らかになっていません。

     そこで、私は、あえて逆説的に仏教の「教判」観に付いて考察させて頂きま

     す。

 

     続きます。

 

820 名前: 文底 投稿日: 2000/05/25() 17:43

 

     「教判」とは(皆さんご存知かも知れませんが・・)「教相判釈」の略で、釈

     尊(が説いたとされる教義)の経典の形式や意味や内容を分類整理して、最終

     的には、各経典間の優劣・浅深を判定することを言うのですが、これは、中国

     仏教において発達したものです。

     何故かと言えば、インドからバラバラにもたらされた釈迦仏教の教義を、中国

     仏教として都合良く教義解釈する必要があったためだと推察されます。

     これは、現在の日本の宗教にも言える事で、ある目的(自分の教義)が正しい

     とする為には、釈尊が説いたとされる教えを都合良く解釈せねば、論理的矛盾

     が多くの教義に生じてしまうのです。

     そして、それでも(論理的矛盾があったとしても)多数の宗教は今なお、厳然

     と存在し続けています。

     そこで、全く違った角度から「教相判釈」してみます。(一つの仮説です)

 

     ここは、釈尊の説話としてしばしば使われる「悟り」を直感的ヒントとして、

     推論を導き出します。

     釈尊の教義は、多岐にわたりその変遷ぶりは、正に八万法蔵といわれるほど膨

     大な教義が出てくる訳ですが、その膨大な教義が教義として現在まで受け継が

     れる所以は、夫々の開祖が主体的に選び取った、その時代に流布された経典に

     導かれて、釈尊の「悟り」に迫っていったのではないのかと推考されるので

     す。(釈尊が悟りなさいと説いた訳では無いのですが・・・)

     そして、自らの「悟り」を可能にした経典が、他の経典といかに異なり、いか

     に優れているかを明らかにするために、それぞれが独自の「教判論」を打ち立

     てていったのではないかと言う推論です。

     つまり、直感的「悟り」後の理論的「教義」の裏付けです。

     実際行われた「教相判釈」を逆の推論によって、説明付けると上記のような仮

     説が成り立ち得ますがどうでしょうか?

 

     続きます。

 

821 名前: 文底 投稿日: 2000/05/25() 17:44

 

     無論これは「悟り」と言う極めて曖昧で、主観的な状態を「教相判釈」とし

     て、使ってしまうので「悟った人」にとっては、教義の論理的矛盾や歴史的正

     確性など、あまり問題では無くなってしまう危険性があります。(客観的に見

     ると危ない人になってしまう・・・)

     ただ、逆にその様に考えることによって、過去から現在までの仏教における多

     岐にわたる宗派の乱立や「排他性」「独善性」も説明出来るような気もします

     が・・如何でしょうか?

     勿論、私のような考えが良いと言う訳ではなく、現在の混沌とする「宗教界」

     見るにつけ「こんな考え方も出来るのでは無いか?」と、それこそ「直感的」

     (妄想?)に述べさせて頂きました。

     ただこの「直感的」な推論はひゃっきまるさんが仰った「世界の情報」を正し

     く解釈しているかどうかは、私自身には結論付けられません、逆に皆さんのご

     意見を伺い自身の推論を反省したいと思います。

 

     ひゃっきまるさん、皆さん如何でしょうか?(又一つ論点を増やしてしまった

     ような・・・)

 

     以上です。

 

822 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/26() 01:19

     第7の外道さん

 

     大正新修大蔵経や、その他の経典を確認しました。

     経典群として纏められている「スッタニバータ」は確かに『小部』 に属しま

     す。

     私の手元にある資料(昭和三年発行)「根本説一切有部(漢訳)」に属する経

     典として扱われていま

     すし、多く「スッタニバータ」の引用文は、雑阿含経(パーリ語経典では相応

     部)に配されておりま

     したので、源資料の確認を怠ってしましました。基礎資料を元に仏教経典を学

     ぶと云う姿勢が、解説

     書の面白さに溺れて、鵜呑みにしてしまった愚かな我が身、我が心を呪うばか

     りです。

     大変申し訳ありませんでした。

 

     ただ大正新修大蔵経に代表される漢訳阿含経典では独立した「小部」経典とし

     て存在しません。

     申し上げるまでも無いことですが、漢訳四阿含は、長阿含経・中阿含経・雑阿

     含経・増一阿含経とい

     う構成ですので、そこでも仏教の中国化の影響が及んでいるのでしょう。

     やはり、経典を読むときに自然に大正新修大蔵経を手にするのは、漢訳経典重

     視の呪縛から抜け出せ

     ないようです。

 

     >しかし「スッタニパータ」の第4章は「義足経」として漢訳阿含経にも含ま

     れているみたいですね。

     「義足経」は完訳ではありませんが、断片が雑阿含経(パーリ経典では相応

     部)に紛れ込んでいます。

     しかし、勉強不足とは云え第7の外道さんに対して、或いはこのスレッドの皆

     様にご迷惑をお掛けい

     たしまして大変申し訳なく感じています。心からお詫び申し上げます。

 

       

 

823 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/26() 01:20

     >ひゃっきまるさん

     お考えは了解しました。

 

     > ZEGAさんはこういう創価学会の特性を感じたことはありませんか? 僕

     はこのようなわけで、「創価学会が絶対正しいと思いこんでし

     >まったが故に理性が正常に働かなくなってしまっているのではないか」という

     ことを考えるのです。

 

     相手の不幸を祈るようなものは信心とは言えないと思っています。

     本部幹部会などで、宗門への痛烈な批判をすると共に、罵言を浴びせ掛けるよ

     うな発言などをする男子部もいます。僕もまた「宗門が間違っている」と確信

     して止まない人間ですが、道を誤った人には哀れみを以って正すのが慈悲であ

     ると考えるので、皮肉を交えた語調には、「オイオイそれは違うんじゃないか

     ……?」と思うことも少なくありません。勢いがあることはいいことだと思う

     のですけれど。

 

824 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/26() 01:30

     >法華経に書かれている上行菩薩は、日蓮上人の事で、末法であう苦難と日蓮

     上人の人生は予言といえ

     >るくらい、そんなに類似しているのでしょうか?

     これも、漢訳経典からですが、勧持品十三から、如来神力品までの流れの中で

     の日蓮の法華経解釈であ

     ろうかと思います。

     勧持品十三に説かれる釈迦滅後の「法華経」流布の状況は、鎌倉時代の様相に

     酷似していると感じた日

     蓮は、如来神力品で付属を受けた上行菩薩を己にオーバーラップさせていたの

     ではないか。事実、その

     旨を遺文集の多くに書き残しています。(今回は源資料をきちんとあたってい

     ますから大丈夫だと思い

     ます)

     ですから、似ていると云えば似ているし、何故、上行菩薩が日蓮なのかを疑え

     ば違うでしよう。

     そもそも、上行菩薩なる「菩薩」の存在自体が疑わしいです。

 

     >日蓮が自分を「上行菩薩」の生まれ変わりだとしたのは、文献上の根拠も客

     観的な根拠もな

     >く、ただ本人がそう思いこんでそう主張した、という以上のいかなる「根

     拠」もないものだと思っ

     >ています。

     それが宗教であり、信仰なのでしょうね。

 

       

 

825 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/26() 02:00

     sage

 

826 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/26() 06:11

     第7の外道さん、昼行燈さん、質問に答えていただきありがとうございまし

     た。

     私自身は美術系だったので、法華経の物語としてのど派手でスケールの大きい

     面白さとか、釈迦の命の永遠性を説いたドラマチックさとかに惹かれて

     時々とばし読みしていた程度なので、学術的な法華経の位置とかは、ほとんど

     知りませんでした。

     日蓮上人については、学会員だった彼とつきあっていた時にいろんな本を読ま

     されて知っていましたが、それも客観性に欠ける文献だったんで常々疑問でし

     た。

     信仰というのは、否定や検証が許されない世界でもあります。

     多くは客観性が欠けているし、批判さえ許されないという場合が多いですよ

     ね。

     そこが信仰の大きな問題点だと思うんですが、そうじゃないとそもそも信仰と

     いうのは成り立たないものなのでしょうか。

     日蓮仏法は「信」という事が第一義のように重要です。それは多くの「神」を

     信仰する宗教と同じですよね。

     でも、そもそも釈迦の仏法においては「信」という事が第一義にくるほど重要

     な事だったのか?

     どうも、私にはそうは思えないのです。

     第7の外道さんおすすめの「スッタニパータ」を読んでみようと思います。

 

827 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/26() 07:14

     。。 >ただ、多くの物理学者の意見を代弁したとすると、この暗在系なるもの

     は通常生活する上で認識する必要もないし、

     >認識することも不可能だし、理解することも不可能なもので(因果の法則が

     崩れているので、人間には理解不可能と

     >されています)、また、それが人間の精神と関わっている、ということはあ

     りえないと考えられています。

 

     そうですね。そう考えている学者の方がまだまだ多数です。

     でも実は私の父は素粒子を専門とする物理学者なんですが、素粒子とかクオー

     クの世界ではどんどんすごい発見がなされている

     ようで、もうそこでは現代の科学なんかふっとぶような事が毎日おこっている

     事も事実らしいです。

     そして父も父の仲間達も仏典との類似(特に華厳経がすごいらしいです。)に

     は冷静に考えても驚くそうです。

     まぁ、これはうちの父達が変わってるだけかもしれませんが(笑)

 

     続きます。

 

828 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/26() 07:17

     聞いた話で一番面白かったのは「超ひも理論」でしょうか。

     現在の物理学の主流はこれらしいですね。

     これは素粒子の根元は10マイナス33乗の極微の「ひも」であるという理論で

     す。

     そしてなんと、このひもの中は空洞のマカロニ状になっていて、方程式では

     宇宙は10次元ないし、26次元となるらしいです。(笑)

