日蓮ってver.12
>なぜ法華経や題目が中国語なのか?
日蓮が、翻訳した鳩摩羅什が法華経を完全に正しく理解して訳したと信じていたからです。
また、昔の人の「言葉」に対する信仰心は非常に強かったと思われます。
>十界論について
元来十界(十法界)というのは、6種の生物の分類(六道)、3種の仏道修行者の分類(三乗)、仏を足し合わせたもので、一人の人間の心に全て備わるという考え方です。天台や天台の後継者が考えたものです。
地獄や天(神様のこと)、仏、といったものはそれまでは単に「神話上の存在」でしかなかったわけですが、これが自分自身の心の中にある、ということで、仏教や仏教を修行するということがぐっと生活に身近になりました。
簡単に書くと、大体以下のような感じです。
ただし天台や日蓮の十界に対する説明は非常に少ないので、僕なりの解釈が入っています(特に三乗については・・・)。
地獄---怒っている状態
餓飢(亡者)---欲しいものがあるが手に入らない状態
畜生(動物)---考えが足らない状態
修羅(悪魔)---心がねじまがっている状態
人---平静な状態
天(神)---喜んでいる状態
声聞---人から学んで勉強しようとしている状態
縁覚---自然から学んで勉強しようとしている状態
菩薩---人に親切にしてあげようとしている状態
仏---これのみは説明不能。
人間の精神状態がこの十種に分かれる、というのが適切かどうかは知りません。
おそらく心理学ではまたいろいろ違うことが言われると思いますし・・・。
しかし、十界論はそれが正しいとか正しくないとかいうより、自分とは無関係の神話の登場物を自分の心の有り様としてとらえなおした、というところがすばらしいわけです。
そしてこれは自分の心を観察したり反省したりするのにとても便利でわかりやすいものだと思っています。
前
>>962 世界さん
正確には「日蓮って」のスレ主は第7の外道さんなのですが、以前に、「少し考えを整理したいのでもう書き込まない」というような発言をされています。
このスレッドは確か1999年からあるものなのですが、ver.4からは一応僕がスレ主です。
新規スレッドなどは他の方にやっていただくことが多いのですが・・・。
創価学会の教義や日蓮について(つまりスレッドの趣旨にそうもの)であれば、ご自由に書き込んでください。
病気のことに関してでもけっこうですよ。
世界さんと僕との見解が違うのはむしろ当然ですし、そのことについて僕が強制する権利はないわけです。
ただ、僕は「日蓮って」というスレッドを、基本的には創価学会vs反創価学会の教義上の議論の場として使っていきたいと考えています。
つまり、乾さんと世界さんのやり方の違い、という話が以前ありましたが、僕は乾さんの方法の場としてここを使っていきたいと思っているということです。
双方を両立できれば一番問題がないわけですが、今現在起きている状況のように、アンチ同士での議論になってしまうとすれば、本意を満たしていないということになります。
であれば、どうしても「すみ分け」しなければならないのではないでしょうか。
もう3年ぐらい前横須賀線の中で目配せした相手と横浜駅のトイレに行き、頃合を見計らい
大きい方の中に二人で入り俺は中田氏極楽往生してしまった。
しつこいようだけど前スレ
>>963 法華三部経章句索引で調べたけど法華経には「地獄に・・・」という
くだりはない、たいてい地獄、餓鬼、畜生などとセットででてくる。
法事で御書(あるいは運想)は必ず読みます。
<創価学会の主張>
創価学会は唯一正しい宗教団体である
創価学会以外の宗教を信仰すると不幸になる
創価学会員は他人に創価学会に入るように布教(折伏)しなければならない
創価学会が正しい宗教であり、その主張が正しいことは五重の相対、三証、五時八教などの教義で説明できる
<ひゃっきまるのスタンス>
僕は以上の全ての主張に反対します。
また、このような「唯一性」「独善性」のある教義を掲げる宗教は狂信に陥る傾向があり、そのために苦しんでいる人がたくさんいると思っています。
五重の相対、三証、五時八教などは仏教史の学問的検証が進んだ現代では全く通じない理屈であり、そのことは仏教を少しでも勉強したことのある人間なら明白にわかることです。
しかし、そのことを会員は積極的に知らされてはおらず、わけのわからぬまま「唯一正しい」と教えられているのが現状ではないでしょうか。
前スレ
>>963 妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、
地獄餓鬼畜生に堕ちずして十方の佛前に生ぜん。
これですね。ぐぐったら出てきました。やっぱり反対の意味ですね。
でも日蓮自体は法華経を捨てたり批難すれば地獄に堕ちるに近いことは
主張したようですね。
日蓮系の信徒なら、世界人口が言ってるようなことは
はなっから折り込み済みで、その上で信心してるんだろ?
「なにを今更」ってなもんだよ。
オトナは王様が裸だって事なんか百も承知なんだよ。
百も承知な上で、王様の衣装は立派だと称えるのも
ヒトの生き方のあるべき一つの姿なんだよ。
そういった人間の多様性を無視して「王様を指摘した子供」と気取ってる
世界人口は片腹痛いと思うだけ。
どうして「法華経」だけが正しいの?
やさしく教えてください。学会員の人。
(注)日蓮が主張したからという答えは受け付けません。
>>10 あいつはソッカーなんだが・・・。
やり口や文脈を読むと自ずとそうなるんだが。
>>1・・・挑発は禁止ですか・・・
私の「名前」がすでに学会員を挑発しているので、
恐らく、私が書き込むと、創価学会の若者がなりすましで「性ネタ」を書き込むのでしょう(笑)。
子供だと思いますので、それもかわいいと思って好意的に見ていますが・・・。
>>2から
>>5、ありがとうございます。
少し、このスレは、遠くから見守ることにします。私がいなければきっと、実り多いことでしょう。
正直な話、あの病死ネタは、
あと4千スレッドくらい(バージョン15くらいまで)やりたいので(苦笑)。
誘うと危険ですよ。しばらくこのスレはお休みをいただきます。
ありがとう>ひゃっきまるさん&ALL。
これから女房とやります。
立たせるのが一苦労だよ。
分身君
>>13、私は「創価学会の若者」じゃないぞ。
被害者なの。
でわでわ(^^)/~~~
言論出版妨害事件の衝撃。「政教分離」「体質改善」を約束
昭和四十五年、言論問題で、独善的・排他的・反社会的な体質や行動が暴かれ、“政教一致”路線とともに徹底的に批判された創価学会は、正に“黒船来襲”ともいうべき衝撃を受けた。
その結果、“一枚看板”ともいうべき「国立戒壇建立のための政界進出」というスローガンを放棄せざるを得なくなったのである。
つづいて、「政教分離」「民主化」「体質改善」を国民の前に約束させられた。 生きのびるために「広宣流布=国立戒壇建立」という、創立以来の最大の宗教的・政治的スローガンを降ろさざるを得なくなり、
そして、世論の力で暴力的な折伏と政教一致の選挙活動という、“奥の手”の放棄をせまられた創価学会は、にわかに推進力を失った。 なかでも、“国立戒壇論”の放棄は、会員の目的観喪失とともに、
それは教義の根本にもかかわりのあることだけに、日蓮正宗内での摩擦を生じさせないではおかなかった。 会員の中からは、造反者が出るようになり、日蓮正宗からは、僧侶や法華講の一部から、
抗議や批判の運動が起こった。それは、“国立戒壇”と教えられていたものが、ただの巨大建築になってしまった正本堂そのものに対する疑念へと発展し、
“御供養金返還訴訟”や、正本堂への御本尊御遷座阻止騒動となっていったのである。
更に、言論問題以後、“鶴のタブー”とよばれた言論統制が崩壊したため、マスコミの批判がやりたい放題になり、敵対勢力の批判や攻撃への対応に苦慮した。
昭和四十五年から同四十八年頃までは、創価学会はちょうどバブル崩壊後の日本経済のように、過去のツケの清算に追われていたのである。それ以前のスローガンや手法を否定し、
それにかわるスローガンや手法を見出す努力をしなくてはならなかったのである。 しかし、自信を喪失し、新しい展開を打ち出せない池田大作以下首脳達は、只々、現状維持の守りに徹し、
会員の減少防止に奔走した。 このころ組織では、やたらに表彰や撮影会が行われ、 「十年後に、また皆で集おう」 と、文集作成や署名運動が奨められた。 「社会性をもとう!!」 と、
近隣と仲良くつき合う運動や、ミニ文化祭等の行事もひんぱんにくり返され、会員や世論を、言論問題からそらし、反感をとりのぞく運動も熱心にすすめられた。
その一方で、創価学会本部では、“傷の手当て”や“ボロかくし”の作業が突貫で行われていた。 “折伏教典”をはじめとする全出版物について総点検が行われ、
“独善的”“反社会的”と思われる部分が削除された。“政教一致”“国立戒壇”にかかる記述も一切消された。 一方で、社会順応、そして人格や道徳が強調され、
それは、終戦時の“教科書の改訂”にも似た大転換であり、その結果、創価学会の出版物から独特のダイナミックさがなくなり、他の新興教団と同じようなものになった。
他党やマスコミに対しては、徹底した“モミ手”“接待”作戦で懐柔につとめた。
層化学会のテロ体質
ここにもSは潜んでいる。
あなたの職場にも, 学校にも, ご近所にも, 親戚にも,
昔はSの悪口を平気で言えた。 今は怖くて言えない。
楽器って便利だよね。武器を隠せて持ち込める。
あなたの背後にもほらKの陰が。。。
>>462 煤i゚Д゚;) 層化には各都道府県に吹奏楽団がありそのうち東京、関西、山梨などは有名・・・
音楽を大切のする教義と思って聴いてたんだが
>楽器って便利だよね。武器を隠せて持ち込める
・・・(((( ;゚Д゚)))ガクガク
469 <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん New! 04/10/26 21:31:53 ID:FY0XO6CM
>>495 音楽隊規ってあるんだけど。
『池田会長に命を捧げ,広宣流布の前衛たれ』 とかいう内容があった(文面は忘失)
アジト(楽器小屋兼連絡所)が各地にあって, 開かずの扉があった。わしは下っ端だったので
覗かせてもらえなかった。武器庫ですね。
>>508電話がかかってくるんですよ。 支部やらブロックからではなく
会長直属機関からね。 で隊長と数人の幹部が楽器もって出て行く。
夜中が多かったですね。わしら下っ端は留守番して, 学会歌やマーチの練習で時間をつぶすんですわ。
朝方隊長たちがかえってくる。疲れていましたね。 何やってきたかは絶対に言わなかった。
わしを誘ったのは在日朝鮮人の隊員でした。 結局,青年部の活動と両立できなくなり除隊しました。
こんなふうに荒らされるなら、世界さんの方が100倍ましなのですがね。
今は創価学会側の論客もいないことですし、創価学会の教義や仏教についての質問があれば、答えられる範囲で簡単に答えます。
>>11 >どうして「法華経」だけが正しいの?
法華経という教典は、「法華経」という最高の教えを釈尊が説きました、という物語のような構成になっています。
だから、実は「法華経」そのものがどんな教えなのかは誰に解らないわけです。
ただ、「法華経」という最高の教えがありますよ、という内容です。
また、法華経は、法華経だけが正しいとは言っていません。
それぞれの人の性質にあったそれぞれの人のための教えがあり、それらは結局は法華経に行き着く、という内容です。
他の教えが「方便」である、と説かれていますが、「方便」とは「巧みな手段」という意味で、巧みな手段によって法華経という最高の教えに導く、という意味で使われています。
ついでに言えば、他の信仰をする人を非難することを厳しく戒めています。
法華経は普通に日本語訳されていますから、読んでみることをおすすめします(創価学会員の方も)。
ひゃっきまるさんにしつも〜ん!
よろしくお願いします。
>ついでに言えば、他の信仰をする人を非難することを厳しく戒めています。
それって法華経のどのあたりにあるのか詳しく教えてくださいませんか。
また、
>法華経という教典は、「法華経」という最高の教えを釈尊が説きました、という物語のような構成になっています。
>だから、実は「法華経」そのものがどんな教えなのかは誰に解らないわけです。
>ただ、「法華経」という最高の教えがありますよ、という内容です。
このコメントにすごく興味を持ちました。ドラマチックな物語性を前面に出し、
いろんな比喩、譬えをもって一乗の重要性を説くわりには、
その要点がないように常々から思ってましたので、なんとなく納得がいきました。
それと、私は法華経が最高の経典とは考えてませんが、
日蓮をはじめ法華一乗を掲げる方々は、法華経のあらゆるところに説かれている
法華経の優位性(法華経が最高の教えだ、と説く部分)を、強く読み取ったのではないかと思ってます。
私は特に「已今当の三説」の解釈について研究しているのですが、
ひゃっきまるさんのご見解があればお聞かせ願えませんでしょうか。
なお私の経験上、「方便」を「ウソも方便」として確信犯的に教下の方法に使うのが学会だと思ってます。
おひさしぶりです。ver.12 も参加します。
よろしく(^0^)
とりあえず参考資料に
法師品第十より
我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。
而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり。
薬王此の経は是れ諸仏の秘要の蔵なり。分布して妄りに人に授与すべからず。
諸仏世尊の守護したもう所なり。昔より已来未だ曽て顕説せず。
而も此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや。
>>22さんはどのような解釈を研究ですか?
>>21 ひゃっきまるさん
岩波の「正しい白蓮の教え」の訳者は創価大の教授らしいよ・・・
創価よりに訳してるとは思ってませんけどね・・・
>>22 >>ついでに言えば、他の信仰をする人を非難することを厳しく戒めています。
>それって法華経のどのあたりにあるのか詳しく教えてくださいませんか。
いろいろの箇所にあると思いますが、代表的には「安楽行品」です。
>法華経の優位性(法華経が最高の教えだ、と説く部分)を、強く読み取ったのではないかと思ってます。
昔は教典は全て釈尊の直説であると信じられていたので、全ての教典のつじつま合わせが必要でした。その関係上、法華経が最高の教えだということになったのでしょう。
>私は特に「已今当の三説」の解釈について研究しているのですが、
>ひゃっきまるさんのご見解があればお聞かせ願えませんでしょうか。
さあ、不勉強ゆえ解りません。「已今当の三説」とはなんでしょうか。
>>25 22です。ひゃっきまるさん、ありがとうございます。
「已今当の三説」は、23でマハーバイロさんがお書きになられているところです。
マハーバイロさん、日蓮系宗派及び、特に学会ではこの「已今当の三説」を
他の経典に当てはめてますね。そして、これが法華経優位の文証の一つだと主張しています。
ちなみに、已説=法華以前の経典、今説=無量義経、当説=涅槃経とされてます。
私個人の解釈では、ここは法華経の文面そのままで解釈しています。
したがって、已(すで)に説き、今説き、当に説かんの三説を
そのまま他の経典に当てはめて、法華経が難信難解の教えであり、
法華経が最高の経典だという解釈には反対の立場です。
もし、できましたら、ひゃっきまるさん、マハーバイロさん、
「已今当の三説」についてお二方の見解をお伺いしたいと思います。
>>26 手元に資料ないので・・・
とりあえず・・・
>已説=法華以前の経典、今説=無量義経、当説=涅槃経とされてます。
これについては、天台の釈からですので・・・
日蓮宗派 学会ともこの通りで、しょうがないでしょう。
これを、過去、現在、未来の諸説としてしまうと拡大解釈と云わざるを得ないかも知れませんが・・・
法華経は三説の外であり、三説を超過した立場としているのがポイントでしょう。
>法華経の文面そのままで解釈しています。
文面そのまま解釈ってのが一番難しいですよね・・・
とにかく、已今当の三説の中に法華経がはいるかどうか?だと思うのですが、
どっちにも読めるような気がします。
今説は序品でも良いかもしれない・・・
今説が法華経だとしても、言ってることは法華経最第一には替わりないような気もしますけど・・・
>>26 ところで、なんでもよいのでコテハンを名乗っていただけた方が混乱がないかと思いますが。
正直言って「已今当の三説」にはあまり興味を持てません。
法華経の中で、「法華経が最も優れている」と言っていても、それが法華経の優位性の根拠には全くなりえませんよね。
結局この議論は、全ての教典を釈尊が説いたということを前提にしているので、現代では意味をなさないと思います。
もし現代において教典の優劣を論じるとしたら、まさに教えの内容によって論じるべきなのではないでしょうか。
また、已今当に法華経が入ろうが入るまいが、結局法華経が一番優れている、という意味になるので、「どちらに解釈するのか」にこだわる意味がわかりません。
ひゃっきまる さん 新スレ乙です。
こだわるのではなくて、“素”法華経(トッピングなし)だと
「仏性なんてことは説かれていない」ということになるだけ・・・かも。
“素”法華経の教えは「授記」&「諸法実相」だけ。。。
ひゃっきまるさん、これでいいでしょうか?
>>27 >法華経は三説の外であり、三説を超過した立場としているのがポイントでしょう。
私もそう思います。異論ありません。
>今説が法華経だとしても、言ってることは法華経最第一には替わりないような気もしますけど・・・
これは、ひゃっきまるさんも指摘されておられるように、大乗経典の教学上の解釈で、
あらゆる経典ではその経典の優位性を(般若心経ですら)説いているし、
已説である大乗方等経典などや、当説である涅槃経でも最高を謳っているので、
そこで矛盾してしまうことになります。だから、学会が強く主張するように、
この文証をもって諸経の中で最第一というのは違う、と私は思うのです。
つまり、私が問いたいのは、ここをどう受けとめるかによって
求めている信心の矛先や、その姿勢が変わってくると思うのです。
そういう意味で、私はひゃっきまるさんの言っていることに賛成です。
もし、法華経が最高で他の教えは捨ててもいい、とするなら
>>29 さんがおっしゃっているように、要点がごっそり抜けているように思いますね。
涅槃経には、「よく衆生をして仏性を見せしめ、法華の中、八千の声聞が記別を授くことを得る」
と説かれてますし…。
「チューラパンタカ」とは、またディープなHNですね。
いいと思いますよ・・・
>>30 確かに仰る通りと思います。
そうなると、
シャーキャムニの説いた時系と場所が問題になるわけです。
ただそれさえも、経典が直説であるとの前提での話しですし・・・
信仰(宗教)は、なんらかの前提の下に成り立っていると思いますので、どこかで折り合いを
つけなければならないと思いますが・・・
経典の成立やスッパニパータ、などまで遡っていくのも興味深いとは思いますが、
本当に釈尊が説いたでろう説のみを抽出して「原始仏教」としていく試みも行われているでしょうけども、
結局、オーソドックスなものだけが残り、仏教の魅力から離れていく様な感じがします。
法華経で残るのは、ストゥーパー信仰くらいか?
法華経そっくり残らないかも・・・
>>法華経そっくり残らないかも・・・
考えてみれば、
学習参考書もバラしてページごとに取捨選択する生徒のほうが
本を大切にする生徒よりも成績が良かったりする。
法華経も、「人生に生かす」という用途から考えれば、
文ごとに分類して捨てる部分と生かす部分を分けたほうがいいのでしょう。
でも、その残しておくべき一行が、何度呼んでも一行もないのだから、
私は法華経に縁がないのでしょう。・・・あっ、書いてしまった。。。
質問ですが
「三大秘法」とはなんでしょうか?
不躾ですが、・・・
>>33 初心者さん。
>>1をご覧ください。sage推奨です。
E−mail欄に、「sage」とご記入くださいませ。
あれ(苦笑)?上がってしまうね(汗)・・・。
いれてみました。
ありがとうございます。
これはどんな意味ですか?
>>33 本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目、のことだそうですよ。
>>36 sageの意味・効果の事なら、書き込んでもスレッドの位置が上がらずに
そのままになると言うものです。
ageその他で書き込むと、そのスレッドが板の一番上に表示されるように
なるわけですが、sageだとそうならないのです。
>>30 チューラパンタカさん
チューラパンタカさんがもし西域仏教の前提の立場で、已今当の三説を研究しているのであれば、
やはり智ギの釈を無視するわけにはいかないと思います。
「たとい経ありて諸経の王というとも已今当説最為第一」妙楽
マハーバイロさん、私は愚鈍なのでこの名を勝手に名乗らせてもらいました。
でも、彼は本当は賢かったので、それには到底及ばないでしょうが…。
私も大乗仏典を研究する上からいうと、もちろん智ギの釈は無視できません。
日蓮も、この智ギの判釈を踏まえているわけですしね。
しかし、智ギの判釈も、それが出るまでには他の祖師方の釈があり、
その判釈を乗り越えたのが智ギの判釈、というか、
それ以上超えられる教相判釈が他に出なかったのでしょうね。
そこがポイントだと思いますね。
ただ、智ギの判釈も正直言って強引じゃないかと感じる部分も多いんですが。
それと、法華経の疑問点はいろいろあるんです。
ひゃっきまるさんのように、法華経を学会や正宗とは違ったポジティブな解釈ならいいんですが、
法華経では、「法華以前の方便の教えを捨てて(正直捨方便)、この法華経だけを信じなさい」
というだけで、肝心なエッセンスがはっきりと説かれていない。
前に 29さんがおっしゃっているように、諸法実相などは述べられているものの
肝心な部分が抜け落ちているような気がしてなりません。
また、それまでの教えとの関係を断っているので説明がつかず異質な感も否めません。
そういう意味からすると、この「已今当の三説」は、大乗仏典の教相判釈の上では
大事な点のように思えます。まぁ信心する上ではまた違ってくると思いますけど…。
>>30 チューラパンタカさん
>もし、法華経が最高で他の教えは捨ててもいい、とするなら
>
>>29 さんがおっしゃっているように、要点がごっそり抜けているように思いますね。
僕の解釈ですが、「正直捨方便」を他の教えを捨てる、というように解釈するべきではないように思います。
それぞれの教えで成仏を目指せばよいが、それらはもともと法華経に導くために説かれた方便であるから、自ずとそれぞれの人がただ一つの法華経に導かれる、ということではないでしょうか。
法華経を得た時にはじめて方便として捨てるということでは?
そして真の法華経は二十八品の法華経の中では説かれてはいない、とすると最も矛盾がないように思います。
法華経を信仰するということは、この世界のどこかに法華経という唯一で真実の最高の教えがあり、全ての教えはそれを得させるために存在し、衆生をもれなく導くために釈尊が過去も未来も永遠に存在する、そういう世界観を信じるということではないでしょうか。
つまり、法華経がどのような教えなのか、ということは誰にも分からないし、実はそこが肝心ではなく、法華経と永遠の釈尊の存在を信じる、ということが要なのではないでしょうか。
>>31 マハーバイロさん
>法華経で残るのは、ストゥーパー信仰くらいか?
>法華経そっくり残らないかも・・・
法華経の特徴および魅力は、釈尊や釈尊の教えに対する信仰を壮大な神話叙事詩の形で表現しているところにあると思います。
>>33 法律ヲタさんの説明のとおりです。
この三つが何であるかは宗派によってことなりますが、日蓮正宗の解釈は以下です。基本的に創価学会も同じです。
本門の本尊
人本尊としては日蓮、法本尊としては南無妙法蓮華経
本門の戒壇
本尊を安置している場所
本門の題目
南無妙法蓮華経と唱えること
>>40 「正直捨方便」についての解釈、学会や正宗のような解釈は受け入れられませんが
ひゃっきまるさんのような解釈なら、まだなっとくもしやすいでしょう。
ただし、それにしても法華以前の教えとどう結びつくのか、という疑問は拭えませんが…。
法華経の文面を独善的に考えるか否で、信心の質がかなり変わってくるでしょうね。
独善的の意味もネガティブに捉えるかポジティブに捉えるかというのもあるでしょうが。
チューラパンタカさん お初です。
同意です。
法華経の趣旨からすれば、「みんなそれぞれ別々で良い」となるはずなのですが。。。
以前、ひゃっきまるさんも接着剤のような働きをするとおっしゃっていたように記憶しています。
接着剤だけでは役にたちませんよね。。。
>>39 チューラパンタカさん
>その判釈を乗り越えたのが智ギの判釈、というか、
>それ以上超えられる教相判釈が他に出なかったのでしょうね
智の師は南岳大師慧思でしたよね...この時代には地方に西域仏教の大人物は
他にもいたようですね・・・資料がどのくらい現存しているか知りませんが・・・
隋の天下になって、智が厚い国家庇護を受けたのだから政治的な判釈も然りと推測できます・・・
もっとも、それ(国家庇護)は、鳩摩羅什にも言えることです・・・
鳩摩羅什は、般若経信仰の人だったらしいのでやはり影響して訳してると思います。
もっと遡れば、アショカ王も仏教を政治的に利用したのだろうと思います。
アショカ王はジナ教やウージィーヴァカ教も庇護したので、「仏教の寛容性」の思想に
かなりの影響を与えていると私は思っています。
結局、政治との密着なしでは弘通出来るわけもなく、
その時々に応じて変容して行った事でしょう。
私は原点に還るのではなく、
なぜ大乗仏教が必要とされてきたかを見るべきではないかと思っています・・・
>>42 連投ですみませんが・・・
>「正直捨方便」についての解釈、学会や正宗のような解釈は受け入れられませんが
チューラパンタカさんがもし、学会や正宗が「正直捨方便を他の経典を捨てる」と解釈していると
考えているならば、少し誤解してるかもしれません。(私も一応学会員ですので・・・)
日蓮祖は確かにこの部分を強調していると思いますが、
鳩摩羅什の「法華経」「阿弥陀経」「維摩経」の中から
智が法華経を中心に据えて天台を興したのに
同じ天台を源流とする「念仏」「律」「禅」などが、
法華経を誹謗することに対しての抗議だったのだと思います。
だから、已今当の三説の解釈もこの枠からはみ出すわけには行かないわけです・・・
>>40 ひゃっきまるさん
> 法華経の特徴および魅力は、釈尊や釈尊の教えに対する信仰を
>壮大な神話叙事詩の形で表現しているところにあると思います。
これは法華経を釈尊が説いたものではないという前提ですよね・・・
私は法華経の特徴や魅力は、
「宝塔信仰」と「たとえ一偈でも唱えれば仏陀の覚りにあずかれる」
このことを、本当にシャーキャムニが言っててくれば良いけどな〜(笑
ひゃっきまる さん、法律ヲタ さん。
ありがとうございます。
質問続きですみませんが、
本門の戒壇は、安置する場所を示していて、安置する物を指しているわけではないのですよね?
>>46 マハーバイロさん
>このことを、本当にシャーキャムニが言っててくれば良いけどな〜(笑
? つまり、マハーバイロさんは、法華経の中で釈尊が実際に説いた部分が知りたいというわけでしょうか。
法華経の中心思想は、三乗一乗と、永遠の釈尊、つけくわえるなら地涌の菩薩、といったところだと思いますが、これらはいずれも原始仏教の考え方と隔たりがあるように思えます。
それよりも僕は法華経がキリスト教の特にカトリックの教義に相似点があるのに興味をもっています。
法華経は仏教版一神教なのではないでしょうか。
法華経のエッセンスだけにしぼっても、釈尊自身が説いたと考えるのはそうとう無理があるでしょうね。
在家の信仰を受容するというような形で肯定したと考えるのがせいぜいかもしれません。
>>47 初心者さん
Yesといいたいところですが、初心者さんの質問の意図をもう少し具体的に説明してもらえると、もっと正確に答えられると思います。
国立戒壇にまつわることが知りたいのでしょうか。
>>44 南岳とは中国禅の南岳(南嶽懐譲)でしょうか?
昔から謎でしてね、もし天台大師の師が、禅の南岳なら中国天台宗は中国禅の法系になるんだが…
法華経の内容に対する一考察ですが、
日蓮も言うのだが
アマラ織=九織の心王=摩多羅神=妙法蓮華経
というアプローチはどうでしょう?
>>48 ひゃっきまるさん
知りたいですけど、永遠の謎でしょうね・・・
釈尊自身が説いたと考えるのは無理を承知で・・・全く釈尊の影響ないとも言い切れないところではないかと・・・
確かに原始仏教の考え方と隔たりがあるように思えるが、逆にウパニシァッド、ブラーフマナ、ヴェーダには近い様な感もします。
が、インド思想文化を考えた時にウパニシァッドの土壌なくしてブッダの思想は語れないと思いますよ。それを否定したのが仏教だという批判もあるでしょうが、当時インドでは絶対に否定出来ない土壌の上に成り立ったわけです。
スッタニパータ(1020)が非仏的である部分があるのも私としては納得当然だと思えるわけです。
キリスト教との相似点については、前にギリシャとインドが同じ言語からを使用しているという事を書いたが・・・
キリスト教に対抗して大乗仏教の必要性があったとの意見には可能性ありと思いますが・・・
一神教的と感じるのはヴェーダ的思惟を感じとるからではないでしょうか?
梵我思想
また、これは私だけが感じることかもしれませんが、学会の思想は戸田氏の影響か、かなりキリスト教的ですよ・・・
インダス文明を破壊したのがアーリア人との説のほうが有力ではないでしょうか・・・
イスラエル内部での発展はほとんどなく、イエスの死後ヘレニズム文化成立、ローマに定着後ヨーロッパに広まったことを考えると、インドにはあまり受けなかったのではないかと思います・・・
>>47 初心者ですさん
「戒壇」とは、本来は“(仏教における)受戒の場所”のことを言うはずですが、創価学会による
「本門の戒壇」に関する従来の説明では、“一閻浮提総与の大御本尊なるものを安置する場所”
と言う事になるようです。
それは、彼らの言うところの日蓮大聖人における戒なるものが、唯一「大御本尊を信受すること」
を意味するから、そのようになるようです。
(もっとも、日蓮正宗と離れた今でもこのように説明するのか、よく分かりませんけれど。)
ですから、一応はあなたのおっしゃるように、「安置する場所」の事であって「安置する物を
指しているわけではない」という事になると思います。
ひゃっきまるさんがレス48で指摘されているように、これに関連して「国立戒壇」ですとか正本堂
といった事が問題となるのでしょうが、御質問の趣旨はどこら辺にあるのでしょうか?
(本当は私は、このような内容に関してお答えするのには不適当な立場にあるのですが…。)
>>49 コーク港さん
はじめまして・・・
ヨーガなどに詳しい人と存知ます。
いろいろとご教示くださいませ
確か、南嶽懐譲は慧思の弟子だと思いました・・・
>>50-51 マハーバイロさん
>全く釈尊の影響ないとも言い切れないところではないかと・・・
法華経の釈尊の影響はまちがいなくありますよ。
法華経は梵天勧請や初転法輪 などの釈尊の生涯の伝説がベースになっているのは疑いないところですし。
しかし法華経を釈尊が説いたか説かなかったか今さらこだわっても仕方がないというか・・・。
法華経のエッセンスがウパニシャッドに還ってしまうとしたらもっとしょうもないと思いますよ。
それは結局、釈尊が仏教を説かなかったとしてもよい、ということを認めることですからね・・・。
僕が法華経をキリスト教に似ていると思ったのは、ヴェーダ的だからなのではないのですが・・・。
梵我思想的解釈をしているのはあくまで創価学会であって、法華経からはそんなものは読み取れません。
>>39 チューラパンタカさん
時代の大人物に
廬山の慧遠、光宅時の法雲、浄影寺の慧遠など
なんか新たな発見があったら教えてください・・・
>>54 ひゃっきまるさん
私は法華経は釈迦入滅後に、ウパニシャッドを信仰する部族が編成したものと位地付けています。
例えば「グラハ」
「いかなれば、名がグラハたるべし。我ら多くのものの名を知る。されど、名により、今なお、それを把握せず。」
「梵」をキリスト教風、ヨーロッパ風の一神的解釈してはいけないと思います・・・
霊魂説などとは違う「精力」や「威力」などは・・・
インド独自の思惟であり、釈尊でさえもこの土壌を離れての説法はありえないわけです。
>>56 マハーバイロさん
法華経のどの部分が具体的に梵我思想と読めるのでしょうか。
ご指摘願います。
南岳は慧能の弟子になります。
ヨーガに詳しくはないですが、臨済宗徒ですから、喩伽行派からの派生ですから唯織に近いです。
このスレにもよく、法華経は自画自賛であり、内容が無いではないか?とよく言う人がいますが、私も同感でしたが、ある時に日蓮の『妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり』と言う言葉を聞き、法華経とは仏性を称えているのでは?と考えるようになりました。
天台宗では九織はアマラ織でありアラヤ織の根源でありまして清浄なるアラヤの根本ですね。
これは、禅者の言う見性でなかろうか?臨済の言う「唯一無位の真人」
唯織の言う心王では?
仏教では一切は空であり、全ては相互に依存しながら混然と無常に変化しながら存在していまして、個を認めない(ここら辺は量子力学に似てますね。)
個と個を取り巻く環境が無常に変化しながら存在しているわけですが、個自体を(まあ、心と仮定すると)その本質は清浄でありこれが仏性であり日蓮がいうとこの法華経の意味じゃないかとおもいます。
では何故、心が清浄で、仏性があるかは私が禅宗徒だからとしか言い様がありません(ここらへんを上手く説明出来ないんだなあ、禅者であり哲学者である西田幾多郎でも読んでください)
日蓮が言う九織(織の根本)=法華経なら道元的に禅定により根幹に行くと、自我の我いわゆる仏にたどりつくと考えます。
どうかな?
仏にたどりつく=×
仏性にたどりつく=○
コーク港
>>59−60
それは所謂聖道聖器である人界のことではないか?
仏性=清浄とはまったく大乗思想そのものって感じもする
清浄って言葉があるってことは反対の言葉もあるわけで
そうなると相対的な価値論でしかないのでは?
仏性が実際にあるのなら、絶対的なもののはずだから
清浄なんていう価値の存在そのものも消滅されうる状態が仏性だとも思うな
以上、流れも何も理解していない名無しの戯言でした
唯織の考えによりますと、マナ織はマナス(我執)でありまして、仏教では空思想に邪魔な我を煩悩の根本と考えますから、それの無いアラヤ織は清浄と考えますが、これは西田の言葉を借りると相対的清浄では無く、絶対的清浄ではなかろうか?
アラヤ織は、清浄無垢で光とありますねえ
まあ、禅定の中で禅者がマナ織から、アラヤ織に行き最後に仏性を見るのと、日蓮の『妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり』
を関連付け考察した勝手な私の思い込みかも知れません(笑)
>>64 コーク港さん
第九識を仏性とか生命とかの言葉の置き換えて良いのかわかりませんが・・・
学会では、第八と九は「自己」を超えて「他」と繋がっていると説明していますが、
禅宗でもそういった捉え方をするのでしょうか?教えてください。
>>57 ひゃっきまるさん
私の「梵我思想」という表現の書き方の意味を、もしかしたら誤解しているかもしれません。
ひゃっきまるさんは「梵我一如」のことを言っているのでは?・・・
ちなみに、
「梵我一如」に関しては学会では、ウパニシャッドを批判しています。
私の言っているのは、
あくまで「梵」という思想と「我」という思想の仏教に与えた可能性の
一考察の範囲と捉えてください・・・
>>59 コーク港さん
>個と個を取り巻く環境が無常に変化しながら存在しているわけですが、個自体を(まあ、心と仮定すると)その本質は清浄でありこれが仏性であり日蓮がいうとこの法華経の意味じゃないかとおもいます。
・・・それではあまりにあからさまにアートマンのことではないか、と思ってしまいますが(^^;
僕は個人的には法華経から仏性をよみとろうとするのには反対です。
昔の中国の研究者であれば、大乗仏教を理論的に体系的にまとめあげようという意欲が強かったと思いますから、法華経も実は仏性を説いているんだ、としたんでしょうね。
そして、日蓮もその考えを受け継いだ。
しかし、仏性思想のいきつく先が結局はもともと仏教が否定したはずのアートマンなのだとしたら、これほど陳腐なことはないと思うのです。
魂の中心は汚れのない清浄なものだが、それが煩悩で汚れしまっているのが人間なのだ、というような考え方って、あまりにありきたりで他の宗教にも多くありますよね・・・。
法華経はむろん原始仏教や部派仏教とは大きく隔たってはいますが、まだぎりぎり伝統的な仏教の考え方にのっとっているところがむしろ価値なのではないかと思うのです。
>>66 マハーバイロさん
確かに僕は「梵我思想」を「梵我一如」のことだと思っていましたが、マハーバイロさんはどのように言葉を使い分けているのでしょうか???
また、マハーバイロさんのいう「梵我思想」は法華経のどこに読みとれるのでしょうか?
仏教は空で実在論を否定しますが、意思(我という本質では無く、関係論の1因子と見る)は否定してないでしょう。
ひゃっきまるさん
仏性論の仏性を私も以前は、アートマンみたいなもんになるんでは?と思ってましたが、仏性も空ではないか?と考えたらいいでしょ
私にとって他にも、法華経の疑問点は色々あります。
例えば何故、韻文(偈頌)なのか?(散文が先か後かの議論は置いといて・・・)
何故、呪文が入っているのか?
名の一致において、韻文や呪文に何らかの力(存在力?)があるとする思想はヴェーダ的であり梵的だと思います。
(呪文は、まったく意味不明のものもあるが、神の名前を連ねてるらしいとの説あり・・・)
他にもあるが少しずつ書いて行きます。
梵と我はあまりにも多重の意味合いを持つ為になんであるかは難しいが、
古期のウパニシャドにおいては、「我」(アートマン)と「梵」(ブラーフマナ、バラモン)は
別々の思惟だったわけです。
後期ウパニシャトに於いて梵我一致説が主流になるわけですが、仏教が斥けたのは
「梵我」なのか?「我」なのか?
梵についてヴエーダには、「宇宙の展開の後に神々があり、故に神々は宇宙の展開を知らず。」との意味合いの詩があります。
この辺の出発点が一神教との違いを感じます。
また、「我」は実在の因子と考えられたので、「梵の力」とは違っています。
質量と力量とも考えられるが、そのような現代的解釈すると見誤りそうで、理解しずらい・・・
>>70 コーク港さん
教典をどのように読むのか、様々でよいと思います。
空や仏がなんなのかも、人によって違うかもしれませんね。
マハーバイロさん
>>71 たいへん丁寧にわかりやすくまとめてあり、よいサイトだと思います。
今度じっくりと読んでみます。
>>72 >韻文や呪文に何らかの力(存在力?)があるとする思想はヴェーダ的であり梵的だと思います。
呪文が入っていることをさしてヴェーダ的というのはどうですかね・・・。
確かにそれはバラモン教の影響に違いないでしょうが、法華経の本質とは無関係な気がします。
マハーバイロさんは「題目」の正当性を釈尊に求めようとしているのでしょうか?
直感的には不毛な試みのような気がします。
>仏教が斥けたのは「梵我」なのか?「我」なのか?
そのような形而上学的な議論を斥けたのでしょう。
>この辺の出発点が一神教との違いを感じます
インドの神と一神教の神が比較できるのか疑問です。神(天)は六道にも数えられているとおり、仏教においては単なる生物の一種ですし、梵天も釈尊に説法を勧請するような立場として伝えられていますね。
>>73 ひゃっきまるさん
>>マハーバイロさんは「題目」の正当性を釈尊に求めようとしているのでしょうか?
いえいえ私は、
>しかし法華経を釈尊が説いたか説かなかったか今さらこだわっても仕方がないというか
信仰上はどちらかと言うとこれに賛成ですよ。
また、「されば日蓮が法華経の知解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なかれども〜」p202
これも好な御書です。
また、BC600年頃の古期ウパニシャッド時代にすでに、
輪廻、解脱、カルマ、業因、塔信仰、偈頌信仰、梵、我など出来上がっています。
「太初において、こは実に梵なりき」
また苦行を離れて、精神統一などに解脱知を求める一派もすでに存していた・・・
彼らは
「アートマンを車に乗るものと知り、身体を実に車と知れ」
などの言葉も残している。
また興味深いのは、世界生起の問題に至って、
四大世期の循環において、「最悪の世期が我々の世期であり、それは梵の一日(43億2千万年)の千分の一で、
これを、三万六千回繰り返して梵の一生が終わる。」などの思椎が散見する・・・
まさに末法思想の片鱗が釈迦の誕生前に語られていたと言うことだろう・・・
>59 仏性を称えるのは結構ですが。。。
心の本性が本来善とか悪とかのどちらかである。とすれば中道から外れますね。
ひとの善悪はそのひとの行いによってあるのではないでしょうか。
<心汚れるがゆえに、衆上汚れる。心明浄なるがゆえに、衆上明浄となる。>
法華経を持ったり、読んだりしていても、清浄なのではありませんね。
例えば石鹸を持っていても、石鹸で体を洗わないと綺麗になりません。
そして、一度洗ったからといっても、永久に清浄なわけではないですよね。
また、石鹸ならば身体に合う、合わないということも、あるやもしれません。
アレルギーのある人には劇薬かもしれないです。
>>76 清浄と言う語句は法華経ではなく、唯織の考えから出しました。
単に日蓮の『妙法蓮華経は九識なり十界は八識已下なり』の語句から唯織と禅から法華経にアプローチしただけです。
引越ししてる間にレスを頂いてたのに返事が遅れてすいません。
くわえて、常時接続になるのは来週の中ごろになるので、
それまでこまめにはレス出来ないかもしれませんが、お許しください。
マハーバイロさん、原始仏教から大乗仏教の変容についてですが、
>結局、政治との密着なしでは弘通出来るわけもなく、
>その時々に応じて変容して行った事でしょう。
>私は原点に還るのではなく、
>なぜ大乗仏教が必要とされてきたかを見るべきではないかと思っています・・・
これは同意です。いまだに大乗非仏説論を唱える人を見ますが、これは無意味ですね。
信心としての教学と大乗仏教としての観点での教学、
決して切り離せるものではないですが、この2つがあると思います。
また、ちなみに私個人の考えですが、政教分離は微妙な問題を抱えていて
一概に悪いものと決めつけて反対すればいいというものではないと思います。
とはいっても、公明党の姿勢には賛成できませんが…。
また、「正直捨方便」の解釈についてですが、
マハーバイロさんのご見解は学会全体の共通認識とは思えません。
私の周りには、釈尊一代の経典では、法華経のみが正しくて他は要らない、
と説明する学会員がたくさんいましたので…。学会が他の経典をまったく無視してるとは思いませんが、
他の経典は法華経を優位にするための裏づけにしか利用していないように思います。
ちなみに私は法華経と涅槃経は仏教教学において最も重要な二大経典であると考えていますが
特に涅槃経はそのように思います。日蓮は法華経より涅槃経を引用する方が多かったんじゃないでしょうか。
とはいえ、涅槃経ではその裏づけに利用することを戒めてはいますが。
また天台分派については、もともとその要素が日本天台宗にあったのだと思います。
これは智の天台宗とは趣が違い、法華一乗を頂点にして禅や念仏の研究など
総合仏教宗派としての性格があったことと、鎌倉仏教の祖師方がみんな天台の
出身だったことも関係してると思います。
もちろん今日ではどこの宗派からでも分派がありますが、天台宗からは特に多いですね。
だからこそ、日蓮には他の祖師が法華経を誹謗しているように映ったのは
間違いないでしょうね。教相判釈としての、各祖師の取捨選択、
この辺の捉え方は、日蓮を含め研究する余地が大きいように思います。
>>79 チューラパンタカさん
仰る通りと思います。
>マハーバイロさんのご見解は学会全体の共通認識とは思えません。
う〜ん、確かに私は学会の共通認識から外れた学会員ですので・・・(笑
「贖命重宝」など知っている学会員は多いと思いますけど・・・
これも、命の為なら宝を捨てろ という捉え方になってしまうのかな〜?
もし宜しければ、チューラパンタカ さんの「贖命重宝」の見解を教えてください。
三説にも関係してると思うので・・・
マハーバイロさん
>>75 >また、BC600年頃の古期ウパニシャッド時代にすでに、
>輪廻、解脱、カルマ、業因、塔信仰、偈頌信仰、梵、我など出来上がっています。
だからこそ、そのような思想背景にあって釈尊が何を見いだしたのか、注目する必要があるように思えます。
釈尊がいなくてももともとあったものに注目する必要はないのでは?
またそういったものはどの時代どの場所でも自然発生するような「ありきたり」なものでさえありますが、釈尊の思想(原始仏教と推察される教え)は現代でも新鮮だと思います。
>>81 ひゃっきまるさん
確かにその通りなんですね・・・
結局我々は現代の新しい風潮とか思想に感化されていて、新しい思想の信仰から
古いものへと遡って研鑽して行くことになってしまう・・・
私は時々・・・「なんか意味あるのか?」と思う時あります。(笑
だからこそ新鮮な発見があるのかも知れませんね・・・
ひゃっきまるさん、法律ヲタさん。レス、ありがとうございます。また、返レスが遅くなり
すみません。そうですよね、意図をハッキリしないと・・・
私が知りたかったのは、
1、「国立戒壇論」は今はどうなっているのか?
2、ある学会系の仏壇屋が「わが社の売っている仏壇は戒壇だ。」と言っているが
仏壇=戒壇 こんな教義があるの?
要約するとこの2点なんですが、分かりますか?周りの人に聞いても良く分からないと・・・
>>83 初心者ですさん
先ず 2 についてですが、私は「仏壇=戒壇」とするような意味の文言を目にした記憶がありません。
それは単に私の注意不足・無関心と言う事にすぎないのかもしれませんが、“戒壇”の本来の
意味を考えた場合、おそらくその仏壇屋の勝手なキャッチコピーに過ぎないように思います。
“戒壇”とは授戒の場ですから古来から授戒をなしうる人がいなければならず、在家信者の
なしうる事ではなかったのです。
創価学会と日蓮正宗の蜜月時代においても、在家信者に対する授戒は所属寺院で行われて
いたはずです。
次に 1 についてですが、創価学会は過去明確に「国立戒壇」と述べていました。(これは、
学会のみが勝手に単独で行った事ではなく、日蓮正宗の歴代法主も述べている事です。)
更に、その説明として、“国会決議によって建立する戒壇”という趣旨のことも言っております。
しかし、その後創価学会の政教一致の体質が問題とされ、また、「国立戒壇」なるものが明確に
日本国憲法との問題を生じ不可能である事に気付いたのか、「国立戒壇論」を放棄しております。
ところで、日蓮自身は「国立戒壇」という用語は使っていないはずですが、本門の戒壇の建立に
ついて以下のように述べているとされています。
「戒壇とは 王法仏法に冥じ仏法王法に合して ・・・ 勅宣並びに御教書を申し下して 霊山浄土に
似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」(三大秘法抄)
この「勅宣並びに御教書を申し下して」と言う事は、日本国においてそのままの形ではありえない
わけですが、今日の憲法・国家体制を前提に解釈すれば、おそらくは「国立戒壇」なるものが
それに一番近い形になるのではないでしょうか。
ところが国立戒壇論放棄の過程で、現代においては主権者は国民であって、今日では国立とは
民衆立を意味するとして、実質的に「国立戒壇論」を放棄したのです。
なお、“国会の議決”云々の件に関する釈明がなされた事を、私は知りません。
あれほど明確に言っていたのに、どうなっているのでしょうか?