     これは笑っちゃう話なんですがトンデモ本の話ではなく物理学の仮説です。

     私達が知るのはせいぜい4次元までですが、残りの次元はじゃあどこにあるのか

     というと、

     このマカロニの内側に畳み込まれているらしいです。

     これはプランクスケールという現在の数学が扱える極限の寸法らしくこの中で

     は時間や空間という概念は消失してしまうらしいです。

     このプランクスケールの空間エネルギーを計算すると、現在知られている宇宙

    

     全物質が持つ総エネルギーよりもはるかに大きくなると言われています。

 

     何も存在しない極微の「空」に莫大なエネルギーが秘められている。

     父などは、そこが私達がやってきた場所で、やがてそこへ帰って行くのだと言

     います。

     そして、これはまだ仮説の仮説ですが、「空」には人間の想念すら畳み込まれ

     ていると考えているようです。

 

     私も、なんだかそんな気がしています。

 

     続きます。

 

829 名前: メディスン 投稿日: 2000/05/26() 07:34

     >そういうことが本当にあれば、非常に面白いのですが、やはり僕としては

     「少し」懐疑的なのです。

     >どうしてかというと、今までに科学の発見や法則が宗教や哲学に故意に結び

     つけられて

     >解釈されたようなことがたくさんあったからです。

     >現代科学のいきついた素粒子の世界を、なぜ釈尊やその後世の人物が知り得

     たか

     >(たぶんこれは文底さんの普遍的定理と関係してくるのかも知れません)

     >また、彼らはどういう意図でその仏説をといたのか、検証してみる必要があ

     るでしょう。

     >また、それが本当であれば、その検証の課程で有意義なことが分かると思い

     ます。

 

     暗在系なる場所(空)に時間、物質、想念などがエネルギーとして畳み込まれ

     ているという仮説が

     もし本当ならば、それがある種の普遍的定理といえるのかもしれません。

     釈迦がなんらかの方法でその場所(?)を見る、というか認識する事が出来れ

    

     その共時性もあたりまえかもしれない。なにせ、時間が存在しないのですから

     ね。

     私は個人的には、「瞑想」というものに何か鍵が隠されていると思っていま

     す。

 

     でも、いずれしてもまだまだ全然仮説の段階で、これからの検証が楽しみで

     す。

 

830 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/26() 17:11

     文底さん、お久しぶりです。

 

     >そして、自らの「悟り」を可能にした経典が、他の経典といかに異なり、いか

    

     >優れているかを明らかにするために、それぞれが独自の「教判論」を打ち立て

    

     >いったのではないかと言う推論です。

     >つまり、直感的「悟り」後の理論的「教義」の裏付けです

 

     「悟り」という言葉が適当かどうか分かりませんが、このようなことは、

      当然あるのではないでしょうか・・・。

      「排他性」「独善性」が強くなればなる程、『後の理論的「教義」の裏付

     け』

      というものが必要になるのではないかと思います。

      学会を例にとれば、「法華経」がいかに優れた経典かということを、さまざ

    

      な事象を利用して「裏付け」しようとしています。

      法華経の解説本に、銀河の写真やDNAの構造図、アインシュタイン他

      ○○博士 というのが沢山出てくるとは思いませんでした。

      「竜女成仏」に関しては、「女性の人権宣言」だそうで・・(笑)

      学会が急速に伸びた背景には、独自の「教判論」の上手さがあるような気が

      します。

      文底さんの仰っていることとは、少し外れてしまいましたが、今も昔も

      人間というのは基本的に変わったわけではなく、同じようなロジックを

      繰り返しているのではないかと思います。

 

831 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/26() 17:13

     メディスンさん

 

     >宇宙は10次元ないし、26次元となるらしいです。(笑)

 

      いやースゴイお話しで・・・”次元が違う”とはこういうことですね。

 

     >暗在系なる場所(空)に時間、物質、想念などがエネルギーとして畳み込まれ

    

     >いるという仮説が もし本当ならば、それがある種の普遍的定理といえるのか

    

     >しれません。

 

      法華経的学会的?に言えば、「暗在系」とは、「虚空」=「仏界」になるの

     では

      ないかと思います。 図書館で見た日蓮の本には、「アカシックレコード」

    

      まで書いてありました。

 

     >釈迦がなんらかの方法でその場所(?)を見る、というか認識する事が出来れ

    

     >その共時性もあたりまえかもしれない。なにせ、時間が存在しないのですから

     ね。

     >私は個人的には、「瞑想」というものに何か鍵が隠されていると思っていま

     す。

 

      あまり突っ込むと、トンデモ系のスレッドになってしまうので、簡単に書き

     ます

      が、ある特殊能力?を持った知り合いの方に、「座禅」を組むことを薦めら

     れた

      ことがあります。

 

      ワケの分からんことを言っていると、学会を批判しておいて、自分でワケの

      分からんことを言っていては、どーしようもないですね・・・反省(^_^;)

 

832 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/26() 20:32

     >第7の外道さん

     >従って法華経の原理主義的信仰(ここでは経典を「象徴」として解釈せず、

     「文字通り」のまま信仰する立場のことを仮にこう呼んでおきます)を貫く立

     場にとっては、近代学術的な立場は、釈迦の方便の姿に拘って真実を見ない偏

     狭な立場、ということになるのかも知れませんね。

 

      横レスですが。このような信仰態度を僕も否定するわけではない(僕自身は

     受け入れられませんが)のですが、ほとんどの創価学会員(おそらく他宗も)

     は明らかに歴史的釈迦と神的存在である釈迦を混同しています。即ち、釈迦が

     その一生の間に「華厳、阿含、方等、般若、法華、涅槃」の順で経を説いたと

     いうことを歴史的事実として認識しています。これも無理からぬことで、学会

     では一切こうしたことを教えないからです。また、学者に対する不審感も強い

     です。おそらく、それは学者の人生観や宗教観が劣っているから、という理由

     よりも、学会に不利なことを言うから、という理由からでしょう。創価学会

     (もしくは池田名誉会長)を支持するような学者は賞賛されるのですから。こ

     こでも「創価学会が絶対正しいというところから演繹され結論がでる」とい

     う、他のあらゆることで言えることが起こっているようですが。

 

      「創価学会は幸福の科学と同じである」といえば、創価学会員の全てが激怒

     すると思いますが、幸福の科学も法華経のような架空の(宗教的啓示による

     ?)壮大な物語を柱にして信仰しているわけです。客観的認識ということにお

     いて、創価学会は他の信仰宗教と大差ないということを認めなければならない

     と思っています。

 

833 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/26() 20:36

     >第7の外道さん

     >仏教哲学もそうなのでしょうか? 唯識などは完全にそういう立場だと思い

     ますが。

 

      実際、僕の仏教哲学への興味は唯識思想や空観からはじまりました。しか

     し、調べてみると「唯識」も「空」も、本当に人によって千差万別の捉え方を

     しており、一体どれが本来の仏教なのだ、と疑問を持ちました。それで、釈尊

     が直接説いた教え(即ち真実の教え)を類推しようと思ったのです。

      しかし、そもそも釈尊は形而上学的世界観を悟りとして説こうとしていたわ

     けではないらしい。また、考えてみれば、釈尊が直接説いたものを唯一の真実

     として絶対視する態度もおかしい。ということで、今はもっと自由に考えてみ

     ようと思っています。

      今のところの僕の「唯識」「空」の解釈は、以下のようなものです。別にど

     の文献を参照した、ということでなく、自分はこう捉えている、程度のことで

     すが。アドバイスなどもらえたら嬉しいです。

     1・世界は確かにある

     2・人間は世界からの情報に言葉(概念)を与えることで、世界をとらえよう

     とする

     3・人間は因果によってしか世界を理解できない

     4・しかし、世界は言葉と因果によって把握できる保証はない

     5・人間は言葉と因果によって心の中に仮想的な世界を創るが、これをしばし

     ば本物の世界と錯覚する

     6・この仮想的な世界は、心の持ち主である主体者がいることによって生じて

     いるので、実体はない

     7・しかし主体者にとってはこの仮想的世界が即ち彼の感じられる世界そのも

     のであるので、「在る」と言える

     8・この仮想的世界のあり方を空とする

      この考えの問題点は、人間にとって「在る」といえるのは7の意味での「在

     る」しかないはずですが、1で本当の世界が「在る」と言ってしまっている点

     です。形而上学的なことを考えるのが苦手な僕にとってはここまでで限界・

     ・・。

      蛇足ですが、1の「在る」を前提として、2(究極的には数学という言葉

     )、3の方法で世界を完全に理解できるという信念を持っているのが現代科学

     だと思っています。今のところかなり成功していると言えるのではないでしょ

     うか。

 

834 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/26() 20:43

     >文底さん

     >その客観的材料として、医学による「遺伝的伝承因子」なるものを挙げてお

     きます。(後略)

 

      もちろん僕も、『人間は生まれた時点では世界に対する如何なる概念(言

     葉)も持っていない』とはいえ、人間が生まれながらにもっている素材的要素

     を否定するわけではありません。「世界から与えられる情報」には、自分自身

     の心も含まれるわけで、それが自覚された段階で言葉(概念)になるのではな

     いかと思います。

 

     >(前略)そして、自らの「悟り」を可能にした経典が、他の経典といかに異

     なり、いかに優れているかを明らかにするために、それぞれが独自の「教判

     論」を打ち立てていったのではないかと言う推論です。(後略)

 

      確かに中国の教判は、文底さんのいうようなやり方で行われていたと思いま

     す。釈尊の死後、膨大に生み出されていった経典が全て釈尊自身によって説か

     れたと完全に思いこんでいたのですから、無理からぬことであったのでしょ

     う。また、現代の科学的アプローチ(主観的判断よりも、客観的判断の方を確

     かなものとする)も知らなかった時代のことですから。

      理屈(のみ)によって真実にたどり着けるという方法論がずっと信頼されて

     いたし、重視されていたのだと思います。

      現在の大乗仏教の宗派は、自分たちの教義や成り立ちがそれほど確かなもの

     の上にあるわけではないことを知らなければならないと思っています。根拠の

     薄いものを絶対だと信じることは狂信と言われても仕方のないことですから。

 

835 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/26() 20:47

     >文底さん

     >勿論、私のような考えが良いと言う訳ではなく、現在の混沌とする「宗教

     界」見るにつけ「こんな考え方も出来るのでは無いか?」と、それこそ「直感

     的」(妄想?)に述べさせて頂きました。

 

      僕の考える「妄想でない正しい直感」とは、「閃く」とでもいうもので、今

     まで頭にあった情報や考察が突然関連性をもってつながり、未解決の問題を解

     くきっかけとなる、というようなもので、それは当然間違っている可能性を含

     んでいるにしても、正しいかどうかは直感以外の方法で検証できると考えてい

     ます。

 

836 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/26() 20:51

     >ZEGAさん

      僕の考え過ぎであればいいのですが、少しZEGAさんのレスの仕方に不安

     を感じました。ZEGAさんは創価学会を擁護する意味でもこのスレッドに参

     加されているのだと思いますが、僕などの意見に対して反論がないようです

     が・・・? かといって同意でもなく、感想のような答え方に思えます。悪く

     言えばのらりくらりというか・・・。あとでまとめて反論するつもりなのでし

     ょうか?

      僕は創価学会全体の傾向に対して、若しくは本部の体制、態度に対してしか

     非難していません。むしろ末端の一人一人の信者は皆心優しく、善良であると

     思っています(これは大抵の宗教で同様なのですが)。ですからZEGAさん

     のように、『オイオイそれは違うんじゃないか……?』と思う人はけっこうい

     るはずだとも思っています。実際、2chにはそういう方がたまに顔を出しま

     す。

      ZEGAさんは、創価学会の全てを正しいとは思っていないのでしょうか?

      一貫して昔からとられている本部の体制に関しても、組織の腐敗で片付けら

     れるのでしょうか? 僕にはむしろ腐敗というよりも組織維持のためのような

     気がするのですが。

 

837 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/26() 20:53

     >ZEGAさん

      単にスレッドの読破をしていて忙しいというのであれば、失礼な言動お許し

     下さい。参考までに、このスレッドの流れをまとめてみました。

 

     1~233 (10/23)1で第7の外道さんの提起した議題に対する前半の流れ。

     234 (4/3):文底さんのはじめてのカキコ。ここから後半の流れになる。普遍的

     真理について議論はじまる

     611(5/10):ZEGAさんのはじめてのカキコ。

     617~626(5/10):文底さんから、普遍的真理=生命宣言&議論終結宣言。

      以後は、様々な議題が飛び交いながらも、基本的に「生命論」と「ZEGA

     さんへの質問」が主な内容となっているようです。

 

      後半の流れは確かに非常にスピードが速い(特に今は)のですが、それは一

     度にカキコできる文章量が制限されてしまったからでもあります。もし前半部

     分を苦労して読んでいて、先行きの遠さにうんざりしているのでしたら、ご安

     心下さい。

      僕としては617の時点から読んでも全く問題なく話についていけると思ってい

     ます。

 

838 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/26() 20:57

     >メディスンさん

      身近にそんなすごいスケールの研究をしているお父上がいてメディスンさん

     は幸せですね(^^)

      超ひも理論は宇宙の全ての法則を統一するものとしてつくられたようです

     ね。つまり、量子力学と相対性理論ですが。次元が4次元(3次元空間+時間)

     以上であると仮定することによって、物質や光、エネルギーなどあらゆるもの

     を数学的に矛盾なく説明できるということですよね。人間は素粒子の世界を

     「因果」によっては理解することはできなくとも、数学では理解できるという

     一つの可能性でもあるかもしれません。

      ただ、超ひも理論の問題点として、量子力学のように実験や観測ができず、

     理論が正しいかどうかの証明が限りなく不可能に近い、ということがあるよう

     です(円周千光年の粒子加速器とか必要らしい)。つまり、何の確証もない、

     数学者の理論遊び(これは宗教教義の言葉遊びに似ています)になる危険性が

     あるということです。「空」の解釈をめぐって無数の人間が無数の解釈の仕方

     をしたように、超ひも理論も無数の人間が無数の説を出している状況に思えま

     す。

      暗在系と想念が関係しているかはなんとも言えないのですが、研究している

     人はいるようです。イギリスの神経科学者で、ジョン・エックルス(ノーベル賞

     受賞者)は、量子力学による説明で自由意志がありうることを説明しようとして

     います『The Self and its Brain(1977)』。もちろんこれに反論する学者もた

     くさんいますが。精神が神経細胞のネットワークからできていると考えられて

     いる以上、少々部が悪いのではないかと思います。

      といっても、おそらくメディスンさんの言っているのはもっと根元的な、哲

     学的テーマと深く関わりを持つ「想念」なのでしょう。

 

839 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/27() 00:53

     >ひゃっきまるさん

     ようやく過去ログ読み終えました。しかし、今度は現在の論議に追いつくのが

     大変です。

 

     はい、創価学会の全てが正しいなんて思っていません。

     でも、暴走する姿が散見されても、やはり背骨はしっかりしていると感じま

     す。

     最初は纏めて反論するつもりだったのですが……。

     元々反宗教だった僕にとって、宗教批判、特に学会批判の意見には、「いや

     ー、分かるなー」と思うところがいーっぱいあります。ですから、そうした意

     見を目にしても、「それは違うッ!」と怒鳴るような心境にはなれないので

     す。

     しかし、結論は熱血男子部員と一緒であり、皆さんお馴染みの「真剣にやって

     みなくては分からない」なので、語る気力が少なめになっているというのが正

     直なところです。

     それというのも、僕はさる大幹部の孫なのですが、大学に入るまでずっと信心

     反対を公言してきたのです。昔から形而上的なことを考えるのが大好きな、今

     考えると理屈っぽいヤな奴でした。しかし、身近に学会員が一杯いるものです

     から、学会員を観察する機会に恵まれ過ぎています。

     それで、やっぱり信心している人は、5年、10年単位で見ると確実に幸せになっ

     ているんですよ。トドメに、見下していた人間にギャフンと言わされた(勝手

     に言っただけですが)僕としては、もう信心の効き目を認めるしかなくなった

     のです。

     始めは、「破折したる!……勉強も兼ねて」と思っていたのですが、ここ(2ch

     )で「信心したほうが絶対いい!」と主張しても、昔の自分なら激昂するか嘲

     笑するかのどちらかに違いないので、語気強く語る気が失せてしまいました。

     かといって「逃げたな、プ」と思われるのもイヤなので、こうして意見を申し

     述べているわけです。

 

     しかし、自分の実感として言えるのは、「部屋を出ないで」物事を理解しよう

     と言うのは傲慢だ、ということです。

     こういうことをいうときっと怒られるのですが、もう書いてしまったので消し

     ません。

 

840 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/27() 01:12

     さて、「活動する学会員以外は皆劣っている」と思いこんでいるのでは、との

     ことですが、僕の周囲では少なくともそうした風潮はありません。かなり活動

     の活発な地域に住んでいるので、恐らく大丈夫でしょう。

     しかし、男子部の方の「障害者は〜」というくだりは、到底見過ごせない発言

     だと思います。

     古くから活躍された幹部でも、独見からとんでもないことを言うようになるこ

     とがあるようです。そうした人はどこかで信心の本筋を外れてしまったようで

     すが、こうしたことはいつでも起こり得ることと思います。

     また、それが少々見過ごせない規模で起こっている気配は感じます(特に「純

     粋培養」な人に)。これは由々しき問題であると思います。

 

841 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/27() 02:55

     ひゃっきまるさん

 

     >この考えの問題点は、人間にとって「在る」といえるのは7の意味での「在

     る」しかないはずですが、1で本当の世界が「在る」と言ってしまっている点

     です。

 

     思うのですが、その辺に「形而上学」的発想は結局のところ帰着するような気

     がします。

     1で言うところの「ある」と7で言うところの「ある」との違いは、後者では

     「ある」ものは概念によって具体的な規定を受けているのに対し、前者の「あ

     る」は、具体的に概念規定される以前の、まさに「ある」としか言いようの無

     いものである、という点です。というのも、1の「ある」について何かが具体

     的な概念規定をもって知られたならば、ひゃっきまるさん定義ではおそらくそ

     れは7の意味で「ある」ことになってしまうだろうからです。

     従って極端に考えれば、1で言う「ある」は概念規定をされる前の「存在その

     もの」、あらゆる具体的な存在者の根底にある「ある」ということそれ自体と

     いうことになってしまいます。西洋の伝統的な「形而上学」は、具体的に概念

     規定されうる存在者(従って相対的な存在者)を超えた、「存在そのもの」を

     何とか追求しようという関心を持っていた、といってもいいでしょうから、ひ

     ゃっきまるさんの仮説は〈突き詰めて考えれば〉形而上学そのものを導きだせ

     ると思います。(ひゃっきまるさんの関心がそちらにないのは承知しているつ

     もりです。)

     因みに、概念による規定性が相対的なものだと強く意識されるような場合は、

     概念を超えた「存在そのもの」を、概念による把握とは異なった認識方法で把

     握しようという発想が現れます。例えば「直観」(ベルクソンなど)、例えば

     「神秘的体験」(新プラトン派)、例えば「信仰」・・・(A)。

 

     続きます。

 

842 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/27() 02:57

 

     しかし、ひゃっきまるさんの提示された図式からは、こうも言うことができる

     と思います。例えば、概念形成を発生論的に見ると、先ず1の意味での「あ

     る」(存在そのもの)というのが確立されてから具体的な概念規定(7で言う

     意味での概念規定を受けた相対的な「ある」)が始まるのではなく、7で言う

     意味での概念規定がある程度出揃ってから、それを根拠づけていく過程で様々

     な抽象化が行われ、その果てに1で言う意味での「ある」が確立される、とい

     うことです。即ち人間の認識過程では、1でいう極めて包括的な「ある」(存

     在そのもの)は、具体的で相対的な概念規定がかなり出揃ってから、あくまで

     事後的に設定される、ということです。

     ですから、1でいう形而上学的な「存在そのもの」は、説明の都合上、事の初

     めとして位置付けられるのかも知れないが、しかしそれは7でいう具体的で相

     対的な概念規定の集積があって初めて意味があるのであり、概念の体系の辻褄

     を合わせるために、説明の都合上、「論理的始元」として後から仮に設定され

     るものである、ということもできるわけです(B)。

 