日本仏教は、だいたい、戒なんて真言宗と浄土宗ぐらいしかゆかりがないからねえ。
ここは2chでは珍しくマジメすぎですなw
必須文献として学研「日蓮の本」をあげときます
創価学会については無視に近い扱いですが、
このシリーズは相当優秀なライターがいます
(私の専門は日本における政治思想・とりわけ近代における儒教ですが)
学研のあのシリーズいいねだいたい持ってる。
あと、岩波仏教辞典いいね
>>49 もともと仏教は菩提達磨が最初に伝えたのですから
禅から派生したともいえるのだと思いますよ
新しい考えがインドから伝えられ続けたのでしょう
玄奘の伝えた大般若経然り、不空の伝えた大日経然りだとおもいます
Sb ◆SbSGI7AtEA さん
おひさしぶりです。
>>89 それは、法華経が仏教でないとの前提での話しでしょう・・・
竺法護の正法華経の漢訳が、280年頃ですし・・・
菩提達磨は480年頃の人物だと思ってたのですが・・・
鳩摩羅什よりも後の人物ではないでしょうか・・・
ウィキペディアで調べたら、
『道行般若経』支婁梼讖(しるかせん)訳(179)がありましたが、
これは禅でしょうか?
>>91 ちっとは自分で調べろよ。
大正新脩大藏經では般若部に入ってるよ>『道行般若経』
>>89 これもちょっと変だな
>もともと仏教は菩提達磨が最初に伝えたのですから
中国仏教は達磨によって最初に伝えられた、って意味かな?
で、その系譜には連ならない仏教は、雨垂れ式にインドから中国に
流れ続けていったろうと思うよ。つーことで
>新しい考えがインドから伝えられ続けたのでしょう
これには特に異論はないんだけど・・・
>>90 >それは、法華経が仏教でないとの前提での話しでしょう・・・
なんでこうなるんだ?(汗
さっぱり意味不明なんだが。
>>93 >さっぱり意味不明なんだが。
それは申し訳なかった・・・
Sb ◆SbSGI7AtEAさんは、ここ板では高名な禅師で、「ブッダとは関係なさそうだ〜」スレの
スレ主なのです。違っていたらゴメン!
私は、
>>89のレスは、第1代釈迦〜第28代菩提達磨の系譜以外は正当仏教ではないとの意味に読んだのです。
だから、179年の漢訳の『道行般若経』支婁梼讖は、
禅の源流なのか教えて欲しかっただけなのですが・・・
禅でも法華経は唱えますよ、観音経ですがね。
あと、釈迦〜達磨の法系は伝説でしょうか?
板違いスマソ
マハーバイロさん
>>82 >結局我々は現代の新しい風潮とか思想に感化されていて、新しい思想の信仰から
>古いものへと遡って研鑽して行くことになってしまう・・・
>私は時々・・・「なんか意味あるのか?」と思う時あります。(笑
>だからこそ新鮮な発見があるのかも知れませんね・・・
「発展」という視点から見れば、確かに意味がないように思えてしまいますね。
しかし人の苦しみや思い、生活などは昔も今もそんなに変わらないのかもしれません。
これから未来においても。
我々は誰でも生まれたときは何も知らないわけですから・・・
大乗仏教や密教が原始仏教より劣っているとは一概には思っていません。
それぞれのよさがあると思います。
また人によって合う合わないがあると思います。
でも原始仏教的な視点を心のどこかにとどめておくことは、誰にとっても大切なことだと思っています。
>>94 私は、
>>89のレスは、第1代釈迦〜第28代菩提達磨の系譜以外は正当仏教ではないとの意味に読んだのです。
禅ではそのような伝説があるのですか。
それを禅が主張しているとしたら、日蓮系も真っ青の「おらが正しい」主張ですね。
その系譜の根拠と主張に興味があります。
>>95 コーク港さん
>>53の
>南嶽懐譲は慧思の弟子だと思いました・・・
私の誤りです。
仰るとおり、慧能の弟子でした。
慧可(486−593)〜僧サン〜道心〜弘忍〜慧能(638ー713) みたいですね・・・
やはり天台の「慧」号とは関係ないという事でしょうか・・・
南岳慧思(515−577)の師の慧文は北斎の人みたいだし・・・
>>96ひゃっきまるさん
>その系譜の根拠と主張に興味があります
臨済宗 曹洞宗 黄檗宗 に 迦葉や達磨などで絞込み検索すると
結構ヒットしますよ・・・
>>98 達磨が釈迦の28代目の後継者とは伝説でしょう、もし達磨が正当な後継者なら、何故に面壁九年という長い禅定をしたのか?(まさか覚って無い奴が後継者だったんか?)
それと、釈迦の後継者である証しの衣鉢(釈迦の形見の衣と托鉢用の鉢)が慧能により無くなされたか?
>>99 悟ったからといって修行が終わるわけではないでしょ
不立文字です、鉢も衣も正統もいらないのですよ、
達磨さん、慧能さん、道元さん、他いろいろいたから
お釈迦さんの法は伝えられた
それだけのことです
自分に伝わってはじめて意味があること
他是阿誰ですよ
禅はあまりピンときませんね。
中国の道教そのまんまという感じで・・・。
言葉や論理を超越するとしながら、逆にそこにこだわってしまっているような。
ひゃっきまるさんは題目・勤行で功徳があると思ってる人?
前近代的な迷信を信じてる層化信者の群れについてどう思う?
>>102 僕はすでに創価学会の信仰を信じてはおりません。
しかし、自分の心に確かにある「信仰心」そのものはおそらく大切なものなのでしょう。
それは他人にとっても大切なものであるに違いないので、創価学会であろうがそうではない団体であろうが、気をつけたいと思っています。
題目・勤行というのは呪文のようなものではなく、心を元気にしたり頭をすっきりさせたり意志を強くさせたりするようなものではないでしょうか。
創価学会でも、他力を期待して勤行するのではなく、自分自身が努力するという決意で行わなければならないと指導していたと思います。
「前近代的な迷信」という意見は宗教全般に関する偏見のように思えます。
>>101 わかるという方法ではピンともこないのだと思います
拈華微笑を説明することは出来ないのですから
それに道教との共通性をいうということは見当違いな見方をしていると思います
というよりまったく違うものですよ
>>104 Sbさん
禅は中国で考えられたもののように思っているのですが・・・。
スレ違いなのでこの話題は終了しますが。
話を勝手に終了して、もし間違ってたらどーすんの。
お釈迦様も坐ってなかったっけ?
>>106 座禅や瞑想はインドでは仏教以外でも一般的な修行方法なのでは。
僕が中国で考えられたのでは、と言っているのは、禅宗の教義のことです。
どの宗派も自宗の優位性、正統性を主張しますが、とりあえずこのスレでは禅についてはもう終わりにします、というだけです。
現世利益を追求するならば相応しい学問が発達している。
権力や財産が欲しければ政治学や経済学がある。
宇宙の法則が知りたければ物理学、
生命の神秘を解き明かしたければ遺伝子の研究でもすればいい。
「本尊がないと成仏できない」
「財務をすると功徳が得られる」
「政治活動や新聞をとることに宗教的な意味がある」
これでは不完全な宗教と言わざるを得ない。人間の本質を誤った解釈だ。
悟りは自分の中に見出すものであって、本尊の中にあるのではない。
ちょっと最近寂しくなってきたので、あげます。
創価学会側の論客歓迎です。
燃料投下にゃ。
日蓮上人は佐渡以降かなり大人しくなったと思うけどにゃ。
予言もどきが大ハズレで ショボーンだったのかにゃ?
それとも・・・文字どうり大人になったのかにゃ?
>>110 たまさん
はじめまして。
日蓮が佐渡以前と以後で変わったというのは創価学会内でもよく言われていますね。
法華経への信仰姿勢も生涯を通して何度か変わっているということも言われていますね。
詳しくは知りませんが。
>>107 座禅と瞑想はまったく違うものですよ
中国で作られたというよりも、中国で洗練されたとしたほうが良いでしょうね
そんで、禅を作り完成させることが出来るのは人一人一人だと思います
釈迦の禅も、達磨の禅も、私の禅も、あなたの禅とは違うものです
何故、道元さんは禅に向かい、日蓮さんは法華経教条主義に向かってしまったのでしょうね
日蓮は足がしびれるのがいやだったのでしょうな。
Sbさん
本物の法華経教条主義ならば
1、全てのものはそのまま、あるがままが素晴らしい。
2、誰でも未来に於いて仏になれる。
を説くわけだから、創価の迷惑な連中や
一部のアンチ創価のイメージするような
言動や行動などあり得ないわけだが。。。
日蓮の若かりし日(珍走団時代)の言説を真とするのは誤りではないでしょうか。
彼もまた人間であり、人として成熟したのち(悟る)の彼の流した涙・・・。
ここに真実を見い出すことが創価、一部のアンチともに必要なのではないか。
日蓮はまともに師と言える師匠について学ばなかった
(性格が悪くて学べなかった?)ことが後々ひびいたんじゃね。
まあ、佐渡で思いやりあふるる念仏者に触れ彼も縁といふ
仏教で最も大切なことに、遅ればせながら気付いたんじゃね。
ここはなかなかステキなスレですね、特に
「已(すで)に説き、今説き、当に説かんの三説」の部分
>>23は
臨済和尚とかが好んで使いそうな言い回しなので、ちょっと興味を
持ちました。でも一般的な仏教経典の流れからいえばこれはただの
「時間概念の否定」を意味する隠喩(たとえ)だと思いますけど。
つまり「時間を超越すると法華思想の本体が見えてくる」ぐらいの
意味じゃないかしら、もちろん日蓮-学会系の解釈も否定はしません、
それはそれでありでしょうw
>>100 sbさん
正統がなくてもいい?
そんな馬鹿な!?
たしか、永平寺では釈迦から現在の管長迄を毎朝唱えてますよね。
また、正覚の師を求めるのは当たり前では?
達磨は釈迦教団28代目の後継者ならなぜ、仏教は当時も代表者がいながら分裂していましたか?
この詭弁は例のチョンだな。
バカゲンリストに追加しよう。
>>114 それは法華経主義ですね
でも、日蓮さんが法華経教条主義者というのは言い過ぎなのかもしれません
もっと精通していたでしょうからね
しかし、日蓮さんの教え方では教条主義化してしまうと考えます
法華経を絶対視し、盲目的に信じなさいでは教条主義そのものです
>>117 正統は大事、でも、たかが正統でしかないのですよ
絶対視するものではないし、何故正統なのかを悟らずに、
正統であるということを理解しても、その正統性は見えてきません
あなたが悟りに到らなければ、永平寺の正統性など無意味なものではないですか
>正覚の師を求めるのは当たり前では?
洞山三頓ですよ
>>116さん
経でいうところの三説は法華経を逆から読むと経のなかで
完結しているのが分かりやすいのでは。
まぁ、大乗非佛説がでてきた今、禅宗も含めて旧来の枠の中で優劣を説いても
しょうがない。
>>122 大乗非佛説がでてきたのは江戸時代だろが、と突っ込んでおく。
>>123 > 大乗非佛説がでてきたのは江戸時代だろが、
その江戸時代にも目ぼしい反論はなかったし出来もしなかたっと突っ込んでおく
>>114 29○さん
>彼もまた人間であり、人として成熟したのち(悟る)の彼の流した涙・・・。
いいすね〜 共感した・・・
>>120 Sb ◆SbSGI7AtEAさん、また禅の方々、
私はもちろん禅について、ど素人であるわけですが・・・
「本尊」に向かって唱題することも、
禅のひとつではないかと思うのですが・・・
その最中はやはり「空」とか「止観」とか表現は難しいが・・・
似てるような気もするのですが・・・
( ̄〜 ̄)。0 どんなもんでしょう?
マハバイさんの意見も分からなくはないが・・・
微妙だ。
それより本尊がないと手も足も出ないってのは情けなくないか。
>>112 > 座禅と瞑想はまったく違うものですよ
違いをわかりやすく説明してっ!!
創価学会は嫌いですが、法華宗、日蓮宗における本尊のあり方というのは僕は大きく評価しています。
信仰である以上は、どうしても信仰する対象を求めてしまうわけです。
キリスト教も仏教も初期段階では偶像礼拝を禁じていましたが、イエスを象徴する文字や十字架、釈迦を象徴する足跡や仏塔が信仰対象となってしまい、時代を経るうちに最終的には「像」が作られてしまいます。
それを宗教の腐敗だとか堕落だとかいうのは少し違う気がします。
それは「像」そのものを信仰しているというより、「像」が象徴している「何か」を信仰しているのだと思うからです。
「南無妙法蓮華経」を本尊とする、というのは、非常に深い意味をもっていると思います。
ただ、日蓮正宗のように、「これだけが正統で、これ以外の本尊は効力を持たない」という主張をするのであれば、その瞬間にその信仰はオカルトになってしまうでしょう。
その本尊は象徴ではなく、モノとして効力を発揮する、ということになってしまうからです。
「南無妙法蓮華経」で象徴され、また名付けられたともいえる「何か」は、自身の胸の中だけにあり、外にあると思うべきではないでしょう。
>>125 唱題もまた禅であるのでしょうね
唱題から、題目、本尊、自分を切り捨てたものが座禅と考えれば
空も捉えやすいと思います
只、座るだけ、命がけで、只管打坐です
座るだけのことが難しいのです
只生きているだけでも、生きるということは命がけですよね
その程度のことです
>>127 座禅とは只座るだけですよ
瞑想などしません、考えを巡らせたりしてはならないのです
そこからの座禅の意味はあなたが悟るしかありません
>>129 法本尊でないと世界宗教になれないからです。キリスト教やイスラム教も
神学論争がかなり長い歴史上にありああゆう形に収まった。
>>125 >共感した。
ほぅ そんなあなたは創価の新聞を購読してるのかな?、
創価に属している自己に矛盾を感じませんか?
-------------------------------------------------------------
■■■ 許しがたい層化の勧誘手口 ■■■
精神異常者を出している家族は層化学会に必ず入信するケースが多い。
何故かと言うと、入信したその日から信者から「ゴンゾウ様のお力で今、
完治しました!」と皆で激励され、本人もその気になる。
そしてそういうワケ有りの家族は町内で創価学会の多い地域に住むように
なり、東西南北の家々が層化学会信者なので、治ってもいないのに
治ったことになれば熱心に教団の言うがまま。
「奇跡」を見せつければ新たな信者獲得のサンプルになるし、
身元保証人をつけずに精神異常者が単独行動しても、
周辺が層化ならば、頭のおかしい悪戯や不正行為も証拠隠滅できるしね。
精神異常者の場合は刑事責任も民事責任もないので、
男なら、敵陣へ送り込める無敵の兵隊になるから。
-------------------------------------------------------------
>>133 29○さん
>ほぅ そんなあなたは創価の新聞を購読してるのかな?
新聞は取っています。気が向いた時にはたまに読みます。
くだらない内容が多いが・・・
>創価に属している自己に矛盾を感じませんか?
自己矛盾を感じた時期もあったが、今はあまり感じないですね・・・
なぜなら、信仰と組織は別だと思う様になったから・・・
会合など滅多に行かないが、気が向いた時は出るようにしています。
組織に縛られるような考え方を止めたのです・・・
今日は大事な会合だからと誘われても、イヤならはっきり断る・・・
それに罪悪感を持たないことが出来る様になった・・・
自分の自由ですから・・・
sbさん
そうですか?私は禅の方脈の正当性は大事やと思います。
正当性がどうでも良ければ、誰から法を継ぎインカを受けるんです?
方脈=×
法脈=〇
念仏はどうなんだ?
うちがそうなんだが、詳しい人がいたら教えてください。
>139タソ
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」、と、
よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに、別の子細なきなり。
ですにゃ。
スレ違い防止。
法華経でも漢文じゃないサンスクリットの法華経には西方極楽浄土が説かれているにゃ。(笑
しかも、日本に伝わっているクマラジュウ訳の法華経の梵語バージョンは発見されていないらしいにゃ。
>>137 正当性は大事ですよ、もちろん法脈も大事です
では何故大事なのですか?
法を継ぐのは誰ですか?
法を受け継いだ人を崇めるのが禅なのですか?
庭前柏樹ですよ
何故、正当性が大事かそりゃー正当性がないと魔境か覚りかをどうやって判断するのか?
師家に参じた場合その師家が正しいと判断できるのはインカでしょう。
不立文字ゆえに覚りが正しいと判断できる由来は釈尊の後継の由来がなければ野狐禅になりかねませんか?
sbさん
いつも批判的な内容ばかりですいません、ある正宗系のHPに同じような内容がありまして、学識のある方に聞いてみたくて書いているんです。
私も、臨済宗信徒で妙派でして秋月龍眠さんとか大好きなんですよ。
だいたい、達磨さん自体が伝説の方なんでしょ、梁の武帝と逢った事も正史にはありませんし。
では禅は誰から伝わったのか?
>不立文字
自然そのものが書かざる経じゃないの。
>>142 正当性はそれ自体が魔境となることもあるのですよ
正当性という魔境に囚われる人がどれほど多いか
ブランド物持っていればセレブリティーかといえば、そういうわけではない
正統性と野狐など明確な区切りがあるわけでもない
神秀と慧能どちらを正統と見るか
今の世ですら、多くの人は神秀を正統と見るでしょうね
本来無一物の正統性とはこれ如何に
>>143 伝説またよし、偽書またよしです
そこに仏の道あればよしです
誰から伝わろうと確かに伝わっている、それでよしです
>146 「無師独覚は天然の外道」とは禅門でよく言われることである。
南嶽懐譲は禅宗の六祖に会う前に既に悟っていたが、「自己流仏法では外道に落ちる、法を受け継いだ師によって印可を受けて初めて仏法といえる」と言われて六祖に相見して証明を受けている。
正当性は禅ではかなり大事ですよ
覚りの由来がないとダメでしょ。
コーク港=安部なつみ
>>148 では、一休禅師は何故印可を拒んだのか
一休禅は野狐?
禅は正統性が無ければ駄目、正統性に溺れても駄目
白か黒かではない、間には無限の灰色がある
仏道も、人生もまた然りでしょう
>>148 世界が今目の前にある不思議・・・これが仏の本体でしょ、
正当性もクソも関係なし。
臨済録によれば、しょせんは魔境も悟りも
「糞かきべら」なのさ、っていってるよーですけど。
>>151 法脈の証明ができなければ禅の由来自体を疑問視してしまいません?
世の不思議が仏なら、自然崇拝も仏ですか?
>>152 どちらかではないのですよ
二律背反するものが混在しているのが人の心の当たり前
どちらかにしてしまえばそれは違うもの
ということをわかっては駄目で、悟らなければいけないのですけどね
>>152自然崇拝も仏ですか?
臨済録にある"示衆"によれば・・
「皆の衆、君達がちゃんとした男であるならばこの上いったい
何を疑うというのだ、目の前であれこれと(世界を認識して)やっている
者はいったい誰なのか? もしこれを会得することができたなら、
それは名前とかにとらわれない、玄妙な境地というヤツになるのだよ。
そうすれば、嫌うような理屈もなくなってしまうのではないかな・・」
・・一応勝手な訳ですけど、この辺がポイントでしょーねw
今、自己、此所ですね自然崇拝とは私の誤りでした。
目の前にある、不思議なんですね。
対象物と自己との関係なんですね。
汎神論かとおもいました。
どうしても「中国語訳 法華経」から逃れられないようだね。
まあ、個人の自由といえば自由だが、
中国語訳「妙法蓮華経」は、誤訳・意訳・珍訳・省略も多いので、他の訳も尊重すると良いと思う。
功徳とは関係なく、ね。
一応sageで打つが、上がったらごめん。
新約聖書もギリシア語
>>157 聖書は、多くの現代訳が出ていますね。
今でも新しい研究による現代語訳の複数のプロジェクトが進んでいるはずです。
妙法蓮華経は、クマラジューの不十分な訳による、中国人のための訳書です。
病死した日蓮にこだわると、この中国語訳の呪縛から解き放たれないのではないでしょうか?
世界人口さん、そんなにクマラジュー訳との内容が違うの?
>>159 もの凄く違いますよ。まるで別々の経典であるかのような部分さえあります。
経典ごと、後から付け加えられたものもあります。
クマラジューの考え方が相当入っていますね。
「クマラジュー経典」と呼んだほうが正しいかもしれません。
具体的には、「法華経論」のスレでもナナメ読みしてください。
しかし、世界さんクマラジューはかなりの経典を訳してるんでしょ?そんな人物が何故に誤訳をしたんですか?
法華経は初期に翻訳したのか?
誤りに気付かなかったのかなあ?
>>161 コーク港さん
実際に比較をした事はないからそう言う意味では知りませんが、学者が書いている
事を読む限りでは、訳によって違うようですね。
でも、クマラジュウの訳も、「誤訳」と言うより「意訳」と言うようなもので、
ある意味では名訳だそうですけれど。
意訳というよりちょっと前に流行った超訳の方が言い得てるかも
>>162 そもそも、日蓮や法華経の話は、「そのスジの人」が書くから、
誤訳も「素晴らしい意訳」「名訳」「名調子」となるのです。
列挙し出すと、またひゃきまるさんに迷惑をかけるので書きませんが、
図書館に行くと、つい「正法華経」やらサンスクリット口語訳やら手にとってしまいます。
「妙法蓮華経」は、時代の制約をかかえた、
中国人向けに中国語訳された、クマラジュー訳がほとんどである(例外あり)
ブッダとは直接関係のない文章、とだけ定義しておきましょう。
そのタイトルに「南無」を付け加えて、
何回も何回も繰り返し日本語読みすると功徳があるとする組織宗教もあるようです。
その一つが創価学会。
>>164 「身長150センチのおっさん」は救われないのかい? え?
教典の訳というのは、宗教的目的のもとに訳するわけですから、教科書を訳すのとはわけが違うのではないでしょうか。
鳩摩羅什が法華経に触れて感じ取った「覚り」や、その当時の仏教研究の成果や考え方を盛り込んだのだろうと思います。
そのような意味では梵語と別物になってしまっているとも言えますが、そのように訳したものに事実人を惹き付けるものがあった、だからこそ鳩摩羅什訳は名訳と言われるのではないでしょうか。
世界人口さん
>何回も何回も繰り返し日本語読みすると功徳があるとする組織宗教もあるようです
私は学会やないけどそれでもいいじゃないですか?
それで、苦が軽減されたら…駄目?
>そのような意味では梵語と別物になってしまっているとも言えますが、
>そのように訳したものに事実人を惹き付けるものがあった、だからこそ鳩摩羅什訳は名訳と言われるのではないでしょうか。
>それで、苦が軽減されたら…駄目?
「救われりゃなんでも良いじゃん?」と聞こえますが・・・?
統一教会の「原理講論」でも、心が救われて、人を惹きつければOKですか?
おっと、このスレでまた始めてしまいそうですね・・・控えます。
sageで書きます。
299 名前:世界人口を100%とすると、学会員は0%です。[age] 投稿日:04/12/04 11:51:53 ID:???
「熱原法難の三烈士」っていうのも、
実際に会ってみれば身長150cmくらいの、しょぼいオヤジ3人衆だったかもしれないね。
>世界さん
>「救われりゃなんでも良いじゃん?」と聞こえますが・・・?
>統一教会の「原理講論」でも、心が救われて、人を惹きつければOKですか?
OKです。当然です。なんでもいいのです。人が救われれば。
しかし「人を救う」というのはそんなに簡単なことではないと思いますが。
>>OKです。当然です。なんでもいいのです。人が救われれば。
「救われた」という実感を与えて、人生そのものを奪う宗教(カルト)がある。
「この宗教で救われた」という「実感」は、カルトは簡単に与えうる。
「実感」こそカルトのキーワードです。
脱マインドコントロールは、この「俺はこの宗教で救われたんだ!」という確かな実感との戦いなのです。
オウムであれ、統一教会とであれ、同じ事です。おそらく日蓮系でもね。
「間違っていたっていいんだ!自由じゃないか!ええい、ほっといてくれ!」
・・・これが信仰者の最期の断末魔の叫びですね。。。
思い出しても、あまり気持ちの良いものではありません。
でも、最期には家族の笑顔と、落ち着いた愛ある家庭生活が待っています。
不思議と、皆、就職して、結婚して、子供ができたよね。。
生き方は多様化しているのに、どうしてでしょう・・・?
世界人口さん
私は仏教徒ですから、苦の消滅を救済と思ってるんですが、そこに、善が介在していないといけないと思う。(この善を善悪と言う二元論と認知しないで)
私の言う善はカントでは無く、欲望のコントロールに近いです。善はやはり辛抱ですから執着を軽減するんでは?(まあ、八正道とかもそうでしょ)
欲望の大肯定だけの救済は執着のみを増やし、苦を増やすんじゃないかな?
あげ
>>173 善でも悪でもなく、幸せでも苦痛でもない、そして最後に
くるのが「あれっ、欲望のコントロールって何んだっけ?」
でしょ。
その状態で世界を見ることができれば、***と言ってもよいの
では・・(超能力は必要ありませんw)。
299 名前:世界人口を100%とすると、学会員は0%です。[age] 投稿日:04/12/04 11:51:53 ID:???
「熱原法難の三烈士」っていうのも、
実際に会ってみれば身長150cmくらいの、しょぼいオヤジ3人衆だったかもしれないね。
苦は無明から来て、執着を作る
善は執着を減らしますから、苦を減らすでしょうね。
娑婆世界にいる以上は執着から離れられないでしょう、しかし菩薩はそれがわかってるから、善をするのでしょう。
だけど菩薩だって執着するでしょうがね。
しかし、在家は執着を捨てる為に布施をする、僧侶は貯まった供物をどのようにするの?
蓄財は執着ですし、釈迦や日蓮は貯まった財を教団はどうしたらいいか書いてます?
僧侶が必要以上に受け取らなけれいい?
でもそうなら、布施出来ない人が生まれますね(笑)
>世界さん
あなたが理解しているように、「思い込みでなく、本当の意味で人を救うこと」は大変難しいことなのです。
また、人間は他の人間と関わって生きている以上、他の人が不幸で自分が幸せということはありえないでしょうね。
>他の人が不幸で自分が幸せということはありえないでしょうね。
卑近な例で、k-1を見ていると、「それはありえる」と思いますが・・・。
あまりにも軽い?例えですけど、ズッコケないでね。
身長150cmに関して言えば、差別というか、
でかければ、「しょぼい」とは思わないでしょうし、
でも実際に小さくて、話とは全然違って、風采のあがらないナリなら、
やっぱり「しょぼい」と思うでしょうね。。。
当時から「列士」とは呼ばれていないのでしょう?
後の小説か何かで「列士」になった?そういうイメージに。
言い訳にすらなってないね。
調べたら、「烈士」って武士じゃなくて農民だったんだね。
いわゆる「殉教美談」のお話の中の兄弟なんだね。
農民だったため、本尊は下付されなかったそうな。当時の差別ですね。
私も身長が高くて腕っ節が強いから、つい、身長が低い人を見くびってしまう。
悪いことだね。確かに。
やっとADSL回線になったので来てみたんですが、まったくスレ違いの内容ですね…。
マハーバイロさん、いらっしゃいますか?
学会や日蓮正宗の解釈をいま一度確かめたいと思ってますので
「贖命重宝」の解釈をお聞かせいただければと思います。
私ももちろん理解してるつもりですが…。
それと、できれば「秋収冬蔵」についてもお願いします。
>>180 世界さん
そうですね。幸せがなんなのか、というのは人によっても意見が違うでしょうし、難しいと思います。
しかし、「救われりゃなんでも良いじゃん?」は僕は有りだと思ってますが、どうでしょう。
>>183 チューラパンタカ さん。お久しぶりです。
開通おめでとう(笑
「贖命重宝」について学会では、寺泊御書(真筆完存)の解釈が基本となります。
というかこの御書以外あまり出来てない様です。
以下引用します。
涅槃経の第十八に贖命重宝と申す法門あり、
天台大師の料簡に云く命とは法華経なり重宝とは涅槃経に説く所の前三教なり、
但し涅槃経に説く所の円教は如何、
此の法華経に説く所の仏性常住を重ねて之を説いて帰本せしめ涅槃経の円常を以て法華経に摂す、
涅槃経の得分は但前三教に限る、
天台の玄義の三に云く「涅槃ヘ贖命の重宝なり重ねて掌を抵つのみ」文
章安、妙楽の流(ショ)から南本大般の方になるのでしょうかね?
(私には南本、北本の違いが解らないもので・・・)
>>183 続き
学会の解釈は以下「仏教哲学大辞典」より引用
重宝を命に贖(あがな)うとよむ。
涅槃経十八の文。天台は法華経を贖命に譬え、重宝を涅槃経と他の諸経にたとえている。
盗賊や悪王に会って、命にかわるものを要求された時、その命をあがなうものが重宝である。
このように、法華経にあがなうものは、涅槃経と涅槃経の中で説かれた前三経であるとの意。
「秋収冬蔵」については割りと多くの御書に出てきますが、第九の引用がほとんど・・・
報恩抄(真筆断存)より以下。三説も出てきますので・・・
次上の第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり、
所謂経文に云く「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞記・を受くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云、
経文明に諸経をば春夏と説かせ給い涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位涅槃経をば秋の末冬の始・拾の位と定め給いぬ、
此の経文正く法華経には我が身劣ると承伏し給いぬ、
法華経の文には已説今説当説と申して此の法華経は前と並との経経に勝れたるのみならず後に説かん経経にも勝るべしと仏定め給う、
秋収冬蔵について、「仏教哲学大辞典」より引用
秋に農作物のとり入れをして、冬に蔵に収めるの意。
転じて時の大事なこと、時に適うことの譬えにもちいられる。
荀子の王制に「春耕夏ウン、秋収冬蔵、四者時を失わず」とある。
ここからは我見ですが、
贖命重宝は、涅槃経=○で法華経=◎
秋収冬蔵は、涅槃経⊆法華経
の違いと解釈してるのですが・・・
伝えたい意図わかります?
創価学会以外の宗教を信仰すると不幸になる
マハーバイロさん、いま文書を編集中です。もうしばらくお待ちくださいませ。
マハーバイロ さん
私には、「法華経が一番と書いてあるから法華経は一番」と書いてあるだけだと思うのですが
なんら説得力もないし、含まれるものも無い、此れを信じろといわれても、疑う以前の問題になってしまう
此れが学会の解釈の基本なのですか?
禅には「牛過窓櫺」という言葉があります
「たとえば水牛が通り過ぎるのを窓の格子ごしに見ているとしよう。頭が通り過ぎる。続いて角が、前脚が、後ろ脚が通り過ぎた。
ところが、しっぽだけがいつまでたっても通り過ぎない。どうゆうことだろう」
というものですが
その文では、しっぽも通り過ぎてる、だから何?と感じてしまいます
>>192 Sb ◆SbSGI7AtEA さん
>私には、「法華経が一番と書いてあるから法華経は一番」と書いてあるだけだと思うのですが
ある意味仰るとおりと思います。
Sbさんは「正しい正しくないと拘ることなど無意味」ということなのだと仰りたいのでしょうかと思いますが、
その達観に行き着く道も仏道だとは思います。
私にはその最終は「否定することさえも否定する」となってしまい理解し難い。
正誤を判断することは人間に備わってしまっている感覚(本能)でもあると思うからです。
私には今更離れられないところ・・・
また、正しいとの判断の基準には相対が必要です。
学会が正しいと主張するならば根拠は、「日蓮祖がこう言ってるから」
日蓮が正しいのは「妙楽がこう言ってるから」
妙楽が正しいのは「天台がこう言ってるから」
天台が正しいのは「竜樹がこう言ってるから」と延々に続くわけです。
つまり正誤はある枠の中でしか通用しないという事です。
学会の主張もこの枠内での主張からは外れることは出来ないと思っています。
>>193 マハーバイロ さん
なんにしても、その正しさとやらがあなたを縛っているのです
仏教というのは正しさとか勝負とか言うものではなくて、
あまねく自らを縛るものをほどくことなのではないでしょうか
そしてほどけて出てくるのが仏
不思善悪でしょう
私の述べたいことはいっぱいあって、まだ文書は編集途中なので、
とりあえずマハーバイロさんから指摘いただいた涅槃経の解説を。
>章安、妙楽の流(ショ)から南本大般の方になるのでしょうかね?
>(私には南本、北本の違いが解らないもので・・・)
大乗の大般涅槃経には北本・法顕本・南本の3つあるようです。
法顕が持ち帰って前半部だけを訳したものが法顕本といわれる六巻ナイオン経、
曇無讖が持ち帰って北涼で訳した涅槃経が北本と呼ばれ、
その2つを南部の宋で編集統合したのが南本と呼ばれるようですね。
ただ、一般的に出典引用されるのは北本が多いようです。
ともあれ、内容的にいちばん整っているのは南本涅槃経だと思います。
さて、「贖命重宝」にしても「秋収冬蔵」にしても、
もともと天台智の解釈によるもので日蓮は智の解釈をそのまま引き継いでいる、
と私は見ています。それ以降、日蓮以下の目新しい解釈は何もないように思います。
では、まず「贖命重宝」から。寺泊御書は私も知ってますが、この出典はやはり寺泊御書になるんですね。
でも寺泊御書の文章のままだと「なんのこっちゃ?」と思われる方々も多いかと…。
「贖命重宝」は涅槃経・梵行品に説かれる比喩=たとえですね。
たとえ話といっても法華経の七喩のように物語ではないので、それほど長くありません。
しかも法華七喩のように具体性を持って説明されているわけでもありません。
「贖命重宝」を単純に説明すれば、マハーバイロさんが書いて下さった通りで、
涅槃経の中で「他国から賊(悪王)が侵入してきた場合、貯えてある穀貴や宝をもって
命を贖う」とあり、宝とは涅槃経に説かれている前三教(法華涅槃以前の教え)のこと、
それをもって仏性円常の義が説かれてある法華経の命脈を保つことを指している。
これを天台〜日蓮系諸宗の間では「贖命重宝」と言っているようですね。
さらに言えば、涅槃経は法華経に説かれている「仏性円常の義」を法華の救いに漏れた
衆生のために重ねて説いたに過ぎず、涅槃経から得る部分は前三教のみしかないから、
「涅槃は贖命の重宝なり重ねて掌を抵つのみ」なので、法華経の方が涅槃経より優れている
というのが、その主張している要旨ではないかと思います。
しかし涅槃経を素直に読めば、そのような解釈で書かれていないことは明らかです。
国訳一切経・涅槃部や現代語訳である田上太秀著の「ブッダ臨終の説法」から抜粋して要約すると、
「この涅槃経は十一部経にない仏性などを説くので一切の諸仏の秘密の蔵であり、
あたかも人々が宝を外用せず蔵する如くで、もし将来に飢饉が起り外敵や悪王が国に侵入した時に
その宝を用いて命を贖うように、諸仏如来秘密の蔵であるこの涅槃経も悪比丘が不浄物を蓄えたり、
四衆の為に如来は畢竟して涅槃に入ると説いたりする未来の時の為に、如来がこの経を演説する」
などと説かれているだけで、それ以外の他意は説かれていないのです。
したがって経文を素直に読めば、宝が涅槃経という解釈はできても、
命が法華経であるとはどこにも書かれていません。
また法華経のどこに、涅槃経のように詳細に仏性円常の義が説かれているのでしょうか。
これはやはり天台智の強引なドグマによるものと言わざるをえません。
次に「秋収冬蔵」です。「贖命重宝」と違い、報恩抄ははじめて拝見しました。
「秋収冬蔵」は涅槃経北本の如来性品(南本では菩薩品)に説かれている部分です。
これも天台〜日蓮系諸宗派の解釈でいえば、マハーバイロさんが説明して下さった通りです。
つまり「法華経中で目連や舎利弗等他の声聞衆が未来成仏の印可(記別)を受けて大果実を
得たように、収穫物を秋に収め冬に蔵にしまい込めば、さらにすることが無い」とあるので、
大果実とは法華経で、大果実を「秋収冬蔵」する立場が涅槃経である、
というのが、法華一乗とする天台や日蓮の主張ですね。
では、涅槃経の経文をそのまま引用します。まずはちなみに学会等で引用される部分だけを。
「この経の世に出ずる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所多きが如し。
よく衆生をして仏性を見せしむ。法華(法花とも)の中に、八千の声聞が記別を受くることを得て、
大果実を成ずるが如く、秋収めて冬蔵めて、更に所作無きが如し」
この部分だけを現代語訳である田上太秀著「ブッダ臨終の説法」から抜粋すると以下のようになります。
「この教え(涅槃経のこと)が世に出ることは、果実がすべての人々に利益と安らぎを与えることと
同じである。この教えはブッダになる可能性をあることを見せ、そして教えの花(法華経のこと)を説く中で
八千の未熟な弟子にブッダになれるという印可を与え、彼らに大いなる成果を成就させるのである。
これはちょうど秋に収穫し、冬の間貯蔵して、すべてをなし終えたことと同じ状態である」
どちらにしても、この経文は涅槃経内で唯一法華経に触れられている所なので、
法華・涅槃の両経典の関係を示す上で教学だけでなく経典成立の時期など、
いろんな面でかなり注目すべき部分であるのは間違いないと思います。
「秋収冬蔵」は「贖命重宝」と違い、直接的に法華の声聞記別に言及し引用しています。
この部分だけを見れば、どうとでも捉えられる経文といえるかもしれません。
いくらでも解釈は可能です。つまり、それだけに独特な解釈を加えることもできるし、
涅槃経より法華経の方が優れていることを証左した部分である、と宣伝することも可能です。
ただし「贖命重宝」と同じく、そこに書かれていることに独自の解釈を加えるか、
もしくは経文そのものを素直に読むかで、かなり印象が変わってくるのも確かです。
しかも天台、日蓮宗諸派、学会などが引用している部分は前半が省略されています。
意図的かどうかはわかりませんが…。
では、この「秋収冬蔵」の省略されている前半部を入れてみるとどうなるか。
「また次に善男子、たとえば闇夜に諸々の営作する所が一切止むも、もしいまだ終わらざる者は
必ず日明を待つが如し。大乗を学する者が契経(すべての経典)・一切の諸定を修すといえども、
かならず大乗大涅槃日を待ち、如来微密の教を聞きて、しかして後にすなわちまさに菩提業を造り、
正法に安住すべし。なおし天雨の一切の諸種を潤益・増長し果実を成就して悉く飢饉を除き、
多く豊楽を受くるが如し。如来秘蔵無量の法雨もまたまたかくの如し。悉くよく八種の熱病を除滅す、
この経の世に出ずる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所多きが如し。
よく衆生をして仏性を見せしむ。法華(法花とも)の中に、八千の声聞が記別を受くることを得て、
大果実を成ずるが如く、秋収めて冬蔵めて、更に所作無きが如し、云々」となります。
さて、この部分を経文の通り読むと、法華で八千の声聞が記別の大果実を受けたけれども、
それら声聞衆もこの涅槃の教えをも修学すれば、すべてをなし終えた状態である、
つまり反対からいえば、この涅槃の教えを修学しなければやるべきことがまだ残っている、
不十分である、ということです。したがって、この文章を素直に読む限りでは
決して法華と涅槃の間に優劣を述べているとは到底言えません。
どうでしょうか?経典の文章にドグマを入れたものと、経典を素直に読むのとでは
かなり印象が変わってくることがはっきりするのではないでしょうか。
なお、涅槃経菩薩品には未来世にこの経典の経文の前後を抄略(しょうりゃく=かすめとって
略したりすること)して、涅槃経の色香美味を滅そうとする悪比丘が現れる、
と説いて戒めていることを付け加えておきます。
γ⌒⌒ヽ
( ´D`)<だいじょうのねはんぎょうは
/`ーy//ヽ にょさいぞうしそうのえいきょうが
|lつ|田|と)〕 あるようなのれす
し∠二二_」_/
(_□_)_□_)
γ⌒⌒ヽ
( ´D`)<
>>201にょさいぞうしそうじゃなくて
/`ーy//ヽ 「にょらいぞうしそう」なのれす
|lつ|田|と)〕 まちがえちゃったのれす
し∠二二_」_/
(_□_)_□_)
チューラパンタカさん
丁寧なレスありがとうございます。
私も書き込みしたい事がたくさんありますが、時間を下さい。
マターリ行きましょう。
ただ、
>>201 辻蓮大聖人さんのレスが気になったので先走って一言・・・
たしかに龍樹の如来蔵思想を離れて素直に読むのは至難でしょうね・・・
仏性を考えて行くと今後出てくるポイントのひとつだとは思っていましたので・・・
この辺のこともゆっくりと考察して行きましょう。お付き合い下さい。
>>200 チューラパンタカさん
天台以降の解釈はほぼ同じようなので、
という事は天台以前への考察がポイントになりますね
まず我見であることをお断りして
勝劣についての視点について前置きしたいと思います。
勝劣の判断の価値観は利用者やその目的によって変化するものと思います。
例えば、
800人の患者にAの薬を投与します。 内の750人に薬の効果がありました
残りの50人の患者にBの薬を与えます。残り50人に効果ありました。
Aの薬で効果無かったのがBの薬で効果あったのだからBの薬のほうが優秀であるとも言えるし、
Aの薬のほうが実績として750人に効果があったのだから優秀であるとも言えます。
乱暴な喩えですが、
より多くの患者を速やかに救うためには(ある目的の為の視点から見て)
どちらの薬を使用すればよいのか?という判断基準での勝劣でしかありません。
よって時が違えば勝劣は無意味であることを前提として、
>天台智の強引なドグマによる
との意見を肯定したいと思います。
章安、妙楽は涅槃経の注釈としてかなり研究していたと思うのですが、
何故天台はドグマ的解釈をしたのでしょうか?
私は予想するに何点かあると思うのですが、
涅槃宗が天台宗へ吸収されたことによる影響。
曇無讖の訳が難解で羅汁の訳の方が中国人に受け容れ易かった。
(いったん定着してしまうと排他的な)中国人の民族的思想傾向。
世親、龍樹の思想を含んでの伝播。
などの要因があったのではないかと思います。
ボソっと参加させていただきますが、そもそも中国語訳の経典の解釈をするよりも、
原典に近い文献をあたったほうが良いのではないでしょうか?
例えば法華経上の「善男子」・・・これはサンスクリットでは「良家の息子達よ」になっていますね。
あの書き込みのあと、規制がかかって書き込めませんでした…(笑)
でも、マハーバイロさんは我見といっておられますが
別に間違ってないと思いますよ。
南本は、けっこう後になってから編集されたものなので、
それまで伝えられていた北本の方が重宝されていたのでしょうね。
そもそも智以前に涅槃宗や法雲などの学僧の解釈が
結構強引だったという点も大きいかと思います。
羅汁訳の法華経も十如是の部分などドグマといわれればそれまでですが、
それが受け入れられただけの理由は絶対にあったと思いますしね。
私は法華経は絶対視はしませんが、どなたかと違って
法華経を卑下して排他視する立場には反対です。
チューラパンタカ さん
中国人の排他的思想傾向についてですが
自分達にとって必要な部分だけを取って、その他には排他的な民族性傾向が要因・・・
天台一派はパルマールタを拒否し、パルマールタ訳を研究した玄奨は、プニョーダヤを
拒否しました・・・
そもそも中国国内で訳業を行ったわけですから、大量のサンスクリット写本を
インドからもって来てたわけです。
何にも残ってないわけですよねこれが・・・
翻訳し終わったら原本は必要ないからと捨てたのでしょうかね彼らは(怒
考えると腹が立つんです(苦笑
ま〜中国人の機根が大乗だったのだと・・・(泣
光宅寺法雲も梁武帝の時代の人ですよね・・・
智よりちょっとだけ前のひと・・・
梁武帝になって仏教奨励をし始め、
やっと定着しそうになった時代に智が国師の如く厚い待遇を受けたのですから
南京においてこのような場合どうなるかは言わずと知れています・・・
>>206 世界さん
岩波の法華経では、「諸善男子」も「良家の息子たち」となっています。
実際には、カーストを研究しないと結論できない問題です。
因みに私は諸善男子とは出家の女性を含むと思っています。
世界人口また来てるの?
相変わらず的はずれなカキコして
もっと勉強しろよ
世界人口よ
おまえが最も洗脳から解放されるべき人間に思えるんだが
オレの勘違いか(笑
世界人口さんを拝むと超健康体になるらしい。
毎日拝もうぜ。
南無世界人口を……です。。。。
マハーバイロさん
チューラパンタカさん
んーまだ法華経の本質が見えてこないです
どう書いてあるから、誰がこういったからでは
法華経勝劣の根拠にはまったくなりえないのではないでしょうか
そもそも、法華経の言わんとする悟りとはどこから来るものなのでしょうか?
法華経の仏とはどのようなものなのでしょうか?
>>214 Sb ◆SbSGI7AtEA さん
>そもそも、法華経の言わんとする悟りとはどこから来るものなのでしょうか?
>法華経の仏とはどのようなものなのでしょうか?
申し訳ありませんがそのご質問へは
解りません・・・
分かりません・・・
判りません・・・
です・・
>>214 私も同意です。本来、経典に勝劣なんてないと思います。
法華経の仏と悟り、涅槃経の仏と悟り、華厳経の仏と悟り、般若経の仏と悟り…
そこに差別はないと私は考えます。
たぶん釈尊滅後に各経典を創作したグループがセクト化したもので
それが後世にまで影響を及ぼしているのではないでしょうか。
私の想像ですが、法華経を最高と思われる方々は、
「もし法華経の言わんとする悟りがどこから来ているのか?」
というご質問には、諸法実相や十如是と答えるのではないでしょうか。
でも、それはやはり突き詰めると「仏性」の一点に要約されると思うのですが…。
ただし「仏性」は法華経にはほとんど説かれていませんが。
>>215,216 では、日蓮さんはいったい何をお悟りになったのでしょうか?
それとも、ただ法華経に縛られてしまっただけなのでしょうか?
日蓮さんの示す仏性とは?
そして、それらを基にする学会の仏性とはいったいどのようなものなのでしょうかね?
Sbさんの疑問には、学会員や日蓮宗系の信徒さん方に直接答えていただきたいですね。
216でのレスもそうでしたが、私は日蓮宗系の信徒ではないので勝手な想像でのレスになってしまいます…。
でも、あえて言わせてもらえれば、Sbさんのご指摘通りだと思います。
法華経は「已今当の三説」などはほぼ経文通りに解釈するものの、
涅槃経の「秋収冬蔵」に見られるように、他経は天台智前後の穿った解釈をそのまま拝借、、、
法華経を信じるのは素晴らしいことですが、昭和30年代の学会やオウムの例を出すまでもなく
原理的な解釈、また反対に行き過ぎた解釈の双方から生まれる誤った信の怖さを感じます。
ただし、仏性は誰にでもあるものだと思います。
もちろん学会員にもあるし池田太作にもあるかも知れません。
簡単に他人を闡堤(センダイ=信具不足の断善根の人)とは断定できないでしょうが…。
それから…
法華経が最高で優れていて、涅槃経は法華経の救いに漏れた衆生を救うだけの教えで法華経には劣る、
という説明は「已今当の三説」などから一見すると正しいようですが、私はなんだか腑に落ちません。
もし法華経が本当に最高で優れているのなら、たとえ「已今当の三説」といえども、
何も涅槃経を説く必要は無かったのではないでしょうか。
しかも法華経では、法華経を理解できる機根の優れた者は救われているものの、
法華経を理解できない鈍根な衆生を救い切る、という強い意志がまったく感じられません。
また、法華経の救いに漏れた衆生のために涅槃経を説いたのだ、というのは、
かなり強引なレトリックである上に、すべてを救いきれないことを自ずから証明したようなものではないでしょうか。
果たしてそれで、「法華経は最高の教えで優れている」、「一乗=誰もが仏と成り救われる唯一無二の教え」
と言い切ることがほんとうに出来るのでしょうか?