     続きます。

 

843 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/27() 02:57

     もしBの立場ならば、全ての相対的な・仮想的な「ある」の根底にある「存在

     そのもの」もまた概念規定された相対的なものである、となるわけですから、

     人間の認識には相対的で仮想的な「ある」しかなく、「存在そのもの」を言い

     当てたり「体験」したりするというのはそもそもの錯覚でしかない、というこ

     とになります。人間の認識に「ゴール」は存在しなくなるし、確かな「スター

     ト」さえ存在しなくなる、という結論を導き出します。もっとも、7で言うよ

     うな相対的で仮想的な「ある」の背後に絶対的で確実な「存在そのもの」なん

     てないわけですから、同時に「相対的」「仮想的」という言い方さえ不適当に

     なってしまいます。

     (かといって具体的に概念規定されたものがそれで消え去ってしまうわけでは

     ありません。究極の根拠を相対化され、常に「仮想的」であるしかない状態に

     なるわけです。しかしそうしたものは条件次第でどうにでも別の規定がなされ

     てしまうものであり、その意味でそれ自体として確実に存在するもの、という

     ものではなくなってしまいます。)

 

     さて、このBの立場の徹底化こそ、「空」の論理ではなかったのか、と私は思

     うわけです。

     ひゃっきまるさんの言う意味での「空」ですと、「空」は、1でいうところの

     「ある」との対比の上で初めて成り立つ概念になります。つまり7でいうとこ

     ろの「ある」は「空」であるが、1でいうところの「ある」は「空」ではな

     い、ということになりそうです。ただ、1でいう「ある」が説明の都合上仮に

     要求されるものに過ぎないということになれば、話は変わってきますが。

 

     非常に分かりにくい説明になってしまって申しわけないですが、現状の私の力

     量ではまだこれ以上うまい言いまわしができません。もし「わけがわからな

     い」ということでしたらまた突っ込んでください。

 

844 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/27() 09:18

     ZEGAさん

 

     揚げ足を取るようですが、

     >やっぱり信心している人は、5年、10年単位で見ると確実に幸せになっている

     んですよ。(839

     >古くから活躍された幹部でも、独見からとんでもないことを言うようになる

     ことがあるようです。(840

     これは明らかに矛盾した結論が創価学会の信仰に依って、導き出される現実で

     はありませんか。

     この古くからの信者の方々(840)は、学会教義で云うところの「仏界」とは違

     った「境涯」です。

     同じ本尊に同じようにお題目を唱え、活動も為されて「強く信仰」を行えば、

     皆が同様に幸せな「誰から

     も壊されない絶対的な幸せ」は、「現証」として出るのではなかったのです

     か?

     同じ学会員でありながら、異なる「現証」の存在があなたの文字からも伺えま

     すが如何でしょうか。

     5年、10年単位の信仰を為されている方と、我見を生みだす古くからの活躍をさ

     れる幹部の信仰とは相容れ

     ないはずです。我見を述べる「古くから活躍された幹部」の存在については、

     「まだ信心が足りない」と

     言われるのでしょうか?(この類の学会員が、一番世間で学会活動されている

     のが現実です)

 

     そこから導き出される回答は、「やってみても変わらない人も居る。故にやっ

     てみても分からない」だと思

     います。

     誰もが創価学会を信じてお題目を唱えても、「駄目な人」も居たり、「幸せに

     成ったひと」も居るでは、

     「誰もがこの信心に依って『仏界』を得ることが出来る」とは言えないのでは

     ありませんか?

 

     第7の外道さん初め、他の方がたには「スッタニバータ」の件で、混乱させる

     レスを致しまして申し訳なく

     思っています。お詫びして(813)の発言は撤回・取り消させて頂きます。

 

       

 

845 名前: 文底 投稿日: 2000/05/27() 17:15

 

     >ひゃきまるさん

     >若葉マークさん(お久しぶりです)

 

     レス有り難う御座います。

 

     私は、直感的考察における「教判」論に対して、現在再考察中です。

     と申しますのも、私が述べた「教判」における考察には、文献的「教判」論に

     対する一つの考察になり得ますが「悟り」に対する「教判」の位置付けに付い

     ては、もう少し考える必要があると思ってからです。

 

     ひゃきまるさんが仰った「閃く」と言う定義は、含蓄がありますね。

     「直感」や「悟り」が一歩間違うと「単なる勘違い」や「医学的体内モルフィ

     ネの倒錯感」と同義になってしまうので、その辺りの「教判」が必要になりま

     す。

 

     若葉マークさんの仰った学会の法華経解説書に「銀河の写真やDNAの構造

     図、アインシュタイン」などが載っているのならば、ひゃっきまるさんが私の

     「生命論」を学会的だと誤解される意味も納得できます。

 

     それから、ちょっと横レスですが、第7の外道さんが言われている「直観」論

     (ベルクソンなど)は、私が述べた「直感」とは、意味付けが違いますので、

     ちょっとホローしておきます。(皆さん御存知かも・・)

 

     ベルクソンなどが述べている直観とは「時間から極力空間的要素を排除して、

     純粋な時間を推理などの間接の手段によらないで成立する直接の了解を得よう

     として定義した」もので「説明や証明をまたず、物事の真相を心で感じ取る」

     直感とは、若干意味付けが違うかと思います。(第7の外道さんこれで良いで

     すよね・・・)

     その辺りを考慮して、皆さん論議して下さい。

 

846 名前: 文底 投稿日: 2000/05/27() 17:33

 

     ZEGAさん

 

     >ここ(2ch)で「信心したほうが絶対いい!」と主張しても、昔の自分なら激

     昂するか嘲笑するかのどちらかに違いないので、語気強く語る気が失せてしま

     いました。

 

     確かに「ここ(2ch)」には「激昂するか嘲笑する」方々もいらっしゃいます。

 

     しかし、このスレッドで常時発言されている方々は、第7の外道さんを始め、

     皆さん、真摯な気持ちで学会(ZEGAさん)のお考えを知りたいと考えており、

     絶対にZEGAさんの述べる点に対し「批判のための批判」や「予め決まっている

     結論の為だけの論証」などを結論付けるものではありません。

     また、それらの点を、お互いに十分留意し、もし行き過ぎた点があれば、率直

     に改める寛容性も持ち合わせております。

     お忙しい事とは、存じ上げますが、ZEGAさんはZEGAさんの言葉で結構ですか

     ら、私たちの創価学会に対しての認識を正しくするためにも、粛々と、自分の

     思う所を述べて頂ければと、願っております。

 

847 名前: すみません。 投稿日: 2000/05/28() 10:33

      削除要請は結局却下されてしまったようです。

      申し訳ありませんでした。

 

848 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/28() 10:38

      追伸(847)ですが、このスレッドは学会系の方もそうでない方も

     みなさん落ち着いて議論していらっしゃってすばらしいですね。

      こういう場はなかなかもてないと思います。

      今後とも頑張ってください。 

 

849 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/29() 11:42

     ZEGAさん

 

     私も昼行燈さん(844)と同意見です。

     ZEGAさんが

 

     >「障害者は〜」というくだりは、到底見過ごせない発言だと思います。

     >これは由々しき問題であると思います。

 

     という感性をお持ちなのには安心するところもあるのですが、対外的に見れ

     ば、創価学会で目立つのはZEGAさんのようなキャラクターではなく、「独見か

     らとんでもないことを言う」人たちです。「暴走する姿が散見されても、やは

     り背骨はしっかりしていると感じます」といわれても、それはZEGAさんの主観

     的判断であって、外部の人間には「背骨」などは全く見えてこず、ただ「暴

     走」している姿ばかりが目立ちます。

     他人の死を「功徳」だとか言ってのける輩などは信心がどうこう言う以前の問

     題ですし(外の視点から言えば、そういう発言がまかり通ってしまうという時

     点で、その集団は相当危険な組織であると見えます。)、そうした学会員の行

     動・発言に心に甚大な傷を負わされた人は決して少なくありません。さらに悪

     いことは、学会に対する不満や不信感があっても、「彼らは恐いから」「何を

     してくるか分からないから」という理由で口をつぐみ、泣き寝入りしている人

     もまた少なくないということです。これほどまでの圧力を外部の人間に感じさ

     せる団体は私から見ても日本にそうそうあるものではなく、決して「組織一

     般」の問題に還元させることはできないと思います。

     ZEGAさんのような方が多く現れて、そうした学会の印象を根本から変えいくこ

     とを願ってやみませんが、私に限って言えば、それはやや悲観的です。そうい

     う人たちがたとえ幾ばくかいたとしても、最終的には「信心」を持たず外部か

     ら「暴走」を批判する人よりも、「暴走」はしているが「信心」は持っている

     人を信頼しそうに思えるからです(これは私の全くの独断です。ZEGAさんが

     「信心」の価値を絶対視しておられる姿勢から、そう「感じる」というだけで

     す)。

 

     またご意見などありましたら気楽にお願いします。

 

850 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/29() 16:58

     >ZEGAさん

      文底さんはああ言ってくれましたが、正直なところZEGAさんの意見には

     不愉快なものを感じました。

      「結局やってみなければ分からない」というのはZEGAさんが初めに主張

     していた内容であり、そこから今まで議論していたわけではないのか?、今ま

     で積み重ねてきたものは無意味だったのか?、と思えてしまったからです。

      ZEGAさんの発言からは、きちっと論理を積み重ねて共通見解を確認しな

     がら互いに答えに近づいていく、という姿勢が感じられず、自分の意見を絶対

     のものとして、短絡的に感想だけを述べているように思えるのです。傲慢なの

     はどっちでしょう? 反宗教の昔の頃にしろ、宗教肯定の今にしろ、そうした

     態度だったのではないでしょうか? 常識に対する盲信、宗教に対する盲信、

     どちらも同じです。

      開き直ってしまったZEGAさんに最早なにを言っても仕方ないのかも知れ

     ませんが、やはり言わずにはいられないので、言うことにします。

 

      ZEGAさんが信心をして幸せになった、あるいは、周りの身近な人間が幸

     せになった、というのはまぎれもない事実でしょう。しかし、ZEGAさんは

     折伏をしているのですよね? 折伏とは、例えば相手がキリスト教であったと

     して、或いは相手が無宗教主義者だったとしても、創価学会の信心の方が正し

     い、と主張するということです。では、そのときZEGAさんはどんな説明を

     するのですか?