仏教では、私のような(笑)そういう鈍根薄福な衆生を救うことこそが最終的な目標とされますが、
機根の優れたものだけが救われるのなら「選民思想」と何ら変わらないように思います。
もし法華経が本当に優れているのなら、日蓮さん自身が御書で「涅槃経、ナイオン経に曰く…」などと
いちいち涅槃経などに頼らずとも法華経一本でその教理だけで説けたのではないでしょうか。
以前、こういう和歌を聞いたことがあります。
「法華経も涅槃のささへなかりせば、たてぬことをば聖人(ひと)は知るべし」
この和歌によく表されているように私には思えます。
経典は月をさす指の如し、
いくら月のことを事細かに説明しようと、月の絵をかこうと、写真を張ろうと
それは月ではないのですよね
最も月をよく説明しているから、その経典にすがれば月を得られる、ってわけではない
最も月をよく説明しているから、その説明者にすがれば月を得られる、ってわけでもない
最も月をよく説明しているから、その集団にいれば月を得られる、ってわけでもない
自分が得られなければそれらのものはまったく無意味な道具
得るための道具ですから、大切にするべきではありますが、所詮道具です
また、一乗などくだらないことです、仏道は乗り物に非ず
人生は己の足で歩くものです
他人の足では歩けないのです
そして、もとよりみな仏、成るも救われるも唯一も無二もなしです
四苦八苦、一番最初は生です、生きるってことです
生きていれば苦しい、諦めるのではなく、諦すること、この違いを悟ることが出来れば
仏が見えるのではないでしょうか
勝劣を付けてしまうなら、法華経は四苦八苦に劣るのです
勝劣など無意味なのです
>経典は月をさす指の如し、
それ、良い言葉ですね。道元さんですか。
>生きていれば苦しい
その感覚が分からない。理解できない。
楽しいことばっかりだった。「青春を返せ裁判」の中でも、生き生きとしていたよ。
すべて、感謝だよ。感謝の念しかわいてこない。
生きるのは「楽」で「楽しい」ことだと思うよ。
しかし人間は例外なく氏ぬ。
>>220 > 四苦八苦、一番最初は生です、生きるってことです
> 生きていれば苦しい、諦めるのではなく、諦すること、この違いを悟ることが出来れば
> 仏が見えるのではないでしょうか
四苦八苦の最初の「生」は、「生まれる」ってことです。
あなたは、まず「生きる」と「生まれる」の違いを理解する必要があるのではないでしょうか?
>>221 生きていくってことは四苦八苦から逃れることが出来ないってことです
生きていれば、病にもなるし、老いるし、死ぬ、
ほしい物が手に入らなかったり、嫌なことがあったり、大事なものを失ったりする
だから一番最初に生がある
人生楽ありゃ苦もあるさっ、てことです
>>223 以上のことから、四苦八苦の生は生まれるではないのですよ
生きていくことに苦しみは付き物ってこと
生まれたとき記憶が一生の苦になるわけがないでしょ
223の言ってることが学問的にみて正解。
Sbの言ってることは素人の個人的な考え。
>>224 > 以上のことから、四苦八苦の生は生まれるではないのですよ
「生苦」が、「生きる苦しみ」とは、基本がまったくわかってないですね。
本当に生きる事が楽しい人なら、宗教も仏教も無縁で欠点だけ見えるでしょうね。
釈迦族に恨みを持つ隣国コーサラの王が何時攻め込んで来るか解らない。そのぎりぎりのはざまで、釈迦は妻子を捨て出家した、というのが本当の所ではないかと思います。
釈迦もまた生きる苦しみから出発したのであって高尚な理想から始まったわけではないと考えます。
たしかに釈迦族に恨みを持って滅ぼしたのはコーサラ国のビルリ王だったが、
釈迦が出家した時はまだ父王であるバーセナディ王の頃。
バーセナディ王は釈迦族を滅ぼそうなんて思ってなかったんだよ。
属国だったかそうしようとは思ってただろうけどね。
ビルリ王はまだ生まれてないか、王子の頃だ。
釈迦族殲滅を知ってるなら、なぜその程度の話を知らないの?オカシイ。
>>224 > 人生楽ありゃ苦もあるさっ、てことです
一切皆苦だろ?
>>227 ゴータマ・シッタールダが出家した背景は「四門出遊」が有名。
それと生きる苦しみから離れることは、その時は彼にとって高尚な理想だったんだろう。
後に誰もそれを逃れられることができないことを悟ったが。
それと、宴の後に侍女などが酒に酔って涎などを流してたのを見て厭世的になり
出家を決意するに至ったとも伝えられる。
背景と時間軸でいえば228が正しい。史実と勝手な推測をごっちゃにするな。
キリストの場合も妻子を捨てたんだっけ?キリストの背景やその後は知らないが、
シッタールダの場合、第1妃のヤショタラ姫とその実子ラーフラも出家したね。
>>229 一切皆苦です
同じことだと思いますけど
うまれるに関しては私のミスを認めます
生まれてから、死ぬまで四苦八苦は付いて回る
四苦八苦の最初が生であるのはもっと深い意味合いがあると
四苦八苦自体が、生きるということなのですね
>>231 > 一切皆苦です
> 同じことだと思いますけど
「一切皆苦」を前提として、「人生楽ありゃ苦もあるさっ」の、人生における「楽」ってどういうことなのかなと思ってね。
> 四苦八苦自体が、生きるということなのですね
そうだと思います。
楽も苦もなし、
今日みたいに深々と雪の降る風景が見えるだけ。
・・なんでしょうけどw
>>233 そんな貴方にシベリウスの「樅の木」を聴かせたい。
>>219 チューラパンタカさん
久しぶりです。
本年も宜しくお願いいたします。
さて、三説に話を戻しますが・・・
方便品の
「世尊法久後 要当説真実」につてはどう考えますか?
又、法華経では二乗作仏について、
劫・国・名号を明らかにしてるわけですが、
涅槃の仏性ではどう説かれてるのでしょうか?
>>231 命そのものが持っている、自己保全と自己増殖の機能が生まれる前にすでに
全ての生命体に備わっている。これが無明であり欲と執着心が意識するしな
いに関わらず存在する。その結果新たな生命が生まれ、苦しみが生まれる。
法華経についてより知識を深めたいのでしたら、
私は、大石寺の門流(学会等含め)は薦めません。
日蓮本佛論の同門流では、釈尊の教え、つまり
法華経は「脱益」の教えであり、日蓮遺文が「末法下種」の
法華経だとして、釈尊と経典を軽んじています。
>>1 に創価学会の教義と日蓮聖人とあったのでどうかな、と思いましたが
皆さん個々に研究熱心のご様子で。
他門流の私としては、参考にもなりました。
>>219 >法華経が本当に最高で優れているのなら、たとえ「已今当の三説」といえども、
>何も涅槃経を説く必要は無かったのではないでしょうか。
>しかも法華経では、法華経を理解できる機根の優れた者は救われているものの、
>法華経を理解できない鈍根な衆生を救い切る、という強い意志がまったく感じられません。
ですから、天台大師は五重玄義をまとめ、「名」玄義に法華経の一切が含まれる
という思想のもとに、易修易行の唱題、「題目体内二十八品唯本の法華経」という
思想の根源を生み、それを徹底したのが、日蓮聖人です。
教弥実位弥下、教えいよいよ実なれば位いよいよ低く、の言葉どおり、
下機下根の無宿善の衆生に対する「大悲門」の究極というわけです。
これは、学会の教えではなく、八品門流教学からの引用ですが。
法華経内部から法華経を見ても
普通よくわからないよ、といってみる
>>239 じゃあ、どうやって法華経を見たらよくわかるんですか?
法華経虚空会は実はある意味有名な象徴体系の一形式なのですよー
もう感想でも何でもないけど、
今は個人特定のために失礼します。
長文ながらメモがもうあるので、
時間がないからこぴぺします。
仏教は非‐世界樹系象徴体系:
中国・インド(ヒンズー教)等で
世界樹系象徴体系とは違いますが、
啓示宗教(ユダヤ教・キリスト教
・イスラム教)や星座伝承などや
仏教の体系も同じ位おなじみです。
仏教では、基本構成要素の型理論
(本体:法華経)を元に公理的・
幾何学的にモデル化されています。
そこで登場するタイプの譬喩体系
が虚空会と呼ばれる星座体系です。
→北欧で体系交替が大事件に
(ラグナロク。もう終わった)
十界論は仏教版の階層体系:
(学会の人は要典の旧版を用意)
法華経の寿量品第十六の
良医のたとえのところで、
虚空会(星座体系)のうちの
機能分類別の20領域の順番を、
精神の領域別開発の順番とし、
それを近似的にまとめたのが
仏教で定義される生命段階理論、
『 十 界 論 』 です。
→啓示宗教の『セレスティアル・
ヒェラルキィ』のほうが有名
配列順は五行属性によります:
『通常領域』=干と支のうち20
領域に対し、寿量品の冒頭にある
『システム領域』五行が、主属性
=大分類と副属性=小分類として
規則的に対応し配置を定めます。
十界論と啓示宗教系での階層では
まとめ方に違いがあっても実際の
西洋における研究成果を見る限り
精密分類=本地の型ごとに機能を
実現するので関係ないようですw
→各段階ごとに対応する本地の
特徴が長短ともども表れます
よだん、信仰一般。:
啓示宗教等では仏教と同じ名称の
体系(金行から順に土風水火空)
を使い人類を土の子と呼んでます。
5行領域別にみて半分近くを金行
=“土”用に割り当てている状況。
人類では火系領域は1領域に潰れ、
帯域も全体の5%あるかどうか。
他領域による代償(喜悲捨慈)が
必要で、これらを引き起こす手順
は一般に「信仰」と呼ばれます。
→縮退解決に必要な上位領域の
呼出代価は同格の残4者のみ
法華経、半死半生になる?:
啓示宗教=大分類が木行系=慈愛、
仏教なら土行系の卯だから喜愛と、
土行(防衛・本能)=「食」関連
の問題を、それぞれ隣接する成分
土系戌「乾」→火系酉(⇔湿=申)
土系卯「飢」→辰(餓鬼界の起源)
に押し付けた応報に法華経天台宗
は仏教の辰系一派=真言宗に半分
「持っていかれ」ました・・・。
原因そのままなので今は相手
に受け取り余力がないだけ。
法華経、またピンチ?:
時間経過は事態を悪化させるので、
この法華経の未解決課題に対して
欠陥を公開して衆知を集めないと
(法華経が代わりのきかないもの
ではなくなると復活できないから)
念仏は人類の“火”領域の力不足
で当時問題にならなかっただけで
信仰の性質上こちらのほうが問題。
→仏教は(知恵=)縁覚の上の
知識の発達を用語等で妨害中。
日蓮のライフワークの領域は
主に賢人=声聞=知能=量や
聖人=縁覚=知恵でなくここ。
十界論の最大の欠点:
…十界論の前提の最大の欠点は、
配列の順序は隣接的順序であって
上下関係=包括接続ではないこと。
順序尺度=大自在天=蛇遣い座の
一例である十界論は、前提のほう、
小自在天において大蛇(伝教)型
=包括接続が、タイプ・システム
自体の指定規則である八大龍王=
円の角度等の属するタイプと違う
ため、元から真理でありえません。
→実際の層順序はループしてる
何周しても上位領域ではない
しかし、それでも十界論:
上下関係と仏教の自慢を無視して
精密分類ごとに分けなおせばまだ
使い物になるはず。西洋の研究も
いわゆる非二元辺り=二乗の上の
あたりで止まっていることだし。
もう十界論でも何でもないような
・・・まぁとにかく、欠陥を正し
残りの半分まで「持っていかれ」
ないよう欠陥を情報公開し衆知…
…を集める前に間違いを直し
対応用語辞書でも作らないと。
日蓮「聖人より上の何か」の
仕事も「いろは」までだし…
ここまでがメモ。なんだか余計な
所まで送ってしまったけれど、
不確かだとか自信がないとかで
情報公開をためらってる時間が
ないので、“ベータ版”でも
情報公開中なのです。
>>241-250 意味が良く理解出来ません・・・
もしかして陰陽道の人ですか?
中国の陰陽五行説ならば(木火土金水)では?
インド仏教的には(地水火風空)ですかね?
>今は個人特定のために失礼します
あなたもしかして陰陽道の著名人では?
>>231 安倍日顕は安倍清明の末裔だったりしてw
日蓮の法華経感は後に父母を思うが故の法華経に変化して行ったのではないでしょうか?
久遠実成の本佛釈迦牟尼世尊を本尊とするのがその為でしょう。
本門法華経第十六に重きを置くのもその為かと私は理解します。
人の一生は儚いものされど我心中に於いて何時何時までも我を見守り我を教化し続けている。
そんな思いを久遠の仏に見ていたのではないでしょうか?
「常に自ら念をなす何を以ってか衆生をして無上道に入り速やかに仏心を成就することを得せしめんと」
池田大作は朝鮮系のこんな人です。
池田大作が創価に入信したのは、彼自身曰く「雷が鳴って怖くて必死で学会の
本尊を拝んで祈ったら雷が止まったから。」さすが世紀のオカルト創価学会。
呪文で雷を阻止するらしい。ば〜か ば〜か ば〜か (´・д・`)
池田大作が創価に入って金回りが良くなって社会的地位が向上したと言う理由↓。
東京都大田区東糀谷あたりに住んでた時代の池田大作は、高利貸の悪辣営業マン
として辣腕をふるってたらしい。しかもその大蔵商事は、創価2代目会長戸田の
作った、創価学会の高利貸会社。
これから言える事は、創価は昔から悪質サラ金屋創価学会だと言う事だ。
何も、大作の代から悪質になった訳じゃない。
>>253 始覚の読み
「自ら是の念を作す毎に以何にしても衆生をして無上道に入ることを得て、
速やかに仏身を成就せしめん」
本覚の読み
「常に自らこの念を作す、以何なる衆生をしても、無上の道に入るを得て、
速やかに仏身を成就せん」
私も
「常に自ら念をなす何を以ってか衆生をして無上道に入り速やかに仏心を成就することを得せしめんと」
の読み方が一番しっくり来ますね〜
>>1 ひゃっきまるさん
乾婆多さん
もう見てないのですかね〜
とageてみるテスト・・・
個人的に、「日蓮の病死スレッド」が悪かったのかな、と
勝手に申し訳なく思ったりしている、今日このごろです。
・・・また、時と場所と相手を選んで炸裂するかもしれませんが・・・
あるいは「妙法蓮華経は中国語翻訳の単なる一バージョン」がまずかったのか。
関係ないね、多分。そんなことでへこたれる彼らでは、ないはず。
>>256-257 一応ときどき目を通しています。
僕としては、創価学会側の教義を支持する人間と議論したいと思っていますから、
それ以外の話題に積極的に関わるつもりはありません。
ただ、まったく書き込みがないとスレが消えてしまいますから、マハーバイロさんたちには感謝しています。
蛇足ですが、世界〜さんはご自分の質問が日蓮信者にとって「痛い、急所を突くものだ」という妄想は捨てたほうが
よいと思いますよ。
>>259 マハーバイロさん
ありがとうございます! html化されていたのですね。いつになるかと思っていたのですが。
しかしやはり「続」からで、「日蓮って」は読めないのですね。本当に惜しい。
昔はレス制限もスレ制限もなかったので、異常に長いスレッドになっていました。
本当に懐かしいです。でも時間が経ってから自分の書き込みをみるとなんて恥ずかしいんだと思う。
相変わらずひゃっきまるはガキだし、第7の外道さんは大人ですね〜。
ファイルが大きすぎて直接開けないので、1つだけ直リン貼らせて下さい。
http://makimo.to/2ch/mentai_koumei/960/960174403.html
皆さんあけおめ
いろいろあって、初アクセスです
で、道元さんの正法眼蔵を読んでたんですが
法華転法華という法華経をどう読むかというのがあるのですが
いやー突き抜けてますよ、一読することをお勧めしますということで、
今年もよろしく
>>232 で、そのあといろいろ考えたのですが
何故、産ではなくて生なのか
生まれるなら産で良いわけです
それに生の意味が産では四門出遊にも合わない
お釈迦様は最初の門で出産を目撃したわけではないのですから
これは産の意味ではなく、生が始まり、生き続ける
やっぱり、生きる、なのではないのかと
四苦八苦のすべてを包括しているとしたほうが良いのではないでしょうか?
四苦の最初が生で最後が死
生まれるではなくて
生まれ生きていくことは苦なのだと
言い訳ではなくて、釈然としないので
で、今の私が見る日蓮さんは
往生際が悪い
法華経への接し方も、仏道の導者としても
往生際が悪い
ですね
>>262 生苦
生苦とは生まれる苦しみです。厳密には母胎に宿った瞬間をいいます。
これはどういうことかといえば、先に述べたように仏教は輪廻そのものを苦と考えます。
輪廻したということは涅槃に入らず再び苦の世界に生まれたということを意味するわけです。
ですから生まれ変わって最低もう一回は生涯を送り、そこでまた無数の苦を受けるという事態になったわけです。
つまり「輪廻してしまった」という意味です。ですから生苦と言っても生きる苦しみではありません。
明解【仏教】入門 春秋社 p30より
城福雅伸 著
>>261 Sb さん。
本年も宜しくお願いします。
正法眼蔵・・・
もし人生が二度あったら読んでみたいです・・・
(それほど奥が深いと聞きますが)
正法眼蔵の易しい解説書などはあるものでしょうか?
もしお勧めあれば教えて下さい。
小蒙古御書
【弘安四年六月十六日、聖寿六十歳】
小蒙古の人、大日本国に寄せ来るの事。我が門弟並に檀那等の中に、
若しは他人に向ひ、将又自ら言語に及ぶべからず。
若し此の旨に違背せば、門弟を離すべき等の由、存知せる所なり。
此の旨を以て人々に示すべく候なり。
弘安四年〈太歳辛巳〉六月十六日 花押
人人御中。
#波木井坊が言ってた御書はこれだな。
この御書によれば蒙古襲来のことを言う人は日蓮門下では無いらしい。
板中に容疑者が溢れてるね。(笑
俺は日蓮の門下では無いから言っても(・∀・)イイカナ!!
小蒙古御書は偽書の疑い濃厚だよ。
「小蒙古」「大日本国」など他の御書で見られない言葉遣いがなされている。
しょうもうこごしょは昭和定本1871頁にありますよ。(笑
Sb《元素記号》【化】
[(ラテン) stibium][<L.=antimony](アンチモン)
『アンチモン』
小蒙古御書は学会の御書にもでてますが何か?
何にでてようが偽書の疑い濃厚。
>>155 正法眼蔵の神通の章なんか傑作ですよ
また、自己も関係あらずです
>>264 人の解釈なんかどうでもいいんですよ
そう書いてあるからそうであるなんて糞食らえなことです
四苦八苦を受け取った己がどうか、
解説も何もない、四苦八苦をあなたがどうするか
仏教にとって輪廻などどうでもいいこと
それ以上に四苦八苦なんですよ、そのための輪廻
どう生きるか、つまり仏の道
根本から外れた頓珍漢な解説なんていりません
>>265 ありゃ、難しくて、簡単で、なんていうか、
笑えるし、泣けるし、チンプンカンプンで、すごい書です
全部はまだ読んでません、全部読んでも、一生読みきる事なんぞ出来ない書でしょうね
解説なんかいらないと思います
あれは、読んだあなたがどうなるかですかですから
現代語訳のが出てますから、図書館で借りるのがいいと思います
何しろ、一冊4500もして6巻もありますから
とりあえず、法華転法華は読むべきだと思います
>>274 Sbさん。
岩波の買おうと思ってるのですが、図書館のと違うのですか?
問題ない?
ちくまのやつ読め
>>276 中身は同じですが、訳者の表現の違いはあるかと思います
私はすぐそばに図書館があるので、読まなくなった本は寄贈して
自分の本棚代わりにしているような奴ですから
命がけで立ち読みっていう接し方も有りかと(笑)
日蓮は結局釈迦に還れと言ってたのではないか?
富士系について。
そもそもの誤りは、日興さんが
日蓮滅後すぐに教義をマニュアル化
したこと。それも確信犯的誤解釈で。
日蓮が嫌いそうな、いわゆる俗物的
宗教にしてしまった。
>>273 なるほど。
自分の考えが正しいと執着すると、「仏の道 」という錦の御旗を掲げて、自分と異なる考えを「 根本から外れた頓珍漢な解説」と貶めるようになるのですね。
そして「人の解釈なんかどうでもいいんですよ」とか、「そう書いてあるからそうであるなんて糞食らえなことです」と、人の意見や忠告に耳を傾けなくなる。
スッタニパータの878以降に書かれてあることを実践されているのですね。
勉強になりました。
ありがとう。
人のふりみて我がふりなおせか…。
>>281さんへ
仏陀の教えは、1つのことに執着することが迷いの基だ、と言うことです。
ですからあらゆる立場について執着しないと言うことは、全ての立場ついて否定するという意味になります。自分の気に入らないから否定しているわけではありません。
>>278 Sbさん
遅くなりましたが、今年も宜しくお願いします。
たまたまスレが上がっていたので覗いたら、Sbさんの名前を
見つけたんで、とりあえずご挨拶まで(^。^)
>>282 >ですからあらゆる立場について執着しないと言うことは、
>全ての立場ついて否定するという意味になります。
へぇ〜、なるほど…。
勉強になります。
ちなみに、どの教典、またはどの書物に書いてありますか?
でも、あなたの見解に従うと「層化は間違っているという立場」も否定しなければなりませんね。
確か、あなたは「層化は間違っているという立場」の人だと思っていましたが…。
もう層化を攻撃することを止めたのですか?
>自分の気に入らないから否定しているわけではありません。
この文章の主語は誰ですか?
ビタミンB1が不足していたら、それを補えばいい。
そんな時は「ビタミンB1が大事」というでしょう。
「お金が全てだよ」「人生なんてたいしたことないよ」
「バカヤロウ」「死にたい」
言葉は真実でなくても、必要な時には役にたつ。
ほとんどの言葉は、そういうものだと思います。
>全ての立場について否定する
というのは、全ての立場について"過度に執着するのを"否定する
ということでしょう。
執着しないという言葉にも執着しない。
何故なら、必死で執着しなければならない時もあるからです。
層化は絶対に正しい訳でも、間違っているというわけでもない。
「私たちは絶対に正しい」というのも、言葉の方便として必要な時もある。
決して、なんでもありということではありません。
何ものにも必要以上に束縛されない適宜な判断・知恵が大切だということです。
いろいろ考えて、現在層化のここが間違っていると判断しても、
その判断が正しいかどうかは別にして、執着ではないでしょう。
>>284さんへ
ウ〜ム、なるほど学会の主張する、ご本尊に向かってお題目
を唱えることが悟りを開いて仏になるただ一つの道だとする
と、法華経が生まれる4〜500年前に生まれたお釈迦様も
菩提樹の下でご本尊に向かって「南無妙法蓮華教、南無妙法
蓮華教、・・・」と唱えて悟りを開いた、と言うことですね。
また学会のホームページに載っている
釈尊が法華経を説いていた。その時、突然、大
地から、巨大な塔が出現。空中に浮かび静止し
た。塔には7種類の宝石がちりばめられ、その
高さは地球の半径ぐらいだったという。
この話も信じなくてはいけないのでしょうか。
>>285 >>全ての立場について否定する
>というのは、全ての立場について"過度に執着するのを"否定する
>ということでしょう。
なるほど、それならよくわかります。
しかし「全ての立場について否定する」ということと「全ての立場について"過度に執着するのを"否定する」ということは、まったく違うことですよ。
>>286 >>284の「?」がついてる文への回答をいただけると嬉しいんですが…。
悟りを開くための1つの手段として、日蓮の言う法華
経の教えを信じ題目をあげること自体を否定するつもり
はない。
ただそれが唯一正しい道であるとか、絶対的に正しい教
えであると言われると、それに対しては反対する。
>自分の気に入らないから否定しているわけではありません。
この文章の主語は誰ですか?
あ・な・た ですよ。
>>290 いえ、僕はその文で主語になるわけないですよ。
実際に、層化が気に入らないから否定しているし…。
それから「あらゆる立場について執着しないと言うことは、全ての立場ついて否定するという意味になります。」というのは、どの経典、あるいはどの書物に載っていますか?
そこをよく読んでみたいんですが…。
通りすがりで失礼します。
sbさんがこだわっていた四苦八苦の「生」の件はどこに行ったのでしょうか?
生きるという事なのでしょうか?
生冥崩煉下狂
>>290 お邪魔しますさん。 お久しぶりです。
仏陀は本当に「あらゆる立場について執着しない」と説いたのでしょうか?
私は大乗思想の世親や龍樹の「空」観や中観派から始まった思想哲学なのではないかと考えているのですが。
仏陀は確かに一方的な苦行や快楽主義に偏るべきでないと説いたのでなないかと思うが、
それを「全ての立場ついて否定」とまで解釈するのは実際は拡大かも知れない。
まぁ私は大乗の拡大解釈に大賛成なのですがね(笑
法華経、八正道ものってないし
変成男子は、はなから“女性の成仏”への拒絶だし
どこらへんが、現代においての平等なのでしょう?
鎌倉時代なら有効かもしれないが、現代には有効か?
法華経ならば「らい病=ハンセン氏病」の話もはずせないね。あのデマは非道かった。
ハンセン氏病が「業病」と呼ばれた時期があった。非道いことだね。
>>296 世界さん
日蓮遺文には「黒ライ病」「白ライ病」と2種出てくるようです。
このことからも、そのまま「らい病=ハンセン氏病」と位置付けて良いかはどうでしょうか?
当時の奇病全般を指したのかも知れません・・・
「聖書」にしても「法華経」にしても、差別したのは書物やその説いた教えではなく、
当時の社会全体の風潮だったのではないでしょうか・・・
法華経も聖書もむしろそれを救うのが目的では?
表現や呼称をもって差別主義とするのは本質ではないのではないかと思います・・・
>>297 変成男子の思想は明らかに差別思想だろ?
書物それ自体に書いてあるのですが?
法華経の説く平等とは誰でも未来において仏になれるという一点において平等なのであって
財布の中身や健康、容姿等々、が平等に与えられるなどということでは無いのですよ。
男ばかりの浄土も経典に確かに説かれているようですが、それは悟りを得るためのベストな
環境設定を模索した結果描かれた状況なのではないでしょうか。
断っておきますが、この浄土は法華経の中で説かれている極楽浄土ですけどね。(笑
月やんさんは何宗の方ですか?
300げっと お(・∀・)め(・∀・)で(・∀・)と(・∀・)う!
お家はお西ですよ、お坊さんでもない普通のひとです。
にちれんしょうにんもまた、多くの人々と同じ間違った“視点”から
平等を考え、そして、最後にはその間違いに気付いたのでしょうね。
層化は間違ったところを強調して多くの不幸を撒き散らしているようですが。
天台宗の依経も法華経なんだけどね。
よくわからん書き込みだ。
>天台宗の依経も法華経なんだけどね。
何が言いたいのだろう。意味不明。(´・ω・`)y−゜゜
月やんさん
お西って何だか分かりません・・・
層化じゃないことは分かりました。
>日蓮遺文には「黒ライ病」「白ライ病」と2種出てくるようです。
>このことからも、そのまま「らい病=ハンセン氏病」と位置付けて良いかはどうでしょうか?
>当時の奇病全般を指したのかも知れません・・・
簡単に都合よくそうはなりませんよ。
実際に、ハンセン氏病の患者が「業病」と呼ばれて、実害を受けたのです。
一度、「全生園(ぜんしょうえん)」に行ってみてください。良いところですよ。
勉強になります。
>304 「お西」とか「お東」なんて聞いたこと無いの。
>>300タン
気分がいいので余計なことを<差別タン>へ書いておこう。
男性・女性といいますが、浄土での性別は“佛性”とでも呼べばよいのでしょうなぁ。(笑
言葉を都合よく改竄や解釈するのはやめましょう
>307タン
それは層化にいいませう。今までも、これからも。。。(*゚ー゚)b
層化の<十界>はそりゃもう酷いですなぁ。
大聖人に女性差別はありませんよ。
枚挙にいとまがないが、一部紹介。
「法華の行者は男女共に如来なり煩悩即菩提生死即涅槃なり」
「法華経の行者は男女悉く世尊に非ず」
「末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり」
「末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、
皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」
「此の経を持つ女人は一切の女人にすぎたるのみならず一切の男子に
こえたりとみえて候」
ちなみに他経は以下のように女人の成仏すら許していない。
華厳経に云く女人は地獄の使なり能く仏の種子を断つ外面は菩薩に以て内心は夜叉の如しと文。
又云く一び女人を見れば能く眼の功徳を失う縦い大蛇を見ると雖も女人を見る可からずと文。
銀色女経に云く三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無らんと文。
華厳経に云く女人を見れば眼大地に堕落す何に況や犯すこと一度せば三悪道に堕つ文。
十二仏名経に云く仮使法界に遍する大悲の諸菩薩も彼の女人の極業の障を降伏すること能わず文。
大論に云く女人を見ること一度なるすら永く輪廻の業を結ぶ、何に況や犯すこと一度せば定んで無間獄に堕す
往生礼讃に云く女人と及び根欠と二乗種とは生せず文。
大論に云く女人は悪の根本なり一たび犯せば五百生彼の所生の処六趣の中に輪廻すと文。
華厳経に云く女人は大魔王能く一切の人を食す現在には纒縛と作り後生は怨敵と為る文。
往生礼讃に云く女人と及び根欠と二乗種とは生ぜずと文。
第三十五の願に云く[聞名転女人往生せざる事]設し我仏を得んに十方の無量不可思議の諸仏の世界に其れ女
>大聖人に女性差別はありませんよ。
そうですな、月の名を冠した御書もあるね。
にちれんしょうにんのいいところです。(-∧-)
日蓮は男女差別がないんだよね
当時としたらすごいことだったんだろうなー
(-人-)
でも変成男子の解釈はどうやって乗り越えたんでしょ。。。
>>309 法華経も“女性の成仏”は認めてませんよ
認めてますよ。
たとえば、勧持品をごらんなさい。
摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見如来となり、
耶輸陀羅女も具足千万光相如来となっています。
それに法華経をよく読めば分かるけれど、
竜女が変成男子を現じた時点より以前にすでに海中にして
文珠師利菩薩が説いた法華経によって成仏していますね。
法華経には「能至菩提」と示されています。
大聖人も
「竜女と申せし蛇体の女人は法華経を文珠師利菩薩説き給ひしかば仏になりぬ」
と言われています。
変成男子は頭の固い弟子たちを納得させるために、
わざわざ釈迦の前に現れて示したパフォーマンス
なのです。
御書には、
「八歳の竜女は大海より来つて経力を刹那に示し」
とあるとおりです。
竜女の成仏は単に女性の成仏ではなくて、即身成仏の姿を示したのが重要なのです。
御書には以下のように示されています。
「法華経の即身成仏の法門は竜女を証拠とすべし」
「竜女が即身成仏あきらかなり、提婆はこころの成仏をあらはし
竜女は身の成仏をあらはす、一代に分絶たる法門なり」
「竜女が成仏生死即涅槃を顕すなり」
日蓮仏法の一生成仏の法門の拠り所の一つですね。
痛快ではないですか。
男でなければ成仏できないと思っているところへ、
「男にだって自在になれる。これでも文句あるか」と
そういうわけですね、
>>314 サンスクリット版では、もうちょっと詳しく、
「股間からペニスが生えて男になる」という記述になります。
あまりに直裁的で、なじめませんね。
>男でなければ成仏できないと思っているところへ
仏教そのものが、最初はカルトだったのでは?と思います。
キリスト教も、初期は特にそうです。
「親兄弟を捨てて、ついてこい」ですからね。
>>315 世界人口を100%とすると、学会員人口は0%です。さん
胸が凹んだという記述がないということは想像するにかなりグロテスクですね。ちょっと私の想像力を
超えています。
>>317 選定中さんへ。
>胸が凹んだという記述がないということは想像するにかなりグロテスクですね。
>ちょっと私の想像力を超えています。
何をおっしゃいますか(笑)。想像しているではないですか(笑)。
参りましたね。それは考えませんでした。
・・そもそも「男性でないと成仏できない」という最初のコンセプトが最低であって、
「それを否定したから、素晴らしい」と言われても困りますよね?
「悪い教えが、マトモになった」、という程度の教えだと感じます。
テキストに変な言い訳を入れるのはやめましょう
変成男子はあきらかに女性成仏を認めてませんよ
>変成男子はあきらかに女性成仏を認めてませんよ
そうですよね。女性成仏を認めないもともとの思想が根底からおかしいのです。
女性成仏を認めないということがマイナス100だとすると、
女性成仏を認めるということが「0」ですね。
男であるか女であるかということが成仏にとって、
「良くも悪くもなくなった」、ということです。ただそれだけのこと。
変成男子の前述に
「爾の時に龍女一つの宝樹あり、価直三千大千世界なり」ともあり・・・
舎利弗の「五障」を否定しているので・・
女性が男性になってから成仏するのではなく、
そもそも宝樹を持っている・・・
法華経の記述を読めば時間軸がこうなっているのがわかるでしょう。
文殊「私は海中にて法華経のみを説いたのだ。」
智積「この経はすごいからな。で誰か成仏したのか。」
文殊「竜女という娘がいて聞いて忽ちに成仏したのだ。」
智積「んなばかな。女がそんな簡単に成仏したなんて誰が信じるか。」
(竜女登場)
竜女「私は確かに成仏しました。すごい教えです。仏はご存じのはず」
舎利弗「うーん、確かにあなたの姿を見ると短期間に成仏したようにみえる。
女はけがれている上、成仏するには長い期間が必要なはずなのに、、。」
それから変成男子のパフォーマンスですね。
そして、日蓮仏法ではこの時間軸の中で女人成仏をとらえています。
また、大聖人が男女平等の信念を持っておられたことも確実です。
法華経は非常に自己言及の多い(ようにみえる)経典ですが、
この文殊のエピソードからもわかるように、文殊が説いた法華経とは、
妙法蓮華経という経典自体ではないことが薄々と読み取れると思います。
でなければ、話が無限ループになってしまいますからね。
これを専門用語でいえば、文底秘沈といっているわけです。
釈迦在世の時代は、この経典に書いてあるエピソードで成仏できたのですが、
末法という時代は、例えば世界さんのように法華経経典の記述は時代遅れだといい
素直に受け止められない人がたくさんでてくる時代なのです。
法華経が暗示している全ての人々に仏の生命が平等に具わっているという
根本思想を尊崇するということなのです。
大聖人の教えが文上ではなく文底、教相(表面上の記述)ではなく観心とされる
理由がそこにあります。
「観心の大教起れば(法華経の)本迹、爾前共に亡ず」
「此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり」
「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」
>>232 大変参考になります。
>妙法蓮華経という経典自体ではないことが薄々と読み取れると思います。
成る程・・・教典ではない思惟がもうひとつそこにあると言うわけですね。
「〜文の底に(ひしづめたり)〜竜樹・天親〜ひろいいださず〜天台知者のみこれをいだけり」
興門流の寛師日蓮本仏論の方と想像致しますが・・・
因みに私は学会員ですので日蓮本仏を信仰しているわけですが・・・
「凡夫本仏」と「久遠本仏」は相反しないと思うのですが、
松戸氏のような意見もあります・・・
学会は正宗と離れた今後、日蓮本仏から離れた教義へ向かうと思いますか?
突然の質問ですみませんが、ご意見をお願いします。
女性自身は“男性”なったのであって、“成仏”したわけではありません
神話的に解釈したら、竜女は来世で男性になったと考えるのではないでしょうか?
即身成仏ではないですね
なにが言いたいかといいますと、
法華経はそういった“女性軽視”なのに学会女性は“絶対的”なものという見方をします
マゾなのでしょうか?
妙法蓮華経は どこか他にある 真理の紹介パンフレット に過ぎないのか
>>323 本覚思想のかたですか。。。
最悪ですね
>>325 確かに多様な解釈も可能だと思いますが・・・
来世で男性になったと考える根拠はどの辺から読み取れるのでしょうか?
>>292 四苦八苦の「生」は「生まれる」ですよ。
しかし、「sbさんがこだわっていた」というのは、非常に厳しいお言葉ですね。
>>329さん
逆に質問です
遺伝子「XX」が法華経の力で「XY」になれるのですか。。。?
法華経の書いてあることを正しいと考えた場合、そういう見方しか僕にはできませんでした
竜女を“けもの”と定義した場合は、本覚思想になってしまうと思うので、また別の問題ですが。。。
カルトだから回答不能
>>332 カルトだからこそ、がんばって答えを探しているはずw
マハーバイロが答えられないようだから答えるよ
来世で男性になったと解釈するのではなく、
「女性の機能がなくなった」と考えてみてはどうだ?
石女とか生理がこなくなったとか…
ただ幼女でそれもすさまじいかw
もちろんより差別が介入しているが、「XX」が「XY」に法華経パワーでなれると解釈するよりははるかに合理的で成仏への間隔は短いはずだw
ちなみに俺的には、こんな思想を信望しているやつは、差別主義者だとしか思えないけどな
ここらあたりで大乗非佛説の登場かなw
喪家に期待age
>>324 松戸行雄の思想を黙殺した集団が語るな
その思想に受け止めたのは日蓮宗僧侶だろ?
その思想に(×)
その思想を(○)
2月9日の埼玉スタジアム2002は、サッカーの戦いの場です。
W杯進出に向けて、絶対に負けられない重要な一戦ですが、
スタジアムを包む緊迫感はサッカーをめぐるものだけであって欲しいと願っています。
その90分間だけは、両国間の難しい問題を抜きにして、サッカーを愛する選手、
サポーターにとって充実し、幸せな時間、空間であって欲しい。
だって、サッカーに国境はないのですから。
両国代表が全力を出し切る好ゲームとなりますように…
とは言っても、やっぱり…頑張れ! ニッポン!!
>>327さん
>妙法蓮華経は どこか他にある 真理の紹介パンフレット に過ぎないのか
私は、創作形翻訳パンフレットであると思います・・・
>>331さん
>遺伝子「XX」が法華経の力で「XY」になれるのですか。。。?
ありえないと思います・・・
「比喩」「己心」「幻」色々な表現が出来るかとは思いますが、現実には起こり得ないと思います。
カースト制のバラモン階級による古期ウパニシャッド思想に於いての
輪廻では、苦行により女性は男性に輪廻しバラモンに生まれ繰り返し、解脱すると言う方法を考えていたと思います。
このような思想に対して「変成男子」は画期的な即身成仏を表していると読むのは不自然ではないと思えます・・・
変成男子が女性軽視的なのではなく、前述の「五障」が差別的だと思えるのですが・・・
変成男子はむしろ女性軽視を取り払おうとしているように読めるのではないでしょうか?
経典には差別相と無差別相が描かれているからね。
差別相とは世間の視点、無差別相とは彼岸の視点。
そして、板中で問題視されている原因と推測されるのは・・・
本来差別することをしないはずの、法華経を読んでいる人達の差別なんだよなぁ
層化じゃなくてもいいんだよ。解りますか。(-ωー)っ旦~
>>339さん
それこそ勝手な解釈だと思うのですが。。。
“女性が男性に成る”と記述があることに対しての言い訳も中途半端じゃありませんか?
テキストそれ自体をしっかり読んでみてください
解釈に妄想が入ってます
例えば“既に成仏していた”と書いていましたが、その過程で竜女が男性になっているかどうか、わからないです
またあなたは五障を差別と言ってますが、当時の風潮を照らしてから発言したほうがよろしくありませんか?
法華経それじたいは、もう現代には限界です
>>336 寸鉄さん
牧口氏が正宗に入信してしまった学会にとって「本仏論」は、
私には、今後も学会が葛藤し続ける問題だと思えるのです・・・
本尊論、会長本仏論も含めてね・・・
このようなことを発言すると叩かれるかも知れませんが、
このスレでの話題になる「唯一絶対正しい」の原因は「正宗教義」にあるやも知れません・・・
>>339さん
ちなみに“変成男子”はどんな比喩の喩えなんですか?
>>343 そこまでわかってて何故、喪家ごときに執着するのですか?
>>342さん
仰る通りですよ・・・
当時の風潮から見れば「あたりまえ」で現代から見れば「差別」・・・
勝手な解釈と言えば、大乗自体が勝手な解釈でしょう・・・
良く言えば「創作」・・・
妙蓮華経をテキストとするならば羅汁の勝手な翻訳の賜物・・・
まぁ議論の28品は妙蓮華経には無かったようですが・・・
訂正
妙蓮華経→妙法蓮華経
すみません
ちょっと落ちます。
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
/": : : : : : : : \
/-─-,,,_: : : : : : : : :\
/ '''-,,,: : : : : : : :i
/、 /: : : : : : : : i ________
r-、 ,,,,,,,,,,、 /: : : : : : : : : :i /
L_, , 、 \: : : : : : : : :i /
/●) (●> |: :__,=-、: / < 北朝鮮の負けかなと思ってる
l イ '- |:/ tbノノ \
l ,`-=-'\ `l ι';/ \ (男性 24)
ヽトェ-ェェ-:) -r'  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヾ=-' / /
____ヽ::::... / ::::|
/ ̄ ::::::::::::::l `──'''' :::|
すみません
他スレで28品の話題が挙がってたもので混乱してしまいました・・・
>28品は妙法蓮華経には無かったようですが・・・
12品と28品に訂正です。お詫びします・・・
>>324 マハーバイロさん
>興門流の寛師日蓮本仏論の方と想像致しますが・・・
というか私も学会員です。
私も凡夫本仏と久遠本仏とは本来は相反しないと思います。
しかしたしかに久遠本仏が宗門の権威付けに利用されてきた面はありますね。
勤行の観念文が、宗門時代の本仏十号を長々と観念する形から、
「末法の御本仏」というシンプルな形に改正された時には、よい傾向だと思いました。
学会は宗門から離れても、日蓮本仏から離れた教義へ向かうとは思われません。
むしろ日蓮本仏を表としつつも、大聖人の生き様を重視した教学になるのではないでしょうか。
その意味では凡夫本仏の面を強く出してくるのではないかと考えています。
2002年刊行の、創価学会版「妙法蓮華経」は、一部差し替えになっていますね。
28品が円珍版になっているわけです。省略版ですね。
どうして、「部分的に」入れ替えたのか?・・と不思議ですね。
>変成男子が女性軽視的なのではなく、前述の「五障」が差別的だと思えるのですが・・・
>変成男子はむしろ女性軽視を取り払おうとしているように読めるのではないでしょうか?
つまり、マッチポンプのようなものですね。
マイナスという五障を与えて、それを打ち消す。
プラマイゼロです。それはけして「ありがたい教え」ではありませんね。
ことに現代においては。
>>351 それはたぶん世界さんの予想される通りでしょう。
宗門から別れて学会独自の教学を新たに整備するにあたって、
ハンセン氏病の記述を除く目的が一つあったと思います。
法華経が本来何を説かんとしたのかという観心の立場から、
不要な部分は捨てるということでしょう。
詳しくは学会版を手に入れてから調べてみますよ。
もしかしたら既にどこかに答えはでてるかもしれないですが、教えてください
『日蓮本仏』というのは「日蓮を絶対視」してるという意味ですよね?
でも日蓮は自分を「仏」とはいってないし、「法華経」を自分よりも高い位置においていると思うので、究極的には『法華経』および『釈迦』を「本仏」にしなくてはいけなくありませんか?
つまり『日蓮本仏』というのは思想的アプローチとしては成熟していないのですか…?
教えて君ですみません
学会員は日蓮が絶対だから、法華経の述べいることと矛盾があった“場合”、日蓮が正しいと言ってました
山梨県の新聞配りのおばさまが…
>法華経の述べいることと矛盾があった“場合”、日蓮が正しいと言ってました
今、進んでいる「御書の口語訳」も、「部分的削除」されることを予想しています。
「都合の悪いことは、なかったかのように振舞う」という方針だと妄想しております。
もしも、御書の一部削除がなされるならば、
その【削除部分一覧】が作成されて、UPされるだけです。
法華経も、御書も。
もしこれが進んでいけば、
御書も、法華経も、題目も、すべてお荷物だということになる。
「池田教」の新生です。世襲を前提として。
・・・妄想ですか?
>>357 >「池田教」の新生です。世襲を前提として。
後継者がいるのですか?
へ?
『日蓮本仏』というのは、学会の公式見解として述べているだけということですか?
実は何も考えていないとか…
原始佛教の初期の段階では「女人成仏の可否」という論点そのものが存在しなかったようで
す。
「心がよく安定し、智慧が現に生じているとき、正しく真理を観察する者にとって、女人である
ことが、どうして妨げとなるでしょうか。『われは男であろうか?』また『われは何ものでなのだ
ろうか』と、このように迷っている人こそ、悪魔が呼びかけるのにふさわしいのです。」
『サンユッタ・ニカーヤ』T・D・2
>「女人であることが、どうして妨げとなるでしょうか。」
・・・という反語的な問いが発せられるということは、
「論点」としてはあったのでしょう。社会的差別がある状況を前提として。
どうでしょうか?
>>342さん。
「正しい教えの白蓮」の「塔の出現」を再読しました。
確かに仰る通りに、
海中での成仏を否定して女性から男性に変成し菩薩になるだけで成仏などしてないと
読むこと出来ますね・・・
しかしそれならば何故竜女は、文殊師利にでなく知積菩薩と舎利弗に向けて言ったのでしょうね?
ちょっと電波発言・・・(笑
竜女の姉と、女人の国である島国日本・・・
このドラゴンボールはどこに行ったのだろう?(笑
>女人の国である島国日本
それって、「親の国 韓国、子の国 日本」という
統一協会の思想を連想してしまいますね。わたくしは。
「男人の国」ってまさか韓国ではありませんよね(笑)?
あぁ世界さん。どうもです。
韓国のことを「男人の国」って呼ぶのですか?
女人の国とは天照・・・の国の意味です。
>>364 ああ、それは良かった(笑)。
教義的に、「国ごと使命」を負わされては、まるっきりカルトです(苦笑)。
統一協会員は、「親の国 韓国」と考えさせられて、韓国語の学習テープを持ち歩くのです。
表記も『日韓』ではなく『韓日』ですからね(笑)。日本国内でも。
>>362さん
それはテキストには書いてないので、なんとも言えません
ただ法華経の授記は未来において成仏を約束するという意味だと思います
だから法華経も女人成仏を認めてはいませんが、法華経を信望すれば、いつか成仏できるという位にしか読みとれないです
即身成仏ではありませんが…
女性にとったら「成仏を願っている」のでしょうが、「男性」にしかなれない
こんな哀しい教えは捨てたほうがよいと思います
まぁ大乗非佛説のアプローチから、釈迦は何を伝えたのかのほうが、私には興味があるので、縁起(諸法実相)を説いている法華経自体には釈迦の意志が少しは残っているのではないでしょうか
>>354 まず法華経からいきましょうか。
悪世末法の弘教を説法の場にいた菩薩たちが誓うのを釈尊が制して、
地涌の菩薩を呼び出します。
大地から地涌の菩薩の姿は以下のように示されています。
三十二相は仏の特徴であり、地涌の菩薩が仏であることを示しています。
「是の諸の菩薩 身皆金色にして 三十二相 無量の光明あり」
釈尊は地涌の菩薩が娑婆世界有縁の菩薩であることを示します。
「此等は是れ我が子なり 是の世界に依止せり」
最終的に神力品で、釈尊のすべてを上行菩薩に譲り与え、
末法の弘教を地涌の菩薩たちに託す儀式が完了します。
「要を以って之を言わば 如来の一切の所有の法 如来の一切の自在の神力
如来の一切の秘要の蔵 如来の一切の甚深の事 皆此の経に於いて宣示顕説す」
我ではなく斯の人、すなわち上行菩薩が末法の衆生を成仏させるのだと
示しています。
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて
能く衆生の闇を滅し 無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん」
末法、すなわち釈尊の教えが効力をなくすといわれる時代にあって、
その末法の衆生救済の要法の弘教を一身に託された上行菩薩こそ、
末法の御本仏として仰ぐべき人なのです。
それが池田だったら笑えるわけで。
>>367 なるほど!
ということは日蓮じたいが「我、仏成り」と云ったと解釈できますね
大川隆法あたりといっしょですか…
韓日友好だよ、キミぃ。
>>366さん
しかし勧持品ではガウタミー尼とヤショーダラ尼には名号まで与えて記別を授けてる・・・
国劫は無かったかな・・・・?
韓国をテロ国家と認定いたします。
>>371 法華経の絶対性を証明したいようですが、大乗非佛説を出してきた椰子へ、他の章である観持品で対抗している意味はないんじゃないんですか?
>>371さん
だいたいは
>>372さんと言いたいことはいっしょです
それより“変成男子”の思想はどういった比喩なのか教えてください
m(_ _)m
合理的なやつで
>>374さん
ご存知でしょうが、元々空を飛んだり竜女が突然現れたりと
合理的というのは無理な注文です(笑
しかし女人成仏、変成男子は重要な法門だと思います・・・
多々の意味を見出すことが出来ます。
挙一例諸です
まず女人、畜生に成仏の因がある事、即身成仏(悪人成仏に対して)身の成仏と捉えます・・・
(374さんは即身成仏には反対のようですが、無垢証如来との号もあると考えますので)
そして父子同時の成仏。
(またこれは御義口伝からで申し訳ないが
帝王持経の先祖と言って竜女の姉の子の子が神武天皇と・・・)
続き
実質的な比喩としては「蛇の化身」と言ったところでしょうか・・・
とりあえず、語ることはないです
m(_ _)m
テキストをねじ曲げて解釈したり、本覚思想が介入している時点で“対話w”不可能です
日蓮の思想には本覚思想はないと思いますよ
だから、山から下りたんだろうし
マハーバイロさんのは他の文章で権威付けしているだけなんですよ
テキストそれ自体を読んだほうがよいですよ
>>377さん
そうですか・・・
私は大乗にも価値があると思っていますので、
377さんが釈迦の金口に価値があると考えて居られる様ですからすれ違うかも知れませんね。
もともと金口に拘るなら堤婆達多品は法華経の中でも更に後付けでしょうし・・・
価値云々はどうでもいいです
仮にも仏教(仏法w)といっているのですから、経典それ自体はもう後世の創作が入ってしまっているので、その経典に流れる釈迦の思惟を、また現代でも通用するものを汲み取れればと考えているだけです
そうなると法華経絶対視が無理なのはマハーバイロさんもわかっているのじゃないですか?
>>378 ご指摘有難う・・・
確かにどうしても最初に本覚思想から入ってしまいましたからね(笑
なかなか純粋にテキストを読むのは難しいものです・・・
>>380さん
解りました・・・
380さんは法華経の中には少なくとも釈迦の思惟が流れていると考えているのですね?
縁起だけですけどね
落ちます・・・
また明日夜に・・・遅くなるかも知れませんが・・・
縁起について話したいですね・・・
>>384さん
縁起について話すのもよいですが、法華経を信望している集団に所属すること
つまり差別主義者としての立場はどうするのですか?
まぁ男性だったら関係ないですかw
上座部的ですが。。。
>>281 その指摘はすでにされているのですよ
でも、あえて、自分の見えたものを提示しただけです
あなたのしたことは、それに対して、他人の言葉を提示しただけ
私が欲しいのはあなたの言葉
私の根本は私の物なのだから、人から見れば頓珍漢なのは当たり前
あなたの根本はあなたの物、日蓮さんも、法華経も根本にはならない
人など関係のないあなただけが根本でしょう
>>292 答えなんかないんですよ
それを悟るのが仏道
そんで、あなたにその問いを持ってもらうのが目的
あなたの四苦八苦に問い合わせてみてください
>>361 >「論点」としてはあったのでしょう。社会的差別がある状況を前提として。
>どうでしょうか?
この偈の前段の「悪魔」の言葉の背景には佛教ではなく、インド社会の伝統的通念であった女性蔑視の前提が
示されているにとどまり、いわゆる「成佛」は問題にされていません。そもそも「二乗」などの論点も初期の段階
では存在しなかったのです。
社会通念なんて時代が変化すりゃいくらでも変わるものだろう。
1000年前の常識が500年後には180度回転して非常識、
そしてまた500年経ったら、また180度回転して常識となる。
大乗っつったら本覚思想につきるべや??
本覚思想を否定すれば、なにか「インテリな上座部」な気にでもなれるのか?(笑
>>393 本覚思想は仏教そのものの否定です
少し考えたらいかがですか?
インテリとか関係ないし
>>394 どうせ「例の学者」の受け売りのくせに(笑
>>394 当然アンタにとっては大乗経典も「仏教そのものの否定」っつーことなんだよな?
某板よりコピペ
4 名前: 天の声 投稿日: 2002/12/30(月) 03:07
如来蔵思想とか何とかを否定して、奇をてらう似非仏教学者がいるが、これは、彼が、にせチペット仏教を宣揚したいための発言である。真性のチベット教はそんなことをいわない。たいぞう思想を強迫的に意識しすぎのやからの主張である。
如来蔵という名前を使って、それがあたかも仏教語の主たる用語であるかのごとくいうところに、かれらの意図がはっきり見える。
如来蔵は死語であり、如来蔵、如来蔵などということじたいが、その男の主張がこんなものであるということを示している。
仏性となぜいえないのか。あげくのはては如来蔵を流行語にして、仏性を卑語にしたこの男の責任は重い。
5 名前: 天の声 投稿日: 2002/12/30(月) 03:10
もう一つ。このえせ仏教学者のおかげで、日本国中、かよわい仏教徒が、この如来蔵にふりまわされているのは、まことにあわれというほかはない。
87 名前: 天の声 投稿日: 2002/12/30(月) 03:18
本覚、如来蔵、例の男の悪影響で、それを否定することが、チンキだと思っているものが、Web上を支配して、あたかも
仏教正統派のふりをしているが、大乗から本覚をとったら、何が残るのか。
いますぐに、裸になって、はだしで広野に出、こじきするがいい。
そうすれば、堂々とほんかくもにょらいなん,とかも否定していいだろう。
なんとも、あの男はおかしなお琴だ。
はぁ?
本覚思想っていうのは究極的にはそのままで悟っているという意味
仏教いらないじゃん
だから否定と使ったんだが?
なんで駒沢のやつらがでてくるんだ?
その前に日蓮に本覚思想があったなんてはじめて知りました
ソース希望
>>398 ろくに本覚も知らないくせに偉そーにレスすんじゃないよ。
なんで本から覚ってたら佛教いらねーんだよ??
>>397 のコピーって、ただの悪口だけですね
合掌
>>398 日蓮が法華経を依経としてる限り、本覚に依ってるのは当然じゃん
すいません
本から覚ったってなんでしょうか?
仏教は成仏が目標
その目標が既に達成しているのになにが必要なんだ?
その前に、大乗を採る立場なのかどうかハッキリさせてくんない?
というかただの開き直りに釣られているだけですな…
私…
そんなこたーないよ
大乗は佛教なの?違うの?
Y or N で答えられるでしょ??
なんで2択?
そもそも思想をなんで枠にいれる必要がある?
つまんねーなー
聞きかじりのレベルのモンが、自分の思索を開陳することも出来ねーのかよ。
このスレに来るくらいなら法華経くらいは読んだことがあるんだろ??? あぁ?
ここは良スレなんだから下品な煽りで荒らさないでくれたまえよ皆の衆
>>467 「本覚は佛教の否定」と枠を最初に掛けたのは其方ですが・・
>>407 オナニー大変ですねw
仏教かどうかなんて言ったら、仏教じゃないじゃん
仏の教えだけじゃないんだからさw
だから創価は仏法w
結局自分の思索など無く活字の受け売りでしかないからナニも回答できねーんだよ。
再度問う
本から覚ってたらなんで佛教の否定なんだ??
それと
大乗は佛教か否か?
Y or N
>>405 大乗も仏教でしょ。
釈尊の教えかどうかは、私には答えられるだけの知識は有りませんが。
ならば大乗が佛教なら、本覚も佛教ですね
>>402で答えたが?
日本人ですかぁ?
読めますか?
生活レベルで役に立つとか宣いたいのですか?
あと
大乗“仏教”っていうんだから“仏教”に決まってるだろ?
当たり前のことを聞いてくるな
ちなみに小乗“仏教”も“仏教”
日本“仏教”も“仏教”
満足か?
法華経で学べるのは授記と諸法実相ぐらいじゃん
本覚思想についてはどうなったんだw
>>418 本から覚っていても、それを認識するかどうかという問題があるんだよ。
低脳はすっこんでろ
>>420 長者グウジの比喩、襟裏珠のの比喩をどう捉えるよ?
はぁ?
本覚思想はそんなこと関係ないぞ?
だから究極的という表現を使ったのですが?
大丈夫ですか?
>>420 だいたいアンタは「本覚思想」っつたら天台末期の“それ”を思い出すクチかい?
そもそもそれが間違いの元なんだよ。
>>423 だからオマエは習い損ないないなんだよ(笑
>>423 究極的とかいって「中古天台本覚」でもひっぱり出して来るつもりなの?
>>423 どこの馬の骨とも知らない男が、実は「長者の息子」だった、ある意味「本覚」じゃん
「本覚」といえば、何か腫れ物に触るような態度をとり
とたんにインテリぶって些末な議論をこねくり回す・・・
>>397のいうとおり大乗から本覚をとったら何が残る??
いや…、悟りを得たという者が居るならワタシも考えを改めよう。
しかし今の世の中そんな修行を行じる徒にお目にかかったことはないし、
ましてや「悟りを得た」と公言するモノを知らない。
願わくばゴータマのように悟りを得た者あらば
速やかに名乗り出てもらいたい。(ソンナヤツガイルナラネw
>>429 じゃあ悟ったものの使命として
転法輪のごとくあまねく世界に弘教行脚しているんでしょうね(笑
悟ったかどうかを見極めるのはこの一点です。
なんで日本仏教を容認しなきゃいけないのか、私にはわかりませんや
昨日はマハーバイロさん来なかったんですね
>>385の質問に答えてもらいたかったなー
さて、本覚思想っすか
松本史朗あたりしか僕は読んでないので逆に知りたいのですが、「無我」と「本覚思想」をリンクさせることのできるカウンターパンチってあるんですか?
>>413さんや
>>414さん
あたりに、聞きたいっすw
ただ日本仏教から本覚思想をとったら何も残らないから、黙って信じとけ!
としか読めないんで。。。
それとも『般若経』の黙殺が目標?
大乗仏教が甘やかし仏教になってんだよ。層化の場合。人生経験と人並みの教養どころか
最低限の社会のルールやマナーも身につけていない者に折伏をさせるなんて
義務教育が終了していない小学生を教職に就かせるようなものだ。
>>431さん
昨日は来れなくて申し訳無かったです・・・
>>385についてですが、法華経信仰者が差別主義であるとは思っていません。
私自身、差別については詳しい立場ではありませんが、
差別思想を助長する表現を用いる事と、奥底にある差別については別に考えるべきと思います。
例えば、「レディーファースト」と言う言葉は差別用語ではありませんが、その根底には女性軽視の思想が伺えるとしる方もいます。
又、「らい病」と言う表現を、社会が患者を差別して来た歴史を風化させない為に使って行くべきとの主張の方もいます。
差別についてはよく分からないのでレスを控えたいです・・・
無我と本覚はリンクすると思っています・・・
縁起説についてですが、シャーキャムニの直説と思われる縁起説(十二因縁)を基に、
方便品の十如是を後世に追加したのでは?と考えています。(ソースはどこか無くした)
つまり、法華経の中でも更に後付け・・・で別物の思想になってしまっていると思います。
長くなってしまうので、
簡単に書くと「十二因縁」は数珠の紐は「縁」で
十如是の紐は「法」の違い・・・
仏の三十二相と言うモノがあって、仏様には32の身体的な特徴があるという。
その第10番目に「陰蔵相」と言うのがあって、これは男根が目立たないことです。
従って男根がないものは、仏とは認められないとしています。
天台の本覚思想で本来人間は仏であるのに、なぜ修行しなければならないのかの疑問を持ち比叡山から下山し、禅の道に
入ったのが道元。立派な先輩が居るんです。
>>マハーバイロさん
読み方間違えているから、差別をしていることに気づかないんですかね?
あと諸法実相は釈迦直説の思想に依っていると思いますが、八正道思想は法華経には掲載がないですね
そこらへんも法華経だけという方への批判になりますかね?
>>437さん
道元はやっぱり本覚思想には反感をもっていたんでしょうか。。。
批判仏教(松本史朗含む)あたりを読んだ限りは、どうしても無我と本覚(仏性)のリンクも不可能な気がするし
そうなると本覚を否定しても、日本仏教にだって残るものがあるような気がします
松本史朗氏の主張する、
「悟りとか体験とか瞑想とか、はたまた禅定とか精神集中とか純粋経験
とか、これら一切は仏教と何の関りもない。宗教において言葉とは、絶
対的に与えられるものだ。十二支縁起は、我々に与えられた仏の言葉、
仏語なのであって、 その言葉なしに仏教はありえない。」
松本史朗「縁起と空」大蔵出版、1989年、56頁
に対しては
教研究者に独断、偏見があると三枝充悳氏(つくば大学)や伊吹敦氏(東洋大学)が
書いておられる。
「悟りとか体験とか瞑想とか、はたまた禅定とか精神集中とか純粋経験とか、
これら一切は仏教と何の関りもない。」
という松本氏の主張は、そういう経典の一部だけを自己の解釈で新興宗教を起こす宗教
者ならば、やむをえない。信じる者だけがついていくであろう。しかし、学者ならば、
「偏見」といわざるをえない。平川彰氏、三枝充悳氏、森章司氏などの研究を見れば、
松本氏の、この言葉を強く主張できるほどには、まだ学会の賛同は得られていない。い
や、むしろ、学会の研究成果は、松本氏の主張とは逆の方向の成果を蓄積しつつある。
と言う意見があることをあげておきます。
>>お邪魔しますさん
「あらゆる立場について執着しないと言うことは、全ての立場ついて否定するという意味になります。」の典拠も明らかにしていだたけますようにお願いします。
妙法蓮華経 方便品第二の
仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯、仏と仏と、
乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
と述べられているのは、仏とは諸法の実際の姿を窮め尽くした人であり、諸法が
そのままと実相であると言うことではない、ととっています。いろいろな物事は、実
相を示していますが、それを感じ取れる能力は修行によって悟ることで得られると思
います。
ですから悟りを得た道元にとって、日常の行動全てが諸法の実相であり、悟りそのも
のとなっているのではないでしょうか。この段階になって初めて「諸法は実相なり」と
いえると思います。
>>428 本覚思想ってのは、趙州狗子って答えればいいかな
犬に仏性はありますか?
有り
犬に仏性はありますか?
無
同じこと
大乗から本覚をとったら何が残る??
さぁ、何が残ったよ
かなり無茶な言い方だな。
花野さん配下の正宗坊ではありまいな。(藁
>>430 悟っていないのに悟りを見極めるとはこれ如何に
>>440さんへ
『維摩経』の「入不二法門品」か龍樹の「中論」でも読んでみてください。
ところで
「仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。羅漢に逢うては羅漢を殺し。
父母に逢うては父母を殺し。親眷に逢うては親眷を殺し。始めて解脱を得ん。」
と書いてあったら、あなたは両親や親を殺しますか。そうでなかったら私がいくら文証
をあげても無駄でしょう。
ついでに書いておくと、あらゆるものを否定してもどうしても否定しきれないのが残
ったんです。それがなぜ否定できないか分かったら、今度は全てが肯定の境地に入りま
した。世の中には無駄なものは何もない。たとえそれが苦しみであっても。あなたも私
にとっては、必要で大切な人です。
とりあえず、創価が日蓮教学以外で言い訳してくることがはげしくオカシイと思うのだが
特に法華経以外の経典で折伏しようとする椰子
>>439 へー
ようは黙殺?
それとも無我説自体を否定しているの?
要は、人にはいろいろな見方があると言うこと。一つだけ正しくて他はみな間違えているとすると、創価学会になっちゃうよ。
>>444 言ってることがよくわからん。
悟った者は「悟り」と「悟りでないもの」の分別をつけているということか?
>>441 お邪魔します さん
>仏とは諸法の実際の姿を窮め尽くした人であり、諸法が
>そのままと実相であると言うことではない
私もこれに同意です・・・
唯、「無我」とは全否定とは捉えていません。
霊我やエネルギーとしての生気的なものや結合因子などの「実在そのもの」を否定したのだと思います。
「法」や「縁」は「無我」であると・・・
>>438 385さん
シャーキャムニは「縁の連続性」を説いたと思いますが、「縁の一貫性」としての
「法」を説いたのかどうか疑問です。
逆にシャーキャムニ自身が「過去仏信仰」を持っていたのならありえたのかも・・・
「法」=「仏陀(人としての)」の思考性は後世の人々の思惟なのではないかと思うのですが、
「本覚」の基になってしまうのでしょう・・・
法は無我ですので生身実在の仏陀とは矛盾しますが、相として実に表れる「法」とは矛盾しない・・・と考えています
そんなこと言ってるバイちゃは、勤行・唱題不要だな。(笑)
マハバイさんって層化とは思えないほど理性的だよな。
原始仏典にも過去七仏など過去仏の存在が説かれてますね。
それに、法は生身実在の仏陀とも究極的には矛盾しませんよ。
仏陀の存在そのものも法の現れなのですから。
地球は、秒速何万キロメートルで宇宙を走っているのでしたっけ?
水を凍らせもせず、ずべて蒸発さえることもなく、青く青く輝かせながら・・・。
それで、思うのです。「成仏」することのメリットって何?
「成仏」というコンセプトの正確な定義は何?
「成仏すること」は、無条件に良いことだと言えるの?という疑問です。
このスレ読んでると面白いね。
原始仏典派は、法華経は大乗が原始仏典を取り入れようとしたものに過ぎないといい。
大乗仏典派は、部派仏教が大乗の教えを取り入れようとして作ったという。
>>454 世界さん、勉強する手間が省けていいねぇ・・・
この板でなんでも質問すれば済んじゃって(笑
それとも、自分では既に答えが用意されてるの??
>>456 そう、千数百年前と同じことを21世紀でも論争してるのです。
「大乗は仏説に非ず」当時の部派集団もこう言って非難したそうです。
>世界さん、勉強する手間が省けていいねぇ・・・
>この板でなんでも質問すれば済んじゃって(笑
よく誤解されるのですが、「質問」の形をとって、批判しているのですよ(笑)。
たとえば、「イラク戦争における、池田先生ご本人の行動を、5W1Hで説明してください」
・・・これは「答えられないでしょう?貴方達は。」という批判なのです。
根拠無き個人崇拝を批判しているのです。「数々の名誉」は統一教会で見慣れました。
>>459 いえいえ、そのやり方もそろそろ食傷ぎみだと言ってるのです。
つまり質問が「急所を突いてる」と考えるのは
ちと、ご自分を買いかぶってやしませんかと。。。
>>460 私も飽きましたが(笑)、見事なほど、誰も答えられませんね(笑)。
それでいて「ガンジー・キング・池田展」は素晴らしいと考える。
もちろん、すべてが矛盾していても「信」があれば、人は乗り越えるのです。
すべての教義が崩れ去っても、「信」は残るでしょう。
「信」は事実・真実に基づかないからです。それは個々の自尊心に付随したものですから。
生命が無始無終であり本然的に永遠であるということを信じない人に
成仏のメリットを説くことは不可能です。
あなたは死ぬ瞬間まで批判なさって一生を全うなさって下さい。
>つまり質問が「急所を突いてる」と考えるのは
>ちと、ご自分を買いかぶってやしませんかと。。。
急所なんか突いていません(苦笑)。私は完全なる門外漢ですよ。
いわゆる「バリ創価」に何を言っても無駄です。
「バリ創価」に対する言を、「不特定多数」に閲覧して欲しいと願っているのです。
こういう視点もある、と。
彼らは「世界人口比率0%」の、世界でも、「とても特殊」で「希少」な団体ですよ、と。
>成仏のメリットを説くことは不可能です。
そうです。不可能です。それは真実に属した思想ではなく願望に属しているからです。
仏教徒は全部合わせても、世界人口比率6%です。また比率は減少傾向にあります。
>>387 「四苦八苦」の最後の「五盛陰苦」がなにかご存知ですか?
これは前の7つの苦の総括にあたるのですよ。
だからあなたの言うように、最初の「生」を「生きる」とし「四苦八苦」をすべて包括させる必要がないのです。
そもそも、「四苦八苦」の「生」は学術的にどう定義されているかが問題であって、誰がどう定義しているかではないよ。
なぜなら、誰がどう定義しているかなんて聞いても意味ないから…。
あなたが、もし学術的に「四苦八苦」の最初の「生」は「生きる」だと主張するのなら、論文でも書いてしかるべき場所で発表したらどうですか?
>>642 がケツ捲っちゃえば(開き直って本音喋れば)アナタの質問に全て回答できます。
それをしないのはアナタに対する気遣いかもしれません。
「ああ、この人は何か一所懸命聞いてくれてる、無碍に扱うのもカワイソウ…」なんて感じで(笑
ぶっちゃけて
「池田先生の偉大さなんて正直ワカラナ〜イ」
「成仏なんてどういう状態かワカラナ〜イ」
「でも信心すれば何か得になるかもしれないしぃ〜」
こう答えれば満足します?
>>463 > 生命が無始無終であり本然的に永遠である
こいつ、アフォですね。
キリスト教を非難する会員が他スレで居るが池田批判になるね。
キングがキリスト教の牧師とは聖教にも書かれていないが。
>>463 だいたい「成仏のメリット」ってなんだよ?
なにか“イイことになる”とでも思ってるわけ?
アナタが学会員だと仮定して質問するけど
>>464 門外漢ねぇ…
卑下慢って言葉知ってます?
>卑下慢って言葉知ってます?
「組織」が貴方へと教え込んでくれた言葉に違いないと、推測しますが?
組織宗教に入ると、急に周りが「未だ真理に気が付かない人々」に見えるものです。
「世間の上に立ったような感じ」は、もちろん錯覚なのです。
宗教に入った人ならば、誰もが一度は落ち込む「錯覚の穴」です。
世界さん、そのコテハン見ていつも思い起こす御書があるんですよ。
学会員はかえって燃えますね。
末法万年尽未来際の長い旅路からすれば、まだまだ草創期ですから。
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に
唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」
「日本国の中に但一人南無妙法蓮華経と唱えたり、これは須弥山の始の
一塵大海の始の一露なり、二人三人十人百人一国二国六十六箇国已に島
二にも及びぬらん、今は謗ぜし人人も唱へ給うらん、又上一人より下万
民に至るまで法華経の神力品の如く一同に南無妙法蓮華経と唱へ給ふ事
もやあらんずらん、木はしづかならんと思へども風やまず春を留んと思
へども夏となる」
>>474 逆効果とか、そういう問題ではありません。
単なる事実です。日蓮が願いかなわず病死したのも単なる事実です。
「世界に広まった」というのが集団幻想であり、「0%」が事実です。
単なる事実は、事実としてあるのみです。
おやすみなさい(笑)。
成仏ですか。
一言でいえば悪縁に負けない強さを持てるということです。
煩悩をも菩提へのエネルギーに変え、生死を涅槃へ転じゆけるのです。
自己の苦悩に汲々としていた境涯が他人のため世の中のために
尽くそうという境涯に変わっていく。
そして良き生は、良き死、良き来世へと続いていくということです。
>>475 大聖人お一人から始まった題目をいまや何百万の人が唱えています。
これが厳然たる事実です。
そして世界が明日で終わるわけでもなく、
世の続く限り日蓮の弟子たちは転戦するということです。
おやすみなさい、世界さん。
多くの寺を造り、写経し、僧を育てた梁の武帝が
「これだけ仏に貢献した私に、どのような功徳があるのでしょう」
と達磨大師に尋ねたところ、答えは
「無功徳」
学会の公式ホームページにはこう書いてあります。利益を求めていくと
成仏出来る(悟りを開いて仏になれる)ようです。
御本尊の功徳には、「顕益(けんやく)」と「冥益(みょうやく)」の二つの利益があります。
顕益とは、直面する眼前の苦しみ、悩みが解決するなど、生活の表面にあらわれ、はっきりと分かる利益のことです。例えば、信心をして、前向きに治療に取り組んで病気が治ったといった利益です。
これに対して、冥益とは、若木が年月を経てやがて大樹と育つように、たゆみなき信仰実践のなかで、三世にわたる永遠に崩れぬ福運を積んでいくことです。何年間か長い目で見た場合には、厳然と変革があり、幸福になり、人格的にも成長し輝いていく利益のことです。
大聖人は、「正法を受けるのは簡単だが、たもっていくことは難しい。成仏はたもち抜いていくことにある」(御書1136ページ、趣意)と仰せです。
大切なことは、祈りを続けることです。祈りを続ければ、祈った分だけ、功徳に包まれ、幸福の軌道へと自身を導いていくことができるのです。「持続」にこそ、生命の変革である成仏があるのです。この生命の変革が冥益の究極なのです。
>>473 それは「増上慢」でしょ。
「卑下慢」てのは、“人が遜る場合にも慢心がある”とするものです。
>>476 >>477 その官僚答弁みたの、なんとかしてよ。
「厳然」とかの池田口調を聞くだけで、満腹感で苦しくなるよ。
>>449 悟とは如何なるものかを悟っていないものが、
悟を分別することが出来るものなのですか?
悟ってもいないのに、あれは悟だ、これは悟ではないなどと
分別できるものなのですか?
他人の悟の分別をあなたが用いても、あなたには悟を分別することなど出来ないのですよ
あなたが悟の分別を悟らなければ悟の分別など出来ない
転法輪のごとくあまねく世界に弘教行脚する
という言葉は、悟を分別する言葉などではなくて
あなたが悟るための言葉なのですよ
さぁ、あなたは何を悟ったのですか?
>>466 学術的に定義されていることなどがどうだというのでしょうか
仏教学の話しなどどうでもいいこと
教学なんぞは糞です
それに、五蘊陰苦ではなくて、五蘊盛苦、若しくは五陰盛苦ですよ
色・受・想・行・識盛んなるもまた苦なり、ですよ
すべてのことが思い通りになったとしてもまた苦
どちらかといえば、求不得苦と合わせるものではないでしょうか
こいつ何喋ってるかわかんねぇ(笑
分別?悟?
なにそれ???
悟りを得た人は、釈迦のように人に説いて回るんでしょ??
>>485 わかることではなくて、悟ることだからです
>>486 そこからあなたは何を悟ったのですか?
>>453 さん
仰る通りですね・・・
「法」は実在しないが存在して、ある。と言う事なんでしょう(もう表現がメチャクチャですが(笑
これは、宇宙に遍満すると言ったような汎仏論ではないんですね
非情にも仏性があると深慮して入って、
「宇宙生命」などの誤解生む表現が出てしまう・・・
シャーキャムニ以前に石を積並べるような信仰があったことはほぼ間違いないでしょう
これが「塔信仰」に繋がって行ったのだろうことも挙げれるかと思います
>滝山
速やかにでてくるべし
なんだい?
>>484 >学術的に定義されていることなどがどうだというのでしょうか
>仏教学の話しなどどうでもいいこと
>教学なんぞは糞です
なるほど、他人の解釈などどうでもいいとし、さらに学術的なことを否定するということは、つまりあなたが四苦八苦の「生」を「生きる苦しみ」と思ったからこそ、それが正しいということですね。
根本的な質問ですが、あなたはここでなにがしたいのですか?
僕は、ここにいる人が共有できるものとして学術的な観点で論じたほうがいいと思い、そうしました。
しかし、あなたは人と共有のできないあなた自身の悟りや解釈など、あなたも「人から見れば頓珍漢なのは当たり前」だというものをここで披瀝し押し付ける。
それがいったいなにになるのですか?
なぜ「人から見れば頓珍漢なのは当たり前」なものを、人に押し付けてくるのでしょうか?
上の引用したレスは、
sbさんに定義されたものがどうだというのでしょうか
sbさんの悟りの話などどうでもいいこと
sbさんの「生」の解釈なんぞは糞です
とまったく同じことですよ。
「自分の悟りや解釈」という自分の土俵で相撲をとならければ気がすまないんですね。
願わくば、そういう相撲は一人でとっていただきたいものです。
>それに、五蘊陰苦ではなくて、五蘊盛苦、若しくは五陰盛苦ですよ
いろいろ呼び名はあるようですよ。どれをお使いいただいても結構だと思います。
>色・受・想・行・識盛んなるもまた苦なり、ですよ
色・受・想・行・識ときたら、なにかピンと来ませんか?
苦というのは、自分の思うようにならない、自分の都合よくならない
ものと解釈したらどうだろう。
生まれることが 老・病・死 の原因だとしても、生まれてしまう。金
持ちの家に生まれたいと思っても、そうはならない。自分の望み、自分の
都合の差し挟めない、だから生が苦である、こう思ってみたら。
創価学会の方が来ているのでしょうか。
僕は
>>8のような考えを持っています。もしよろしければ、僕と議論しませんか?
今は議論相手となる創価学会員の方がいないので皆雑談などしていますが、
もともとこのスレッドの趣旨は創価学会の教義の正当性について議論することです。
簡潔にまとめると四苦八苦は
・生・老・病・死(生まれること、老いること、病になること、死ぬこと)
・愛別離苦(最愛の者と別れなければならないこと)
・怨憎会苦(憎む者と会うこと)
・求不得苦(求めても得られないこと)
・五陰盛苦(身心環境のすべてを形成する色受想行識の五要素に執着すること)
ただ生きているからこそ苦を乗り越えることができる。
苦しみに遭ったら食いたくなくてもしっかりと飯を食うことだ。
飯を食えば落ち着き眠気に襲われる。
寝れば体が休まる。
体が休まれば頭も休まる。
しばらく繰り返せばそのうち感情も落ち着く。
それが人間たるものだろう。
相手にされなくて悲しいね。
仏教を学んでも「苦」が無くなるわけではない。その「苦」をどう捕らえるか。
「苦」をどう自分に生かすか。日蓮はそれをやって来たのではないか?
>>493 現代仏教史を体系的に学んだことがないようですね。
現代仏教史を学んでいるものが宗教家を非難することはありませんしできません。
負けるに決まっていますから。仏教史で時系列に並び立てたものと、天台が立て
たものを同列に扱えると混同しているようですが、天台が立てたものの方がすぐ
れているに決まっています。社会科学として時系列にならべただけなので宗教的
な価値はないのです。
僕の知識で誰かを幸福にできるかといわれれば自信を持って「ありえない」と答
えられます。プロレス雑誌をよんでいるバカが本物のレスラーにリングの上で勝
てるわけが無いからです。
この板ざっとよみました。玉石混交。
>>497 それを克服しなきゃ未来はないですよ
自分で負けを認めるな
五重の相対、三証、五時八教等相対的なものを、絶対としているところに
基本的な間違いをしているし、縁起の法を無視しているよな〜。
>>497 はじめまして。 僕に対してのレスという前提でお返事します。
僕は学問や歴史的事実と、宗教や宗教が説くものは別だと思うし、それぞれに尊重されるべきものと思っています。
聖書の創世記はおかしいとか、そんなことをいう人はナンセンスだと思います。
その上で創価学会のやり方は間違っていると思っているので、批判しています。
あなたが創価学会を肯定する考えを持っているのならば、議論することでお互いの誤解を解くことができると思いますが、どうでしょうか。
もしあなたがこのスレッドにおいて、議論するつもりもないのに創価学会を肯定する意見を単なるその場その場の感想として書いていくつもりならば、なるべくならそういう態度はやめていただきたい。
きっとそれは卑怯なことなのですから。
>>491 あなたが見えてこないからですよ
あなたの一人相撲が見えてこない
他人のふんどしで相撲をとっている姿しか見えない
正しい見方などない、所詮は皆杓子定規
学術的なものも杓子定規、だったら、あなたの杓子定規のほうがいい
私の糞、日蓮さんの糞、日蓮仏法など日蓮さんの糞
あなたの糞は?
>>497 何で決まっていると、決められるのですか?
>>503 Sbさん
きっと
>>497さんは、知識では人を幸せにすることはできない、あるいは、知識の有無は幸福とは関係がない、といいたいのでしょう。
(僕の感想ですが、言わんとすることはわかるものの「知識」に対する軽視があるような気がします。)
>>497は詭弁を用いて議論に勝ちたいだけの厨房。
知識だったら学者>宗教家だが
幸福の基準・条件は人それぞれ違うものだから
一概に宗教家>学者とは言えない。
二乗を軽視するような香具師に限って
餓鬼、畜生、修羅の境涯だったりすることが多いのが創価学会の特徴。
この教団は増上慢の自惚れ馬鹿を大量生産するだけ。
2004年12月17日の産経朝刊「正論」欄に、筑波大名誉教授 村上和雄氏の
「科学との調和尊ぶダライ・ラマ法王」という対談記事があった。その中
で法王は、
「仏教徒は最新の科学の発見を取り込むことで、人間世界の理解
を深めることができる」
とし、さらにには
「もし科学の証明した事実が、仏教の教えの一部と矛盾すること
がわかったら、仏教の教えの方を変えるべきだ」
と主張しているという。
て、言うか「ひゃきまる」ってまだいたの?
けっこうな古参コテハンだよね。
学会の場合、仏教の基本原則である四法印のうち
諸行無常 諸法無我
を無視して絶対正しいとする固定した教義を打ち出したため矛盾が出てきた。
仏教史、及び文献学上五時八教の教えはすでに破綻しているのにも関わらず
相変わらずこの教えを基として、学会の教えが絶対正しいとしている。(この
辺はひゃっきまるさんが指摘している)
五時八教は単に釈尊の説法をその内容と時間枠で分類しただけで、
華厳・阿含・方等・般若・法華に関しては必ずしもそのような順序が正しいわけでなく
前後して説かれたことは学会でも認めてるみたいですよ。
それと、学会(というか日蓮正宗の仏法)でも仏教の四法印はたぶん大原則だと思うけど、
仏法の絶対性は何も学会だけが言ってるわけじゃないし、法華経以外の経典でも説かれてるんですよ。
学会及び日蓮正宗は単にその義を盗み取っただけで…。
四法印を大前提としての仏法の絶対性を説いているのではないでしょうか。
つまり仏教はニヒリズムではない、ということ。
否定の否定だけで終わっちゃうと何も残らないでしょう。もちろん仏教も。
そうやってキリスト教やイスラム教から批判されるのは四法印を掲げている意味を
誤解して解釈している仏教徒がほとんどじゃないでしょうか。
>>510さん
一般的には釈尊が直接説いたのは阿含の一部とされていますね。
大乗非仏説(本当は大乗非釈迦説と言った方が正しいのでしょうが、一応用語なので)の議論に関しては、
釈尊が説いたであろうと推測される思想と、現在残っている大乗経典との関連を考えねばならないでしょうね。
日蓮系宗派に関してはもっと単純化できて、法華経と釈尊との関係のみを考えればよいということになります。
四法印はおそらく仏教の教義の整理と体系化が進んだときに中国で考えられたものだと思います。釈尊の言葉に、
河を渡った後では船も不要であるように、役目を果たした後は法もこだわらずに捨てなさい、というような意味のもの
があったと思います。
法も絶対的なものではないからこだわってはいけない、という考え方のほうが僕には仏教的な気がします。
510です。
まぁ別に異論はないです(笑)。
でも、阿含系の経典の有名な一句に
「自らを州(島)とし、法を州とせよ」なんていうのもありましたっけ。
私自身は「法」は絶対的だと思っています。というか感じています。
ただ、初期学会のように原理的に解釈したりすることには問題があると思います。
つまりは「法」は絶対でも、それをどう捉えるかは人間次第ということになるんじゃないでしょうか。
>>512 諸大乗経典では特に法を絶対視する考え方が強いようですし、僕もそれを仏教ではない、とは思っていません。
宗教というのは信仰する対象が必要なわけですから、絶対的なものがないと宗教として成り立たない、ということもあるかもしれません。
それらを超えて思索したのが釈尊である、と考えると、原始仏教をより魅力的に感じるのですが、これは僕が個人的に感じているファンタジーかもしれません。
法をどのように解釈するかによっても大分違うと思います。
私としては法も一つの概念であり、何ら実体を持たず、いろいろな条件で変化する
としています。もちろん常に変化し何ら実体を持たないものが、法であるとする見方
が出来ますが、そうするとそれは絶対なものとはならないはずです。あくまでも法も
相対性、相依性の中で存在しているからです。
皆さん、いろいろ考えをお持ちですね。
わたしは一念三千の法理を信じていますから、法そのものは変わらないものだと考えています。
ただその現れ方が違うのではないででしょうか。
卑近なたとえですが、氷と水と蒸気で三相の違いはあっても、
H2Oというものであることには変わらないというのに似ています。
いいかえれば諸法を諸法たらしめている根源の法があるのではないかということですね。
現在物理学が、自然界を構成している4つの力が一つの理論にまとまるのでは
という可能性に向けてチャレンジしていますね。
この4つの力は、物理の世界で万物を構成、変化なさしめている力ですから、
この理論がまとまれば、根源の一法の傍証となるのではと考えています。
もう一つはこれも物理の世界ですが、量子力学の成果に着目しています。
量子力学の世界では、因果律が破られるという現象が起こります。
原因となる事象とその結果が同時に起こるということです。
これはいいかえれば、地球で起こった事象が、遠く離れたアンドロメダの事象に
ただちに影響する可能性を示唆しています。
これらは物理の世界の話ですから、今は単なる示唆に過ぎませんが、
法と祈りの関係に似たところがあると考えています。
私には創価学会の信奉している「法」が見えてこない。
釈迦の説いた「法」とは、縁起のことと認識しているが、これはものとも
のとのつながりを説いたので、一つのことに限定できず、固定的な教義に
ならない。したがって
「『私はこれこれのことを説く』ということが私にはない」
スッタニパータ837
釈迦の説法は、質問があったときや、説く必要があったときに説かれたもの
で、用が済んだら捨てられるものであった。
>>516 蘇った、お邪魔しますさん
> 私には創価学会の信奉している「法」が見えてこない。
それは尤かもしれません。
学会の教えは教義としてまとまっていないのです、かつては悪名高き
折伏経典というものがありましたが、今は「御書がすべて」となっています。
御書とは日蓮大聖人御書全集のことです、しかし日蓮の思想にはまだ明確な
世界平和や人権などはでてきません、そのあたりはガンジーやキングの考え方を
拝借しているようです、耳障りの良いキャッチフレーズはたくさんありますが、
体系的に組織の法をまとめた経典などはありませんから。
>>516 要は相手の機根にあわせた随他意の教えというわけですね。
それでは釈迦がこの世にいない今、万人を救うことはできませんね。
あなたの機根と、釈迦が法を説いた相手とは機根が同じとはいえませんし。
>>517 何をとんちんかんなことを、、、
あなたの法とは教学体系をまとめた指南書のことですか?
>>519 だってまとまってないと理解しにくでしょう、
実際かなり矛盾もあるし・・・・
カスコン!!
組織や幹部への矛盾や不信をもちながら
信仰を続けるのはしんどくないですかね。
悪名高い団体に疑問を感じない人はいいのですが。
法と組織は『別』という割り切った考えかたをする信者、
他の信仰団体にはあまりみられないと思います。
>>522 >法と組織は『別』という割り切った考えかたをする信者、
>他の信仰団体にはあまりみられないと思います。
法と組織は別でしょう、聖書と教会が別なのと同じだと思いますが。
>>くび
呼んでおいて放置?w
>>518さんへ
>それでは釈迦がこの世にいない今、万人を救うことはできませんね。
そう 、その代わり新たに悟りを開いた人が、万人を悟りへと導いている。
創価学会員の中で悟りを開いて仏になった人、居るかな。あまり聞かないけど。
確か日蓮は即身成仏を説いて、生きているうちに悟りを開いて仏になれる教えを説
いていたはずだが。
>>502 そもそも、あなたが四苦八苦の「生」を「生きる」と間違えて憶えてしまっていただけの話ですよ。
ただ、それだけの話。
それは
>>231で、すでに明らかです。
間違えてしまったのは「あなた自身の問題」です。
だから、僕が四苦八苦の「生」をどうとらえているかということとは全く関係がありません。
四苦八苦の「生」は「生きる」ではなくて「生まれる」です。
もう、すでに決着はついているのですよ。
>>263で、人のことを往生際が悪いと言っているわりには、あなたも往生際が悪いですね。
「負け惜しみ」という言葉を知っていますか?
まけ‐おしみ【負け惜しみ】‥ヲシミ
負けたのをくやしがってことさらに強情を張り、負けないと言い張ったり弁解したりすること。「―が強い」
[広辞苑第五版]
> 私の糞、日蓮さんの糞、日蓮仏法など日蓮さんの糞
> あなたの糞は?
こういうふうに、あなた個人の価値観とやり方を、これ以上、強引に押し付けるなっ!!
>>526 たくさんいますよ。よく見てごらんなさい。
彼等は今日も衆生救済の活動を続けてますよ。
もちろん、その前にあなたの成仏観をうかがわないと、
話は進まないわけですが、、、、。
ひとつ望むとしたら、
まるで人生に王道があるかのような錯覚を抱かせる発言はやめてほしい。
層化に入れば全てうまくいくほど、人生も世界も甘くはないことは、
日々の生活を省みて、よくご存知だと思います。たぶん名誉会長も・・・
今は何が必要か、どうやって自分を励ませばいいのか、どうしたらこの苦境を
乗り越えられるのか、絶えず模索し続けているのではないですか。
これでよし、と思った次の瞬間には、全く別の自分や現実に翻弄される。
そうした答えなき複雑さの中で、みんな必死に生きているのではないですか。
>>529 あなたの仰る通りだと思います。
私も努力なくして、人生を歩む事は不可能だと思います。
「仏法者だからこそ、努力を怠るな」「何事にも努力し、謙虚に学んでこその仏法だ」と
私は言われてまいりました。
創価活動にのみ明け暮れていれば、日常生活を疎かにしてもいいなどということはありません。
だからといって、進まざるは退転なので、活動を疎かにしてもならない。
活動と生活を両立し続ける事の大変さは、ラインにいる方、いた方なら、皆わかっていると思います。
私は何事にも翻弄されない揺ぎ無い己を確立していくための仏法であると思っています。
それは決して傲慢や怠慢などからくるものではなく、いかなる苦境に立たされても
どのようなことがあっても、悠々と前進していける強さであると思っています。
そのために「今」という時を乗り越えていこうと、ご本尊に向かい活動しているんですけどね(^-^
スレッドとは無関係の話題へのレスとなりましたことお詫びいたします。
誤解を与えたかもしれませんが、
>529は、このスレにそうした発言があったということ
ではなく、あくまで一般的な要望です。
更に付け加えておけば、
私を含めた一切が織り成すこの世界の不思議さに対する畏敬、
それが、私の信仰です。
>>530さん、こちらこそ嫌な思いをさせてしまっていたらすみません。
私はこのスレの住人ではないので、そのままレスを続けてください。
>>532 ゆうポンさん
スレの住人とかは無関係です。またこのスレでは勝った負けたなども無意味だと思います。
是非ご参加下さい・・・
>>497さんているのですかね。
いったいこのスレにどれだけの創価学会員がいるのか判りませんが、
なんでもいいからコテハンをつけてもらえたらと思います。
菩薩界――二宮尊徳の如く広く社会を利益した者。偉大な発明発見
により広く社会を利益した者。例えばエジソン、ワット、
湯川秀樹博士、支那に生れた孔子等。更に仏法を広め、
衆生に救を与えた人々。 と私
生
冥
崩
煉
下
狂
>>528さんへ
>今日も衆生救済の活動を続けてますよ。
当然その中に日顕氏も入っていますよね。悟りを開いているのですから
日顕氏も幸せになるように、活動していますよね。
そうですね。
日顕氏は、「現代の大聖人様」だそうですから。
日顕氏の「御指南は、御書に優先」するそうですし。
きっとすばらしい活動をされていると思いますよ。
蓮:クズと読む
>>527 間違いは認めて、訂正してますよ
でも、あえて書く、といっているではないですか
何故、産まれる、ではないのかと
勝ち負けなどどうでもいいことなので、惜しみなどありませんよ
書き込みなど個人の価値観以外の何物でもありませんよ
あなたの書き込みはあなた個人の価値観
何で切れているのですか
「勝ち負け」というきわめて人間考えの世間法的な
「価値論」を生み出した層化だから仕方ないのです…。
ああ、だから「人間主義」なのか。
結局は人間様が一番偉いってか。
日蓮宗は知らんが、たしか層化&正宗の数珠は人間の形を模してるらしいよね。
2本あるのが足。
3本あるのが手と頭。
真ん中の輪が胴体と聞いた。
>>528さんへ
学会員の中に悟りを開いて仏になった人がいるか、との
質問に対して次のように答えていますが
>たくさんいますよ。よく見てごらんなさい。
>彼等は今日も衆生救済の活動を続けてますよ。
私は学会員の中に、悟りを開いて仏になった人がいるとは思わない。
それどころか、学会員の行動や機関誌、新聞の記事を見ると仏どころか
仏教徒として基本的なことを忘れているのではないか。逆に言えば仏教
徒としてまともな態度をとると、組織としてそれを邪魔し、悟りへ向か
わないようにしている。
昔どっかの坊主が言った
「この世は苦界だ。
極楽浄土はあの世にある。
仏にすがれ。念仏を唱えろ。
切符はここにあるぞ。」
それを手にこっちへやってきた連中に俺は言った
「極楽浄土?
それは今まであんたらがいた世界さ」
「苦しかった?
そりゃあんたらが念仏ばかり唱えていたからさ」
坊主の妄想に振り回されるくらいなら
自分の夢にでも振り回されりゃよかったのさ
>それどころか、学会員の行動や機関誌、新聞の記事を見ると仏どころか
>仏教徒として基本的なことを忘れているのではないか。逆に言えば仏教
>徒としてまともな態度をとると、組織としてそれを邪魔し、悟りへ向か
>わないようにしている。
>>545 お邪魔しますさん
確かにそうですね、学会内部の指導は会員を仏教徒らしからぬ方向へと
導いている場合が多いかもしれません。
例えば学会員は自らを菩薩と称しているのですが、もし菩薩として慈悲(四無量心)を
実践した場合、聖教四面のように誰かを罵ること(ex.日蓮正宗の日顕上人への攻撃)は
ありえない行為ですよね、しかし内部で「日顕とて凡夫、慈悲をもって臨むべき、
色々な経緯はあったけれど怒りや恨みは捨てるべき、聖教四面の如き態度は改めるべき」
などの正論を口にすると、「お前は間違っている、それは慈悲魔だ」と幹部から反論され、
"池田先生と学会が受けた屈辱と怒りを忘れず、日顕を徹底的に叩ききれ"との指導を受けます。
>>547 そうですね^^
俺もそれはずっと感じていましたよ!