      このスレッドでは、文証、理証、現証、あらゆる角度から創価学会の正当性

     を論じています。また、一方的なこちらの論理からのアプローチばかりではな

     く、創価学会の主張する内容に沿ってきちんと反論しています。その反論に一

     言も言い返せないとしたら、かなりおかしな事ではないですか?

 

851 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/29() 17:00

      『身近に学会員が一杯いるものですから、学会員を観察する機会に恵まれ過

     ぎています。』とのことですが、むしろ逆ではないかと思います。ZEGAさ

     んが日常的に親しい知人のうち、何割ぐらいが「非」学会員ですか? もし高

     校や大学が創価系でなければ、ある程度学会員でない知人がいることになりま

     すが、そうだとしても学会員ほど深い付き合いはしていないのではないでしょ

     うか。

      ほとんどの知人が学会員だとすると、「活動している学会員」か、「活動し

     ていない学会員」か、ということになります。活動している人は日々の生活で

     も真面目でしょうし、自ずと功徳があらわれることになります。

      学会員でない人も広く見れば、人徳のある人もいるし、真面目な人もいま

     す。そういう人は成功しています。とどのつまり、学会員であっても学会員で

     なくても、いろいろな人がいる、という当たり前のことなのです。たまたま学

     会員だけを見てしまうと、信心が強い人は幸せになっている、ということだと

     思います。

      ZEGAさんの尊敬する人を二十人あげて下さい、といったら、(身近な人

     を除けば)そのうちの何割が学会員ですか? 学会員でなくても立派な人はい

     くらでもいるのではないですか?

 

      『「部屋を出ないで」物事を理解しようと言うのは傲慢だ』とのことです

     が、皆それなりに創価学会と関わりをもって、その体験に基づいて意見を出し

     ています。理屈の上で理解できないから信心する、というのならまだ納得でき

     るのですが、理屈の上では明らかに間違いである、という答えが出ているとき

     に、信心しようと思うでしょうか?

 

      『「純粋培養」な人』という言葉が出ましたが、それはどういう人なのでし

     ょう。他の学会員に比べて、具体的にどの点が間違っていて、その原因はなん

     だと思いますか?

 

852 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/29() 17:08

      ここからは世間話みたいなものなのですが、ZEGAさんは『さる大幹部の

     孫』とのことで、興味をひかれました。お爺さま(お婆さま?)は戸田二代会

     長からの会員なのでしょうか? 人間革命に登場するほどの人物なのかも知れ

     ませんね。僕は創価大学で戸田二代会長のお孫さんや、二代会長から会員の先

     生と少しだけお話ししたことがあるのですが、お二人とも今の創価大生には戸

     惑っているご様子でした。創価学会を昔から知っているZEGAさんの家で

     は、今の創価学会をどう捉えているのでしょうか。ZEGAさんには、「バリ

     バリの学会員」の中では多少違った印象を受けますが、なにかその辺と関係が

     あるのではないか、と思いまして。

      三代までの会長を見てみると、それぞれ個性が際立って、比較すると面白い

     です。牧口初代会長はまさに「哲学者」という感じだし、戸田二代会長は「経

     営者」という感じですか。理数系的な素養もあり、日蓮仏法を現代的な言葉で

     解説できるアイデアマンでもあったようです。池田三代会長(現名誉会長)

     は、「詩人」というのがぴったりきます。理屈うんぬんよりも、言葉で人を納

     得させるというか。「政治家」という感じもするし、「その辺のおじさん」と

     いう感じもする。ちょっと得体のしれないところがあるような・・・。

      それから、『昔から形而上的なことを考えるのが大好きな、今考えると理屈

     っぽいヤな奴でした』とのことですが、理屈っぽい人は嫌な人なのでしょう

     か? むしろ、物事をよく考えることができる、というのは長所であると思う

     のですが。考えてばかりで行動がない、とは学会でよく言われることですが、

     考えないで行動する方が数段恐ろしいことだと思いませんか?(そしてそれが

     創価学会の抱える問題点であると僕は思っています) もっと自分に自信を持

     って下さい。

 

853 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/05/29() 17:10

     >第7の外道さん

     >非常に分かりにくい説明になってしまって申しわけないですが、(略)

 

      いえいえ、非常に分かりやすい説明でした。頭の中でもやもやしていて説明

     できずにいるものを見事に文章化してくれるものですから、とても気持ちがい

     いです。

      実際、僕もBの立場で考えていました。そういう意味で、『1でいう「あ

     る」が説明の都合上仮に要求されるものに過ぎない』ということに同意しま

     す。

      ただ、全く別の考えもあって、やはり明確に、世界は世界そのもので存在す

     る、と言ってもいいのではないか、と思うのです。その場合は、「在る」には

     二種類ある、ということになります。

      うまく説明できないのですが、僕には世界があるかないかわからないあやふ

     やなものとは到底思えないのです(それが凡夫の愚かさというものかもしれま

     せんが)。自分の認識している範囲では秩序は正常に保たれているように思え

     るので、その秩序を保つ働き(物理法則など)が背後にあると考えなければ不

     自然です。条件を厳密に指定してやれば理科の実験は必ず同じ答えを出すでし

     ょう。この場合、『7で言う意味での概念規定がある程度出揃ってから、それ

     を根拠づけていく過程で様々な抽象化が行われ、その果てに1で言う意味での

     「ある」が確立される』ということになります。

      二種類(17)の在るを説明すると、いささか強引すぎる定義ですが、「客

     観」と「主観」です。本当に下手な説明だし、単純すぎると思うのですが、こ

     れ以上うまい言葉が見つからなかったので。人間は誰でも主観でしか世界を捉

     えられないので、「客観の世界」というのは集団幻想に他なりませんが、現代

     人のほとんどはこの客観の世界の存在を信じています。それは数々の経験、証

     拠の蓄積で、そう信じられているのだと思います。

      これはなんとなしに漠然と思っているだけなのですが、実は7の「在る」を空

     と呼ぶのではなくて、1の「在る」を空と呼ぶのではないか?という感じもする

     のです。

      しかしそうなるとAの立場に近くなってしまうのでしょうね。

 

854 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/30() 12:11

 

     昼行燈さん

 

     質問なのですが・・・。

     「仏教史」「法華経」「日蓮」に関する書籍で、お薦めのものが

     ありましたら、教えていただきたいのですが。

     田舎に住んでいるものですから、近所の本屋にはそのような書籍は

     ほとんどなく、ネット通販で検索してみるのですが、タイトルと

     著者だけではどれを選んだらよいものか判らずでして・・・。

     神田の2大本屋?(三省堂・書泉)にも行ってみたのですが、店頭に

     並んでいるものは、あまり多くないようですね。

     それと、もう一つ。 学会系の書籍は、信濃町辺りで買えるところが

     あるのでしょうか? もしご存知でしたらば、教えてください。

 

     以上、よろしくお願い致します。

 

855 名前: ZEGA 投稿日: 2000/05/31() 02:18

     家の改装中なので、まともにPCが使えません。

     必ずレスするのでしばしお待ちを。

 

     Webやメールは時間を空けると大変だ……

 

856 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/05/31() 02:22

     若葉マークさん

 

     推薦図書をとの事ですが。

     仏教史であれば、平川彰氏の「インド、中国、日本、仏教通史」(春秋社)を

     お薦めします。

     仏教に関しての著書は、同氏のほか、中村元氏、三枝充悳氏の著書を推薦しま

     す。

     法華経は、「法華経 上・中・下」(岩波文庫)が手に入れやすいでしょう。

     日蓮関係では、遺文集として、「日蓮聖人遺文集」(山喜坊仏書林)や、「日

     蓮大聖人御書全集」

     (創価学会版)は手に入れやすいと思います。

 

     法華経や日蓮関係の著書は、数多くありますが、余計な先入観が混じりますか

     ら、解説書は余り

     多くは読んでいません。

     どうしても確認したいときや、内容を知りたい時は、図書館などで読んで、知

     りたい説が「どの

     著書」に書かれているかを確かめながら、手繰って行く方法をとっています。

 

     私は、仏教書の購入を古書店などを回って入手しましたが、余りに高価なもの

     や、手に入らない

     著書は、某教団の図書館で閲覧、貸し出しサービスを受けています。(佼成図

     書館に感謝します)

     学会関係の出版物に関しても、学会の施設で販売していますので、書店には頼

     っていません。

     ご近所に、お寺とか教団があれば、しまい込んでいる書物を見せて頂けるので

     はないでしょうか。

 

857 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/31() 10:09

     ひゃっきまるさん

 

     >僕には世界があるかないかわからないあやふやなものとは到底思えないので

     す(それが凡夫の愚かさというものかもしれませんが)。(以下略)

 

     もちろん、それは私も同意見です。ただあえてそれに相反する立場から言って

     みます。

     「世界は世界そのもので存在する」の「そのものの存在」が何を意味するのか

     を追求していくと、どんどんそれは空虚なものになり、結局それは何物なのか

     分からないものになっていく、例えばそれはあらゆる具体的な存在者を浮かべ

     る背景のようなもの、あるいはいっそ「無」といってもよさそうなものになっ

     たりします(実際こういう発想をする哲学者はいます)。さりとて概念で明確

     に規定されれば、それは相対的な把握を許容するものとなるでしょう(この視

     点では存在する、この視点では存在しない、という具合)。解釈や視点に関係

     なく「そのものが存在する」というのは、結局のところ、同じ概念を使う者同

     士が対話をする上での共通の約束事以上のものではなくなります。これは、

     「そのものが存在する」ことさえ否定されるとその人との間に対話がほぼ成立

     しなくなってしまうことを考えるとよく分かります。(相手が狂っているよう

     に見えてしまいます。勿論、その場合相手からすれば我々が狂っていることに

     なるでしょうが。)