だから、学会は師弟を強調するのだと・・・
信心と、師弟とどちらが大切なのか・・・
たしかに御書には師弟について触れられていますが、学会の師弟とは敵を取ることでしかないのです。
それではもう修羅ですよね^^ 日顕に対する婦人部の形相(如是相)は修羅そのものです。
>>548 蒼天さん
>たしかに御書には師弟について触れられていますが、学会の師弟とは敵を取ることでしかないのです。
>それではもう修羅ですよね^^ 日顕に対する婦人部の形相(如是相)は修羅そのものです。
本当ですよね、完全に戦う為の師弟不二になってますから(^^;
そもそも、どうして池田先生の個人的な恨みを弟子がはらさなければならないのか
全然納得がいきませんよ。
それに池田先生は、法華経までを師弟不二(釈迦と弟子)の経典なんて
言ってますが、いくらなんでもその解釈はおかしいですよね?
法華経は師弟不二の経典ですよ。
師である久遠の釈尊と弟子である地涌の菩薩が
二にして不二であることを明かしています。
釈尊と同じ境涯の弟子が戦いを誓う経典ですよ。
>>549 もう全てが我見でしかないように見えます^^
人の心を動かすのは誠意であるのはわかりますが、その人を平気で敵にまわしますからね・・・
対論や、破折・・・ 今の時代そんなことではまわりから隔絶してしまいます。
悪を斬るには本当に相手の気持ちを理解していないと、亀裂しか生みませんよね^^
そのことをどれだけの活動家がわかっているのか・・・ 理屈ではわかっていても、いざ折伏現場に入ると相手の価値観を完膚無きまで土足で踏みにじる。
これでは誤解しか生みません。 少なくてもここにいる活動家らしき者は修羅でしかない。
と、俺は思います。 俺は戸田先生の指導の方が好きです。 たしかに時代が違うのでそのまま今に通用しないと思いますが^^;
しかし、やられたらやり返すの精神しか今の学会にはないと思いますよ・・・
勧持品の20行の偈に説かれる三類の強敵との戦いです。
>>550 >釈尊と同じ境涯の弟子が戦いを誓う経典ですよ。
ん、まあ解釈は自由ではありますが・・・・
いくらなんでもそれはないでしょう、法華経は釈迦の弟子が成仏を説いた
経典ですよ、幸せになる為の教えではないでしょうか?
>>553 本当におバ○ですね^^
あなたは「自分に勝て!」と言われたら、自分のこと殴りますか?
三類の強敵!! 勝つとは、負けないとは、相手を負かすことではないですよ!!
おわかり?
>>553 >勧持品の20行の偈に説かれる三類の強敵との戦いです。
それは、法華経の行者ならば慢心した諸悪の迫害を耐え忍べと
説いたものではありませんでしたか?
既に天台大師が「師弟の遠近不遠近」を法華経が優れている
理由の一つとしてあげています。
これは法華玄義にでています。
法華経に説かれる師弟は“久遠以来の師弟関係”なのです。
耐えるだけで意味がありません。
広宣流布せよというのが法華経です。
>>558 >既に天台大師が「師弟の遠近不遠近」を法華経が優れている
>理由の一つとしてあげています。
>これは法華玄義にでています。
>法華経に説かれる師弟は“久遠以来の師弟関係”なのです。
師弟関係=師弟不二というのは、学会及び日蓮正宗に独特の解釈では
ないでしょうか?
>>559 >耐えるだけで意味がありません。
>広宣流布せよというのが法華経です。
そうですね、確かにこの教えを説き広めよとはありますが、
学会のように口汚く強引なやり方は禁じられていると思います、
それとも末法では安楽行品の実践は不要なのでしょうか?
具体的に、「何を」広宣流布するのかが、いまだにハッキリしない。
「広宣流布」という言葉が先行し、中身が何も無い。学会員の誰も自分の言葉で説明出来ない。
ひゃっきまるさんは、こっそりsage進行で、仏教用語の言葉遊びをしたいのかい?
>>560 母がさん。 どうもです。
>師弟関係=師弟不二というのは、学会及び日蓮正宗に独特の解釈では
>ないでしょうか?
そうですね・・・師弟不二という造語は学会だけのものと思います。
「師弟」ならば御書には結構でてきますけど・・血脈や唯一などの限定的な意味でなく広義だと思います。
観心本尊抄副状
此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開・せらる可きか、此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目を驚動す可きか、
設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ、仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず、
国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す乞い願くば一見を歴来るの輩は師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん、
>>550,553,558,559 なんか、いかにも教わりましたって感じな文章だね
視野が狭くなっているっていうか
そう書いてある、そう教えているから、そうなんだ、って感じで
>>563 マハーバイロさん
>そうですね・・・師弟不二という造語は学会だけのものと思います。
>「師弟」ならば御書には結構でてきますけど・・血脈や唯一などの限定的な意味でなく広義だと思います。
レス、ありがとうございます。
なるほど、学会の造語かもしれませんね。
しかしこの言葉は2世である私の頭には染み付いてまして、実はつい数年前まで
仏教用語かと思っていました。
まあ、師弟というのを天台風の解釈をすれば、師弟不二という捉え方もできる
とは思うのですよ、しかしそれは師と弟子が相互に依存関係をもって成立している
ということですよね、つまり師と弟子という一見対立する異質な存在も、師があるから
弟子があると考えれば、多元的な構造を持った一つの存在とみなすことができる
即ち一体であるということです、ただし不二にはそれ以上の意味はない。
それを学会はいったい全体どういう屁理屈で"弟子が師に命がけで尽くす"
などという話にこじつけてしまったのでしょうかね、最近では師弟不二に
"法を守る為の師弟の戦い"などというニュアンスまで盛り込まれているようですが、
2世としてどっぷりと内部に漬かって客観的に組織を見てこなかった私には
今だによく分からないのですよね(^^;
日蓮聖人が『種種御振舞書』の中で
「日蓮が第一のかたうど(味方)は景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏
平の左衛門の尉、守殿ましまさずんば、いかでか法華経の行者とはなるべ
きと悦ぶ」
景信とは小松原で日蓮を襲った武士。良観は雨乞い問答の相手。道隆は
鎌倉で勢力のあった禅宗の坊さん。道阿弥陀仏は法然の孫弟子。平の左衛門
の尉は竜の口で日蓮の首を切ろうとした人。守殿は執権北条時宗。これらは
創価学会では仏敵の代表格の人たちです。しかし、日蓮聖人は自分を迫害し
た張本人達を恨むのではなく、かえって修行の試練を与えてくれたと感謝さ
れています。
創価学会の公式ホームページを見ていたら、次の文がありました。
「聖教新聞」日曜日付に好評連載中の、池田名誉会長のエッセイ「素晴らしき出会い」
第35回は、バチカン信徒評議会評議員を務めた、故安齋伸先生(上智大学名誉教授)
との交流を綴っている。
この中で名誉会長は、「苦しんでいる人を、ほうっておけない」という焼けるよう
な思いが、釈尊の心であり、またイエス・キリストの心、モハメットの心であったと
信じる、として、「奉じる宗教は違っても、平和という目的は同じである。敵の子ど
もならば、殺すのもやむを得ないというような正義があるのか。違いを超えて、子ど
もを救おう!宗祖の人間愛の原点に返ろう!」と訴えている。
また、「宗教紛争と呼ばれるものの実体が、政治的・経済的な不満の表現であった
り、権力者グループによる権力強化のための、作られた紛争であることが多い。その
紛争を正当化する大義名分として、また敵愾心を煽り、自派を結束させる心理操作の
ために、宗教が利用される。そういう側面を否定できないのである」と述べ、「宗教
は、政治に利用されてはならない」と強調した。
さぁって!今日は近代史のお勉強ですよぉ!年号を覚えましょう!
2005年6月 防衛庁:先崎大将クーデター成功。国会議事堂・首相官邸・官公庁を
武力を以って制圧。→石原慎太郎都知事が臨時首相に!暫定石原内閣成立→
天皇陛下に大政奉還。帝政日本国樹立!・・・平成維新革命
2005年7月 天皇大権の発動により憲法一部改正。
日本国憲法第10条【国民の要件】日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
但し、創価学会員はこの限りにあらず。・・・以下18条迄、創価学会員を当該憲法の
適用除外とする。
同19条【思想及び良心の自由】同20条【信教の自由】同21条【集会・結社・表現の自由、
通信の自由】・・・以上、撤廃。
同時に、共産党員及び創価学会員を対象に取締る治安維持法制定。同日施行。
第1章【創価学会員取締】第1条【創価学会員の私有財産所有の禁止及び預金凍結】・・・
但し地域振興券の所有は認む。日本円交換レート:日銀発行10円=地域振興券10,000円
第2条【官公庁及び民間企業から追放】第3条【創価学会上層部及び広告塔著名人の粛清】
第4条【強制収容所への段階的移入】
第2章【共産党員取締】第1条【公職追放】第2条【日本共産党及び付属団体を創価学会員
弾圧取締機構へ組織変革】第3条【私有財産所有の禁止】第4条【職業の限定】・・・
農業若しくは強制収容所職員にこれを限定す。以上、国賊粛清事変
〜つづく〜
2005年10月 石原内閣において創価学会員用佐渡島強制収容所建設草案が衆参両議院において
満場一致で可決。石原首相の構想ゆえ石原草案と呼ばれる。以下内容:
@創価学会員本人及び三親等内の親族を収容A収容所刑務は治安維持法第4条により
創価学会員弾圧機構が専任すB囚人待遇:a>食事回数1日2食b>起床時間午前3時
就寝時間午後11時 労働時間1日18時間30分 労働内容 強制収容所増設工事及び
本州佐渡島連絡橋建設・・・但し重機使用認めず。手作業のみ。
以上、石原草案がそのまま同日施行される。
2006年1月1日 強制収容所内にて囚人の反乱勃発
刑務官全滅 反乱首謀者:山本大作
2006年1月2日 先崎大将 陸上自衛隊東部方面隊第12師団を佐渡島へ独断で派遣
同日 反乱鎮圧す。後年、1,02事件もしくは山本大作の乱と呼ばれる。
2006年1月15日 先崎大将、山本大作の乱、鎮圧につき天皇陛下より大勲位菊花大綬章を
授章される。
〜つづく〜
2009年1月1日 東京日比谷公会堂にて国民祝賀会開かれる。
冒頭、石原首相の演説:『皇紀2669年新年明けましておめでとうございます!
』→観衆の歓声→『え〜。みなさん。静粛に・・・。この新しき年の新年を祝う
席上にて実におめでたい報告があります。』→観衆ざわめき→『かねてから
帝政日本、挙国一致の大願であります創価学会員の一掃政策において、私が
政権の座についてから皆様のご協力も賜り100万の信者が70万にまで減少しました。』
→観衆満場喝采→『私はあと3年で創価学会員ゼロをこの場において宣言します!』
→観衆万歳三唱。石原内閣支持率未曾有の99.5%!
後年、石原ゼロ宣言と呼ばれる。
2009年12月10日 本州・佐渡島連絡橋開通
佐渡島と新潟柏崎にて連絡橋開通
2009年12月20日 本州・佐渡島連絡橋開通式典開催
来賓 天皇皇后両陛下 新潟県知事など。
式典開催の矢先、連絡橋中間地点より爆発音。轟音とともに橋桁が倒壊。
式典取り止め。
同21日 事故調査委員会が設置される。
委員長又吉イエス任命される。 〜つづく〜
>>570 お前ら、バッカじゃねーの?
そんなに人類愛とか、党派や宗派にこだわらないっていうんだったら、
自分達が元々、親とも師匠ととも崇めるべき日蓮正宗法主を悪し様に罵るのを、即刻止めたらどうだ?
2010年1月10日 又吉イエス委員長 事故調査報告
『先般の本州・佐渡島連絡橋爆破事故につき、慎重なる調査を重ねた結果、
創価学会員囚人数百人が謀議を重ね密入国を果たした北朝鮮特殊工作員の進言のもと、これに
強制収容所刑務数人がこれに加わり今回の騒乱を起こしたとのことであります。』
『これに加えて、当該謀議関係者に対し厳しく取調べを行ったところ、
この騒乱に乗じて、謀議関係者が恐れ多くも天皇陛下様に対し・・・
狙撃を試みたとのことであります。』・・・イエス報告
師弟不二は学会用語じゃありませんよ。
日寛上人の文段にちゃんとでてきます。
法華経の「如我等無異」のところの解釈ですね。
ですから正確には日蓮正宗用語ですね。
天台宗では、おなじことを自他不二と言ったります。
自は能化である仏、他は所化である衆生が不二であるということです。
先ほどの「我が如く等しくして異なること無なからしめん」ということが、
法華経で明かした釈尊の本願だったのです。
つまり、全ての人を仏と同じ境涯にしようということであり、
一切衆生を成仏させるということです。
弟子を自分と同じ境涯にするというのが師である仏の心であり、
師匠と同じ境涯になろうとするのが弟子である菩薩の心です。
これを師弟不二というのです。
ですから師弟勝劣を説けば、法華経の心に反するのです。
師匠はあまりにも偉大すぎると言っているうちは不二ではないのです。
どこまでも師匠と同じ道を歩もうというのが師弟不二です。
成仏とは師弟不二と同じことなのです。唯仏与仏です。
地涌の菩薩は釈尊と同じ境涯なのです。
御書に曰く「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」ですよ。
まあ、学会が師弟不二を組織論まで広げたのはたしかですね。
ですが、天台、妙楽、大聖人は師弟不二を法華経の優れた教相のひとつと
認識していたのはほぼ間違いないです。
ここはご理解下さい。
>>560 有名な御書ですからご存じでしょうけど、挙げときます。
「一乗流布の時は権教有つて敵と成りてまぎらはしくば実教より
之を責む可し、是を摂折二門の中には法華経の折伏とは申すなり、
天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな、然るに摂
受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば冬種子を下して春菓を
求る者にあらずや、鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり、
権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修
行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや」
そしてこれはこの前の聖教にでてた御書ですね。
「仮令強言なれども人をたすくれば実語ナン語なるべし、設ひナン語
なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門はナン語実語
と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く
故なるべし、日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又
謬の宗なりなんど申し候は強言とは思食すとも実語ナン語なるべし」
御書、御書ってね・・・
他人の言ったことをその通り鵜呑みにしてね^^
全部を否定しないけど、所詮他人の言ったことを全てだと思うとはね・・・^^
自分というものがないのかね・・・ 自我というものを持っていないのかね・・・・
あっ! 自受由報身如来だっけ? 仏様のお言葉でしたね! 失礼^^;
なにが仏だか・・・ 人間じゃん♪
>>562 世界さん
>>5で説明しました。
基本的に僕はいわゆる「バリ創価学会員」、つまり、実際にこの信仰をしなければ不幸になる、
と信じているような会員と創価学会の教義の正当性を議論するためにこのスレを立てました。
sageを推奨しているのは、荒らされないためと、短レスの応酬で議論の論点が分散されるの
を防ぐためです。
教義上の問題についてきちんとした一貫的な議論をすることの大切さを認識している人は、
たとえsageにしていても継続して議論できますから何も問題はありません。
それはおそらく世界さんが2ちゃんねるを利用している目的意識、意図とは全く異なるでしょう。
また、信仰の必要性を感じていない人ならば、この議論そのものの意味が理解できないかもしれません。
しかし僕はそれでいいと思いますし、それが当然だと思います。
他スレにうつるだけでよいのに茶々を入れ続ける世界さんは大人げない行動をしていると思いますよ。
>>577 ご指摘有難う御座います。
今確認致しました所確かに見落として居りました。
観心本尊文段上に記述ありました。
この釈成の文また分ちて三と為す。
初めに「我が如く等く」の下は自受用に約して師弟不二を示し、
次に「宝塔品」の下は無作三身に約して親子一体を示し、
三に「寿量品」の下は久遠元初に約して君臣合体を示す云云。
学会造語だと思っていましたが間違いでした・・・
撤回致します。>ALL&母がさん。
>>577 >師弟不二は学会用語じゃありませんよ。
>日寛上人の文段にちゃんとでてきます。
なるほど、日寛上人の言葉でしたか、それは知りませんでした。
どうもありがとうございます。
>ですから師弟勝劣を説けば、法華経の心に反するのです。
>師匠はあまりにも偉大すぎると言っているうちは不二ではないのです。
>どこまでも師匠と同じ道を歩もうというのが師弟不二です。
ごめんなさい、ここはよく理解できません。
師と弟子が同じ道を歩む必要などないような気がします、大切なのは
成仏という到達地点(目的)ではないのでしょうか?
>まあ、学会が師弟不二を組織論まで広げたのはたしかですね。
>ですが、天台、妙楽、大聖人は師弟不二を法華経の優れた教相のひとつと
>認識していたのはほぼ間違いないです。
>ここはご理解下さい。
そこはやはり師弟不ニの意味合いによりますね、組織内では
拡大解釈した"師弟不二"を使って会員達に忠誠を尽くさせ、
解釈上はあくまで一切衆生の成仏=師弟不二とし、さらにそれを
根拠に法華経=師弟不二の経典とするのはやや強引ではないでしょうか?
偉大な開祖の言葉を曲解または拡大解釈して、組織運営の為に
活用するのはカルトの常套手段ですので・・・・
>>582 マハーバイロさん
>学会造語だと思っていましたが・・・・
安易に納得した私もいけませんでした。
まあ不勉強なんで仕方ないですが・・・・・
アハハこれでも信心暦30年以上(^^;
>>583 いや、それでは話が逆ですよ。
法華経=師弟不二の経典が先にあって、学会がそれを組織論に展開
したということです。
学会があろうがなかろうが、法華経の教相は師弟不二です。
日寛上人分段の師弟不二の意味は、
*****
この本尊を受持する衆生は皆久遠元初の仏道に入る、
故に「化一切衆生、皆令入仏道」というなり。
即に久遠元初の仏道に入る我等衆生の凡身の当体、
全くこれ久遠元初の自受用身なり。
*****
まぁ〜つまり日蓮本仏論の補強であって
久遠本仏と凡夫本仏が「如我等無異」であって不二であると言う事の意に読める。
「先生と心を合わせる」とは全く別意ですね・・・
すばらしい教学力・・・スパシーバ
>>586 天台釈から考えれば必ずしもそうとは言い切れないのです。
先ほどの自他不二、すなわち仏と衆生との不二は、
感応妙から展開されるのです。
仏と衆生との不二、すなわち成仏にいたる原理は両者の感応であり、
いいかえれば境智の二法なのです。
ここから本尊論も展開可能です。
ますますすばらしい。。。!?
勉強になります・・・悦
>>585 >>588 >先ほどの自他不二、すなわち仏と衆生との不二は、
>感応妙から展開されるのです。
>仏と衆生との不二、すなわち成仏にいたる原理は両者の感応であり、
>いいかえれば境智の二法なのです。
境地冥合を師と弟子の感応に例えるのも内部指導でありますよね、
ですから
>>560にも書きましたが、学会及び日蓮正宗に独特の考え方では
ないでしょうか?
>>588 そこのところは理解出来ます・・・
私はまぁ本仏論なので・・・(笑
感応妙って弥勒如来感応抄の事ですか?読んだ事ないです・・・
関連あるとは思いもよらなかったが・・・?
>>590 法華原義で感応妙から自他不二を展開したのは天台です。
ただ、あなたはわざとそう考えたいようですね。
>>592 ごめん。読み間違えた「感応妙」ですね(恥
私も間違えました。法華玄義ですね。
>>592 >ただ、あなたはわざとそう考えたいようですね。
そうではありません、自他不二を師と弟子に当てはめて、
師と弟子が感応することが成仏と広宣流布への近道であるという
指導を、実際に内部で受けてきたのです(感応即境智冥合)
>>595 ここでいう自他というのは自は能化である仏、他は所化である衆生です。
能所を表していますから、師弟と同じことですよ。
御書には以下のようにあります。
これは開示悟入の四仏知見に対する釈です。
天台の論からの自然な展開であり、先ほどの日寛上人の文段も
その線上に展開されていることが分かると思います。
「師弟感応して受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり」
>>597 微妙にすれ違いを感じます。
母がさんや私が言っているのは、
学会が呼称する「師弟不二」とは、師=池田氏←戸田氏←牧口氏であり、弟=会員(自身)です。
これは法華経、天台、石山教学であろうが整合性を持てないだろうという事と思いますが・・・
どうでしょうか?会長本仏なら別ですが・・・
>>598 はいな。
学会の師弟は誰の指導を仰ぐかという組織論ですよ。
それは先ほどから申し上げている通りです。
それと会長本仏は邪義ですから、それは責め抜いて下さい。
>>597 >天台の論からの自然な展開であり、先ほどの日寛上人の文段も
>その線上に展開されていることが分かると思います。
私は天台教学もよく分からないのですが、学会の指導では
"衣正不二であるから師と弟子の生命は一体である、だから師と弟子が
感応し合って境地冥合していくことが広宣流布には必要である"という
理解できない指導を受けたのですが、これも自然な展開なのでしょうか?
日寛上人の件は今日教えて頂いたので、私なりに調べてみます。
訂正です(^^;
衣正不二→依正不二
地味にsageつつ良進行?しばらくromるぞsage。
>>600 依正不二ですか。
それはまた分かりにくい指導ですね。
依正不二も天台が法華玄義で展開しているもので、
自他不二と同様に感応妙から展開されています。
つまり、依正の関係も感応ということです。
原理は同じということです。
立正安国の原理は、依正不二であり、
衆生と国土が互いに感応しあい、仏国土が現れることを示したものです。
環境論です。
好意的にとらえれば、きっとその指導は、依正不二で広宣流布のほうを
いいたかったのでは?
>>599 >それと会長本仏は邪義ですから、それは責め抜いて下さい。
でもそれを言ったら、日蓮本仏も富士派の邪義と言えませんか?
教学は時代によって自分達の都合に合わせ、解釈が変わりますよね・・・・
確かに次元は違うのかもしれませんが、学会内部で強まった池田本佛論と
方向的には同じではないでしょうか(天台本仏→日蓮本仏→池田本仏)
私も教学部編さんの日寛上人文段集は持っていたはずなんですが、とりあえず
探して調べてみます。
>>604 母がさん どうもです
会長本仏は幾等なんでも会員が受け入れないと思うけどな〜
五百年に一度の実で「賢人」「聖人」までなら有得るかと勘ぐっていますが。
>>605 >会長本仏は幾等なんでも会員が受け入れないと思うけどな〜
まあそういう方が多いから引っ込めたんでしょうね>池田本仏論
しかし日寛上人が日蓮本仏論を打ち立てた当時、やはり見延派から
見たらそれは相当のトンデモ教義だったのではないかと(^^;
>>606 母がさん
いやいや、私が言うのはお亡くなりになってからのこと・・・
>日蓮本仏論を打ち立てた当時
日有師あたりも勉強しないと何とも・・・
>相当のトンデモ教義
「生類憐れみの令」の頃だと思いましたからね(笑
一致派身延は日潮師「本化別頭仏祖統紀」の頃ですかね、時期ちょっとずれてるかな?
既に別物の教義に成ってるのかな・・・
>607 マハ−バイロさん
>いやいや、私が言うのはお亡くなりになってからのこと・・・
なるほど。
そうなってみないとなんとも言えませんが、生き仏ではないですから
案外受け入れる方もいるかもしれません、例えば婦人部とか、多宝会とか。
>日潮上人
身延総本山の方ですよね・・・よく分かりません、ごめんなさい(笑)
>>604 それは、上行菩薩をどう解釈するかによります。
日蓮宗総体としては、大聖人を上行菩薩の再誕と位置づけているでしょう。
これは、大聖人ご自身がそのように自覚されていたのは諸御抄から明らかです。
日寛上人の立場は、「外用は上行菩薩、内証は久遠元初の自受用報身」です。
これを理解するには大聖人が、自身の教説をどう考えられていたかを
見なければなりません。
諸御抄に明らかなように、各所において種脱相対を立てており、
ご自身の教説を釈迦仏法に優れるものととらえています。
すなわち、妙法が諸仏の成仏の本因であると示しているわけです。
結局、この種脱相対を信じるかどうかが、日蓮宗各派の分かれ目ですね。
基本は釈迦仏法に優れる法を所持される人を本仏と仰ぐという論理です。
学会は久遠元初の自受用報身という日寛教学を踏まえながらも、
末法の本仏という側面を重視しています。
すなわち、法華経の通りの難に遭われながら妙法を弘通したという側面です。
これは、法華経の教相に明らかです。
まず、地涌の菩薩が三十二相を備える仏であること。
次に、上行菩薩が唱導の師であること。
さらに、釈尊の一切を上行菩薩に付属したこと。
そして、末法悪世において、法を広め人々を成仏に導くのは上行菩薩であること。
また、出現の由来から、地涌の菩薩の弘通には三類の強敵が伴うこと。
このような点から、大聖人を末法の本仏として仰ぐわけです。
釈迦仏法を蔑ろにするとは思い上がりも甚だしい
日蓮は天魔だ
日蓮なんて非科学的な奇跡を妄信する池沼しか信じないよ
>>609 貴重なレス有難う御座います
やっと話が前スレからの「五重相対」に戻って来ました・・・
大乗非仏説や現代歴史学からの「五重相対」への批判は、元来、創作又は深義に思索して来たとする
大乗仏教者には批判足り得ないと私は思っています。
然しながら、日寛教学を不勉強ながらも「五重相対」を考えると
「佐渡以降の発迹顕本」の立場から読み上げる「秘沈」の石山教学は、「法主の正統性」が不可欠であると思うのです。
ここに現在の学会教学の矛盾を感じます・・・
つまり、「法主絶対主義」を批判しながら、法主絶対主義の寛師本尊を持つことに・・・
どう考えられますか?
>>609 >それは、上行菩薩をどう解釈するかによります。
>日蓮宗総体としては、大聖人を上行菩薩の再誕と位置づけているでしょう。
>これは、大聖人ご自身がそのように自覚されていたのは諸御抄から明らかです。
"日蓮の上行菩薩としての自覚"には異論はありません。
しかし日蓮自身は上行菩薩=釈子、つまり弟子という認識だったのではないでしょうか?
>結局、この種脱相対を信じるかどうかが、日蓮宗各派の分かれ目ですね。
なるほどそうですね。
果たして日蓮本人が、文底独一本門(種)と法華経文上本門(脱)の比較をして
優劣をつけたのかどうか、そこは私も疑問なのです。
例えば学会教学では「観心本尊抄」の
"在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり
彼は一品二半此れは但題目の五字なり"
を文証としているのですが、これは本門寿量品=南無妙法蓮華経という
意味であって、優劣ではないと思います。
>>612 法主の正当性は必ずしも必要ではありません。
日寛教学を繙く時、二つのテーマが渾然一体となっていることに
気づかれると思います。
一つは、いうまでもなく大聖人の教えを明らかにすることであり、
もう一つは、石山の正統性を宣揚することです。
本来、この二つのテーマは別なものであるにも関わらず、
同時に語られることで石山の正統を強調するという点が強く出ています。
それは当時の石山の弱体化と要法寺系による教義の雑乱を糺すという
日寛上人の立場によるものでしょう。
しかし、基本は人法の本尊への信心によりどのような人も
大聖人と同じ境涯になれることを明かしていますし、
法主であっても誤りがないわけではないことも間接的に示されています。
そもそも当流行事抄などは、石山第十七世日精の邪義を破したものです。
法主絶対ではなく、信心が根本ということでしょう。
今日の聖教新聞によれば、学会学生部が血脈抄講義に取り組むようです。
血脈抄は石山正統を強く出しているもののひとつですが、
学会がこれをどう扱うのか興味が尽きません。
いずれにしても、学会の基本路線として久遠本仏はこれまで通り維持するということですね。
>>613 種脱相対は自明です。
開目抄に
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、
竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみ
これをいだけり」
と、法華経文底に一念三千の法門があることを示されています。
「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経
なるべし、かう申し出だして候もわたくしの計にはあらず、釈迦多
宝十方の諸仏地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をま
じへばゆゆしきひが事なり、日出でぬればとほしびせんなし雨のふ
るに露なにのせんかあるべき、嬰児に乳より外のものをやしなうべ
きか、良薬に又薬を加えぬる事なし」
明らかに両者の力に違いがあることを主張しています。
「彼は脱此れは種なり」は衆生の機根と法の力の違いを示しています。
すなわち、本已有善の衆生を成仏させるのが文上の目的で、
本未有善の衆生を成仏させるのが文底の目的です。
仏縁がないところに植えつけるがゆえに下種なのです。
これについては天台の法華文句に
「本未有善なれば、不軽、大を以って之を毒す」
とあるように、末法においては下種の折伏行を表とするのです。
本迹一致の主張は、大聖人の本意とするものではありません。
不二って相対し、相反するものが
見方を変えれば同じことであるって意味なんですけどね
例えば、題目と念仏は不二
そういう見方から、師弟不二も捉えるべきだと思いますよ
>>615 >種脱相対は自明です。
たしかに日興上人の系統である富士派では自明ですね。
しかし本迹一致か、勝劣かについては、日興上人と五老僧の
対立以後、決着はついていません。
ですから本迹に優劣深浅はない(一致義)とする解釈もできます、
現在でも身延などは本迹一致の立場ですよね。
身延派のいう本迹一致は種脱相対までいってないんですよ。
本迹相対の部分で一致だと主張しているのです。
すなわち、迹門十四品と本門十四品に勝劣がないと主張しているのです。
>>614 御尤もです・・・
人本尊についてご意見を伺いたいと思います。
人本尊の文証については、主師親三徳等あると思いますが、
開目抄の
「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、
此れは魂魄佐土の国にいたりて返年の二月雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくてをそろしからずみん人いかにをぢぬらむ」
に注目します・・・
本仏論を離れて読むと「日蓮は死んだ筈なのに一年後に手紙が来て驚くだろう」の意味ではないでしょうか?
私は、日蓮大聖人自身が人本尊であると自覚していたとは考え難いのは当然であろうと思います。
後世に本尊と拝する事には逆に異存はないのです。それを無理やり御書に文証を繋ぎ合わせる姿勢の方に疑問感じるのですが・・・
ズバリお尋ねしますが、
>>615さんは日蓮師が存命中に「本仏」の自覚があったと思われますか?
>>619 本仏というか、末法の救世主たらんとする自覚は確実にあったと思います。
末法の民衆を救うのは釈迦ではなく、上行菩薩であるという確信は持っていたでしょう。
開目抄ではむしろ有名な以下の一節がそれを如実に表していると思います。
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の
菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵
をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業な
るべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について
後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも
智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、我
日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願
やぶるべからず」
まして、竜の口のような事件の後ではなおさらですね。
自分の使命を強く自覚されたのではないでしょか。
一般的にも、一度死を覚悟した人間は強いですよ。
残りの人生を全て賭けることができますから。
>>620 丁寧なご返事恐れ入ります・・・
つまり、「久遠本仏」の立場でなくとも、
「上行菩薩」の立場でも種脱相対は成立するとお考えですか?
質問ばかりで申し訳ありません・・・
恐々謹謹
>>621 私は問題なく成立すると思います。
大聖人は、妙法を末法のために残された要法と確信していました。
種脱相対がなければ、わざわざ妙法を出す必要はないわけです。
これまで通り、法華経を五種の修行によって行えばよいのです。
観心本尊抄には以下の一節があります。
「今末法の初小を以て大を打ち権を以て実を破し東西共に之を失し天
地顛倒せり迹化の四依は隠れて現前せず諸天其の国を棄て之を守護せ
ず、此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼
稚に服せしむ」
報恩抄には以下の一節があります。
「問うて云く天台伝教の弘通し給わざる正法ありや、答えて云く有り
求めて云く何物ぞや、答えて云く三あり、末法のために仏留め置き給
う迦葉阿難等馬鳴竜樹等天台伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり、
求めて云く其の形貌如何、答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に
本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並
に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃
至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすて
て南無妙法蓮華経と唱うべし」
>>620 法華経原理主義化しただけに取れるのですが
原理主義化してしまうがゆえに法華経から離れていくような
>>622 どうもです。
上行菩薩での下種脱益に問題ないのであれば、何故に「自受用身」を引っ張り出さなければならなっかたのでしょうか?
石山の正統性を宣揚する為、他の法華宗との差別化の為だけだったのならこれほど嘆かわしい事はありません。
当流の「血脈」「相伝」に固執する姿は現在の学会流まで引き継がれてるのではと思う程です。
私は「再誕」「本地垂迹」は当流秘伝などにしなくとも、自然に成り立っていったろう思惟でもあったのではなかろうかと思っています。
それを天台の言を借り威厳付けして独り占めしてしまったのではないか?・・・
私は学会が学生部に「血脈抄」を取り組ませようとする事を聞いて楽しみよりもガッカリですよ・・・
正統性の強調を危惧する部分もあるが、北林氏のネット展開を考えると特に最蓮房宛てのものに対しては・・・
>>624 こんばんは、マハーバイロさん。
今日は早く寝たいと思ってますので、簡単に書いて終わります。
私は自受用身を強調した理由は、久遠元初を示すためだったと思います。
法華経で説かれる久遠実成も遥かな昔という時間的な制約は
そのまま残っています。
久成の釈尊を打ち破り、本有の仏果を示すために、
自受用身が必要だったと思います。
観心本尊抄で大聖人は輔正記を引用されています。
「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」
久成の人とは上行菩薩に他ならないわけですが、
この文を引かれていることから大聖人も久成の自受用報身という認識までは
少なくともあったように思います。
天台は久成の釈尊は、自受用報身如来としており、
伝教も一念三千即自受用身としています。
天台教学を学んで、そこを避けることはかえって不自然です。
>>625 どうぞごゆっくりで結構です。私も色々と調べながらやっておりますので・・・
何でも良いので何かしらハンドルネームを付けて頂くと有難いです。
真筆の中で「法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す」を引用するのは、
他に曾谷入道殿御返事と御紹介の観心本尊抄だけのようです。(私は真筆に拘る事は二の次と考えていますので、正篇、続篇も範疇ですが)
自受用身は真筆には一つも残っていません。(安国論に仁王経を引用して「身に自ら之を受けん」はあります)
此の事からも、日蓮聖人は自受用身はあまり意識してなかったであろう事が覗えます。何故ならば、「自受用身」は教主釈尊との認識があったからではないでしょうか?
理の一念三千即自受用身ではないでしょうか。
無始無終と久遠元初の差を有限、無限と捉えてよいのかは私にとっては今後の課題です。
むしろ久遠元初の持つ因果一念(瞬間性)の方に惹かれます・・・
そういう意味でも天台よりも一歩深い展開であったとは思いますし、印度応誕の釈尊を退けなければならなかったとも思います。
「上行菩薩」=「久遠元初」も成り立たないわけでスッキリしないんですよ・・・
ここのところのマハーバイロさんと名無しさんのやりとりを見ていて、何で
そう正しいとか、間違いであるとかの区別を付けなくてはならないのかなと思う。
この論法を突き詰めて、学会は自分のみが正しいとしている。
学会が
「自派のみが正しい」
と主張し、また
「 世界の恒久平和と一切の人類、生命の幸福を祈願していきます」
と述べていることとは、完全に矛盾している。
学会だけが「絶対的幸福の境涯(この言葉も問題があるけど)」になれるとしたら
学会以外の人が幸福になって貰っては、学会の主張が覆ってしまう。つまり、非学会
員は「一切の人類、生命」の中には含まれてなく、幸福になれない、と言うことです。
特に学会に敵対している人が、幸せな境涯になることだけは絶対に許せないのです。
もしその人が幸せな状態になったら、学会の主張が破綻します。その結果
現在、日蓮大聖人の御遺命に違背し、広布を阻む日顕宗は「仏敵」
以外の何ものでもありません。
御書に「法華経の敵を見ながら放置して、その悪を責めなければ、師
弟ともに無間地獄に墜ちることは疑いないことである」(1056ペー
ジ、通解)と仰せです。
学会の教えは、非学会員が不幸になること教えているのです。
お釈迦様は、人が不幸になることを望んで、教えを説いたのでしょうか。
>>627 概ね同意だけど、なぜ最後に釈尊が出てくるの?
学会&正宗は釈尊を過去の仏で末法無縁として否定してるのわかってるでしょうに。
>>628さんへ
日蓮仏法でも、「仏法」と名が付けば釈尊の教えをどこかで受け継いでいる
と考えるからです。
>学会&正宗は釈尊を過去の仏で末法無縁として否定してる
のなら、それはまるっきり新しい宗教であり、「仏法」の言葉を使って欲しくあ
りません。
創価学会の教えが、釈尊の流れを汲むものであることは、池田名誉会長自身次のよう
に述べています。
釈尊の人格を構成するもう一本の柱は「慈悲の大海」の姿であります。
慈悲の第一のメッセージは、「人類の宇宙的使命は慈悲にある」という使命論であり
ます。釈尊にとって、まさに「宇宙は慈悲の当体」であり、自らの振る舞いは、その
慈悲の体現でありました。
宇宙の森羅万象は、一切が「縁起」、すなわち、縁りて起こっている。お互いに支え
合っているがゆえに、何ひとつ無駄なものがない。また意味がないものはあり得ない
というのであります。
その相互依存の「糸」を活用して、宇宙は生命を育み、この地球上には、人類をも
誕生させたわけであります。
仏法では、現代天文学の知見とも一致して、この大宇宙の他の天体にも、知的生命が
活躍していると論じております。まさしく、宇宙それ自体が創造的生命体であり、尊
い慈悲の顕在化であると見ることができるのであります。
・・・・・・
仏法の慈悲論は、この地球上に誕生した人類の使命は、宇宙の慈悲の営みに参画し、
その創造のダイナミズムを高めつつ生き抜くことにあると明示しております。
つまり、万物を育み、繁栄と幸福に導く慈悲の行動こそ、宇宙より人類に託された使
命であり、この使命の自覚と達成にこそ、「生きる意味」があると釈尊は呼びかけて
いるのであります。
このような慈悲論は、今日において、一人一人の人間を尊重しゆく「共生の文化」を養
い、地球環境と共栄しゆく「自然観」を培っていくことでありましょう。
そして、更には、「分断」から、「結合」へ、「対立」から「融和」へ、そして「戦争
」から「平和」へと人類史を軌道修正させゆく、菩薩道の行動を促してやまないのであ
ります。
慈悲のメッセージは、「自他ともの幸福を目指せ」という行動論であります。
近代人権思想の勝ち取ってきた最大の遺産が「個」の尊厳であることは論をまちません。
しかし、この問題は、制度的な保障だけですむものではない。それどころか、現代人は、
自らの主張にのみ専念するあまり、他者の存在を見失い、その結果、肝心の自分自身の依
って立つ基盤さえぐらついてしまっているのであります。他者と自身の関係性を、釈尊は
次のような言葉で表現しております。
人はおのれより愛しいものを見出すことはできない
それとおなじく
他の人々にも、自己はこのうえもなく愛しい
されば
おのれのこよなく愛しいことを知るものは
自愛のために、他のものを害してはならない
(増谷文雄『仏陀のことば』角川書店)
人間、「自分」ほど大切なものはない。ゆえに、「我が身に引き当て」、「他者」を大切
にすべきである――まことに無理のない自然な語り口のなかで、相互に「他者」の存在、
相手の立場に立ち、共感することこそ慈悲の第一歩であると釈尊は説いているのでありま
す。
「一切衆生の病むがゆえに我病む」
釈尊の心の中には、常に、生老病死の苦悩に喘ぐ民衆の呻き声が響いておりました。時を
超え、国を超え、釈尊は、こう呼びかけているのであります。
「汝の心のうちに『他者』を復活し、自他ともの幸福を満喫せよ」と。
ゆえに、十三世紀の日本の日蓮も、「法華経」を解釈しつつ、「自他共に智慧と慈悲と有る
を喜とは云うなり」(「御義口伝」御書七六一頁)――自他ともに、智慧と慈悲をもってい
るのが、本当の「喜び」である――と応えているのであります。
平成7年11月2日 トリブバン大学での池田氏の講演
そうすると聖教新聞の日顕氏への記事は、どう読んだらよいのだろう。
>「一切衆生の病むがゆえに我病む」
維摩経の一節ですね。在家の一信者が主人公。
これは釈迦でもなく、釈迦の弟子でもなく、その主人公の
発した台詞。
>相互に「他者」の存在、 相手の立場に立ち、共感することこそ
>慈悲の第一歩であると釈尊は説いているのでありま す。
大乗的にはそういうことになるんでしょうけどね。
これではご都合主義って言われても文句言えないと思うよ。
>>629 学会は昔よく釈尊と呼ばずに、釈迦って呼び捨ててたんですよね。
いまは釈尊なんて敬ったような言い方してますが。
もちろん仏法は三世十方諸仏に共通するものっていうのが仏教に基本的理念でしょうが、
釈尊の説いた仏法は末法の衆生に無縁と主張して、
釈迦は本仏ではないし、釈迦仏法では衆生を救えないとするのが学会です。
>>632 お邪魔します さん。
>そうすると聖教新聞の日顕氏への記事は、どう読んだらよいのだろう
私は「聖教新聞」や「新人間革命」などを参考にしない会員ですのでなんとお答えして良いやら・・・
その公演のCDなら持ってるかも・・・
島田裕巳氏の「創価学会」新潮新書という中立的批判本を近頃読んだのですが、的を得ている内容と思いました。
私が得に注目したのは、過去に学会が急成長した背景には「階級闘争」の側面があったのではないかとの考察でした。
思うに、現在「信仰運動団体」の基調を残してはいるものの、現2世3世の会員方には「階級闘争」的な部分は既に残されていません。
これが実質的な衰退の原因ではないでしょうか?その為、平成以降のルネサンス運動に「宗教革命的な復興運動」の色合いを持たせる事で、
「僧侶」と「信徒」という信仰的な階級闘争へエネルギーを向けて行ったのでは?
スレ違い&勝手な意見である事をお詫びします(スマソ
マハーバイロさんとの議論を見ていて思うのは、「日蓮仏法」というものには宗教、信仰としての明快さがないなあ、ということです。
一致派と勝劣派の議論は、現代人の目から見たら、それは仮面ライダーとウルトラマンのどちらが強いか、を論じているに等しいと思うのです。
どちらにしてもフィクションなのだから、われわれには関係のないことだし、ウルトラマンのほうが巨大化するから強いとか言われても、「それは物語上の設定でしょ」と思うだけです……。
極端な言い草だとお思いかもしれませんが、一般人の認識ってこんなものです。
またそれが争いや派閥の原因になっているのだとしたら、なおさら「宗教ってなんてくだらない」と思われるでしょうね。
>>626 マハーバイロさん、こんばんは。
久遠元初は言い換えれば本有ということだと思います。
本有の仏因である妙法に対して、本有の仏果を説かなければ、
成仏は有名無実になってしまうのです。
本因妙、本果妙がそろって現代における成仏の因果が確定します。
そして本有であること自体が、本国土妙となるのです。
因果がそろわないと、久遠即末法、因果一念の義も成り立ちません。
開目抄に以下のようにあります。「無始の」ということに注目してください。
「此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に
備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
「上行菩薩」=「久遠元初」の件ですが、
これはこのままでは成り立たなくて当たり前なのです。
法華経文上は架空の物語ですから、、、。
誰が宝塔涌現や虚空会を現実の話として信じられるでしょうか。
そこで再び法華経に戻る必要があるのです。
法華経が説こうとした教えは何なのかという観点から捉え直すことです。
天台も大聖人もそれを行ってきました。
ゆえに観心本尊抄に
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を
受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
とされ、「我等が己心の声聞界」、「我が仏界」、「我等が己心の菩薩」といわれ、
「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」と
されています。
これが上行菩薩の迹をはらうということです。
架空の物語の登場人物である上行菩薩を借りて表そうとした本有の妙法です。
>>636 ひゃっきまる さん どうもです。
>それは物語上の設定でしょ
確かに的を得ている比喩ですね(笑
然しながら明快に「祈れば叶うよ」って言われて信じますか?
何故?理由は?根拠は?誰が言ったの?仏教言語ゲームの始まりです(笑
ゲームと言っても真面目に悩み、考えているのですが・・・
本当は私は2世の方に興味あるのです・・・
何故なら子供をゼロ歳入会させてますから、掲示板で意見交換する本当の目的だったのですが、
いつの間にか議論対話が楽しくなってしまいました・・・(特にこのスレッドは)
2世3世の子供達はのそのくだらないという宗教といつか向き合わなければならない時がくるでしょうから・・・
トリップつけました。
不思議にもちょうど話題が合ったようですね。
それと私は実質学会三世です。
祖母が戸田先生の時代に入信したのがはじまりなんです。
おそろしいことに親戚縁者200人以上すべて学会という家系です。
一体どんな折伏をやったのだろうと恐れています。
我が創価学会の総帥
>>641 ご忠告有難う(恥
>>639 ◆Ey/JGY0AIさん
そうですか、3世の方でしたか。
折角ですから、「日蓮って」の本仏論を話しながらテーマである「学会の唯一正しい独善性」について意見交換したらいかがですか?
ここは2世3世の方がおられますから・・・
当流行事抄に
**********************
問う、凡そ寿量品の意は唯釈迦一仏とするや、別に余仏有りとするや、
若し唯一仏なりと言わば玄文第七に正しく東方の善徳仏及び神力品の十方諸仏を以って便ち余仏と為す、
若し余仏有りと云わば那んぞ毘盧遮那一本等と云うや。
答う、若し文上の意は久遠の本果を以って本地とするが故に余仏有り、何となれば本果は実に是れ垂迹なり、
故に本果の釈尊は万影の中の一影、百千枝葉の中の一枝葉なり、故に本果の釈尊の外更に余仏有るなり、
若し文底の意は久遠元初を以って本地とするが故に唯一仏のみにして余仏無し、
何となれば本地自受用身は天の一月の如く樹の一根の如し、故に余仏無し。当に知るべし、余仏は皆是れ自受用身の垂迹なり。
**********************
釈迦仏を十方諸仏の一つで木の枝の様なものである。日蓮師はその根の様なものであると言っていますが、
この根拠はどこにあるのでしょう?秘すべし秘すべしなのでしょうか?
「日蓮」の件に限らず、
「誰が言った言葉か」は、けして重要なことではなく、「何が語られているか」を考えるべきです。
「キリスト」の言葉がすべて素晴らしい訳ではなく、「ブッダ」の言葉のすべてが素晴らしいわけでもない。
「日蓮が言った」「キリストが言った」ということに宗教はとらわれています。
個々の言葉を別々に検証し、時に評価し、時に批判しましょう。
「誰が言ったか」などは、どうでも良いことだと思います。彼らは去りました。
「何が良いことか」を自分で考えましょう。誰かを支持する必要はないのです。
> ひゃっきまるさん
おひさしぶりです。スレをずっと読ませて頂きました。
一連のご発言には共感します。蔭ながら応援してますので。
> マハーバイロさん
横からすみません。レスが多くて大変でしょうから、私の発言は読み捨てて頂けたらと思います。
色々と気持ちの整理や折り合いがつかなくて、ご苦労されてる事とお察しします。
あんまり抱え込まないで下さいね。あなたが責任を感じる事じゃないですから。
「唯一性」や「絶対性」から離れて、『個人』が信仰するならば、日蓮仏法も法華経も、別に悪くはないと思いますよ。
日蓮は、いかなる迫害に遭おうと『独り』で自説を堂々主張した訳ですから、現代にそぐわない些末な部分をあれこれ悩むよりは、
その精神を見習って、あなたの納得いく形で、周囲に同調せず、独り静かに信仰を守られたらいかがかと思います。
ただ、ちょっと皮肉な言い方をするなら、たかが創価学会にも言いたい事を言えない・納得いかないのに毅然と離れられないようでは、
命懸けで信仰を貫いた日蓮から見て、情けないと思われはしないでしょうか?