 

     >自分の認識している範囲では秩序は正常に保たれているように思えるので、

     その秩序を保つ働き(物理法則など)が背後にあると考えなければ不自然で

     す。

 

     秩序が正常に保たれているように認識できるようになるまでには、様々な「無

     秩序」的要素を意識の外に放逐したり、既に諸の事物を概念によって規定して

     いたりしていなくてはならないでしょう。我々は広い意味での「教育」を全く

     受けていなければ、世界を秩序立ったものと見ることすらそもそもできないと

     思います。

 

     続きます。

 

858 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/05/31() 10:10

 

     >条件を厳密に指定してやれば理科の実験は必ず同じ答えを出すでしょう。

 

     「条件を厳密に指定してやれば」というのがミソになるでしょうね。

 

     思うのですが、世界の存在は個人の主観で勝手にあるなしを決め付けられるよ

     うな代物ではないですが(その意味で、個人の主観を超えたものですが)、さ

     りとて「客観」と言っていいのかは確定的には言えません。「客観」を定義し

     ようとすればするほど、かえってその概念が曖昧な、特に何を意味するもので

     もなくなってしまうようなものになってしまうとするなら、果たして「客観」

     とはそもそも何なのか? そうした概念で物を問うこと自体が間違っていたの

     では? という具合になってしまうのではないでしょうか。そこで「世界その

     ものはある」といっても、それは一種の「信仰告白」以上の意味を失ってしま

     うのではないでしょうか? (勿論、その「告白」あるがゆえに「正常な」コ

     ミュニケーションが可能になるのなら、それは決して無意味なものではありま

     せんが。)

 

     この辺からは昼行燈さんらの突っ込みを期待したいところなのですが、そもそ

     も仏教で言うところの「空」とは、「有」に対する「無」なのではなく、「有

     るとも、無いとも言えない」という有り方(? この言い方は思いっきり矛盾

     を呼びますが)を表そうとしたのではないかと私は思っています。全てのもの

     が条件次第で変容してしまい(無常)、変容するものの根底に恒常不変なもの

     (「そのものの存在」など)はない(無我)、さりとて変容するものは「無」

     なのではない、しかしそれは不可知論でもない(確かに存在するものを認識で

     きないのならそれは不可知論ですが、確かに存在するものを前提として認めな

     いのですから、不可知論ですら無くなります)という、非常に微妙なところを

     綱渡りしていくような考え方だと思うのです。しかし確信をもってその綱渡り

     を敢行していき、あらゆる「恒常なもの」への拘りを打破していく、それが仏

     教の真骨頂ではないか? と思えるのです。

 

859 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/05/31() 17:17

     昼行燈さん

 

     推薦図書の件、ありがとうございました。

     早速、ネット通販で注文しました。

 

     >学会関係の出版物に関しても、学会の施設で販売していますので、書店には頼

     っていません。

 

      学会の施設が徒歩5分程度のところにありますが、やはり、なんとなく行き

     づらいですね。

      考え過ぎかもしれませんが・・・(^^

 

860 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/02() 18:19

     >第7の外道さん

      僕もあえて、「客観的な世界の在り方」を空とするものだとして、以下のよ

     うに説明を変えることにします。

 

     1・世界は確かに(客観的な意味で)ある

     2・人間は世界からの情報に言葉(概念)を与えることで、世界をとらえよう

     とする

     3・世界はそれ自体には意志のない、物と物との関係(因果)のみによって構

     成されている

     4・しかし、言葉は世界を暫定に区切るだけで、世界そのものを捉えられない

     5・人間は言葉によって心の中に仮想的な世界を創るが、これをしばしば本物

     の世界と錯覚する

     6・この仮想的な世界は、心の持ち主である主体者がいることによって生じて

     いるので、実体はなく、そのために主体者は苦しむ

     7・それに対して、本物の世界は実体は在るのだが、それを想定するとき主体

     者は存在しないので、「在る」という意味を失う

     8・この本物の世界のあり方を空とする

     (説明の順番が分かりにくいですが、前のと対応させるためです)

 

      僕はこの考え方の方がしっくりきます。前の説明と変えたところは、因果を

     普遍的な法則として位置づけたことと、1の「在る」こそが空だとしたところで

     す。

      釈迦は確かに、「自分」といった普遍的に思えるような言葉でさえも、実は

     何も言い当ててはいない、というようなことを言ったとは思うのですが、因果

     までも外道さんのおっしゃるような仮想的なものとは捉えていなかったと思う

     のです(そういう経はなかったと思います)。むしろ、因果という唯物論の目

     を通して、言葉の定義するものの不確かさを明かしていったのではないかと思

     います。

      また後で外道さんのレス(857,858)にレスする形でこの考えを説明しようと思

     っています。

 

861 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/03() 00:34

     ひゃっきまるさん

 

     若干疑問を感じるところがあるので質問させてください。

 

     >5・人間は言葉によって心の中に仮想的な世界を創るが、これをしばしば本

     物の世界と錯覚する

 

     ですが、「仮想的世界」と異なる「本物の世界」についての情報は、何によっ

     てえられるのでしょうか? 「言葉によって心の中」につくるのとは別の方法

     で、「本物の世界」についての情報を得るのでしょうか? 「瞑想」とか「直

     観」といった方法で? それとも後述の「因果という唯物論」を通してでしょ

     うか? もし「仮想的世界」を創るのとは別に「本物の世界」についての情報

     を得る方法がないのなら、「本物の世界」とは、「仮想的世界」を批判したり

     修正したりする際に仮に設けられる概念以上のものではなくなります(つま

     り、それもまた「仮想的世界」の一つになります)。

 

     >7・それに対して、本物の世界は実体は在るのだが、それを想定するとき主

     体者は存在しないので、「在る」という意味を失う

 

     ちょっと分かりにくいのですが、認識主体を除いた純粋に実体としての世界が

     存在する、という意味でしょうか?

 

862 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/03() 01:05

     次に意見ですが、

 

     >因果までも外道さんのおっしゃるような仮想的なものとは捉えていなかった

     と思うのです(そういう経はなかったと思います)。

 

     確かに、釈迦が「因果は仮想的だ」などと明言したことはないと思います。龍

     樹は因果自体を仮想的なものととらえたようですが。

     「因果」の概念は、「我」とか「自己」といった概念よりは普遍性のあるもの

     である、ということをひゃっきまるさんが仰るのならば、私はそれに賛成で

     す。

     様々な妄想や思い込みを壊していくためには、因果の概念の普遍性を高め、説

     得力を高める必要があるでしょう。

     ただ普遍性が高いからといって、それが仮想でない、ということにはならない

     と思います。

 

     釈迦の縁起の説明を見ると、苦やとらわれの原因を遡行的に追求するような姿

     勢が見られ、その内容は決して吹けば飛ぶような妄想めいたものではありえな

     いと私は思います。しかしだからといって、それを世界のあり方に関する客観

     的な、あるいは「科学的な」記述と見ることは誤っていると思います。「因」

     とか「果」の概念を抽出して、「これは仮想ではなく世界の真の姿を言い表し

     た真理である」ということを示したかったわけではないでしょう。因果はあく

     まで苦やとらわれから解放されるための方法論として仮に設定されるものであ

     って、時代や状況によって変わっていいものだと私は認識しています。

 

863 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/06/03() 01:08

     7の外道さん

 

     >この辺からは昼行燈さんらの突っ込みを期待したいところなのですが、(

     略)

     以前、宗教版で「空」に関して論じ合ったことがありますが、実は「空」に関

     しては

     学べば学ぶほど、混乱に陥り、底なし沼のような所まで入り込んでしまいま

     す。

     本当に把握出来ないままの発言は、皆様にも無用の混乱を与えてしまうのでは

     ないだろうかと、怖れています。

 

     最近の皆様の書き込みは、形而上学的な問題を「弄んで」いるようにも思えま

     すが、

     それは「日蓮について」の理解に繋がるのであろうかと、疑問にも思います。

     学会員の皆様(勿論、非学会員)も、もっと参加しやすい方向は探る事は出来

     ない

     のでしょうか。

 

     久々に訪問しての感想でした。

 

       

 

864 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/03() 01:10

 

     >むしろ、因果という唯物論の目を通して、言葉の定義するものの不確かさを

     明かしていったのではないかと思います。

 

     この言い方ですと、「因果という唯物論」は、「言葉の定義」を質的に超えた

     ものであるように見えます。これは「科学」をイメージされているのでしょう

     か? もしそうなら、科学によってもたらされる知は、個人が頭の中だけで考

     えているとは次元の違う普遍性を持っているのは確かでしょう。しかし科学も

     また「言葉の定義」から出発するものであれば、それもまた仮想的な性格を持

     っているのではないでしょうか? そして釈迦には、因果そのものの追求を目

     的として、その認識に努めるという姿勢はなかったと思えますので、「因果も

     また、究極的には仮想的なもの。だからそれに拘ることもまたいけない」とい

     う考え方を持っていたのではないか、と私は思います。だからこそ世界の有り

     方についての問いには「無記」を貫いたのではなかったのでしょうか?

     本筋として、私の意見がひっゃきまるさんのそれと甚だ異なっているとは思い

     ませんし、ひょっとしたら単なる用語の違いがあるに過ぎないのかも知れませ

     ん。が、一応感じたように書かせていただきました。

 

865 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/03() 01:24

     昼行燈さん

 

     >最近の皆様の書き込みは、形而上学的な問題を「弄んで」いるようにも思え

     ますが、

 

     まことに申し訳ありません。今個人的に入りこんでしまっているテーマでした

     ので、ついついそういう方向に話を流してしまっています。こういう方向で話

     を進めることが、多くの人を入りこみにくくしてしまっているのは確かでしょ

     う。反省しきりです。

 

     >それは「日蓮について」の理解に繋がるのであろうかと、疑問にも思いま

     す。

     >学会員の皆様(勿論、非学会員)も、もっと参加しやすい方向は探る事は出

     来ない

     のでしょうか。

 

     是非そうしたいと思いつつ、個人的に「日蓮について」のネタは尽きているの

     が現状です。日蓮の教学等から少し関心が逸れている状態でしたので・・・。

     そちらの方向についての議論は、私はZEGAさんの復帰を待っている状態です。

     何かいいアイディアやネタはございませんか?

 

866 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/06/03() 03:46

     第7の外道さん

 

     >何かいいアイディアやネタはございませんか?

     折伏とか、国家諫言を旨とした日蓮の教えは、どのように現代で通づるのか、

     何故、他の方法は駄目なのか。その教えが何故現代でも「何故主張出来る

     のか」の説明が学会員さんから明らかにされてはいないように思えます。

     「日蓮私見」での第7の外道さんのご意見・解説にも関連しますが、柔らかく

     再構築なされてみては如何でしょうか。

 

             

 

867 名前: 文底 投稿日: 2000/06/04() 05:28

 

     第七の外道さん・昼行灯さん・お久しぶりです。

 

     昼行灯さんが仰ったように現在の我々の論議は、形而上学的な問題を「弄ん

     で」いるようかもしれません。

 

     しかし「日蓮について」の理解を深めるためにはもちろん「文献学的教義」は

     不可欠なものではあると思いますが、どうやら創価学会の根底には、ZEGA

     さんの発言を見るまでもなく、信仰の根底において、体験主義的(功徳)ほ

     ど、本人にとっては絶対的の価値観が大きな影響を及ぼしていることも否めま

     せん。

     とくに学会の「一世」の方々は、入信当時、学会の教義を深く考えるよりは、

     日々の暮らしの問題を解決してくれることの方がはるかに現実的で大切だった

     ことでしょう。

     そして、その実際に起きた「功徳」(?)と言われるものが、現在の彼らにと

     っては、絶対的の確信になっていった訳です。

     そして、それが学会「一世」の方々にとっては、むしろその功徳のバックボー

     ンにある教義は、後の結果として、自分自身の功徳を確認するものとして理解

     され、その中に対排的や独善的な行動が教義として包含をされていたとして

     も、もはや功徳という絶対的な確信が、その現実において仮に、第三者から見

     れば理解不能な行動を起こすことになったとしても、もはやその絶対的確信が

     現体験である以上、彼らの行動をいくら非難しようとも、その行動自体を彼ら

     自身が否定することは、自らの得た体験的現象による、自己のアイデンティテ

     ィーを失い否定する事に他ならないのです。

     結論から言えば彼らの行動(思考パターン)を修正する事は非常に難しいと思

     います。

     ただ、どうしてそうなってしまったのか(体験的絶対主義・教義の矛盾)を論

     議する事は、「日蓮仏法」を理解する上で、重要であると考えております。

 

868 名前: 文底 投稿日: 2000/06/04() 05:34

     訂正

 

     昼行灯さん(誤)

     昼行燈さん(正)

 

     謹んで訂正させていただきます。

     私ずっと間違って使っていました・・すみません!

 

869 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/04() 19:17

     age

 

870 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/05() 00:28

 

     文底さん

 

     >しかし「日蓮について」の理解を深めるためにはもちろん「文献学的教義」は

     不可欠なもの

     >ではあると思>いますが、どうやら創価学会の根底には、ZEGAさんの発言

     を見るまでもなく、

     >信仰の根底において、体験主義的(功徳)ほど、本人にとっては絶対的の価値

     観が大きな影響を

     >及ぼしていることも否めません。

 

     >ただ、どうしてそうなってしまったのか(体験的絶対主義・教義の矛盾)を論

     議する事は、

     >「日蓮仏法」を理解する上で、重要であると考えております。

 

      学会は、「日蓮仏法」に基づいた独自の教義を展開していると考えるべきで

     はないでしょうか?

      体験主義においても、日蓮の考えるそれとは違うのではないかと思います。

      よって、学会の言動から「日蓮仏法」を捉えることは、フィルターを通して

     見ているような

      ものではないでしょうか?

      「日蓮仏法」を理解する最良の方法は、日蓮の残した遺文による「文献的解

     釈」に勝るものは

      ないと思います。

      「体験的絶対主義・教義の矛盾」というのは、学会の教義(解釈)が作り出

     したものでは

      ないか?と思うのですが・・・。

      

 

871 名前: メディスン 投稿日: 2000/06/05() 05:03

     お久しぶりです。

     私は4,5日前、友達の紹介で去年学会に入会したという人と話しをしたんで

     すが、

     「日蓮」についても「仏教」についても、ほとんど知らないという状態でし

     た。

     座談会に出ても仏教の話はほとんどなく、すぐ選挙の話や池田先生の話になる

     と言って

     いました。

     私は今現在の学会が、はたして本当に日蓮仏法の団体なのか、はなはだ疑問で

     す。

     昔ながらの学会員さんは日蓮上人への信仰心が大きいと思うんですが、最近は

     そういう人は少ないんですかね。

     新しく入会した人になぜもっとちゃんと仏教の話をしてあげないんでしょう

     か?

     その子は、純粋に仏教を信仰したいので学会に入ったのだけど、それが得られ

     ないので退会を考えているという

     相談でした。

     これは、その人の関わった組織がたまたまそうだったのでしょうか?

     私には、どうもそうは思えないのですが・・。

 

872 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/05() 17:38

     >第7の外道さん、昼行燈さん

       昼行燈さんのおっしゃるとおり、「空」について議論することは、このスレ

     ッドにとってよくないと思いました。スレッドを混乱させてしまい申し訳あり

     ません。しかし個人的には非常に興味のある問題なので、もしよろしければ新

     規スレッド(創価・公明以外でも)を立ててそこで続きをやりたいと思うので

     すがいかがでしょう?

 

      とはいえ、僕の気持ちとしては、空観への興味や考えというのは信仰から生

     まれてきたものであり、弄んでいたつもりはありませんでした。新たな議題提

     起になるかは分かりませんが、僕の考えを述べさせてもらいます。

      僕が未だに創価学会(日蓮仏法)の中で、宗教的な価値を見出す部分がある

     のですが、それは「妙(正)法」(梵語:saddharma)に祈る、という部分で

     す。法華経は確かに一神教的側面が非常に強く、僕自身キリスト教との類似性

     にはびっくりするぐらいなのですが、釈迦を徹底的に神聖視しながらも、あく

     まで、最も尊いのは「妙法蓮華経」という法である、という主張がなされてい

     ます。キリスト教が神を絶対視するのとは違って、「法」を絶対視しているの

     です。こうした信仰の形態は、他の宗教と比べても大変ユニークであると思う

     のですが、いかがでしょう?

      僕が信仰していた頃も、御本尊に祈るとき、人格的存在に祈っているという

     意識は全くありませんでした。学会的な表現をするなら、宇宙の不可思議な法

     と、自分の生命を同調させる(させよう)、という意識です。

      釈尊が成道した直後に、「自分には師がおらず、したがって尊敬するものが

     ない。このことは苦しみである。しかし、自分は今後自分が悟った正法

     (saddhamma)を尊敬していこう」と決意した、という話が原始経典にあります。

     この思想性が法華経の原型ではないか、という説がありますが、(この場合の

     正法と妙法蓮華経の意味合いが違っているにしても、)法を信仰の拠り所にす

     るという発想に、僕は深く納得するものがあるのです。

 

873 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/05() 17:46

      この妙法というものに対するイメージは、僕の中で「法則」という形にまと

     まっていきました。文字どおり、それは物理法則のようなものなのではない

     か?と思えてきました。妙法=物理法則であるか、妙法にすっぽり物理法則が

     含まれているか、どちらかであると思いました。僕が「世界は確かにある」と

     思うのは、世界を成り立たせている、絶対的でしっかりとした法則がある、と

     思うからです。

      僕自信の信仰体験からいうことなのですが、「絶対的なものを想定しない思

     想は信仰心を呼び起こさないのではないか」と思います。第7の外道さんの考え

     は僕には非常に理解しにくく思えるのですが(説明はとても分かりやすいと思

     います)、あらゆるものに絶対性を見ない、という考えそのものは絶対にはな

     らないのでしょうか?(と言えば、釈迦は世界に絶対を見出すことを目的とし

     なかった、と反論されるのでしょうが・・・)

 

      あともう一つ、僕が脱会したいといいながらも仏教にこだわっている理由を

     挙げると、これからの時代の宗教ということを考えるからです。僕は、これか

     らの思想も、宗教も、科学を抜きにしては語れないと考えています。科学の発

     達によって様々な宗教が力を失っていっている現代ですが、だからといって、

     僕はこれからの時代が無宗教になっていって良いとは思っていません(それは

     そのまま僕の今の状況ですが)。釈迦が無神論の中のどこに信仰を見たのか

     (あるいはそれは信仰ではないのか)、それを知りたいと思っています。

 

874 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/05() 17:51

     >文底さん

     >そして、それが学会「一世」の方々にとっては、むしろその功徳のバックボ

     ーンにある教義は、(後略)

 

      全くその通りだと思います。信仰をしていないのに、よくここまで的確に分

     析できると、感心することしきりです。

      僕から多少つけ加えさせてもらいます。二世、三世であっても、多感な子供

     時代に功徳を得た経験が積み重なれば、同じ状況になると思います。加えて、

     信仰や教団を否定することが、親や尊敬する人を否定することにつながるの

     で、その意味でも難しくなります。組織の一員が自らの行動を自らで判断でき

     なくなってしまうと、「教団の良心」が大変重要になってくるのでしょう。

     (世論を盛り上げて、上層部に直接訴えるしか方法はないでしょう)