もちろん、いざ組織から離れるとなれば、周りとの付き合いの上でも、自分の気持ちの上でも、いかに大変かは存じています。
でも…だったら日蓮仏法を実践してる事にはならないと、私は思います。
日蓮仏法を実践し、戦時中の軍部にも戦後のGHQにも毅然と言いたい事を言った、石橋堪山のような例もありますから。
すみません。漢字間違えてますね。
×石橋堪山→○石橋湛山 です。
「世界人口を100%とすると、学会員人口は0%です。」
は荒らしなのでスルーして下さい。
都合の悪い書き込みをする者を荒らし扱いするヘタレはスルーで
世界人口は議論する意思がないんだから荒らしと同じ。
わかった?
>>647=名無しの世界人口。
>>648 647は俺が書いたが世界人口氏ではない。
それに世界人工氏は荒らしではない。
わかった?
>>648=名無しの華元。
>>648 そうやって都合の悪い書き込みから逃げるだけならヘタレだよ。
>>618は俺へのレスのようですね、アンカーがないので
見逃していました、ごめんなさい。
>>636 ひゃっきまるさん
>またそれが争いや派閥の原因になっているのだとしたら、
>なおさら「宗教ってなんてくだらない」と思われるでしょうね。
全くもってその通りだと思います、私も「つまらん解釈の違いで何百年も
争うなら、宗教なんてやらないほうがマシだ」と思ったことがあります。
すべてを日蓮のせいにするつもりはありませんが、もし宗祖・日蓮に
一遍上人の如き潔さ(墓は不要と言って、死ぬ前に自分の著作や持ち物などを
焼き捨てた〜一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ〜)があったなら、
日寛VS五老僧それに続く富士派VS身延派、正宗VS創価学会のような浅ましい
弟子達の争いは起こらなかったような気がします。
ただし、種脱の話は途中なんであくまで"対話"として続けさせて下さい(^^;
>>638 マハーバイロさん
>然しながら明快に「祈れば叶うよ」って言われて信じますか?
>何故?理由は?根拠は?誰が言ったの?仏教言語ゲームの始まりです(笑
>ゲームと言っても真面目に悩み、考えているのですが・・・
どうもよくわかりません。
「祈れば叶う」の根拠が中世の仏教観でしか語れない内容であり、現代では通じないし議論事態が意味がない、というのがそもそもの問題なのではないでしょうか。
マハーバイロさんは、「祈れば叶う」と信じていますか? そして、信じているとしたら、その根拠はなんですか?
>本当は私は2世の方に興味あるのです・・・
それは僕の興味とも一致します。
僕自身は2世であり、生まれたときから宗教教育を受けてきました。
僕がこの掲示板で創価学会員と議論したいということは、過去の自分自身と議論したいということでもあります。
当然のことですが、「唯一性」「排他性」を強くする宗教を子供のころから信じていれば、影響は大きいでしょう。
今は創価学会は昔ほど他宗教を批判しなくなっていますが、それでも宗門に対しては厳しいですね。
僕は、「人を攻撃したり悪口を言ったりすることが正義」という教育を子供にしたくはありません。
>>650 そうやって都合の悪い書き込みを見ると「華元」しか言えないの?
世界さん
たまに凄くいい事言いますね(笑
宗教とは<良いとこ取り>して発展してきたのだと思います。大乗仏教然り、キリスト教然りです。問題は各々が新しい発見があったり、逆の発想や偏向した発想を思索して広宣したとしても、自称<仏弟子>や<敬虔な信徒>を名乗って来たところなのだと思います。
本来<仏教>と言う名前を借りていようがいまいが、信じる人の人生での価値とは無縁です。
私は少なくとも現在<宗教>と認知されている<教え>に関しては受け取り側に全責任があると思っています。たとえ、ゼロ歳入会でも・・・世界さんには、「騙す方が悪いだろう」と怒られそうですが・・・
丸呑みでは味がわかりません。教学は自己再考の為に重要です・・・
>>618 >身延派のいう本迹一致は種脱相対までいってないんですよ。
そうですね、本仏が釈迦であり、日蓮は菩薩という位置付けであれば
種脱相対は必要ないと思います。
私自身も日蓮に種脱相対という意識があったという説には納得できていません。
例えば前のレスでも出てきましたし、既に語り尽くされた議論かもしれませんが
「開目抄」の"一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、
竜樹・天親は知って而も弘めたまわず、但我が天台智者のみ此れを懐けり"
という御文だけでは明確な種脱の比較優劣を読み取ることは難しい、教学上は
この御文に更に「観心本尊抄」の"彼は脱此れは種なり〜"の御文や、真偽の怪しい
「百六箇抄」などを絡めて・・・
・仏法は、時や衆生の機根に応じて説かなければ効力がない
・釈尊の法華経本門は脱益仏法、日蓮の文底独一本門は下種仏法
・像法は脱益で成仏できるが、末法は下種でなければ成仏できない
・今の時代は末法にあたるから、今は下種仏法でしか衆生を救えない
というプロセス(判断)を経た上で
今の時代は釈迦仏法よりも日蓮仏法のほうが優れている
という結論へと導いていますが、これは日蓮の御文から読み取れる主張を
組み合わせて発展させた解釈であり、御文を読んで自然に伝わってくる
(つまり自明の)日蓮の本意とは言えないと思うんですよ。
私が自明だと感じるのは"末法の世では誰でもこの南無妙法蓮華経のみで
成仏できます、難しいお経や修行は不要です"という凡夫即極(凡夫即仏)の
メッセージだけですね。
>>644 春田の蛙 さん
レス有難う御座います。
私は先に書いたように、信仰は自己責任と考えているので他人や組織にはあまり興味ないのですが、自分本位に対する嫌悪は少なからずあります。
世間一般に対する「正義」は本当はどうでもいいのかもしれません。
学会に疑問を感じて脱会する人の方が「正義感」が強いのかもしれないと感じる時があります。「唯一正しい」を求める故に「唯一正しい」が許せないのでしょう。
私は子供に出来るだけ「自由な発想」を心がけるようにしているのだがどうなる事やら・・・
>>643 世界さん
同意です。というか、それは「自分を灯明とし、法を灯明とせよ」と言った釈尊にも通じると思います。
そのことはここで議論されている方は皆前提としているはずです。
というのは、現代においては、キリストも釈迦も日蓮も全員の一致を見るほど「権威」では全くないからなのですが。
>>644 春田の蛙さん
おひさしぶりです。ありがとうございます。最近はほとんど発言してませんが(^^;
>>652 母が…さん
宗祖亡き後に派が分裂複雑化していくのはどの宗教も同じ様ですよ。仏教そのものがそうですし。
科学のように正誤の基準に客観性と実験による証明がおかれていれば、おかしなものは淘汰されるのでしょうが。
徹底的に偽書鑑定などやってもいいんじゃないかと思いますが、宗教という性質上難しいものもあるでしょうね。
種脱の議論は僕自身興味深く拝見させていただいているので、続けていただきたく思います。
649 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:05/02/23 22:01:26 ID:ltVnDcJQ
>>648 647は俺が書いたが世界人口氏ではない。
それに世界人工氏は荒らしではない。
わかった?
>>648=名無しの華元。
650 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:05/02/23 22:03:02 ID:ltVnDcJQ
>>648 そうやって都合の悪い書き込みから逃げるだけならヘタレだよ。
659 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:05/02/23 22:41:08 ID:ltVnDcJQ
>>654 >>650のどこに華元と書いてあるのかな?
都合の悪い書き込みから逃げ続けるヘタレ君
トリップ付いてないと不便だな。
宗教板逝けやヘタレ
ヘタレが一匹釣れた
やめてもらえますか。世界さんも2ちゃんねるは長いのですから、大人の対応を覚えてください。
>>662 そうやって卑劣なナリスマシをするのが創価学会員の常套手段。
>>664 違うと言ってるのが分からないのか馬鹿者が
>>664 ひゃっきまるさん
>やめてもらえますか。世界さんも2ちゃんねるは長いのですから、大人の対応を覚えてください。
いや
>>662は世界さんじゃないと思います、最近は世界さんの成りすましが
好き勝手を書いているのです。
正しい意見は排除するか逃げるだけ。
しまいにはナリスマシ・・・
卑怯・卑劣な創価学会員の本質が垣間見える。
>>653 ひゃっきまるさん
残念ながら<祈れば叶う>と言う事は信じていませんが、信じる事は無意味ではないと思っています。
ですが、「祈って叶った」体験は実は何度かあります。
私は1世ですので「祈れば叶う」と言われて入会しました。「叶わなければ辞めよう」とずっと思って15年立ちました。
もう一度自分の信仰を賭けて「祈る」時が来るかもしれませんが・・・今のところは?です。
創価信者は偽善者の集まりだよ。
信者が自分で証明してしまっているから間違いない。
>>667 そうでしたか。世界さん、すみません。もしかしたら
>>562もなりすましですかね。
一度皆トリップをつけたほうがよいかもしれませんね。
あと、 ◆Ey/JGY0AI.さん
>>1にもあるようにここはsage推奨ですので、よろしくお願いします。
>>642 マハーバイロさん、こんばんは。
実のところ私は「学会の独善性」論議には全く興味がありません。
久遠の妙法は、学会に入っていようがいまいが、また御本尊がなくとも、
証得する人はいるのはむしろ当然でしょう。
それは御書にも書いてありますし、日寛上人も書いています。
ただ万人というわけにはいかないのです。
大聖人の残されたのは、受持の一行で証得する法理なのです。
わざわざ険難の道をいくことはないでしょうというだけです。
マハーバイロさんは、生身の日蓮大聖人にこだわるので、
自受用身が得体の知れない何かだと感じるのだと思います。
自受用身は、いいかえれば本有の十界ということです。
大聖人は「自受用身の垂迹、上行菩薩の再誕」です。
本有の妙法を説き表したが故に、「本因妙の教主」であり、
「末法の本仏』であり、『本地自受用報身如来」とされるのです。
いうまでもなく本地自受用身は、誰もが自受用身です。
でなければ、成仏の原理が成り立ちません。
そのうえで、ご質問の箇所ですが、もともとは天台の説を展開したものです。
全ての諸仏の因果の功徳が久遠の妙法に収まることを示したものです。
天台の法華玄義に以下のようにあります。
「過去・中間・今日・未来の発迹顕本亦最初を指して本と為す、三世乃ち
殊なれども毘盧遮那一本異ならず、百千枝葉同じく一根に趣くが如し』
>>656 母がさん
私は血脈抄も限りなく偽・・・と考えていますが、
正宗、学会が何故正統性の口伝などに拘るか?日達師の言を一寸紹介します。
********
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」と三重の秘宝をなして説かれている、この「沈」の文字文字の上に「秘」の字があるのか、ないのかは、現在は大聖人の御真蹟がないから知る由もないが、古い御書には皆「秘」の字がある。
たとい御真蹟に「秘」の字がなくとも、この一行の御文は重大なり意味が含まれているのであるから、むかしは、日蓮門下一般において「沈」の一字について「ひししづめ」と訓読しておったのであろうと私は推察するのである。
********
>>672 横から失礼しますが、
>大聖人は「自受用身の垂迹、上行菩薩の再誕」です。
伝統教学では、
「本地自受用身 垂迹上行 顕本日蓮」 です。
お間違えのないように。
>>673 マハーバイロさん
>私は血脈抄も限りなく偽・・・と考えていますが、
私は"秘"についても懐疑的です、"文の底にしづめたり"に
色をつけてしまったのではないかと・・・・・
私の個人的な意見ですが、蓮租から日興上人への口伝法門というのは
日興上人の解釈をふまえ、日有上人の日蓮本尊論を補足する形で作られた
日寛上人による創作だったのではないでしょうか、おそらくそれは
(マハーバイロさんも指摘した)大石寺の正統性を打ち出す為という意図が
あったのではないかと。
日寛上人が整理・体系化した教義に、独創の部分をもつ可能性は否定できない
と思います、血脈抄(御義口伝)も偽書説がありますが、富士派で重要視
(六巻抄などでも引用)されているや百六箇抄などもまた偽書であるという
説が有力ですよね。
>>674さん
伝統教学というか日寛教学でしょう。
>>672 ◆Ey/JGY0AIさん
なるほど、玄義にあるとは勉強不足でした。
何度も言うように私は日蓮本仏は肯定しますし
◆Ey/JGY0AIさんのいう事も理解出来ます。
しかし、先ずはっきりしたい事は「蓮祖仏法」と「日寛教学」とは別々でしょう。相違してるでしょうと言う事です。
そこを認識した上で蓮祖を自受用報身と仰ぐならそれはそれでよいのです。
>>674 成仏の原理を覆い隠さずに、説明可能でしたら教えて下さい。
>>676 先にも書きましたが日寛教学には二つのテーマがあります、
石山正統の宣揚ですね。
私は天台教学を基本として久遠元初を展開したのは
開目抄、観心本尊抄から推察して大聖人の意に適っていると見ています。
また上行再誕は外用であり、大聖人は自身を上行再誕とは思っていなかったと
私は確信しています。
そして私は大聖人を本仏として仰ぎます。
なぜかならば大聖人なくば、私が妙法に出会うこともなく、
ここでこんな議論をしていることもないからです。
その上で、正宗教学は大聖人を上げ過ぎではないかと思うのです。
だからともすれば法主=現代の大聖人のような馬鹿な展開になるのだと思います。
そのために成仏の普遍性が隠れることはないかと感じるのです。
マハーバイロさんの違和感もここだと思います。
◆Ey/JGY0AIさん
本仏論を語る場合、
「久遠元初の自受用身が末法に日蓮として生まれた」と解釈するのは誤りだと思います。
久遠元初仏を神話の世界に追いやる過ちを犯します。
私は「生身の日蓮と」「生身の釈尊(ゴータマ)」のアイデンティティーを問うのが
本仏論の正しい認識だと考えています。
あくまでも「顕本日蓮」で、三身は久遠に遡って求めるのはなく生身の蓮祖の上に於いてでしょう。
>>675 母がさん。こんばんわ。
そういえば母がさんも2世でしたね・・・というかHN見れば明らかですが(笑
2世が故の気持ちをマターリとでも教えて頂ければと思います。
偽書というのも色々あるようで、六老僧時代にも既にあったと残されています。
亦、日寛師の時代は既に禄外遺文印刷が書店から発売されてるような時世だったようですので、
門流相伝に拘るのもある意味致し方ない面もあるかと考えますが、僧侶自らが偽書を作成したかどうかは歴史の謎です。
>>678 はいな。
「久遠元初の自受用身が末法に日蓮として生まれた」とは全く思っていません。
久遠元初にしても自受用身にしても神秘的なものとはとらえていません。
>>677 >成仏の原理を覆い隠さずに、説明可能でしたら教えて下さい。
「久遠釈尊の本地自行を今日において行ずる」でしょうか。
つまり久遠釈尊が仏になったやり方と同じやり方で成仏するということです。
「一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」です。
>>678 674さんが仰っているのは現代に於いて本仏論をどう捉えればよいか、
と言う事でしょうか?
>>679 マハーバイロさん、どうもです。
>そういえば母がさんも2世でしたね・・・というかHN見れば明らかですが(笑
>2世が故の気持ちをマターリとでも教えて頂ければと思います。
そうですか、実は俺もマハ−バイロさんとは信心について話してみたいと
思っていました、以前別スレであなたが学会員だと知って驚愕し、その直後
にS班と聞いてまた驚愕したもので(笑)
>>682 といいますか、もともと蓮祖本仏論は
>>678のような扱いで作られたのでは、と考えています。
もちろん現代に於いて耐えられる“本仏論”も思索しています。
>>678 >>681について、考えてみました。
自分の中で大聖人を仏と仰げるかどうかということですね。
大聖人の成仏を確信できずに、自分の成仏はない。
まさにその通りだと思います。
一番の要の部分ですね。
慎んで訂正し、自分の中でもっと考えてみます。
>>678について少し続けてみます。
経相に於ける釈尊は久遠に仏と成った存在で、
また歴史上の釈尊(ゴータマ)も、(大乗を修める者にとっては)その意義を背負わされています。
釈尊(ゴータマ)のアイデンティティーは「仏に成った人」であり、本地を問えば寂光土にて顕本する存在です。
したがって生身の釈尊(ゴータマ)が娑婆世界のナマミの人間で在る以上、
それは「垂迹化他」となります。
一方蓮祖の場合、そのアイデンティティーは「菩薩道を行じる凡夫」です。
蓮祖の行体を「久遠本仏の本地の自行を末法に移す」と解釈した場合、
娑婆世界で「生身のまま顕本」出来ることになります。
かなり乱暴に端折って述べましたが、本仏論の大筋は
大体こんなかんじではないでしょうか。
>>686 674さん。宜しくお願いします。
私も実は、
「大聖人が久遠に移されるのではなく、逆に、久遠を末法今時に移すのである」
という解釈には伝統教学からもやはり逸脱してると思いますけど、
「信者当に知るべし末法今時は全く是久遠元初なり運末法に居すと雖も而も宗は久遠に立つ久遠は今に在り今は則久遠なり」
当流行事抄より考えると
>久遠本仏の本地の自行を末法に移す
とも違うような気がするんですよ。(´-`).。oO(ウ〜ン人間主義?久末一同法門?)
>>686 674さん、こんばんは。
先に私が挙げた天台の法華玄義の文に通じる考え方です。
「過去・中間・今日・未来の発迹顕本亦最初を指して本と為す、三世乃ち
殊なれども毘盧遮那一本異ならず、百千枝葉同じく一根に趣くが如し』
その意図とは反対に、今の日蓮正宗の大聖人像は「垂迹化他」となっていますね?
学会が三代会長を永遠の指導者とする意義が現れます。
ともに久遠の菩薩行を歩むものということです。
しかし大聖人が正宗教学によって次第に絶対仏に祭り上げられたのと同じで、
この方法では、やがて学会も同じ道を歩むでしょう。
もちろんその時には次の人がその迷妄を打ち破っていくでしょう。
結局、仏因仏果両方を示しつつ、永遠に衆生を救済する道はないのかもしれません。
絶えざる仏果から仏因に向かう原点回帰の連続が必要なのですね。
(゚Д゚≡゚Д゚)エッナニナニ?
>>688 >今の日蓮正宗の大聖人像は「垂迹化他」となっていますね?
凡夫僧として妙法を説く姿自体が久遠の本仏の垂迹の姿となるのだから、
本地自行の法に依って自行化他を行う即久遠本仏になるのではないでしょうか。結局「垂迹化他」と同じか(?
どちらかというと三代会長を菩薩として垂迹化他と解釈する可能性が・・・?があるのでは?(ワカラン
本迹をいうなら凡夫は本で仏が迹です。
人間を離れて仏はないし、仏法はないのです。
どんな言葉で飾っても架空の仏は架空ですね。
しかし架空が悪いといっているわけではありません。
>>690 ◆Ey/JGY0AIさん。どうもです。
◆Ey/JGY0AIさんとの対話で何か違和感があると思っていましたが・・・
>本迹をいうなら凡夫は本で仏が迹です
これが逆と思う。
再往して凡夫即本仏を言うなら解かりますが、元来は、
学会でも正宗でも法も人も仏が本で凡夫が迹だと思います。
>>687 >>688 こんばんは。
>>久遠本仏の本地の自行を末法に移す
>とも違うような気がするんですよ。
「久遠本仏の本地の自行」とは「久遠元初直達正観の妙法五字」と同義です。(のつもりで書きました)
私はこの辺の「日寛教学」にはあまり違和感は感じないのですが、、、
マハーさんの感じる「伝統教学」(それは血脈抄等の相伝書を含むのでしょうか?)との違いとは、
どの辺を指しているのか教えて下さい。
>その意図とは反対に、今の日蓮正宗の大聖人像は「垂迹化他」となっていますね?
>学会が三代会長を永遠の指導者とする意義が現れます。
学会では「蓮祖本仏」→「凡夫本仏」みたいな傾向が一時期ありましたかね。
中古天台本覚も、しまいには「修行せずとも元々悟っている(修行しなくてよい)」というところまで落ちていきます。
学会は今、教学に対してあまり本腰を入れていません。
またネットで他流や同門の方の議論など拝見するにつけ、
今の学会の教学は内外に晒すことに耐えられないとの危惧を感じます。
書き込み中に投稿があったようです。
仏=能化、衆生(凡夫)所化 これはこのままですよね。
>本迹をいうなら凡夫は本で仏が迹です。
これは諸法実相抄にありますね。
此処で言う「仏」とは化他仏のことを指しているのだと思います。
>>689 >凡夫僧として妙法を説く姿自体が久遠の本仏の垂迹の姿となるのだから、
マハーさんとの違いは此処で出るのですね。
私の場合は
「凡夫僧として妙法を説く姿自体が久遠(元初)の本仏の顕本」
と考えています。
>>670 いいたいことはそういうことです。
超スーパーな絶対神的な仏は架空です。
正宗の大聖人像も意図に反してそうなっているといいたいわけです。
間違っていただいては困りますが、私は成仏を信じてますよ。
また菩薩だけでは仏果を伴わないので、衆生の信を呼び起こすには、
どうしても仏果を備えた菩薩を示す必要があります。
法華経の地涌の菩薩然り、天台の自受用身然り、正宗の日蓮本仏然りです。
しかし、これは諸刃の剣で、間違えば絶対神信仰に置き換わる可能性があると思うのです。
674さん どうもです。
私は総勘文抄より、
「過去と未来と現在とは三つなりと雖(いえど)も、
一念の心中の理なれば無分別なり」
大日蓮 平成7年12月 第598号
********
顕本後の大聖人は、即、久遠元初自受用報身であり、
大聖人の一身に具わる境智は我即法界、久遠即末法の一念である。
故に大聖人は、無限大の時間空間を統(す)べる十界本有の生命の中心実体である。
よって末法の今は、そのまま直ちに久遠元初である。久遠は今よりほかにない。
大聖人が久遠に往くことも、我々が久遠に往詣して自受用報身を拝することも、
そして本地真仏を末法に遷座願うことも、その一切が無為徒労である。
********
(大日蓮を引用するけど誤解しないでね)
そのまま、なにもせずに久遠即末法と言う事とだと思っているのですが(ムズカシイ
すみません落ちます。おやすみなさい。
亦明日の夜来ます。
>>695 ◆Ey/JGY0AI.さん
同意です。
学会でも久遠元初仏をあたかも唯一神のような感覚で認識している人を多々見ます。
それに加えて「宇宙生命」なるキーワードが重なると、もはや手に負えません。
>>696 マハーさん
「久遠即末法」、私も異存有りませんが、その意義を顕すためには、
末法蓮祖の法華経身読が必要条件ではないでしょうか。
つまり蓮祖の法華身読の行体と、久遠本地の自行(久遠の菩薩道とも云えるでしょうか)とがリンクすることによって
「久遠即末法」の意義が完成する、と。
さらに「法華身読の行体」=「久遠名字直達正観の妙法五字」=◆Ey/JGY0AI. さんの云うところの
「絶えざる仏果から仏因に向かう云々」「仏果を備えた菩薩」=三身相即の顕本
の展開になるのではと思います。
では私も落ちます。
◆Ey/JGY0AI.さん
!今すごい発見をしました(驚
トリップがJGY0AI=「自行会」になってる事に!(-人-)ナーム・・・
>>672 ◆Ey/JGYOAIさん
>久遠の妙法は、学会に入っていようがいまいが、また御本尊がなくとも、
>証得する人はいるのはむしろ当然でしょう。
>それは御書にも書いてありますし、日寛上人も書いています。
それは、知りませんでした。御書の何ページにあるのでしょうか。
時間に余裕のある時にでも教えてください。
, -, - 、
,、 ,、 ,イ!〃 , ='‐ \__ト,__i、_ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
l T! Tl'lT_-r-、ィ_‐_7´ l l! l! | |
l、` ` lヽ_lー〈!_,. - ´j _ -, ! | 法華戦隊 ニチレンジャー!
\`丶!、l  ̄ l /,ィ ´ / ._ノ
\ i、!  ̄ l´ ,ィ ヽ/ ` ̄ヽ
\ lヽ‐_7´ ll / ゝ `ー―――――――
,「  ̄l ゙ー-、__rへ、
,.へ-‐'")./ / _r'" r‐、`i
,//___.ヾv / ,...-‐‐'''" ̄,. / /" ヾ!
,イ 「 l !l ;/ / l / / !
!i ! l! lレ' / 、 l" / \
ll l! _ l l.l / r--、__ 「! l f、 ヽ.
}! レ''"''ヽ ,,/-.、 ゙̄ー`=i ヾ !、l_)‐、 ヽ.
{ヾ" ` ー―'' / \ ヽ
l l ''" ,,/ ヽ、 _,. !、
l .l / ,> ヽ.
! ! ./ ,_,.:' ,/
} {__r==、______,r'' / \ ./
.ノ ,) l「~i」 ,.-‐''"ヽ、. / l,,..:-‐'
/ f ゙ーニニ---‐‐f_,;;'",,゙ニ ゙ー'" ,.:_/
i゙ l ヽ",.r--、__ ,ヾ_,.-‐''"
L__」 「
l / l
>>694 の674さん
>「凡夫僧として妙法を説く姿自体が久遠(元初)の本仏の顕本」
私も確かに、このように思います。異存ありません。
<顕本>とは「迹を払って本地を顕す」ですから、私の<本地垂迹>の理解が足りないかも知れません。
「迹を垂れる」<垂迹の本意>を再考して見ます。
こんな言葉があります。
「子供にお説教をすると、子供はお説教をすることを覚える」
「子は親の背中を見て育つ」
子供にお説教をしても言うことを聞かず、お説教をしている親の行体を覚えてしまう。
よって、親は子に教えるべきことを「子の立場まで下りて自ら実践して示さなければならない」という話です。
仏の衆生化導を考える上で大きな示唆を含みます。
これを蓮祖本仏論形成の図式に当てはめてみますと、
「子供」とは当然「末代劣機の衆生」です。
すると末代衆生を成仏に導く為に教主は“仏が仏になったやり方”を自ら衆生の目の前で
行じて見せなければならない。こととなります。
それはすなわち久遠仏を仏たらしめた「久遠本地の自行」=「南無妙法蓮華経」=「正法を不惜身命に行ずる菩薩道」であり、
末法法華経の行者日蓮の実践とイコール。と解釈されます。
一方、お釈迦様は“仏さま”ですので「親の立場でお説教をする」存在です。
しかしながら、お説教を聞く側は「分別のあるオトナ」つまり上機の衆生です。
お説教を聞いて自ら成仏の種を覚知することが出来ます。
迹門における声聞のごとしです。
「末代の衆生がいかに救済されるか」というテーマは、鎌倉仏教全般にも通じ、
蓮祖本仏思想の見逃してはならない背景だと思います。
日蓮が仏になったっていうけど、俺には他の人とどう違うのかわからん。
具体的に仏の力で人を救ったとかそういう実績あるのか。
雨乞いとかそれ程度?
いいことやった歴史上の人はいくらでもいるけどそれよりも偉いのか?
日蓮宗を信仰していることでいいことやった人って、あんま知らないし(宮沢賢治とか226事件の将校とか?)。
他の宗教の方がよっぽど多そう。
やったことは法華経(というか唱題)ひろめたことだけど、
そもそもが釈迦の思想とは関係のない創作経典なんでしょ。
ようするに日蓮は「思い込んじゃった」だけだし、
仏教の中で法華経が最高だなんてコンセンサスは、一般的に得られてないわけでしょ。
なんか、議論の意味がわからん。
専門用語ばかりというのもあるかもしれないけど。
俺の感じ方って何か間違ってる?
いや、煽ってるんじゃなくて、率直なところ聞かせてほしい。
>>696 つまり、日蓮は三世の業を否定するという立場に立つと理解してよいのでしょうか?もしそうなら、末法思想も否定していたと考えていいのかな?
>>705 コーク港さん お久しぶりです。
我見ですが、蓮祖は現代から見る所謂<生まれ変わり>や<輪廻転生>の概念を持ってなかったのではないかと思ってます。
現代我々が考える<生まれ変わり>には何らかの記憶や無意識の持ち越しが必要ですよね。
これは有得ないと思います。
御書にも過去の個と現在(鎌倉時代)の個を結びつける表現は出てきますが、意識の持ち越しが無ければ、
今で言う<生まれ変わり>にはなりません。記憶を持ち越さなければ意味がないですもんね(笑
>>704 >俺の感じ方って何か間違ってる?
間違ってないと思いますし自然だと思います。
というか、感じ方に間違ってるも正しいもないと思います。
704さんがそう感じるのでしょうから・・・
704さんが求める視点の方向と私が求める方向が違うだけと思います。
>>706 日蓮は法華経を歴史的事実だと思っていたんじゃないかな、輪廻に関しては自身で上行菩薩と言い切るから、永劫に菩薩に生まれるから、語る必要がないというスタンスなんでは?
輪廻と記憶の持ち越しですが、うーん…ダライ・ラマさんにでも聞いたらわかるのかな(笑
まあ、個としての記憶はアラヤ識に種子が薫重し、さらにそれに内包されたアマラ識が仮生として分別された個として輪廻すると解釈しては?
>>704 >ようするに日蓮は「思い込んじゃった」だけだし、
>仏教の中で法華経が最高だなんてコンセンサスは、一般的に得られてないわけでしょ。
激しく同意です。
しかも日蓮の弟子の一部(?)は、その思い込みに屁理屈を捏ねまわし
無理やりに正当性や正統性を主張し、こともあろうにその程度の根拠で
他宗や他派を批判するという愚を繰り返してきました。
その弟子の末席には創価学会も座しています、情けない限りです。
ただしこのスレは、正統性云々とは関係ない知的好奇心追求の場でも
あると思います、日蓮の御書を読みつつ鎌倉時代やら江戸時代に思いを馳せる
というのもまた楽しいものですよ。
>>707 >>709 返事してもらえないかと思ったけどありがとうございます。
なんか安心しました。俺だけ大事なところ理解してないのかな?と思って。
ようするにこの議論って、「すでに終わってる」ことについて話してるわけで、
本気で日蓮とか創価学会が正しいとか間違ってるとか議論しているわけではないのですね。
なんか約一名本気(マジ)な人が混じってるみたいですが・・・。
>>710 >ようするにこの議論って、「すでに終わってる」ことについて話してるわけで
アハハ・・・・
「すでに終わってる」というよりも、むしろ「古くて新しいテーマ」
くらいに言っといたほうが、当り障りが少ないと思いますが(^^;
>>711 どの辺が新しいのかな?
なんか、こういう議論をする(しなければならない)意味が知りたい。
これって、やっぱ日蓮宗の人たちにとっては重要なの?
日蓮は結局間違ってたけど、間違ってるなりにどっちが筋が通ってるかを議論しているように見える。
端から見たらどっちも間違ってるんだからどっちがましかなんてどうでもいいんじゃない?て思うし、
それより現在になって明らかになったことを前提にしてどう教義を組み立て直すか、どう過去を反省するか、
ということの方がずっと大事だと思うよ。
そうじゃなくて、「どう過去を間違っていなかったことにするか」に一所懸命になってる人がいるようだよね。
今も拉致被害者と拉致被害者家族と支援者に対する暴力や脅迫や、ネット上での中傷がやまない。
ザ・ワイドのなかで草野仁さんが、 「蓮池家への嫌がらせこそ考えなくてはいけない」 と発言されていたが、
金正日容疑者が拉致を認めるまでは、現在とは比較にならないほどの悪質な嫌がらせが、
拉致被害者家族に対して繰り返されていた。
横田夫妻宅の前で、夜中に故意に「反日集会」を開き、 大声で狂ったように騒ぎたてる。
街頭で拉致被害者救済活動を行う横田夫妻に生卵をなげつけて暴力をふるう朝鮮学校の生徒たち。
拉致の実行犯の中に朝鮮学校教諭がいる事実は、週刊ポスト2003年5月23日号でも掲載されたが、
多くの在日朝鮮人が北朝鮮政府の犯罪の共犯である事実がばれないように、 拉致被害者と被害家族を
陰湿な暴力と嫌がらせで脅して黙らせようという魂胆なのだろう。
在日朝鮮人どもは、いい加減に拉致被害者と被害家族への嫌がらせをやめろ。
◆【暴力】 増元照明さんに、投石。
4日午後1時ごろ、東京都千代田区外神田の路上で、参院選で東京選挙区から
無所属で立候補している北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)事務局
次長の増元照明候補(48)が乗る選挙カーに石が投げ付けられた。 (時事通信 2004.07.04)
◆週刊文春2002年12月5日号 元総連幹部の告白より
「総連は問題が起こると常に集団行動で圧力をかける。私も支部の人間に連絡網で指示を出し、
午前の部と午後の部とに人員を行かせ、 さらにそれと並行して、公衆電話から抗議の電話を
かけさせたことがあります。わたしたちはこれを波状攻撃と呼んでいました。」
総連の拉致問題の関連を指摘した、民主党の中川正春議員の地元の事務所では抗議の電話、
ファックス、メールがまる2日間途切れなかった。しかし、抗議文を見ると論説が共通しており、
ファックスの発信元を見ると多くが総連の支部から発信されたものなのである
>>712 >どの辺が新しいのかな?
歴史や歴史的人物の解釈というのは、古くて新しい永遠のテーマでしょう、
そういう一般的な意味ですよ。
>端から見たらどっちも間違ってるんだからどっちがましかなんてどうでもいいんじゃない?
私もそう思いますよ。
実は私、日蓮の本意などはどうでも良いのです、大切なのは今生きている
人間だから、今を生きている日蓮の弟子同志の関係や弟子達の他宗信徒への
態度の方が私にとってはずっと重要な問題なのです。
だから見苦しく争うくらいならばいっそ、御書の解釈などはどちらも可に
すればいいと思う、宗派それぞれ、人それぞれ、何でもありで良いと思う、
今が丸く収まるならそれも方便、それも随法毘尼、破邪顕正など角が立つだけ
で無意味だと感じるようになりました。
>そうじゃなくて、「どう過去を間違っていなかったことにするか」に一所懸命になってる人がいるようだよね。
残念ながら、そういう方もいるようですね。
>>714 なんかくだらない横やりに手を煩わせてしまったみたいですいません。
俺は別にあなたに対して不満とかあるわけではないので、その点は誤解しないでほしい。
こういうことにマジになってる人が不可解というか、怒りを感じるだけで。
俺は2世だけど、やっぱり子供のころは創価学会が正しいと思うがゆえに周囲との軋轢は
絶えなかったし、今でも「創価学会が正しい」と思わなければならない、
という呪縛から逃れられずにすごく苦しんでいる友達とか見てる。
そもそも「全てが間違っていた」んなら、かえって好都合。
もうそんな何が正統か、なんてことで争わなくていいんだからさ。
それなのに未だに「古い」議論をやっている奴らを見ると、ちょっとだまってられなかった。
そろそろROMに戻るよ。がんばってください。
所詮人間なんて誰とは言わず、どうでもいいことに拘って生きてるモンだからね。
全知全能の神が論理的に破綻しても、一神教の世界ではイスラム教やキリスト教が信仰される。
ものごとを二元論に振ってしまえば、そりゃぁ楽にきまってるし、溜飲も下がるだろう(笑
>>715 古い議論とは思っていません。
戸田氏の「生命論」は「久遠本仏」を「生命」という言葉に置き換えただけだし、
池田氏はそれを「人間主義」「革新」に依って凡夫側人間側にやや傾倒させたのだと思います。
然し、2世の人は不思議です。なにがそんなに許せないのかが理解できないし・・・
アンチになる2世とバリになる2世の違いは何故なのでしょう?
もう少しつきあってもいいかな。
>>717 「古い」っていう意味は、大乗非仏説が前提になってる現代で今更、っていう意味だよ。
それが日蓮への批判にならない、というのは俺には意味がわからん。
どう考えても日蓮の主張が根本から覆ると思うから。それが普通の考えだし、大多数だろう。
でもこのことについてマハさんと議論するつもりはないよ。
今の創価学会が教義をどう捉えているのかは知らない。でも、子供の頃から「原理主義」として
この唯一正しい宗教を信じろ、他の宗教は不幸になる、って教育されたら、おかしくなって当然だと思う。
要するに世間の常識と学会の常識が違うわけで、2つの世界の常識ができあがっちゃうんだな。
「学会が正しい」に決めちゃった人は、たぶんもう苦しまない。
でも、「やっぱりおかしい」になった人は、おかしいとおもいながらも、
宗教的恐怖やすり込み(地獄に堕ちるとかね)、信仰がない生活への無力感から、
完全に創価学会からは離れられない。
たぶん、すでに「世間の常識」ができて人格形成時期が過ぎた人が信仰するのとはわけが違うと思う。
そういう人は「世間の常識」がベースにあるから、本気で宗教的恐怖をもっていないし、宗教も
本気では信じていなくて、ある程度距離を持って見ていられる。
自分に役立つなら信仰するし、自分に合わないなら信仰しない、という自由があるわけだから、余裕もあるのでは。
心理学詳しい人とかにちゃんとした言葉で説明してもらいたい・・・。
>>708 コーク港さん
確かにAlayaは如来蔵識、無没と訳すみたいですね。生死無没でしょうから・・・
アラヤ識が繋がっているとか輪廻するとかの解釈もありですね。
でも輪廻しても別人だから・・・と思うのですけどね〜
それに非情にも八識があるのでしょうか?
>>718 う〜ん。私が学会に入会して思った事は、以外と居心地が良いこと・・・が面白い組織だと思いました。
あんまり強制とかないですしね・・・
家庭教育の中での信仰となると違うのでしょうね・・・
私も今後の子供の教育をどうすれば良いか悩んでいます・・・
処女懐胎が根拠にあっても、キリスト教は信仰される。
大乗が仏説でなくとも、大乗は信仰される。
同じこと。
>>719 法相唯識教学と言うのは、私の敬愛する秋月禅師が言いますが、仏教の土台たる古代インドの輪廻説と釈迦の無我論との矛盾を解決する方便だと言われます。
無我ならば何が輪廻するか?、何故に過去世の記憶が無いか?釈迦は無記で答えたが、後世において信者に説明手段がなければ安心決定が難しいのである
続き
その中で自己は無我であり無常に変化し続けるアラヤが輪廻する、そしてアラヤは因果律により作用しながら変化する(まあこれを人生と考えて)そして因果律の働きがまたアラヤ識に蓄積される
つまりアラヤ識は巨大な記録装置であり我々は末端感覚コンピューターみたいな物で寿命が来ると廃棄される、記録装置としてのアラヤ識は末端から情報を得て、末端古がくなれば廃棄してまた設置するこの働きは無常である。
これが法相の八識だが、密教はさらに九識を立てるアマラ識である、それまで巨大記録装置と末端コンピューターを同一に見ていたが密教は巨大記録装置は無数の感覚コンピューターがあり、末端感覚機を仮生としての個とした
説明するとコーヒーに砂糖を入れるとさとうは溶けてなくなるが、飲むと甘い砂糖はなくなったが味として存在する、この関係が無我である仏教が造った仮生としての個なのである、そして日蓮は九識の心王(仮生としての個)が南無妙法華経であると言う
我々はアラヤ識から生まれ、アラヤ識に帰り、アラヤ識でもある、アラヤ識は如来蔵でもある、すでに自分でもよく解らないようになって来た(笑
>>717 マハーバイロさん
>然し、2世の人は不思議です。なにがそんなに許せないのかが理解できないし・・・
>アンチになる2世とバリになる2世の違いは何故なのでしょう?
2世は自ら入信という選択をしたわけではありません、ですから入信動機も
ありません、そういう人間にアンチ的な意識が芽生えると、当然のように
「俺は今までずっと騙されていたのでは?」という疑問が湧いてきます、そして
「騙すなんてヒドイ」から「騙すなんて、許せない」という気持ちになってきます。
今まで社会の常識だと思い込んでいたことが、一般的には非常に特殊な
考え方であるという事や、場合によっては単なる非常識でしかないということ
が分かると、自分の今まで取ってきた行動・発言がとてつもなく恥ずかしく、
情けなく感じられる・・・・それと共に何処にもぶつけ様のない激しい怒りも
込み上げてきます。
そうなると学会組織、学会特有の考え方、行動パタ−ン等が許せなくなります、
だから厳しく批判したり、攻撃したくなるのです、私自身にもそういう時期が
ありましので、
>>715(704)氏の「許せない」という言葉はわかるような気がします。
でも30過ぎたいい大人が、「騙された」だの「許せない」なんて恨みがましい事を
言う気はありませんよ、今は"人生万事塞翁馬、学会のお陰でこの板で色々と
語り合える、それもまた楽しからずや"という心境ですね、ハハハ・・・・
>>728 母がさん。どうもです。
私は学会の未来部というのは、ずいぶん宗教色が薄いと思ってるのですが・・・
「教会」と「ボーイスカウト」を少年時代に経験した私には、ほとんど「仲良し会」に見えます・・・
それに組織的には学生部から青年部の時に選択の自由があるように思えます・・・
やっぱり家族間の問題が一番のカギなのではないでしょうか?
「いつかは必ず正法に帰依する」この家族の期待が重荷なのでは?
>>729 マハーバイロさん、こんばんわ〜
>私は学会の未来部というのは、ずいぶん宗教色が薄いと思ってるのですが・・・
>「教会」と「ボーイスカウト」を少年時代に経験した私には、ほとんど「仲良し会」に見えます・・・
うーん、そうですね・・・・難しいですねえ・・・・
宗教色が薄い、選択の自由がある・・・・そういう見方もできなくもないですね、
でも共通の話題としての池田先生や日蓮というものは、やはりあるのです。
できれば教学試験だけは、受けさせないようにしたほうが良いのではないかと
思います、
>>718(704)氏も指摘していますが、大抵は原理主義に陥りますし、
子供の中に"2つの世界の常識ができあがってしまう"、学会教学は洗脳教育だと
思いますので。
漢文と中国語って違うんだけど
>>729 マハーバイロさん、こんばんは。
信心の継承は、家族で信仰体験を共有していないとむずかしいでしょうね。
参考になるかどうか分かりませんが、私のことを話します。
書いてたら長くなってしまったので、2レスに分けます。
私は実質三世(実際には2.5くらい)ですけど、多分みなさんとは世代が違います。
私自身、二児の父ですし、、、。
うちは昔おんぼろの町工場で今の金額で1千万くらいの借金を常に抱えてて、
母がくるまでは経理がざるで取引先から何度も騙されてたそうで、
窓はテープで補強して、畳はぼろぼろ、裸電球って家でしたから、
家も新築して、貸しビルも建てて、アパートも経営してという
現在の状況は、親が信心と努力で切り開いてきたものといえます。
母は、嫁いできてあまりの状態に唖然としたといっています。
子供の頃、私は家が貧乏でも気になりませんでしたが、
弟妹たちはかなり恥ずかしかったようです。
父は信心一徹の人です。父は20の時に祖母の影響で学会に入りました。
父には入信動機らしい動機はなかったと思うのですが、
私の覚えている限り、どのようなことがあっても本当に全く流されたことがありません。
学会の幹部としてあちこち走り回っていたので、子供の記憶としては
月一度くらいのドライブくらいで、後は家にはいないようなものでした。
隠居した今でも毎日3時間題目を上げ、学会活動に走り回っています。
小さい時に、仏法の宇宙観や生命論などを話してくれたのが今でも覚えていますが、
信心について父からやかましくいわれた記憶はまったくないです。
こちらから質問や悩みを相談した時に、信心の上から話をしてくれるという感じでした。
そして、私の母の努力は凄まじいものでした。
今でも母と経済や経営の話をするのはとても楽しいのですが、
毎日、遅くまで帳簿と家計簿をつけて資金繰りしていたのを覚えています。
ですが、お金が必要なときに、不思議と銀行から融資が受けられたり、
地主の方の都合で、借りていた土地を安く購入できたり、
まさに大事な時に運を味方にしてきたのだと今も感じます。
母は小学生の頃から私達に勤行を教えました。
カレンダーの裏紙に、マジックで花などの絵を書いて、
勤行したら色を染めるというような楽しみを与えながら工夫していました。
座談会は小学校時代は子供だけで留守番のことが多かったですね。
あと一度友達に誘われておかしがもらえるから日曜学校に行きたいと言ったら、
ひどく怒られたことを覚えています。
その他にも、我が家はいろいろな体験を重ねてきましたので、
私は入信動機はないわけですが、この信心は正しいという思いはあります。
しかし信心に関しては、現在は弟妹たちのほうが素直です。
私はどちらかというと理に走ってしまい、実のところ今はなかなか活動に取り組めません。
私の場合は学生部時代が一番活動にがんばった時でしたね。
でもがんばってしまうと駄目なのです。
私は少年部会からずっと必ず参加してきましたが弟妹たちはそうでもなかったのです。
でも今は妹たちは誰とでも友達になり、多くの友人を作っています。
こういう自然なつながりの中で学会理解の輪を作っていった方が間違いなくいいでしょう。
だから、私はあまり親が強制しない方がいいと思うのです。
やっぱり信心が大事だと思えば、いずれやると思います。
親は自分の確信を語って基本を教えたら、あとは子供の好きにさせればいいのだと思いますね。
>>733 あなたのお母上の信仰心が凄いのであって
その信仰対象は凄いものでもなんでもないのです
信仰心と組織の用意した信仰対象とは何の関係もないのですよ
同じものを信仰することは出来ないのです
人が違えば信仰心も違う、その対象も、人一人ずつに存在しているのです
ただ、それでは宗教組織として成り立たないので、同じものを信仰しているように思い込まされているだけなのです
信仰は真摯であればそれでいいのです
もとより違うものを信仰するしかないのですから
何を信仰しようと、真摯であればいいのです
ただ、その真摯さを利用しようとする組織には気をつけねばいけないと思います
>>734 Sbさん
どうも久しぶりです。
>あなたのお母上の信仰心が凄いのであって
>その信仰対象は凄いものでもなんでもないのです
>信仰心と組織の用意した信仰対象とは何の関係もないのですよ
>同じものを信仰することは出来ないのです
ですね、実は私もそれを言いたかったのですが・・・・・・
果たして言っていいものか・どうか、と迷っていました。
>>732-733 ◆Ey/JGY0AIさん
あなたのご両親は"信じた"から救われたのだと思います、
決して、"創価学会に所属していた"から救われたのではありません。
信じてがんばった、だから報われたのです、がんばったのはご両親です、
すべてはご両親の努力の賜物だと思います。
>>704さん
要は皆さん、言葉遊びをしているんですよ
本気で考えているなら、“大乗非仏説”または“大乗非釈迦説”をまずは克服するべきだし、スレをみてたら法華経そのものの差別思想を認知しているくせに黙殺し続けている人もいるし…
まぁ別に悪いことではありませんが…
楽しいことはよいことですからー
>>720 その気持ちはなんとなくわかるよ。創価学会って、内部で仲間でいるうちは温かくてよい組織だと思う。
子供のうちは、神社やお寺でお参りしてはいけない、って程度かも。
本格的に宗教教育叩き込まれるのは学生部からかな。S班なんだったら、そこでもけっこう厳しいと思うけど。
あんまり知らないけど、大学校(?)では、本流しないと卒業できないんでしょ?
「折伏しろ」「折伏しないといけない」って意識を持たされるとこからヤバクなる。
「唯一性」とか、他の宗教で不幸になる、ってことを叩き込まれるのもここから。だってそうじゃないと折伏する動機が薄いからさ。
>>728 感情は大事だと思うけど。
それに2世特有の悩みとか怒りとかを単なる反抗期のガキの甘え程度の問題で片付けないほうがいいと思うけどな。
人によって環境はだいぶ違うんだろうけどさ。
学会の激しさというか異常性を感じるのは、教義よりも、個人崇拝的なところかな。
やっぱり北朝鮮みたい。
>>734 Sb ◆SbSGI7AtEAさん
>>736 母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQkさん
こんばんは。また、ありがとうございます。
しかしお二人のいわれていることは、半分は正しく、半分は間違っていると思います。
なぜかならば、思想宗教がどれも同じということはあり得ないからです。
信じる心と同時に、信じる対象が大事なのです。
極端な例を挙げれば、麻原を深く信じれば殺人者になるのと同じです。
日蓮系の宗教が、現実と深く対峙し改革しようとするのは、
法華経の「娑婆世界こそが仏の本国土である」という思想によるものです。
念仏の極楽往生の思想を深く信じれば、この世に長居するのは馬鹿らしいことです。
あきらかに思想宗教には人生を左右する力があります。
その上で、"創価学会に所属していた"からではないことは同意です。
仏法に限らず、人生の一切は信じるということによって成り立っています。
まして、宗教は信をその本源の力とします。
信なくして、いくら学会にいようが、題目を唱えようが無意味です。
もちろん行為を起こすこと自体にはすでに一分の信が含まれているともいえるわけですが。
>>739 ◆Ey/JGY0AI.さん
レスありがとうございます。
>なぜかならば、思想宗教がどれも同じということはあり得ないからです。
>信じる心と同時に、信じる対象が大事なのです。
対象など関係ないと思います、大切なのはただ"信じること"のみ、
それだけではないかと思いますよ。
"ご本尊に地区同志の手術成功を祈る学会員"、"行き倒れの人達を世話し
神に祈りを捧げるマザーテレサ"、"子供の無事を祈りお百度参りする母親"
この人たち3人の信仰や真心に違いがあるでしょうか、優劣がつけられますか?
>極端な例を挙げれば、麻原を深く信じれば殺人者になるのと同じです。
それは信仰の問題ではなく、組織の問題です。
どのような信仰も、常識や法から逸脱した組織に利用されれば
そこに所属する人は不幸になります、それは創価学会という組織にも
言えることですよ。
>>738 レスありがとうございます、あなたも私と同様、二世でしたか。
>感情は大事だと思うけど。
>それに2世特有の悩みとか怒りとかを単なる反抗期のガキの甘え程度の問題で片付けないほうがいいと思うけどな。
そんな風に簡単に片付けるつもりはありませんよ、創価学会の問題は
単純なモノではなく、大きくて根の深いモノだと思っています。
でもかつてのように「許せない」という強い感情を前面に出すのはやめました、
そういう反応も理解できますが、私は一応乗り越えた(つもりw)です。
"問題意識を持つ事"イコ−ル"感情的である事"ではありません、静かに、
穏やかにそして粘り強く主張しなければ、伝わらない気持ちもあります。
>>740 こんばんは。
たしかに信仰の対象の如何を問わず、祈りを捧げる人の真心は変わりないでしょう。
しかしながら、信仰の対象たるべきモノは“よりおおくの人にコンセンサスが得られるモノ”
でなければならないと思います。
例えば路傍の石コロに祈りを捧げる人がいるとして、それはそのヒト個人においては完結するとしても、
それによって他者と苦楽を共に出来るかというと、難しいモノがあるでしょう。
ヒトは他との共感の中で自己のアイデンティテーを築き幸福を感ずるものです。
そう言った意味で信仰の対象は、より多くの人によって「祈るにたるべき対象と認められる存在」でなければなりません。
日蓮が「本尊とは優れたるを用うべし」と主張し、本尊の勝劣に拘ったのはこのような理由によると考えます。
もっともこの場で、日蓮所顕の本尊が唯一絶対正しいなどと主張するつもりはございません。
日蓮がどう考え“あの教えを”築いていったかという好奇心です。
>>742 こんばんわ。
>もっともこの場で、日蓮所顕の本尊が唯一絶対正しいなどと主張するつもりはございません。
>日蓮がどう考え“あの教えを”築いていったかという好奇心です。
なるほど了解しました。
前にも(
>>709)書きましたが"知的好奇心の追求"という目的であれば、
ここで日蓮本仏や本迹勝劣に関する議論をするのも、一定の価値は
あると思います。
>>739 まず、学会の知識のみで浄土宗等の他宗を判断するのは
やめたほうがよろしいと思います。
日蓮系にも原理主義に奔りやすいという面や
法華経絶対による選民思想に陥り易い面
また、マインドコントロールをかけ易い要素があることなどの
マイナス面があるのですから
そして、他宗を真摯に信仰している人を軽蔑するのもやめたほうがよいです
それこそ、日蓮系のもっとも駄目な点であります
学会の言うような近道、最良の道など無いのです
人によって道は異なるのです
日蓮さんの教えでも、法華経でもすべての道を諦めることは出来ないのです
信じなければならない、疑わなくてはならないのです
真摯でなくてはならない、馬鹿ではいけないのです
>>742 他者との共感など幻想に過ぎません
結局は己に回帰するものです
同じものを信仰しているようで、みな違うものを信仰しているのです
幸福感は一つの救いでしかありません、救いはその時々その人によって変わってしまうものです
多くの人が良いというものでも下らない物など幾等でもあります
ヒットチャートに挙がっていることが音楽の素晴らしさを証明するわけではありません
猫も杓子も群がるブランド物が良い訳ではないのです
前ならえの人生など真っ平ごめんです
何故に人はメッセージを発するのだろう・・・
凝ったトリップをヒットさせてまで ┐(´ー`)┌
凝ったトリップ
例えばこんなメッセージ
♥
もし承認欲求のない人間がいたら、
その人は掲示板に書き込みなどしないだろう。
仏教は、何かを信じれば救われると言う教えではないと思うが。
学会の唱える「唯一絶対正しい教え」等というものはなく、ただ色々な縁で出来ている
現象が現れているに過ぎない。それはそれを構成している条件が変われば、いくらでも
変化し、常に同じ状態を保ち続けてはいない。それを自分(達)の都合よいようにしよ
うとしても、無理というものです。逆に自分の都合を通そうとするから「苦(ドゥッカ
、思うようにならないこと)」が生まれる。
まあ大乗は、お釈迦様に仮託した新興宗教ですから・・・
初期仏教マニアの方はどうかその辺の線引きを宜しくお願いしまつm(_ _)m
>>733 ◆Ey/JGY0AIさん
レス有難う御座います。
信仰心と組織への帰属意識とは全く別ではないですが、ある程度立て分けて考えなければならないし、
亦、語らなければならないと思います。
信心を子供に教えるのは、これは親である私の宗教でもあるので従ってもらうよりない。然し物事の判断の出来る年齢になって
改宗したいと言うのであれば自由にさせるしかないかと・・・
問題なのは、「帰属意識の植え込み」・・・
創価学会に帰依するのではないと言うことをハッキリさせた方が良いと思いますがどうでしょう?
2世の方の不満ってそういう処にあるのではないでしょうか?
つまり、自分の知らない内に学会という団体に属していたこと・・・それに怒りを覚えるのでは?
>>751 仏教は、何かを信じれば救われると言う教えではないと思うが。
仏教は滅苦の為の方法論でしょう、阿弥陀や日蓮曼陀羅を信じて安心するならそれでいいのでは?
大乗は非仏説です、しかし上乗仏教とて完全な仏説でもありません、仏教では釈迦は仏に成ったのは為正しかったからであり、正しいことは仏説であると言う考えがあります、ゆえに偽経とかがあるんでしょう。
「命は増える」ということも合わせて考えたほうがいいよ。
「輪廻」という考えには、
極めて「前世の一の命」に対して「今生の一の命」という継続性が語られることが多い。
「一対一の因果」があったほうが、布教に都合がいいからです。
でも現実には、一人の男と一人の女が出会って、4つの命になったり、7つの命になったりする。
だから、「因果」「因縁」は、実は論理として破綻しているんだよ。
「前世」はないし、あったとしても、関係ない。
(関係がないとすると、カルト運営には支障があるかもしれないけれど)
世界さん珍しいねぇ、刑而上の話をするなんて。
どうしたの??酔っぱらった?
>>世界さん
そりゃちがう、命が増えてると認識する主体を考えてみては?、無常で無我ですし、マナ識の妄想認識としてそう思うのでは?
世界さんがいるから世界があり、世界さんが死ねば世界は終わるでしょうに
自我は世界を認識するが存在させているのではない
どこかのカント厨も勘違いしていたな
日蓮さんの問題点は、仏教に原理主義を持ち込んだんです、原理主義とは根本経典に忠実な思想ですが、仏教には根本経典がありません、しかし日蓮さんは無理矢理に法華経を根本としてしまった。
これが失敗だったんでは?
>>759 カントとは違います、唯識ですよ、仏教ですし西洋の霊肉二元論とは違います。自我なんてありませんよ
あくまで、無我と無常でなくてはいけません
>>761 唯識論は主観に過ぎない
それこそ机上の空論だ
まあ、原始の一つの命から始って、
63億の人の命と、無数の生命に広がっていったことを考えれば、
我々は、一つの命なんだよ。
地球は一つの命と言いうる。細胞の集まりが人体だと言いうるように。
命は無数であり、一つである。それは矛盾しない。
>>762 詳細をきぼーん
>世界さん
一つは全てで、全ては一つ華厳経みたいな物ですか、西田幾多朗のいう、絶対矛盾的自己同一かな
>>764 だれが言ったかは興味ないですよ。
「自分の主張」をするのに、他人の名前を借用する必要は感じません。
池田さんの文章は、「借り物競争」のようですけどね(苦笑)。
>>765 では、ウパニシャットでは一つの世界が終わる時、その世界の住民は転生して他の世界にうまれるとありますから、まだ全員が転生してない可能性もあると考えてみては?
だから人口が増えてるとかは?
>>741 レスどうも。アンチの中には2世がかなり多いね。あとは折伏された人とかかな。
>>754 2世のことわかってないって感じるけど、マハさんの子供だったらあまり問題はないと思う。
母が(略)さんも言ってたけど、創価学会は洗脳教育だから。
自分で考える材料と方法を教えてあげればいいと思う。
仏法用語だけでは堅くなるので、先生は偉人の文書を引用してるのさ。
引用するだけなら誰でも出来る罠
「前世」は阿含経など初期仏教経典でも説かれてるってことぐらい常識ではあるが。
>>766 「行列の出来る生命論」ですか(笑)。待ちくたびれそうですね。
一対一の「生まれ変わり論」がすきなのですね。
私は嫌いです。
そのような考えが、ハンセン病を「業病」とする悪しき教えを守ってきた。
その意味において、妙法蓮華経は、最低の駄文です。らい病差別の原因の一つです。
「業病」と呼ばれたその差別の実態を、直接「全生園」で患者から聞きました。
>765の世界さんが
>池田さんの文章は、「借り物競争」のようですけどね
と述べているのは、日蓮以来の伝統でしょうね。
法華経では、法華経を信じないと「仏種」を絶たれて仏になれない、だけで
立正安国論に書かれている、内乱が起こるとか、他国に侵略されるとかは書
かれていない。
これらの災難が書かれているのは「金光明経」「大集経」「仁王経」などで
これら3つの教典を信じないと、内乱や外国の侵略を受けるのは分かる。しかし、
日蓮は、これら3つの教典から「借り物」をして、立正安国論で「法華経」を信じ
ないと国が滅びるとした。
>>772 すべては法華経のための裏付けでしかないんでしょうな。
利用するだけ利用して後は不要とされる。涅槃経はその最たる経典。
よく色香美味を滅したものです。
近年アメリカで聖職者が統一協会のイベントに参加してるのは、
聖職者に対して「伝道」を活発に行ったからです。簡単にいえば、要するに
誘われたから行っただけです。
それを、アメリカで多くの聖職者が文鮮明を認めたなどと言ってるんです。
こんなこと言ってもすぐに化けの皮はがれるのに・・・。
統一協会では、ナントカに勝利したという話がしょっちゅうあります。その
度に興奮が起こりますが、はっきり言って全部ハッタリなので、結局
その後も何にも変わらず、献金地獄は延々と続きます。
金大中を拉致ったのがKCIA≒勝共連合≒統一協会
だから学会と協会は元は対立していた可能性はあるね。
そうするとオウムが犬作暗殺もオウムのバックに協会でも辻褄が合う。
統一協会の親北は太陽政策の利権絡みっぽい気もする。知らないけど。
>>755さんへ
>仏教は滅苦の為の方法論でしょう
確かにそうなんだけど、創価学会の目指しているのは釈尊の説いた道とは
違う方向に向かっている気がするんだよね。
学会では
滅苦=欲望・願望の達成
としている感じがする。これは
>>732 >>733の様に自分の欲望をかなえるため
に、信仰生活に入っているということです。逆に言えば、学会に入り、お題目を
唱えれば、自分の欲望がかなえられる。果たして自分の欲望が満たされることが
「絶対的幸福」なのですかね〜。
>>776 ぞろ目をゲットしてしまいました。
本来の仏教哲学というか、宗教哲学の場合には・・。
自分自身の中にある「欲望」を抑えて、「心」を空にすることですよ。
その上で、自分自身の振る舞いを反省したり、これからの目標について考察すること。
すなわち、非常に内省的なものであると、私は思います。
その上で、他の人の心配をしたり、部下のことを思いやったりするのが、慈悲の心ではないか?
それが、本来の宗教哲学のありかた。
一般的な仏教では、年末の除夜の鐘は108の煩悩を滅すために打つというけど
学会では、煩悩を生かすために打つと説明するよ。
煩悩即菩提もその流れか、ゆがんだ捉え方をする事もしばしば。
>>778 キリスト教コンプレックスとは、どこか別のスレッドに書いたけど・・。
それでは、キリスト教に対しても失礼でしたね。
キリスト教(ローマ・カトリック、プロテスタントも含む)は、基本的に
「懺悔」という行為で、自分自身の振る舞いを反省することにある。
その上で、反省をバネにして、より良い道をともに探していくのが、キリスト教神学
のあり方・・。
こまったもんです。→ 創価学会殿
>>778 そんは話は初耳だ。(笑
あんた学会員かい??
煩悩即菩提
煩悩を「転換」するとは聞くが
「生かす」とはあまり聞かんなぁ〜
>>779への補足。
多分、一部の「バリ信者」もしくは「バリ幹部」だけの話だと思いたいです。
これは、どこのセクト(ヨーロッパに敬意を表して)でも居る話でしょうね。
次は仮説ですが・・300万人の内・・1%程度だろうね。
なぜ生じるのか?
パチンコやスロットルというギャンブルがあるけれど・・。
あれと一緒。すなわち、成功体験の依存症になってしまうのでしょうね。
ま、最近の学会は教学が下火だし、
地域々々で、ありとあらゆる“我見”がまかり通っても不思議はないが・・・
そもそも、元の教学がおかしいから・・下火になったのでは?
前にも、どこかに書いたけど・・境涯という概念にしても、
絶対主義的な教学に問題があったのでしょうね。
本来あるべき教学は、接受と謙虚でしょうから。すなわち、折伏の反対が必要なだけ。
当たり前のことですが・・。
もともと日蓮を三宝のうちの仏宝とするのだから、おかしいと言えばおかしい。
戸田二代の現世利益信仰は、まだ可愛いげがある。
最悪は、池田-原島が生命論を弄りだしてから。
普遍真理があたかも学会の掌中に在るがごとくの能書きは辟易する。
>>738 の704さん。
>本格的に宗教教育叩き込まれるのは学生部からかな。
>S班なんだったら、そこでもけっこう厳しいと思うけど。
S班大学校では教学や宗教教育など殆どやらせないんですよ。
池田氏を中心とした組織論と帰着意識を持たせる事に終始します。
それで本流させようってんだから無理矢理になる。
最終的には本流出来なくても卒業できますけどね(笑
一番最初のお経阿含経すら釈迦はまともに説いていません。小乗非仏説は成立するのです。となると法華経もまた
者とはかんけいのないおしえですね天台五時八教これが崩れます。されば日蓮崩れます。
されば日蓮正宗や創価はまちがいです。
にゅうりょくみすがありました。仏教最初の教えの編集方針が方便、うそで塗り固めてあるのでぶっきょうぜんぶふっとんでしまうわけです。
これはけんしょうかのうです出定後語で仏教のおそうしきをとみながなかもとがやりました。じじつです。
>>786 マハさん
その方が教学よりもやばそうですよ。思った以上にS班て怖いとこなんだね。
そこまで冷静に分析できてるマハさんが不思議。
そんな風に本音と建前使い分けてる活動家ってけっこう多いのかな?
>>786 マハーバイロさん
ある意味貴方はS班に無くてはならない人材だと思いますよ。
>>789さんも仰るように、S班に身を置きながら池田先生や組織に是々非々の
立場を取れる事は本当に立派ですよ。
>>790 地区副りーさん。
ちょっと違うのですよ。貴方の情熱には申し訳ないのだけれど、
私は、「組織を良くしよう」とか「学会を変えよう」などとは微塵も考えていないのです。
そんな立場でもないですしね・・・そんなことはどうでもいいんですよ。
>>787 確かに貴方の言う事は正しい、しかし天台五時否定や大小両仏教を非仏説としても、数百年の時の流れが文化、政治、社会、信仰が法華思想や信仰を作りこれが真実になって力のある言葉として作動しているのです、非仏説でも力があります
日蓮系宗派の仏罰思想は日蓮が敵対視した浄土宗からの引用でねえの?
騎乗位のヒトきたぁ〜
↑すまそ誤爆です
>>793 私は日蓮も法然の影響を受けていると思っています。
もちろん、反発するという意味でですがね。
法然は小乗戒を守った清僧ですが、日蓮さんは戒に厳しいんですか?
口ではかなり激しいことを言っているけど、実際に人を殺した
とは聞かないし、親鸞のように妻帯もしていないよね。
日蓮大聖人は言論戦のみ、皆に仏の命があるのに人殺しなんかしない。
お酒は好きだったらしい。
たしか、日蓮さんは出家の三師七証を撤廃し自誓受戒を認めたらしい、つまり破門を事実上無くした、破戒僧のサンガからの放逐と言う最高の罰則を無くし勝手に復帰してもいいシステムを作った、これはすげー破戒では?
ただ襲われたときの用心に、刀は持っていたようだ。
竜ノ口の難のもととなった、極楽寺良観らの訴状では
日蓮が『法華経』のみを認めて他の経典や修行方法等を認めない法華至上主義。
とともに
日蓮は武器(兵仗)をも蓄えて僧侶の道にはずれている。
と書かれている。
幕府法の『新編追加』のなかに、延応元年(一二三九)四月十三日付で「僧徒兵仗禁制事」
の項があり、同じく仁治三年(一二四二)三月三日にも「可被止鎌倉中僧徒従類太刀腰
刀等事」の項があるように、当時の鎌倉幕府では、僧侶が武器を持つことが禁止されている。
実際に日蓮が武器を持っていたのは確かだし、これに対して日蓮は次のように弁明している。
又云兵仗云云、涅槃経云、天台云、章安云、妙楽云、為法華経守護弓箭
仗仏法定法也、例如国王為守護集刀杖、
『行敏訴状御会通』
これによると、国王が国を守るために武器を持つのと同じように、法華経を守るために
武器を持つことは、仏法に定められている、と開き直っている。この辺が日蓮らしい。
あと暇な人は
日蓮 数珠丸恒次
でサーチエンジンで検索してごらん。何が出てくるかよかったら書いてね。
もう一度書いておくが、当時僧侶の武器所持は鎌倉幕府により禁止されていた。
数珠丸ですね、僧侶の武器携帯は戒律違反なんだろうか?
世俗法違反ならいいんだけどね
そう。へぇ〜〜〜〜〜〜
僧侶の武器携帯は、戒律以前の問題だと思うが。あと
王法(法律)より、仏法の方が正しいとする考えは、平
気で選挙違反を繰り返す学会の体質にもつながっている
んじゃないかな。
法華経に、石を投げられたり、杖で打たれたら堪え忍べと書いてあ
るけど、やり返せ、と書いてあったけ。
>>804 すいません、私の言い方が悪いね、王法と仏法は仏法が上です、ただそれは正しい出家者(戒を守る)の場合です。
世俗を捨てた者が、政治に口だししてはいけません、立正安国論なんてもっての他
Crusade
興禅護国論
“五箇条の御誓文”
簡単に言うと、在日朝鮮人で商売をしている人は自分達で作っている商工会で、
税金関係の問題を処理していいということであり経費の認定も自分達で勝手にできる。
国税庁ノータッチ。つまり脱税し放題。だからこそ商売人には金持ちが多く、
それを北に送金して貧乏な北朝鮮がミサイルを開発できたのである。
日本が戦争に負けたから(+_+)
つまり、日本刀は武器だが、薙刀は農具だからOKだったりして(笑
それと、数珠丸は身延の時に信徒が納めたものだったと思いましたので(記憶不確)
携帯とは違うのではないでしょうか?
たしか、護身用の懐刀だから携帯ぢゃないのかな?
まあ頭も剃ったりしてたかもね。
コーク港さん。
>まあ頭も剃ったりしてたかもね
ワロタ!
まぁ蓮祖は戦記ヲタだったらしいからね。武器その他には興味あったとは思いますね・・・
亦、鎌倉時代は僧兵闊歩の時代であったことも事実でしょうね・・・
>世俗を捨てた者が、政治に口だししてはいけません、
日本の仏教は、もともと国家鎮護を目的としていた。だから僧侶は公務員であり
個人の救済より、国家の安泰を祈祷することが第一の目的だった。
日蓮の立正安国論的な考えは、当時としては当たり前だったのじゃないかな。
禅宗や密教、律宗などが幕府や朝廷の保護を受けていると批判している割に、
幕府の力を借りて、浄土宗を押さえて貰おうとするところがずるい。自分は別
と言うことか。
親が学会員の子供にとって、真っ先にぶつかる壁は「池田先生はすごい」だろう。
思春期の子供の感性は、ごまかしがきかない。
肌身で感じることの出来ないことに対して「すごい、すごい」と繰り返すしたところで、
子供は鼻白むだけである。
池田先生が“どうすごいのか”明瞭に答えることの出来るオトナが居ないのだから仕方がない。
明瞭に答えてはいるだろうが、それが世間一般の常識からして受け入れられないってことじゃないの。
>これによると、国王が国を守るために武器を持つのと同じように、法華経を守るために
>武器を持つことは、仏法に定められている、と開き直っている。この辺が日蓮らしい。
面白いですね。日蓮は武器を持っていたのですか(笑)。
「仏像」を大事に、終生持ち歩いていたのも意外でしたが、
武器の携帯までしていたとは思いませんでした。
やっぱり、「法難」というよりは、「断罪」のほうが合っているかもしれませんね。
「法難」の正体は、「悪い事をしていたので、裁かれた」ということなのでしょう。
もちろん信者はそんなことを認めはしないでしょうけれども。
>>811 真言宗の千日回峰行では、修行を断念したとき自刃するために
懐刀を必ずもって修行をします
そもそも、独鈷などは武具でもありますし
>>819 Sbさん。 お久しぶりです・・・
やっと注文していた「正法眼蔵」(岩波全4巻)届きましたが、読みきれん。(苦笑
「独鈷」は武具だったのですか。知りませんでした。てっきり「どっこいしょ」だと・・・(笑
数珠丸は長刀ですから、携帯していたとは考え難いですが、付き添いが持ち歩いた可能性もあるかも知れませんが、
然しそのような名刀ならば身延久遠寺に保管していたのだろうと推測するのですが。。。
お邪魔します さんの問題提起は、信徒が「寺に武器を奉納する」という時代的感覚や、
当時の「刀剣信仰」を考える上で興味深いですね。
蓮祖は独特な「刀剣観」を持っていたかも知れません・・・
>>820 まあ錫杖も武器ですし、禅の少林寺は杖術が有名ですし、法相宗は槍術(法宝院槍術)、刀系は神道ですね基本は神楽や舞として継承されてきましたしね、古来より刀は命を奪う反面、命を与える力があるとも考えられました。
>>818 世界(略)さん
日蓮は念仏者から何度も襲撃を受けてましたから、ある程度の武装は
自衛の意味でも必要だったのだと思います。
そういえば釈迦の仏像に関しては、富士派ではトンデモな解釈がありますよ、
おそらく日蓮本佛論と対立しないよう苦し紛れに編み出したんでしょうが
「大聖人が釈迦像を携帯したのは、当時台頭しつつあった阿弥陀本仏を否定する
目的であり、決して釈迦本仏という本意からではない」というものです(笑)
もしかしたら今だに学会教学では教えているのかもしれませんが・・・・・
釈迦立像所持の件
日蓮大聖人は伊東の地頭・伊東八郎左衛門祐光の病気平癒の祈祷をしました。
祈祷の結果、祐光が回復しました。
その謝礼として海中から拾い上げた釈迦立像を御供養しました。
日蓮大聖人は随身仏として終生もたれ、滅後は身延の墓所に安置するよう遺言されています。
真心の御供養に対して終生、釈迦立像を所持したのです。
>>823 では、真心の供養であればどんな仏像でも安置してもよいのだな?
>>825 でもさ、本当に安置したら指導入るぞ!!
屁理屈だけは得意だな^^
蒼天(@_@)
それはホウボウだよ。
>>826 まあな。普通は心が惹かれるから指導も入るだろ。
でも、美術史家とか写真家とかはては石屋とかいろいろいるからな。
石屋なんか商売で仏像作るし、仕事場に何体もころがってるぞ。
>>823 ジーク蒼天さん
真心に打たれて生涯所持したという解釈も分かりますが、なんとも苦しい
解釈という感じがするのですよ・・・・
海中出現の仏像は伊豆流罪中の逸話ですよね、たしかその随身仏は池上で
入滅するまで、肌身はなさず持ち続けています(池上家には本尊も安置したらしい)。
しかし日蓮は伊豆流罪以前の松葉ケ谷の草庵でも仏像を所持してますし、草庵が
襲撃された後に富木常忍の屋敷に身を寄せていた時には、常忍が日蓮の為に
木造の釈迦仏を造立しています。
そういう経緯からすると"日蓮は釈迦仏を信仰の対境としていた"と考えるほうが
むしろ自然ではないでしょうか。
日蓮宗は東密の手法を取り入れたと過去スレで見ましたが、なぜ十住心論より、天台五時を選んだのかなあ?
>>830 コーク港さん、こんばんわ。
>日蓮宗は東密の手法を取り入れたと過去スレで見ましたが、
>なぜ十住心論より、天台五時を選んだのかなあ?
日蓮は若い頃に比叡山で修行しており、最澄に傾倒していましたから
(釈迦・天台・最澄に自分を加えて三国四師相承としています)
ごく自然な選択だと思います、ただ私は天台教学上での真言の扱いが
よくわかりませんが・・・
>>830-831 過去スレ見てないけど、後世の日蓮宗は東密を取り入れたってホントですか??
どんな手法を取り入れたんだろう…。でも日蓮自身は東密は否定してたんですよね?
でも、ともあれ日蓮は比叡山で修行したのだから天台の教えを汲むのは当然でしょうね。
層化などは、最澄以降の天台宗は真言の邪義を取り入れて天台の教えをダメにしたと言ってますが
日本の天台教学はもともと中国天台宗のものとは趣が異なり、最澄自身が唐で学んできた
仏教諸派の教えを天台教学を中心として取り入れていたので、総合仏教としての性格が強く、
真言の教えもその当時から天台教学に含まれていたというのが仏教学では一般的のようですね。
たしか日蓮は大日経か金剛頂経(もしかしたら華厳かな?)と法華経を優越を比叡山の横川で論じたと本にありましたが、なんで法華経がすばらしいかわからん
経典の優劣を論じるのは無意味な気もしますが(特に現代では)
大日経や金剛頂経よりは法華経の方が大乗、一乗としての説得力はあるんじゃないでしょうか。
もちろん法華経が最高だと思わないし一乗を標榜する割には不備もありますけどね。
それ以前に大乗非仏説なんて持ち出されるとすべて吹っ飛んでしまいますがw
法華経自体は非常に好きですね。
他の経典など読んでいないので比較したわけではありませんが。
現代では聖書の創世記などと同じように、あくまで物語として読むものだと思います。
それが信仰対象になってもよいと思います。
しかし、日蓮の主張は現代では通らない、ということくらいは認識しておくべきと思います。
はじめまして。
御祖様は、臨終の時は当時の臨終作法にのっとり念仏を唱えたらしいと聞きましたが本当ですか?
比叡山の後に高野山んも修行に行ってるよ。
禿を馬鹿にしてる興味
ズラ頭画像も入手して大笑いしてるハズ(ラ
479 名前:葵講に興味があります@日蓮宗葵講支持者 ◆X872v3FaeI :05/03/09 09:43:54 ID:???
津好き
>>831 >天台教学上での真言の扱いが
>よくわかりませんが・・・
最澄さんの真言の扱いを考えれば簡単ですよ
あくまでも一部として扱っただけです
確かに一部だけど、それを習得するには人は小さすぎる
仏道のすべてを網羅するなど出来ない
法華経然りだと思います
法華経、真言、念仏、座禅、全ては無理
でも、一つでも全てだともいえる
>>820 「正法眼蔵」一生かかっても読みきれるものだと思えませんでしたよ
どっこいしょの語源が独鈷杵です
歴史観や文化観を現代の感覚で検証するのは良いと思いますが
批判するのは間違いでしょうね
世界が違うのですから
>>834 私なんか、大乗も小乗も一乗も二乗も否定しますよ
仏教は乗り物じゃありませんから
でも、肯定もしますけどね
まぁ最澄も、空海の登場&活躍で、自分が唐で学んできた真言が傍系のものだと知ったから
空海に弟子入りまでしてるんだけど、自分が弟子を遣わして真言系の経典を学ぼうとしたのを
空海に咎められたり、最澄亡き後の比叡山の後継者として目されていた泰範などが
そのまま空海の弟子になって帰らなかったことなどで、最澄は空海や真言を批判するようになったけどねw
智ギを論破する教判論が中国で認められていれば・・・違ったんでしょうけど・・・
「印度学仏教学研究」より抜粋
********
中国で教判論が発達した理由として、中国にもたらされた経典が、インドにおける経典成立の歴史的発展の事実にかかわりなく、前後ばらばらにもたらされたことから、
そうした経典すべてを、歴史上の釈尊の金口直説と考えた故に、それに整然たる体系を与える必要があったからといわれている。
そこで、中国仏教の教判論で、その代表的なものとして、我々は天台智○(豈偏に頁)が立てた五時八教の教判を知っている。近年、この五時八教が、
智○より後に作られたとする説が出されたが、ここでは一往、智○の創説であるとの伝統的解釈に従っておく。
天台智○の当時、中国には南三北七といわれる十師がいた。十師はそれぞれ教判を立て、各自が選び取った経論を奉持していた。
智○は、この十師と法論対決を行い、ことごとく論破したといわれている。
********
最近このスレ見てなかったんだけど、ちょっと前で参加されてた
>704さんは、まだROMしてるのかな?
なんで二世が悩み怒るのか分からない、なんてレスが見受けられるけど、そういう苦しみに同苦できない人は宗教に向いてない。もちろん親にも向いてない。
まぁ、それもヘンテコな信仰だか価値観に懲り固まった故と思えば哀れな人だとは思う。
けど、それに基づいて教義をこねまわして知的ゲームやっても意味ないと思うよ。確かに。
だから
>704さんは間違ってない。それだけ伝えたかった。それでは。
>>842 最澄が空海を批判するのはお門違いでしょう
密教は経典で学べるものじゃない
泰範だって、真剣に密教を学ぼうとしたから、天台を捨てざるを得なかったんだと思うよ
それに密教を学べと命じたのは最澄あなたですから、残念!
>>844 ありがとうございます。
議論してる人につっこみたくて言えなかった言葉・・・。「それって2乗の生命だよ」いやこれは失言なんでなかったことに。
議論に参加できるだけの知識がないんで、基本はROM。
だいぶ昔から見てるんだけどね。
ときどき俺以外のROMの人も書き込むことがあるけど、2世の人が多いみたい。
ひゃっきまるさんとかに共感してる人が見てるのかな。
俺はそれに近い、というか、そういう悩みをかかえた2世の人が長期的に見てどう変化するのか、あるいは変化しないのか、興味がある。
ひゃっきまるさんが前に書いてたかどうだか忘れたけど、このスレが2世3世の駆込み寺的役割を担えればいいとか、そんなようなことを言ってた気がする。
>>846 704さん どうもです。
ドンドンつっこんでもらって良いと思います(笑
確かに信仰にとって知識はそれ程重要視する必要ないかもしれ知れません
ですが、私の廻りの青年部には実は自分の御本尊が誰が書いたものかさえ知らない人が結構多い・・・
それでいて「大聖人直結」やら「唯一正しい」と啓蒙しているわけです(苦笑
池田本仏なる思想の発端になりうる可能性は徹底的に排除したい。
悪いが池田批判を書き込んできたのはその為・・・
本仏論は唱題という実践のイメージングに深く関ってくると思っています。
他人の心の中まで批判する気はありませんが、
唱題に「先生の偶像」を観るのであればこれほど「キモイ」ことはない・・・
>>847 どうもです。
誤解してほしくないけど、じっくり考えたり知識をつけたりすることはいいことだし、どんどんやったほうがいいと思う。
ただし、知識とあわせて、自分の心を素直に観察する、内観っていうのかな、そういうのがないと意味がないと思うけど。
特に創価学会は「実践」をあまりに強調しすぎるから、特に必要と思う。
ここで行われている議論て、信仰している人の気持ち不在の知識ゲームみたいな要素が強い感じがした。
理屈が合うか合わないか、一見矛盾に見えるもののつじつま合わせをどうしたらいいか、とか、仏教的な価値観が共有されてない現代でやってどうするんだろか。
なんつーか、屁理屈がうまい方が勝つけど、勝ったからどうしたの? それって意味あるの? と言いたくなる。
池田本仏論て、知識をつけることで排除なんかできるんだろか。
知識によって教義の誤りを指摘するというのは何か違う気がする。
むしろ知識にはまった人が、その知識によって盲目になって自分の勝手な感情で理屈つくってることに自分で気づけない、とか、そんな場合が多そうじゃん、
うまくいえないけど、ごく当たり前の常識感覚を身につけるのが大切かと。
あー、また長文になってしまった。つまらなかったら言ってください。だまりますから。
>なんつーか、屁理屈がうまい方が勝つけど、勝ったからどうしたの?
>それって意味あるの? と言いたくなる。
>池田本仏論て、知識をつけることで排除なんかできるんだろか。
>知識によって教義の誤りを指摘するというのは何か違う気がする。
原因と結果が逆ですね。元は創価の連中が「経典に書いてあるから正しい」
「日蓮がこう言ったから間違いない」といって900年以上も前の教義を
現代社会に適用しようとした。
>むしろ知識にはまった人が、その知識によって盲目になって
>自分の勝手な感情で理屈つくってることに自分で気づけない、
>とか、そんな場合が多そうじゃん、
そういう連中の相手をする以上、それなりの対策はとる
でしょう。
教義の穴とか、2000年も前に書かれた仏典が
現代社会に合わないところなんていくらでもある。それを
指摘されると逆ギレして「仏敵だ」とか「地獄に墜ちろ」とか
言い出すんだから。でも結局、そういう連中はそれだけの器で
しかないということなんだよね。
一字一句を大切にするあまり、もっと大きな物を見落と
していないだろうか? 何のために法華経が書かれたのか
考えたことがあるのだろうか。
>うまくいえないけど、ごく当たり前の常識感覚を身につけるのが大切かと。
御意。
>846 704さん
レスサンクス。伝わって嬉しかったです。
>848も読んだけど、「良い事言うなぁ」と感心したよ。
>844に意味ないって書いたけど、その無意味な事をこねまわして価値観を整理しないと、前に進めない縛られた人が居るのも事実だしね。
以前…つってもver5か6辺りだからずっと前か。そこで例に出したけど、キリスト教の神学も「キリストのパンツは私有財産か否か」みたいな無意味な論議はしてるから。
たださ。そんな中で本来の常識的なこと話してるあなたの方が、浮いてるみたいな扱いに見えたのが悔しかったからね。
つい余計な口挟んでしまってスマソ。
私もひゃっきまるさんの書き込みに共感する事は多いよ。…キツい事も書いてるから、ひゃっきまるさんからは嫌われてるんじゃないかと心配だけど。(笑)
駆け込み寺ってのは良い言葉だなぁ。こことは役割が違うけど、私もそんな雰囲気が居心地良くて、よく脱会スレに出入りしてます。
※以下無意味かつくだらない雑談
日蓮の真言修学については、三井寺(台密)・高野山(東密)・四天王寺(当時は北京二宗南都六宗を併せた兼学の寺。
天台宗となったのは江戸初期で、戦後に和宗として天台宗から独立)・洛中の諸寺に学んだと晩年日蓮が述べています。
小野流の相伝書「理性院血脈」に日蓮の名がある事や、新義真言宗の祖覚鑁の主著「五輪九字明秘密釈」を写した
日蓮自筆の写本が残っている事からも、学んだ事は事実だと思います。
比叡山仕込みの、コンプレックス混じりの真言批判そのままの視点からだとは思いますが。
そういえば、層化が真言批判をする時に、覚鑁(かな?)が
「大日如来に比べれば釈尊は無明の辺域で草履とりにも及ばない」って言ったことを持ち出して、
「一代の教主たる釈尊の悪口をいい、卑下して云々」などと白々しいことを言ってますが、
層化自身は前は釈迦と呼び捨てで呼んで、「釈迦は過去の仏でその説法は
去年の暦と同じで何も役に立たない云々」と言っていたんですよねぇ。
>>850 春田の蛙さん どうもです・・・
>小野流の相伝書「理性院血脈」〜
お邪魔しますさんの「数珠丸」の話のついでですが、醍醐寺の親玄は祈祷の際に刀剣を太元帥法の本尊の脇に置いたのではないかとの説あります・・・
鎌倉鍛冶の作刀に梵字彫刻などが多い面などから考えて見ても「数珠丸」という真剣」は信仰の対象だった可能性もあるのではないかと思います。
私は春田の蛙さんの御指摘の通り、連師の密教からの影響は「有り」と考えてます。
「妙法村正」なんかも研究したら面白いかも(笑
>851さん
それは多分、「時を過ぎたる古暦(ふるごよみ)」からの連想だと思うんですが、
その文句が載っている本門宗要抄は偽書との見方が一般的なんですよね。困ったものですね(笑)
>852 マハーバイロさん
浅薄な知識から安易に連想を進め過ぎです。
それでは周囲の無知を笑えません。知識ゲームと言われても仕方ありませんよ。
私が先に指摘した中の分かりにくい点を補足しておきますが、元来日蓮は密教的であり、呪術的な面があります。
ですから密教的なものや呪術それ自体を批判した訳でなく、
空海とそれに発する高野山真言密教を否定したという意味です。
そもそも題目自体が、簡潔な言葉が経典の功徳を代表し得る点で真言的であり、
日蓮も開目抄の中で善無畏の法華経真言を引いて、「南無妙法蓮華経これなり」と論じています。
また常寂光土と密厳仏国と名前こそ違いますが、現実世界を仏国土となすという思想にも共通点が見られます。
ですから空海は様々な社会事業を行い、他方律宗の忍性にしてもその分野に多大な功績があります。
ちなみに思想面での理想はともかくとして、この観点からは日蓮は親鸞などと同様、「何もしていない」と言われても仕方ないでしょう。
真宗門徒としては、日蓮宗徒の方と同じく痛い指摘ですが、事実ですから受け入れるほかありません。(笑)
日蓮の真言批判は、法華経と釈尊絶対の観点から、他の経典を根本に置き釈尊以外の教主が存在する宗派への破折でしょう。
この点から見るなら念仏批判と同じであり、特に分かりにくい構造ではないと思います。
釈尊絶対=法華経とはならない事がすでに立証されていますから、現代においてこの観点からの他宗排撃に意味がない事は、方々の御指摘の通りです。
但し、日蓮登山当時の比叡山の状況を鑑みれば、日蓮ひとりにその責を帰すのは些か酷かとも思います。
登山前の日蓮が、いかなる観点から仏教を捉えていたかについては諸見分かれる所だと思いますが、
当時の比叡の宗風の傾向については、指摘が容易であろうと思いますので。
それから仏像についての指摘も為されていますが、日蓮は師道善が阿弥陀像を造っていた事を嘆き、
後年日蓮の勧めで釈迦像を造るようになった事を喜んでいます。
この点からすれば、仏像への信仰はあったと解すべきでしょうね。
>>839 Sbさん
>最澄さんの真言の扱いを考えれば簡単ですよ
>あくまでも一部として扱っただけです
レスありがとうございます。
一部として扱っただけなのですか、なにせ俺は偏った富士派を
通してしか天台教学について知らないので判断がつきませんでした。
日蓮正宗では、日蓮が修行をし、その教義を受け継いだ比叡山すら
"末法では功徳のない天台真言宗"などとこき下ろしていましたので。
>>855 天台宗ってのは仏教のデパートみたいなもんだからね
全部あるんですよ、その中心が法華経として捉えると良いと思いますね
ただそれは天台宗の捉え方なだけです
日蓮さんはその中心にあるものだけを良しとしたってことです
それも日蓮さんの捉え方なだけ
誰も自分を中心に置けば他は偏って見えてしまう
日蓮さんの他宗批判はその典型でしょうね
>>855 最後の一文を見て思ったんですが、やっぱり結果的に日蓮は末法を肯定していたんでしょうかね?
それとも、時代的には末法と言えども法華一乗に従えば末法ではない、というような見解を
日蓮は持ってたんでしょうか?日蓮御書のどこかに書かれてるのかどうか疑問に思いました。
どなたか詳しい方いらっしゃればご教示下さい。
内容:
日蓮の考えの中に、仏教はお釈迦様の説いた教えだから、
大日如来や阿弥陀仏等釈迦仏以外を拝むのは間違っている、
というのがあるのではないかな。
禅みたいに一切の仏も否定するのも違う。そして中国の天
台にしたがって、お釈迦様の説いた教典の中で「法華経」が
一番優れているとした。
天台宗を密教化した慈覚大師円仁以降の日本天台教学、
特に智証大師円珍に対して、叡山佛教を密教化し大衆の信
仰を誤らしめた謗法の師と規定し、その責任を追及し厳く
批判した。
>日蓮大聖人は随身仏として終生もたれ、滅後は身延の墓所に安置するよう遺言されています。
>真心の御供養に対して終生、釈迦立像を所持したのです。
・・・という説明以外に、説明しようがないでしょうね(苦笑)。
「真心の御供養だから」という理由で『仏像』を終生持ち歩くとするならば、
それこそ牛車に「真心のご供養物」を【山積み】にして、引いてあるかなければならないでしょう(苦笑)。
日蓮は、仏像を否定せず、大切にしていた。
しかしそれでは本尊を第一とする日本の日蓮系宗教にとっては、なぜか都合が悪い。
宗教的意味があってはいけないのでしょう。
だから日蓮が終生、大切にした仏像であっても、宗教的意味を避け、
「ご供養だから」という苦しい言い訳をする。
日蓮は、題目を提唱する以前も以後も、まず「僧侶」であった。
それを忘れてはいけない。仏像を終生持ち歩いていたのは「ご供養だから」ではない。
>>853 春田の蛙さん
御指摘有難う御座います。宜しく御願します。(-人-)
日蓮は、東密、台密共に否定したのではなく、「位置を下げた」程度ではないだろうか?との意味です。
先に法華最勝という結論(目的)があって、その為の理論付けに大日と相対する必要性があった為、
顕劣密勝を批判したのではないだろうか。
>>861 マハーバイロさん、こんにちわ。
実はそのスレでは俺も晒し上げられてます、
>>60でね
法華経謗法だってさ(苦笑
まあ皆さん仲良くやってください。
僕個人としては704さんのような書き込みは非常に面白いと思っていますし、このスレの中心的話題になるべきことと思っています。
春田の蛙さんを嫌っているということは全くありません。
議論を妨げるような人とかは嫌というか苦手ですが。
あと、もっと学会員側の人にも参加してもらいたいですね。
けっこうROMはいるのではないかと思っているのですが。
>>857 >最後の一文を見て思ったんですが、やっぱり結果的に日蓮は末法を肯定していたんでしょうかね?
俺はあまり詳しくないですが・・・・
日蓮は末法を肯定していましたよ、むしろ末法という条件がないと日蓮仏法は
成立しないと思います、日蓮は末法こそ法華一乗の時機だと捉えていたから。
「種々御振舞御書」には"今日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めて
かかるせめにあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も
「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず"とあります。
これだけではなく、末法を前提とした考え方は御書の易たる所に見られます。
ところで天台宗の法華一乗と末法思想は対立するのでしょうか?
「自分は末法の本仏」って妄想を垂れ流した日蓮
自称救世主の教祖なんて掃いて捨てるほどいるよ
日蓮系の香具師らはオカルト趣味でもあるのか?
(^・ω・^)
知らんがな
>>864 確かなのは、日蓮さんがいたは末法といっても間違いないような時代であるって事です
でも、いつの時代でも、人の心は正法であり、像法であり、末法なのだと思います
ですから、末法思想というのはおかしいのですよ
思想によって末法が成り立つのではないのです
すでに末法であり正法なのだと思います
法華経は正法そのものなのでしょう
だとすれば、その本意を悟らず、ただ題目として妄信することこそ
末法ではないでしょうか
法華経は文底を夜目。
文底を読み過ぎれば野狐に同じ
大乗経典では仏法の衰退や末法はたしかに書いてある。
しかしそれすらも、きちんと否定されている。きわめて簡潔に。
だから末法、末法と煽るのは真の仏法ではない。
唐突ですが、「自分は理系だ」という自覚のある人は、気をつけてね。
カルトにはまりやすいから。
この世界や人生を理路整然と説明する人間がいたら、「詐欺師」だと思ったほうがいい。
たとえその人が、それまで会ったこともないほど善人だとしてもね。
>>872 今日、また元統一教会の女性と話をしたのですよ。
「やっぱり理系が多い」という話で盛り上がりました。
文系は、伝道されていても
「ああでもないこうでもない。それもいいね、あれもいいね」といったように、
結局、長話につきあわされて終わることが多かったそうです。
理系は、筋道の入った話で、一度受け入れると、トントントンと、理論が入っていくそうです。
もちろん、理系全員がそうではないでしょうけれども。
>>873 そう言う事も含むが・・・と言う部分的なことについては正解だと思いますが、
全体的にみれば正しい論理とは言えないですよ。その論理を言うのであれば
科学的な数字を出さなければ根拠にならないのでは?
>>874 人の経験談に”インネン”つけるのはよくないよ。
>>876 871の上二行についてはどうかとも思うが、
まあ個人的な経験則が参考になる場合もあるよ。
下二行は多分、文鮮明と池田大作のことだろ?
確かにあたってるよな。
>>877 は本人なのか?でなかったら邪魔しないでくれ。
>>878 チャットじゃないんだから、,邪魔もなにもw
ヤッテラレネー。ガッ!ガッ!