      ただ、そこまで入り込んでしまった人というのは、かなり限られているので

     はないでしょうか。二世に関して言えば、僕の見たところ、8割までが自分の

     信仰に絶対的な確信をもっている状態ではないように見えます。それなりに周

     りに合わせて活動しているか、あるいは活動しようとするが今いち理想どおり

     になれない、あるいは全く信心から離れている、そんな人も珍しくありませ

     ん。

      お分かりになったと思いますが、創価学会で二世の占める割合というのはか

     なりのはずなのに、その内容はかなり「もろい」のです。これは、創価学会が

     これから大いに発展していくか、それとも消滅していくか、という鍵になって

     くるでしょう。信心の薄い二世の子供(三世)は更に信心が薄いとすれば、自

     然に消えてしまうことになります。困難を信仰によって乗り越える、という機

     会の乏しい二世を納得させるためには、やはり「体験」以外の説得力が必要で

     あると思います(その前提として、組織の正常さも問われるでしょう)。

      僕はこのように考えていますので、アンチ学会が学会のやり方に意義を唱え

     ていくことも決して無意味ではないと思っています。

 

875 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/05() 17:53

     >メディスンさん

      僕の経験からのお話しかできませんが、お答えします。創価学会は決して日

     蓮大聖人や仏法を軽視しているわけでもないし、それについて教えてないわけ

     でもありません。

      ただ、仏教について詳しい人と、選挙活動や折伏活動で成果を上げる人がい

     た場合、後者の人の方がずっと評価されます。これは会社などを思い浮かべれ

     ば分かりやすいのですが、いくら知識を充分に持っていても、それが活かされ

     なければ評価されないのと同じ事です。逆に言えば、創価学会の活動が折伏と

     選挙活動のためにあるような状況になってしまっているといえるでしょうね。

     (創価学会の考えだと、折伏や選挙活動に頑張ることは仏法を実践しているこ

     とだから、それによって幸せになれるとする。また、折伏によってしか、本当

     の仏法活動はできないとする)

      僕の感じだと、創価学会の教える仏法の「理論的」部分は、そう多くはあり

     ません。一般的な信徒が知っていることは、十界論、九識論、一念三千、教判

     (五時八経や、五重の相対、文証理証実証など)、法華経の解釈(本門、しゃ

     く門など)、日蓮大聖人の生涯、創価学会の歴史、などでしょうか。

      たぶん全国規模で同じだと思うのですが、毎週〜毎月のペースで行われる座

     談会では、「大白蓮華」という機関誌を使って、御書(大聖人の手紙などを編

     纂したもの)を拝読したりしているはずです。また、聖教新聞にも毎日、いろ

     いろな形で仏法の話がでているはずです。

      池田名誉会長の話がよく出てくるのは、創価学会では彼が最も仏法を理解

     し、実践していると考えられているからです。それゆえ、乱暴な言い方です

     が、彼の言葉は日蓮大聖人の言葉と等価と見られているわけです。

 

876 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/05() 17:55

      あとは、「教学試験」というものがあります。これは創価学会全体の仏法教

     学のレベルをあげるためのもので、組織公認の認定が受けられます。初めは任

     用試験、次は三級、二級、一級と順に受けていきますが、サイクルが長いので

     任用試験を受けるために三年待つ、ということもありえます。ただ、試験内容

     がくせ者で、創価学会本意になってしまっています(当然と言えば当然です

     が・・・)。「日顕が第六天の魔王だという根拠を三つあげよ」などという問

     題もあったそうです。

      あと重要なことを言うのを忘れていたのですが、創価学会は地域によってか

     なりカラーが変わることを理解しておいたほうがいいと思います。教学を重視

     する地区もあれば、折伏一辺倒のところもあるだろうと思います。選挙にあま

     り乗り気でない地区の話も聞いたことがあります。地区部長がひどい人であっ

     た、という話も耳にするので、なにかおかしいと思ったら、本部に直接連絡を

     とってみた方がいいかも知れません(基本的に事なかれ主義で片付けるようで

     すが)。

      メディスンさんのお知り合いが、何を求めているかによって変わってくると

     思うのですが、単に仏教について知識を得たい、ということであれば、創価学

     会は創価学会の中でしか通用しない知識しか扱わないので(つまり正確ではな

     いので)、やめた方がいいでしょう。創価学会員のような生き方をしてみた

     い、ということであれば、僕は、それはそれで結構だと思います。不安だけど

     まだ学会に残る、というのであれば、直接交流する知人を学会員以外にたくさ

     ん確保しておいた方がいいと思います。人間の心理というのは、無意識に周り

     の人間に合わせて変わってしまうものですから。

 

877 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/06() 19:43

     この掲示板は

     http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=koumei&key=960174403&ls=50

     に移転されました。

 

878 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/07() 10:34

     ひゃっきまるさん

 

     >「空」について議論することは、(中略)新規スレッド(創価・公明以外で

     も)を立ててそこで続きをやりたいと思うのですがいかがでしょう?

 

     賛成ですが、板はここよりも「心と宗教」のほうがいいのではないでしょう

     か? ただ最近はまた仕事の負担が大きくなっており、さらに「日蓮」「学

     会」がらみの意見をまとめる方を優先させねばと思っていますので、私は直ぐ

     には動けない状態です。それでよろしければ。>第7の外道さんの考えは僕には

     非常に理解しにくく思えるのですが(中略)(と言えば、釈迦は世界に絶対を

     見出すことを目的としなかった、と反論されるのでしょうが・・・)

 

     確かに問題は、「何が絶対なのか?」ではなく、「なぜ人間はそこまでして

     『絶対』というのを見たがるのか?」というところにあるのだと私は思ってい

     ます。つまり心の問題ですね。ですから、

 

     >あらゆるものに絶対性を見ない、という考えそのものは絶対にはならないの

     でしょうか?

 

     というのは、「絶対」というものがなくてはならず、それが何であるか規定さ

     れてあるべきである、という前提から生まれる立論ではないかと思います。

 

879 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/07() 10:35

 

     ひゃっきまるさんと私との決定的な立場の違いは、たぶん「信仰」というもの

     に対する感じ方に大きな違いがあるところからくるのでしょう。例えばひゃっ

     きまるさんは

 

     >僕自信の信仰体験からいうことなのですが、「絶対的なものを想定しない思

     想は信仰心を呼び起こさないのではないか」と思います。

 

     とおっしゃっておられますが、私は世間一般でいうところの「信仰心」という

     のを全く持ち合わせない人間なので、「なぜ信仰心を呼び起こさなくてはなら

     ないのか?」というのがそもそも疑問になってしまいます。

 

     >法を信仰の拠り所にするという発想

 

     もそうで、「法」は理解し実践するものではあっても、「信仰」の対象として

     とらえることは私にはできません。物理学者は物理法則を「信仰」したりしま

     せんよね? それに自分が自分なりに把握している「法」というものを、一体

     何の根拠もって「絶対」と取り扱うのでしょうか? 「法」は先ず差し当たっ

     て認識するべきものであって、信じるべきものではないのではないでしょう

     か? とりあえず認識できないのに「絶対」的なものはある、と前提してそれ

     を「信仰」する、というのであれば、仏教が「諸行無常」「諸法無我」「空」

     などという概念に拘ってきた理由もなくなるような気がします。

 

880 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/07() 11:55

 

     >釈迦を徹底的に神聖視しながらも、あくまで、最も尊いのは「妙法蓮華経」

     という法である、という主張がなされています。キリスト教が神を絶対視する

     のとは違って、「法」を絶対視しているのです。こうした信仰の形態は、他の

     宗教と比べても大変ユニークであると思うのですが、いかがでしょう?

 

     大乗仏教では、仏身を「法身」ととらえる考え方があるので、その場合「人格

     的存在」と「法」とは相互に溶け合うもの、ということになるのでしょう。密

     教においても、大日如来はしばしば人格的な姿で表現されますが、やはり単純

     に「人格的存在」とは言えないでしょう。というより、仏を仏たらしめるのが

     「法」であるから、最終的には仏の「人格性」よりも「法」のほうが重要視さ

     れるのではないかと思います。

     詳しくはよく知りませんが、ウパニシャッド哲学においても、ブラフマンとい

     った最高存在者を「人格」としてとらえるのは、多様な表現のうちの一つに過

     ぎないと考えられていると思っています。ゾロアスター教でも、「アシャ・ワ

     シヒュタ(根本的理法)」というのがあって、最高神アフラ・マズダでさえそ

     れによって自分を律している、とされているようです。(従って信徒の勤め

     は、アシャに従うことだ、ということになるようです。)

 

881 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/06/07() 11:56

 

     「妙法蓮華経」の場合、その思想上の核心は、あくまで「一乗思想」と「久遠

     本仏思想」になると思います。そして後者が前者の裏付けとなりつつ、最終的

     目標として「万人が仏になる」という目的を提示するものだと思います。しか

     しそのための方法としては「経典崇拝」以上の具体的な論究はなく、「仏とい

     うのは一体どういう存在なのか」とか「なぜ法華経を信奉すれば仏になれるの

     か?」というような因果のあり方についての考察は何もないに等しい状態で

     す。ひゃっきまるさんの言われる「法則」にあたるものは特にないと私は思う

     ので、結局法華経を信仰するとは、「自分にはなぜ正しいのか分からないもの

     を正しいと信じて受け入れる」という以上のものにはならないと思うのです

     が。

 

     (あと、「法則」という考え方からすると、以前に文底さんがおっしゃってい

     た考え方と非常に似てくると思います。文底さんもまた宇宙に内在する普遍的

     法則、ということをキーワードとして意見展開をされていました。)

 

882 名前: ひゃっきまる 投稿日: 2000/06/07() 13:49

      ここでレスするとまたえんえんと長くなってしまいますので、外道さんの都

     合のよい時期になりましたら、「心と宗教」の板で続きをやりたいと思いま

     す。

      その打ち合わせは「続・日蓮って」スレッドでやることにしましょう。