>>871 世界(略)さん
>唐突ですが、「自分は理系だ」という自覚のある人は、気をつけてね。
>カルトにはまりやすいから。
それはあるような気がします。
カルトって大抵オカルトめいた要素がありますよね、理系の人は
何故かオカルトに惹かれる傾向があるみたいだから、俺の知り合い
にもそういう人が何人かいて、理路整然(?)とオカルトチックな世界観を
語られて唖然とした経験がありますよ(苦笑)
理系って頭良い奴が多いけど電波系も多いような感じがします。
アホな俺は文系ですが、なんとなく文系のほうが現実的なタイプが
多いと思う、まあ、俺は現実的というよりむしろ即物的かもw
>>871 >>873 世界さん
人間なんて誰でも偏見の固まりです。統計的な数字を出さない限りは憶測に基づく因果関係(ああだからこうだというような)の議論は意味がないでしょう。
たぶん真実を言えば、理系もいろいろ、文系もいろいろ、そもそも理系文系の区別ってなに?ということになるでしょう。
。。o O (こういう勝気で頭の固いところは理系的といわれそうだなあ・・・)
>>883 ひゃっきまるさん理系でしたか、これは失礼しました。
理系もいろいろ、文系もいろいろ、それはご尤もですね、
俺は、決して"理系=オカルトマニア"と主張するつもりは
ありません、あくまで主観です(汗)
いや、昨日は酔った勢いで、聞いた話を書いてしまいました(苦笑)。
その理系の話をしてくれた女性は、統一教会のビデオセンター歴が長く、
つまり伝道歴が長く、それは私の経験則ではなく、彼女の経験則なのです。
「じゃあ、日蓮は理系なのか?」と言われたら困ってしまいますね。
【彼女のいたビデオセンターでは、そのような経験則が幅を利かせていた】
というところで、手を打ちましょうか(笑)。
つまり「伝道の対象としては、文系はやっかいで、理系は一度理論が入ると、あとはスムーズだ。」
これは、いちビデオセンターの経験則に過ぎない、と。
つまり世界人口は統一教会の伝道師の発言に「共感」したと言うことか(笑
ミイラ取りがミイラか・・・
人は信じたいものを信じるってことさ。
世界さんも同様。
>人は信じたいものを信じるってことさ。
それは正確な表現だと思います。
>>882 それは理系と呼ばれる人が、オカルト、つまり隠された物、を解明するという
志向にあるからだと思われます
もともと科学というものは、現象を解明することであるからです
同じ俎板の上に置いているからだと考えれば簡単です
しかし、人の心のような、同じ状態を作り出せないものを科学することは出来ません
時間によっても、場所によっても、人によっても、また見る人によっても変わってしまうものは
統計が取れないので科学では扱えないからです
でも、同じように扱ってしまう
ですから、電波化してしまうのです
そう考えると、科学を取り入れている宗教というのは、眉唾なものだといえると思います
理論物理とか数学とかがんばってる人は神(仏)の世界の真実をのぞいてみたい
と思うようになるから、間違った方向にも走り易いでしょうね
私は、どうしても脱会させた若者の「統一教会の体験談」に引きずられてしまうのですが、
「理系」と「親子問題」は、どうしても出てきてしまいますね。
それと、やはり経験則から「教師の子息が多い」とも思います。
この複雑な社会・世界で「スッキリ・ハッキリした答え」を求めているから「かも」しれませんね。
「単純明解な答え」は怪しい。そう言われると、文系は比較的「そうだよね」と同意するのではないでしょうか?
逆に理系ならば「なぜ単純明快な答えがいけないのか?」といぶかしむかもしれません。
まあ、私の思い込みである可能性も多いとは思いますが。統計がありませんしね。
>>891 そのとおりだと思います
科学は現象を単純明快にしなければならない
また導き出した法則により、再現性が無ければならない
人の心、人と人の間には単純明快な答えなど無いのです
自分の心がすでに複雑混沌なものなのに
そんな心がたくさんある人と人の間が単純明快なわけが無いのです
人の心を救うのに科学を用いることはできます
でもただ単に手段でしかありません
お題目が宇宙のリズムまで行ってしまえば、ただのトンデモでしょう
いや、お題目に限らず、全てのことは宇宙のリズムなのですから
皆さん憶測に基づく楽しい議論されているようですから、僕も自分自身の憶測に基づく
意見を言わせてもらいます。
皆さんはっきりいって「理系」に幻想を抱きすぎです。実際の研究者ってもっと淡泊だし、
いたって普通の思考をしている人がほとんどですよ。
パラサイト・イブを書いた瀬名秀明氏(この人は理系の研究者)が面白いことを言ってい
ましたが、作品に対して「非科学的だ」「あり得ない」と言った文句を言ってくる人は、ほぼ
みんな文系の人だったそうです。
僕が思うに、文系の人はいわゆる「学者」というものに対して、数十年前のイメージを持っ
ているのではないかと思います。現在の研究というものは分野が細分化されていてそれ
ぞれがあまりに専門的になりすぎていて、よく「職業研究者」と揶揄されるように、かなり
「作業的」になっているのです。
信念や哲学に基づいて研究している人などあまりいないと思います。むしろこういうことを
考える人は文系らしいと思います。
また、現実世界が非常に複雑で捉えがたい、ということは直に実験をやっている人なら誰
でもわかっていることです。どんなに実験系を制御しようとしても、思った通りの実験結果
が出ないなどということはザラですし。
オカルトにはまる人というのは、「理系にあこがれている文系」タイプじゃないですか?
皆さんがもっている「理系の人間って・・・」というイメージって、たぶん、自分の心にあるもの
の投影のような気がしますよ。
あと、大事なことを言わせてもらうと、「科学」の基本は、「実証主義」と「懐疑主義」です。実
際に実験で証明されたものに基づいてしか確かなことは言えないし、徹底的に疑うことでよ
り確からしい答えに近づける、という考え方です。これは「信じることが一番大事」というタイ
プの宗教の対局に位置するものだと思います。
科学を謳っている宗教が眉唾っていうのは全くその通りだと思います。
でもオウムの上祐は理工学部出身だから理系だ・・・
まあ関係ないと思うけどね。文系・理系の話はもう終わりにしよう。
>>894 サリン事件当時は理系出身のエリートが多くカルトにとりこまれた、ということがかなり話題になりましたね。
まあ信徒には文系もいたでしょうから、話題になった要因は、「論理的な思考ができるはずの彼らがなぜ」という驚きだったんでしょう。
カルトのマインドコントロールの方法というのは「普通じゃない」精神状態にするということですから、この点理系文系は関係ないような気がします。
理系出身の彼らが、「現在の細分化され、淡白無機質で、ロマンがない」科学に不満を持っていた可能性はあると思います。
>カルトのマインドコントロールの方法というのは
>「普通じゃない」精神状態にするということですから
そこだけ、ちょっと違うのですけれども、おおむね、同意です。
まあ、「理系・文系」の話は、茶飲む話程度に留めておきましょうか。
そう言うと、ビデオセンター歴が長く、また日本中を珍味を売り歩いたり、
睡眠時間3時間で宝石や絵画、印鑑を売りまくっていて、
私に「理系」の話をしてくれた、その壮絶な元信者は、不満だろうと思いますが(苦笑)。
日蓮系宗教の信者に「傾向」はないのですか?
高卒、あるいは大卒が多い、とか、上昇志向が強い、とか、死への恐怖が強いとか、
あるいは、気が短い、とか。「理系が多い」、とか(苦笑)。・・・比較的、自営業が多い?
>>896 世界さん
俺も含めて、自営業は多いと思いますよ。(笑
>>897 おひさしぶり(笑)。お元気そうですね。体を大事にしてください。
・・・最近、カキコ制限が復活して、ご挨拶も出来ず、残念です。
>>898 世界さん
俺も最近仕事が忙しくて余りカキコ出来ませんでしたが取り合えず元気でしたよ(笑)
世界さんもお体を大切になさって下さいね。(^-^ゞ
お休みなさい・・・
900ゲット♪♪
まるっきり宗教と無関係に生きている人もいるし、宗教にどっぷり
浸かっている人もいる。理系、文系に関係なくなぜ宗教に惹かれてし
まうのか、考えてみたらどうだろう。
中山某か、林某のオウムの医者を教えた教授が
「何年もかかって、人体の構造を学んだものが、意志の力で
空中に浮く教えを信じてしまうなんて・・・
私は何を教えていたんだろう。」
と言っていたのを、読んだ覚えがあります。
宗教にはまることと、カルトにはまることは、微妙に違うと思います。
感覚的に申し上げますと、宗教にはまることは、論理にからみとられることではなく、
カルトにはまることは、「論理にからみとられること」だと思います。
その論理は、地球上のどこでも通用する論理ではなく、
信者が思い返して脱会を思いとどまる程度の「論理もどき」なのだと思います。
「論理(レトリック)が通っていれば安心する」のが理系だとすれば、
「論理が通っていると、なんとなく怪しく感じて、居心地が悪く感じる」のが文系だと、
あえて断言しておきましょうか。その意味において、法華経に安住した日蓮は理系的です。
サイババが手から蜜を出したり、聖なる灰を出す、というほうがよっぽど
訴求力があるよな。
世界のイケダさんが、功徳を手からだして見せたらすごいけどね。(藁)
今、BSでやってる、カルミナ・ブラーナは最高だね♪
ブラヴォー!サイモン!
>>893 ひゃっきさんも大変だね。
荒しを自覚出来ない厨房が横レスばかりして
話が横道にそれてしまってる。
日蓮は晩年念仏批判を行わなくなったのはなぜだろう。
>日蓮は晩年念仏批判を行わなくなったのはなぜだろう。
他宗批判はフェードアウトしていきましたね。
意外だったのは、終生、仏像を大切に持ち歩いていたこと。
そして、日蓮の骨が収められた筒に、「南無釈迦無二仏」と書かれていること。
我々が想像する以上に、日蓮は「思想家」ではなく、いち「僧侶」だったのでしょう。
でも、カルト度の強い団体であるほど、日蓮に「宗祖」であって欲しかったりする。。。
・・・日蓮本人に、「宗祖意識」はあったのでしょうかね?・・・そんなつもりはなかったのかも。
「日蓮宗」なんて、興して欲しくなかったかもしれませんよ。いち僧侶として。
はっは、その箱に入っているのはどの馬の骨ですか?
法華宗を興したのは日蓮自身ですが?
そもそもの知識がナサすぎですよ。
>>902 世界さん
> 「論理(レトリック)が通っていれば安心する」のが理系だとすれば、
> 「論理が通っていると、なんとなく怪しく感じて、居心地が悪く感じる」のが文系だと、
> あえて断言しておきましょうか。その意味において、法華経に安住した日蓮は理系的です。
世界さんが批判する「理系像」って、まるっきり世界さんそのものじゃないですか。
「理系とは、文系とは」、というスッキリハッキリした単純明快な捉え方を信じ、現実をありのままに見た場合の複雑さは目に入っていない。
日蓮像についても、今までの世界さんの態度って終始一貫してそうでしたよね。「理屈」で日蓮像を作り上げ、実際にはわからない部分を想像でおぎなっていることが多いでしょう。
ただカルトと違うのは、「それが自分の考えなのか、他人の考えなのか」ですが、自分の考えにこだわることは他人の考えにこだわることとそう大差はないと僕は思うのですが、どうでしょう。
世界さんはたぶん、「自分自身の欠点」を「理系とは」という幻想に投影させているだけなのだと思います。
Sbさんにしても世界さんほど露骨ではないにしてもそういう傾向は少し感じられました。
>>906 お気遣いありがたく思いますが、別に大変ではありませんし、迷惑だとも全く感じていません。
むしろどんな形であるにしろ板にありつづけ、興味が向かれ続けていることが大事と思いますので、かきこみは有難いです。
ちゃんと本題の議論がはじまったときに、それを静かに見守る程度の心遣いはあったほうがいいと思いますが。
(今まで何度かそれで議論が中断されたので)
日蓮の思想の変遷についてはけっこう研究されているようですが、僕はあまり知りません。
>>906 晩年も立正安国論の講義はしているわけだが?
>>世界さんが批判する「理系像」って、まるっきり世界さんそのものじゃないですか。
文系の私は、「あえて断言する」けれども、
「理系的」な人は「断言できる世界が好き」というあたりでいかがですか(笑)。
私は、「日蓮は病死した!」と断言するけれども、
同時に「功徳がないと分かったので、日蓮は自殺したのではないかしら?」と思ったりしています。
「死を覚悟した旅」への決断と、「自殺願望」は、案外、近いかもしれませんよ。
・・・いや、全然、違うかな(笑)?違うかもしれない。案外、合っているかもしれない。
>法華宗を興したのは日蓮自身ですが?
そうですよね?
それでも「日蓮宗」とか「日蓮正宗」とか、
「自分の名前が付いた仏教団体」なんか興して欲しくなかったかもしれませんよ。
池田さんが「池田教」と呼ばれるのを嫌がるように、
日蓮も「日蓮世界宗」という名称は、否定するかもしれません。憶測ばかりで申し訳ないけれど。
「御書」から、「団体名に自分の名前を付けて欲しい」という日蓮本人の希望は読み取れますか?
>>912 世界さんの性格は、理系文系に由来するものではないということだけは確かですね。
理系にも傲慢で自信過剰な人はいるし、文系にも慎重で考え深い人はいるということです。
>>912 世界さん どうもです。
>日蓮は自殺したのではないかしら?
色々と仮説するのは「思考停止」に落ちない為にも大事だと思いますし、好きなのですが・・・
世界さんが「自殺かも・・・」と思った理由はどのような根拠でしょう?
興味ある話題なので教えて下さい。
世界人口というヒトは酔っぱらって書いてるようですから
あまりマジになっても無駄ですよ。
先日も「日蓮の御影や肖像が二重あごなのは、信者から供養をふんだくって贅沢してた証拠だ」
なんていってましたからねぇ<世界人口
>>910 ひゃっきまるさん、科学はもともとオカルトからの派生ですよ
化学は錬金術から生まれたし、
力学にしても、ニュートンという人は魔術や心霊に傾倒していたのです
天文学は占星術からのものですしね
科学は、わからない神秘的な現象を解明しようとすることから生まれたのです
それに、私は理系を批判しているのではなくて、
ただ、おおまかにカテゴライズしているだけです
何かお気に触りましたのでしょうか?
文系の人に比べて、理系の人が宗教やカルトに惹かれやすいのは
思考方法にあると思います。
なぜ文系の人が惹かれないかというと、物事全体を感覚的に捕ら
えることが出来るからではないでしょうか。小説や絵、音楽等に感
動したとき、それらを一つのもの、一つの流れとして捕らえている
のですね。文章のフレーズや、音符の一つ一つ、会画における構成
や色使いなど、個々の存在を相対的に捕らえるのではなくて、それ
らを超越した立場(絶対的な立場と言ってもいいでしょう)がとれ
るのです。
ところが理系の人は、なぜ感動したかを分析するのです。物事を
自分の判断で細かく分析し、ああでもないこうでもないと、始める
のです。自分の判断で分析すると言うことは物事を分別(フンベツ
ではなくて分別ゴミのブンベツです)し、相対的な立場で見ると言
うことです。
仏教ではこの自己の判断によるブンベツが迷いの基であり、苦の
原因であるとしています。
私は普段ものを考えるとき相対的に考えます。物事を、善悪、長短
大小、美醜、苦楽等々対立するものを考え、そのどちらかを採用しま
す。そしてその採用した立場を、善であり、正しいものであり、優れ
ているとしています。
しかしお釈迦様は、
「あなたのその判断は、ほんとうに正しいのですか」
「もしあなたと違った考えを持つ人がいたら、その人は皆悪人ですか。
あなたより劣った人ですか。もしそうでないのなら、あなたの判断
の方が、おかしいのではないですか」
と問いかけているのです。
創価学会では五重の相対(文字通り相対)や、五時八経など他のもの
と比べて得られた結果を、絶対としてほんの少し考えが違うだけで、日
顕氏を大悪人としている。また学会を批判する人も、謗法の輩になって
しまう。
学会の教義がほんとうに正しいのだろうか。学会はこの間会則を変更し
た。絶対的に正しい教義に基づいて作られた会則なら、なぜ変更する必要
があるのだろう。
自分の判断が絶対正しいと固執する事から、悪が生まれて争いが起きる
のではないだろうか。そのような悪を作り出す、考え方そのものがおかし
くないだろうか。
理系の人はずっと相対的な思考方法になれている。でもどっかで相対的
な思考の結果に矛盾を感じているのではないか。そこで自己の判断に寄ら
ない仏教的な考え方に、何かそれを解決できる方法があると思っているの
ではないだろうか。そこに惹かれているのじゃないかな。
文系だから惹かれないのでしょうか?
そんなことはないと思います
割合は変わらないのではないでしょうか
理屈に合うから惹かれるのと
フィーリングが合うから惹かれる
どちらも大して変わりないと思いますけど
MCを使うカルトはそこから先に問題があるのですから
>>918 Sbさん
僕は単に自分が理系だから癇にさわった、ということでこんな(
>>893 >>910)ことを言っているわけではありませんよ。
「理系だから」ということで人の性質をうんぬんいうのはちょっとステレオタイプすぎると思うだけです。
Sbさんのいう理系像が「おおまかなカテゴライズ」というのはちょっと無理があるでしょうね。
理系の一部にはそういう人もいるかもしれませんが、それは文系にも同様にいるでしょうし、学問の分野から考えたら、むしろ文系の方がずっと多いと考えないとおかしいんじゃないですかね。
中世において科学が宗教的なものやオカルト的なものと未分化だったということは確かですが、だからこそ現代の科学はそういうものに陥らないために「実証主義」や「懐疑主義」という方法論を発展させてきました。
ところで科学の発祥は古代ギリシャの哲学にあると考えた方が僕は納得がいきますね。それにしてもオカルト的な考え方がなかったわけではないでしょうが。
>>919-920 お邪魔しますさん
全体主義と還元主義の比較の話ですか?
内容がいろいろ混線しているようでよくわかりませんでしたが、科学的に考える(客観的に考える)、というのは、善悪などの主観的な価値判断を抜きにして考えるということだと思います。
その結果得られた事実やデータを見てどう判断するかっていうのは科学とはまた別の話です。
お邪魔しますさんの「相対的」という意味はまるきり意味が逆な感じがします。
「相対的」というのは、2つを比べて良い方を採用するという意味ではなく、立場によって判断が異なるという意味ですよ。
だって「相対」の反対は「絶対」ですし。
日本では手づかみで食事したら「悪いこと」だけど、それが絶対どこでも通用するのではなく、他の国では「善いこと」と判断されるかもしれない、と思うことが、相対的に考えるということです。
楽しければいいんですが。
理系だ文系だってカテゴライズして何の意味があるんだろう?
人間一生同じカテゴライズの範疇で生きていくものでしょうか??
・・・以上、人生で理系文系を何度も入れ替えている者の独り言でした。
要するに物事を全て単純に割り切ろうとする考え方はカルトに嵌りやすいってことでしょ
この話はもうやめて次のネタに移りましょう
さあどうぞ ↓
>「理系だから」ということで人の性質をうんぬんいうのは
>ちょっとステレオタイプすぎると思うだけです。
それには、同意ですね。気持ちは分かります。
と同時に、元統一教会の人の体験談にも、大変、説得力があった、と感じているだけです(笑)。
「理系」がどうこう、というよりも、元信者の「文系ってダメ」、という印象が強いですね。
文系は、そもそも「答えを出したい」とかではなく、「そもそも答えを出す気が無い(苦笑)」。
文系って、「答えを出しちゃうとツマラン」という感覚、あるでしょう。
「延々と議論をやってる」こと自体に、「最高価値」を見出すわけですから(笑)。
それでは勧誘しにくいはずです。
ちょっとこれも「文系」に対するステレオタイプ的な見方かもしれませんね。(終了)
>>922 やっぱり、(苦笑)
なるべくステレオタイプにならないように心がけて書いたつもりだったのですが(冷汗)
科学の発祥がギリシャ哲学ってのはロマンティズムですよ
シャーマニズムからのほうがしっくり来ますよ
ただ、今の科学を支えている「実証主義」や「懐疑主義」は
確かにギリシャ哲学以外の何物でもありませんね
>>924 本来の仏教から見れば、カテゴライズや、区分けなど無意味の骨頂です
ただ、人は便利なので、わける
だけど、馬鹿なので、その わけたもの が ある と思ってしまう
そして迷うのでしょう
文系理系の話も飽きたので、話題を変えましょうか
確かに、私も理系文系と区分けして考えてますね。
ただ私が言いたかったのは、考えるときに自然と区分けして考える癖が
いけないのではないか。そしてその一方に寄り掛かり、他を否定、批判、
排除する事がほんとうに正しいのかどうかと言うことです。
釈尊は独自の考え方、モノの見方を獲得し、その立場で教えを説いたので
はないかと思います。ですから教典の文字の解釈より、釈尊と同じ思考方法
を獲得できるようにした方が良いのではないかな。
>>929 お邪魔しますさん
すいません。もうこの話題終わりにするんですが、ちょっとだけレス。
現代では、文化の多様性、思想の多様性を尊重する、という考え方が一般的な良識ということになっていると思います。
こうした「自分の考えが絶対というわけじゃない」「立場によって常識は変わる」という考え方はかなり普及していると僕は思ってます。
釈尊の考えそのものではないにしても、現代は「狂信的な宗教」を社会常識として否定できる、というところまでは進歩していると言えるんじゃないでしょうか。
僕は「言葉」「論理」というものは人間に不可欠だと思ってます。
それを否定しては考えることも生活することもできない。
ただ、それはあくまで「道具」であって、便宜上使っているものだ、と思っていればいいんじゃないでしょうか。
(といっても、僕は「言葉」にはそれなりの重みがあると思ってます。いい加減に使っていいって意味じゃありません)
>>こうした「自分の考えが絶対というわけじゃない」「立場によって常識は変わる」と
いう考え方はかなり普及していると僕は思ってます。
果たしてそうでしょうか。もしそうならばアメリカはイラクに攻め込まないのではない
でしょうか。創価学会が他の宗教を攻撃したりしないのではないですか。
相対的と言う言葉が上手く伝わらないようなので、他に何か無いかと探していたら、
鈴木秀夫氏の「ロゴス」と「レンマ」という言葉がありました。
まず「ロゴスの論理」です。この論理は「A」か「非A」か、「善」か「悪」か、という
ふうに、常に二者択一なんです。これは西洋的なモノの見方です。
東洋、すなわち仏教の論理は「レンマの論理」と言いまして、例えば「A」というのは
「非A」があって初めて存在する、言い換えれば「善」は「悪」があって初めて存在する。
ゆえに「善」も「悪」もそれ自身では存在し得ないが、しかし現実には存在している、と
いう論理なんです。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、根本にあるのは「すべての
ものは互いに相まって存在している」という考え方です。ちなみに、仏教ではこれを「空
(くう=相依性=縁起)」と表現しています。
私はまだ「ロゴスの倫理」が大多数を占めていると思います。世の中の争いは、どちら
の宗教が正しいか、どちらの民族が優れているか、どちらの思想が正義を表しているか、
が基になって起こるのではないですか。
少しスレタイに戻ると、日蓮の思想は「ロゴスの倫理」なのですね。たくさんの教典の
中から、比較検討してどれが釈尊のほんとうの説きたかったことかを、探し出してくるわ
けです。そして莫大な量の識別作用の結果として、法華経を選び出し、それが釈尊の本意
を伝える唯一正しい教典としました。
その結果
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「(わが説は)真理である」
「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
(スッタニパータ 886)
偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、
(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である。無能な奴
だ」という。
(スッタニパータ 887)
これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、―彼らはすべて他人
からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)賞賛を博するだけである。
(スッタニパータ 895)
と、こうなるわけです。
>>932 蘇った、お邪魔します さん。 どうもです。
概ね同意します・・・皮肉的な内容の御意見と理解していますが(笑
>日蓮の思想は「ロゴスの倫理」なのですね。
私も確かに似ていると思います。ゼノンなどと近似性高い?かと・・・
>たくさんの教典の中から、比較検討してどれが釈尊のほんとうの説きたかったことかを、探し出してくるわけです。
>そして莫大な量の識別作用の結果として、法華経を選び出し〜
私はここのところ一寸違う風に考えています。
智ギにしろ日蓮師にしろ八万法蔵といわれる仏教経論の全ての中からの識別作用の結果を導き出したとは考えられない・・・どんなに頭の良い人だったとしても・・・
先に「法華経が一番」との結論(思い込み?)があって、それから理由を肉付けして行く手順だと思うのです。
帰納的論理推理に演繹的説明を行うから、現代一般の科学的批判とは相容れないのだと思います。
確かに、言葉は道具だね。
人間という名の哺乳類が手に入れたツール。猿にとっての「棒切れ」のようなもの。
この世界を創造した大いなるもの、
あるいは、このようにあらしめた、「何か大いなるもの」から見れば、
猿の棒切れも、人間の言葉も、同レベルの道具でしょう。
広辞苑の言葉をすべて駆使しても、経典の言葉を総動員しても、
きっと、はるかに届かないのでしょう。あまりにも遠く。。。。。
「題目という名の中国語翻訳の日本語読み連呼で、何かいいことがある」という教義は、
あまりにも安直。それで満足できる人はよいけれど。ほうっておくべきか?
>>931 お邪魔しますさん
>相対的と言う言葉が上手く伝わらないようなので、
そうではなくてお邪魔しますさんが「相対的」という日本語を誤って使っているというということですよ。
言葉というのは両者で意味が一致していないとやりとりができないんです。
僕はむしろ相対的な見方を身につけることが「絶対」に陥らないための策だと考えているのですから。
ロゴス(論理)が常に二者択一ってのは暴論だと思います。
言葉というのは確かに自然のものを「切り取る」言い換えれば「定義づける」「シンボル化する」働きがあると思います。
しかし、それが二者択一をせまるかというとそうではない。赤と白とどっちが偉いなんて考えないじゃないですか。
また、もし善悪、真偽などの価値判断がない世界があったとしたら、それは単なる禽獣の世界です。
僕は自分の子供には、「人が嫌がることをするのは悪いことだ」と教えます。
レンマというのはよく知りませんが、お邪魔しますさんの説明から分かることは、それも立派なロゴスだってことです。
西洋の言葉だってそういう構造でできてるんですから。
(レンマがロゴスに対するものとしてある概念なんだったら、理解が違うんじゃないですか? 調べてみてください)
思想の優劣や真偽で争いが起こるのは、ロゴスの倫理を使っているからというのは全然関係ないと思います。
我々は言葉で賢くもなれるし、愚かにもなれるってことだと思いますけどね。
>お邪魔しますさん
日蓮が法華経が最高だと思ったのは天台が言ったからだし、天台がそう言ったのは、釈尊一代で説かれたとされる
諸々の経典の整合性をまとめあげた結果です。
教えの優劣を比べて順列をつけたわけではありません。あくまで「整合性」を求めた結果です。
実際には諸々の経典は数百年にもわたっていろいろな人間の手によって説かれたものなので、整合性などないのですが。
古今東西のさまざまな思想家の考えを、優劣をつけて一番から順に並べることなどできませんよね?
なぜかといえば、それはそのときの時代状況やお国柄や、なにより受け取る側の価値観がひとそれぞれ違うからです。
だから、「自分はこれが好き」「自分はこれを信念とする」はいいんですが、それを「相対的に」とらえることが大事で、
自分の考えが絶対だと思わないことが大事なわけです。
日蓮は初めから法華経を信じていたわけではない。それどころか
最初は法然の浄土宗の僧であった。
日蓮が最初に入門した清澄寺は、「天台宗」を真言化した延暦寺の第三代
座主・慈覚が開創したという伝承がある寺で、慈覚は常行三昧法を説いていた。
天台宗の法要儀礼は、顕・密二教わたり、具体的には顕教法要は法華三昧
(法華経を読誦し、懺悔し、滅罪生善の規範とする)と常行三昧(じょうぎ
ょうざんまい。阿弥陀経を読誦し、往生極楽の指南とする)の二法、密教法
要は光明供錫杖(こうみょうくしゃくじょう。光明真言によって滅罪息災の
秘法を修す)が常用されている。
したがって日蓮大聖人が登られた当時の清澄寺は、慈覚の教えの影響を受け
て常行三昧法により念仏が唱えられていた。
さらに本格的に仏教を学ぶために鎌倉の光明寺に修行に行く。
光明寺は 宗祖法然、二祖聖光に続く、浄土宗三祖然阿良忠が鎌倉幕府第四
代の執権、北条経時公の帰依を受けて開かれたといわれています。日蓮は法然
の孫弟子に当たる良忠の元で17才から5年間浄土宗の修行をしていた。
そのころは当然浄土宗の信者であるから、法華経の信者に対して
今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一
人得者千中無一 等と笑しなり
−佐渡御書−
(今生にも念仏者として数年の間は、法華経の行者を見ては「今打一人の成
仏をした者もいない。千人中一人も成仏をした者はない」等と笑ったのだ。)
等と言っていた。
お邪魔しますさんは、痛いトコ突かれるといつも知識のひけらかしに逃げるなぁ。
スマソ、の一言で済む話じゃん。>相対的
それから慈覚流の天台念仏と法然の称名念仏は、少なくとも禅の法華経と日蓮の法華経くらい違うからね。
法然の因った「観経四帖疏」は奈良仏教の流れ。
天台念仏なら観法が入るし、融通念仏は念仏に行としての価値がある。
同じ念仏でも、宗派によって解釈は違う。
だから清澄寺時代を法然門下とするのは、少し無理があるよ。
実際、相対の論理はどこまで比較して行っても、確率は高くなるが絶対性にはたどり着かない・・・
真理とは絶対性であると位置付けるものであるならば、相対法ではある意味永遠に得られないとも考えられる・・・
>937 これも一応指摘しとくかなぁ…。あら探しみたいでヤなんだけど。
まず清澄寺にある言い伝えは慈覚大師の「中興」ね。
それと…日蓮が18才前後に鎌倉で禅や浄土を含む諸宗派を学んだのは事実として、
光明寺(当時は蓮華寺)の然阿にっていうのは、
もしかして室町時代の伝記「日蓮大聖人註画讃」に出てくる大阿と混同してないかな。
蓮華寺が出来たのが1240年3月で日蓮19才の頃だから、
お邪魔しますさんの説明にはちょっと無理があるよ。
ちなみに17才から5年間ていうけど、1242年にはもう日蓮は
清澄山に帰ってて、その年の内に比叡山に登ってるからね。
多分間違いないと思うけど、確認してみて下さい。
春田の蛙さん久しぶりです。
光明寺については正元元年(1259年)に良忠が立てた悟真寺(ごし
んじ)が起源で、蓮華寺(れんげじ)と改称した後、光明寺になったという。
したがってお寺が出来たのは日蓮が17,18の時で記述に間違いがあったこ
とを、訂正します。
法然・善導等が・かきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よ
りしりて候いき
ー南条兵衛七郎殿御書ー
と書いてあるので、法然の浄土宗についてはかなり傾倒していたのではないかな。
そうではないと、
>>937で書いた法華経の信者を笑うと言うことも、無いと思うんだ。
>942 お邪魔しますさん
うん。おひさしぶり…なんだけどちょっと待った。
日蓮の生年が承久四年(貞応元年)、つまり1222年てのはOKだよね。
だったら正元元年(1259年)の時は日蓮いくつよ?(苦笑)
寛元元年(1243年、日蓮はすでに比叡山で修行中)と勘違いしてないかね。
蓮華寺が材木座に移って光明寺と改称したのが寛元元年。
ちなみに改称の理由は、北条経時が光明の霊夢を見たからだって伝承があるね。
http://www.kcn-net.org/kamakura/oomati/oz-komy.html ↑の鎌倉市観光協会のサイトを見ても分かると思うけど、
私は
>941で正確に記述したつもりだけどなぁ。
日蓮が17、8才の頃は、まだそのお寺無いんだってば。(笑)
まぁ、混乱するんだったら西暦で書こうよ。
その方が見てる人も分かり易いと思うよ。
それと前から指摘されてると思うけど、引用するなら前後も読む事。
年表くらいはチェックしてから考えをまとめる事。
ちなみに引用の御書に関する指摘は、もう日蓮系の信仰持ってる人にパス。(笑)
これ以上あら探しばっかしたくないので、私はしばらくROMります。
それから、ひゃっきまるさんに一言くらいはあやまっときなさいな。
ひゃっきまるさんは気になさらないと思うけど、
見てる方としては「お邪魔しますさんは都合悪くなると毎度長文でレス流すなぁ」って、印象良くないよ。
どーも、どーも光明寺のホームページで調べたところ、開山は1243年で
別のサイトで調べたところ
光明寺の前身は蓮華寺で、1240(仁治元)年浄土宗の布教に努めていた良忠
の為に、 経時が佐助ヶ谷に建てた寺を、1243(寛元元)年 今の地に移して
光明寺に改めたといわれています、とのことですね。
もとは紀野一義の文に日蓮が17の時に清澄寺から鎌倉に修学に行き、光
明寺の良忠の元で念仏の修行をした。とあったのを記憶していたモノです。
相対的の反対の絶対的にと言うのは、他に比べるモノが無くてもそのもの自
体で存在することだし、相対的というのは、互いに他との関係をもち合って成
立・存在すると言う意味で使っていたけど、間違っていたかな〜。
ただなぜ日蓮が念仏から法華経に変わったか、学会の説明だと念仏信者の死
相がよくないとのことだけど、それだけじゃないと思うんだよね。あと天台教
学か。
>>945 絶対性というものは、条件の下でしか存在できないものだと思いますね
つまり普遍性がない
絶対的で普遍なものというのはそもそも矛盾でしょう
それから、主観というもの、これは絶対です、相対的な主観などありえないと思います
では客観とは何か、
想像力でしょうね
日蓮さんが念仏を離れた理由ですか?
合わなかったからでしょうね
念仏は、阿弥陀様だけは最後まで見捨てないってこと
その、だけに捉われたんじゃないですかね
救えてないじゃないかと
では、本当に救える、だけを持ったものは何なのかと
で、法華経だけが、になってしまった
それで、題目を念仏の代わりにしたってところでしょうね
でも、法華経の悟のプロセスとしては、だけが、では到達できないと思うんですけどね
>>945 お邪魔しますさん
>>919-920をご自分で読んで見ましたか? まあもういいのですが。
春田の蛙さんお気遣いありがとうございます。
>>946 > 絶対性というものは、条件の下でしか存在できないものだと思いますね
> つまり普遍性がない
> 絶対的で普遍なものというのはそもそも矛盾でしょう
ほんとにバカですね。
> それから、主観というもの、これは絶対です、相対的な主観などありえないと思います
> では客観とは何か、
> 想像力でしょうね
ププ
なんか、名無しに煽られてしまった
でも、前々から思っていたんだけど
もう、名無しにはレス返すのやめようと思う
面倒くさいしね
言いたいことがあるなら、コテハントリップで、ちゃんと反論を書いて欲しいよ
>>949 広辞苑では「相対」の意味のひとつに「他との関係において在るもの」と書かれている。
認識は縁起のものであるので、他との関係性の上に成り立ってるよ。
主観も認識だよ。
ププ
そろそろ新スレたてますね。
ここは野次挑発禁止なんでご協力おねがいしますね。
>>949 もう一丁。
広辞苑では「絶対」の意味のひとつに「一切他から制限・拘束されないこと」とある。
だから、「絶対」は「条件の下でしか存在できないもの」ではない。
つまり、あなたは「相対」と「絶対」をあべこべの意味で使っているということだ。
バカと書かれた時点で気づけよ。
>もう、名無しにはレス返すのやめようと思う
新スレでも宣言しちゃったんだね。
好きにすれば?
煽られたくなかったら、もう少しまともなことを書け。
こんなまったりとしたスレで煽るオマエの方が悪い。空気嫁。
言いたいことあるなら最初にはっきり言え。他が迷惑する。
詳しい方にお聞きしたいのですが、
丑寅勤行は、正宗系列だけで行われているのでしょうか?
日蓮自体は丑寅勤行をやっていたのでしょうか?
新しい話題は新スレで、このスレの話題はこのスレで続けていきましょう。
>>956 とりあえず僕は知りません。すんません。
興味深いのは、法然以外の鎌倉新仏教の宗祖は、
結局天台教学に回帰しているという点ですね。
日蓮は当然だが、親鸞、道元も晩年には
法華思想ベースの考え方になっているのはおもしろい。
まあ、もともと比叡山で学んだということもあり、
それも当然なのかもしれないけれど、
法華経には、他の経典にない魅力があるのでしょうね。
いずれにせよ、平成の宗教改革は既に手が打たれている。
その、主人公たる現代の丸チンルターはキミかも知れないのだ・・・。
埋めておきましょうか(苦笑)。得意ですので。
事実を書いておきましょう。
日蓮は病死したことにより、
題目による功徳として、「病癒し」や「生命力が高まる・・」は、集団幻想です。
それから、「妙訪蓮華経」は、各種ある翻訳の中でも、誤訳・意訳の多い中国語翻訳です。
ですから、南無をつけて、タイトルを連呼しても、何の功徳もあるはずはありません。
日蓮は、悪い人ではなかった、でも、間違えた。仕方のないことです。
題目を唱えると、何か良いことがある、と信じる人は、
世界人口比率、約0%です。あたりまえのことです。あまり時間を浪費しないようにね。
飲みながら書くと、文章がメチャクチャですね(苦笑)。。
書いてあることは事実なのですけれど。。やれやれ。
>>958 親鸞、道元が天台教学そのものに回帰してるんですか?
それはそれぞれ自宗で打ち立てた教学などとはどう関っていたんでしょうか。
そのへん知らないから詳しく教えてもらえませんか。スレ違いになるでしょうが…。
でも法華経は作者が一乗たらんと目指して創作されたものだから
たしかにいろいろな要素は詰まってるでしょうね。
ブッダもキノコ(一説には豚肉)料理の中毒が元で死んでいます。
また、瑠璃王のカピラ城攻撃による釈迦族滅亡も防げなかった。
キサーゴータミーの子供を生き返らせることはできなかった。
何ら神秘的なことや、奇跡が起こらないこと、世の中は当たり前
のことが、当たり前に起こることを知るのが仏教じゃないかな。
ところで何で日付が「仏暦」になってんの。
スーカラマッタヴァは、きのこ料理とも豚肉料理とも言われるが、
世界各国の中では、トリュフを採る時のように、豚の嗅覚を利用して
採取していたところもあるから、そのどちらかと推察されている。
フランスの仏教研究家であるフーシェーは後者を唱えている。
しかし、これは私の見解だが、きのこと豚肉を炒めたか何かの料理ではないかと思う。
また、釈尊は生まれつき下痢気味でお腹が元々弱かったらしい。
だからそれが中毒と言えるのかどうか・・・。それを最後に供養した純陀も責められていない。
また、法華経その他大乗経典は釈尊滅後の創作ということだが、
破瑠璃王の釈迦族殲滅事件は法華経(の元になる教え)を説いた直後に起こったとされている。
また、釈尊が後継者として目していた舎利弗、目連も法華経説法後すぐに亡くなったと言われている。
いくら、素晴らしい教えであっても「宿命」は変わらないことを示している。それが仏教。
御本尊の功徳には、「顕益(けんやく)」と「冥益(みょうやく)」の二
つの利益があります。
顕益とは、直面する眼前の苦しみ、悩みが解決するなど、生活の表面にあ
らわれ、はっきりと分かる利益のことです。例えば、信心をして、前向き
に治療に取り組んで病気が治ったといった利益です。
これに対して、冥益とは、若木が年月を経てやがて大樹と育つように、た
ゆみなき信仰実践のなかで、三世にわたる永遠に崩れぬ福運を積んでいく
ことです。何年間か長い目で見た場合には、厳然と変革があり、幸福にな
り、人格的にも成長し輝いていく利益のことです。
大聖人は、「正法を受けるのは簡単だが、たもっていくことは難しい。成
仏はたもち抜いていくことにある」(御書1136ページ、趣意)と仰せです。
大切なことは、祈りを続けることです。祈りを続ければ、祈った分だけ、
功徳に包まれ、幸福の軌道へと自身を導いていくことができるのです。「
持続」にこそ、生命の変革である成仏があるのです。この生命の変革が冥
益の究極なのです。
創価学会公式ホームページ 「 新会員の皆さんへ 」より
>>965 諸行無常を宿命といったらそうかもしれませんが、「成仏」という目的を掲げているのですから、
運命論、宿命論は仏教には馴染まない気がします。
法華経の元になった教えってなんでしょ。
仏教思想の根幹とされる思考は、無常、苦、無我、穢土というものである。
それに対して、法華経は全く逆の立場を採る。
すなわち、常、楽、我、浄であり、その象徴として地涌の四菩薩が説かれる。
常 無辺行菩薩
楽 安立行菩薩
我 上行菩薩
浄 浄行菩薩
そして、我常在此娑婆世界と説かれるように、
これまで無常とされ、苦しみの世界とされ、不浄の国土とされた現実世界こそ、
仏の本国であるとしているのである。
すなわち、成仏した衆生もまたその本国は娑婆世界であり、
永遠に現実世界での衆生救済を目指すことになる。
その徹底した現世主義は、法華経の特徴ともいえるものであり、
この思想は、信奉者に現実との対決を余儀なくさせる。
その意味で日蓮や創価学会のように、社会変革を目指す講堂規範は、
法華経の思想に合致したものであろう。
暦の表記はこれでひと段落なのかな。
>>968 創価学会の方ですか?(「日蓮や創価学会のように」と言っていることから)
法華経自体には地沸の四菩薩についての説明はありませんよね。
>>968 はい、そうですね。
法華経においては上行菩薩以外は詳しく語られることがない菩薩です。
つまり最初から上行菩薩ひとりでも話の筋としては問題なかったはずです。
逆にいえば、常楽我浄の四徳を示すためだけに、四菩薩が出ているといえます。
天台家では、常楽我浄の四徳を一つずつ四菩薩に配立するとともに、
代表してこの四徳を上行菩薩ひとりに兼ねさせます。
>>967 965です。私も本来そうであると考えてます。
「宿命」は層化に対する皮肉と御受け取り下さい。
また、法華経の元となった教えというより法華経といった方がよかったかもしれません。
とはいえ、述べたように法華経は後世に発展創作されたモノなので。
そのへんは現代仏教学の受け売りでしかないんですが・・・。
>>968さんと
>>970さんは同一人物でしょうか?
コテハンをつけていただいたほうがわかりよいのですが。。。
あと、ここはもうすぐ終了になりますので、もしこの話を続けたいという意思があれば、新スレ(ver.13)の方に
書いていただけるとありがたいです。
>>970 文章からは、法華経の中に、上行菩薩が常楽我浄の四徳を備えていることを示す箇所がある、と読み取れる
のですが、それはどの箇所でしょうか?
また、
>>968の法華経の解釈(仏教の根幹思想に対して法華経はすべて逆の立場をとるという捉え方)は、
スタンダードなものなのでしょうか? それともあなたの所属している組織独特のものなのでしょうか?
>>971 釈尊が存命時に、法華経も法華経の元になった教えも説いたことはなかったと思っていましたので、
何のことを指しているのかちょっと気になりました。
何らかの教えを発展創作したできたものというより、釈尊の生涯の神話をモチーフにした経典風の
全く新しい物語というようにとらえるのが妥当と思っています。
>>972 御義口伝に、唐代の天台僧である道暹の書いた法華天台文句輔正記を
引用して、以下のように書かれています。
「疏の九を受けて輔正記の九に云く『経に四導師有りとは今四徳を表す
上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有
る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際
を踰ゆるを無辺行と称し五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け道樹にして
徳円かなり故に安立行と曰うなり』」
常楽我浄は、大乗仏典に広く見られるかなりスタンダードな考え方ですが、
法華経はそれを現実世界に展開した点が特徴的です。
このことで、九界即仏界の意義が現れてきます。
>>974 ざっとネットで検索して調べた感じなんで、もし詳しい方がいれば解説していただきたいのですが。
まず、法華経の中には地湧の四菩薩の特徴について述べている箇所はない(少なくとも常楽我浄の観点から)。
おそらく、常楽我浄というのは涅槃経からのものではないかと。
それから、常楽我浄は一般的には、涅槃の境地を顕したものらしい。
とすると、
>>968の説明はちょっと変な気がするんですが・・・。
無常、苦、無我、穢土である迷いの状態が、涅槃に至ると常楽我浄という境地を得る、ということになれば、
「法華経と法華経以外は逆の立場をとる」と解釈する必要はないのでは?
それとも、涅槃が現実世界である、というのが法華経の特徴だと言いたいのですかね。
ちょっとこの辺勘違いしてるかもしれないんですが、「覚る=成仏する=涅槃の境地を得る」
ということだと理解しているのですが、それはどこか遠くの天国みたいなところに行くというわけではなく、その人自身の
変化のことですよね・・・。(この辺は唯識論として発展していくんだと思います)
仏教ははじめっから、現実世界以外の世界など想定していないように思うんですが。
>>975 物の見方が仏教的じゃないから、変なんですよ
法華経は悟を捨てては法華経足りえないんです
逆であるからとして、そのまま逆に捉えるようでは駄目なのです
逆であることが同じであることと悟っていなければ読めない部分を
悟なしで読めば、短絡的な変革に行き着くだけ
涅槃の境地とはすなわち当たり前に生きていくということでもあるのではないでしょうか
涅槃に達してなどいませんのでわかりませんけどね
>>974 >常楽我浄は、大乗仏典に広く見られるかなりスタンダードな考え方
涅槃経以外にはないと思うのだが、もしあるならそれ以外の出典を教えてくれますか。
涅槃経の前を著けては後に著け、後を著けては前に著け…
>>976 Sbさん
自分の言いたいこと言うのに夢中になって話の流れアサッテなのってカコワルイ。
ブッダの教えていることは、物事に執着することがすべての迷いの基で
あるといっているのでは無いかな。
物事に執着する事により、我執が生じる。それが迷いや、苦しみや、争
いを作り出す。
なぜ物事に執着するかというと、ある物事に対して識別作用や、判別作
用を行うからなんだよな。
ある事柄に対して、良いとか悪いとか、正しいとかいけないとか、長いと
か短いとか、大きいとか小さいとか、美しいとか醜いとか、色々な判断を通
して見ている。
そのような判断をやめて、ただあるだけ、ただ見えるだけ、ただ聞こえるだ
け、ただ・・・なだけに自分を持っていけるようにすることをブッダは言いた
かったのではないか。
今お花見の時季ですが、「桜は美しい」と言う前に、あるモノに対して、これ
は「桜」と自分は考えている。そしてそれを「美しい」と感じているという心の
流れに気がつくがどうか、それがブッダのいう「智慧」じゃないかな。
スッタニパータやダンマパタ゜を読むと、「よく気をつける」と言う言葉が幾
度も出てくるが、このことを指していると思っている。
日蓮についていうと、日蓮の教義はそれこそ「識別作用」「判別作用」の山に
よって、(佐渡からあとは少し変わってきたけど)出来ている。それが後に色々
な問題や、争いを起こす元になったのではないか。
>>978 ひゃっきまるさんも変だと思ったんでしょ?
私も変だと思ったんだよね
で、その変を私の解釈でといてみたんです
ひゃっきまるさんの意見を変といっているわけではありませんよ
>>981 Sbさん
ささいなことでこだわるなあと思われるかもしれませんが・・・。
そうだとしてもSbさんの返し方はおかしいですよ。
僕が変だと思った理由は、Sbさんが変だと思った理由と全く違う次元の話なんですから。
そういう、話の流れを無視して、他人の発言を呼び水にして、自分の主張を「俺はね・俺はね」みたいに
出してくるところが「カコワルイ」と言ったのです。
どっちにしても、この学会員らしい人はもう返事しないでしょうね。
最近このパターン多いですね。
やっぱり今までだいぶ議論してきてますから、警戒されてるんですかね。
ところで、僕は「超越する」ってことに関して「うさん臭い」気持ちを持ってます。
Sbさんやお邪魔しますさんのように、「仏教の考え方はね」みたいに説いてくる人って、
「通常の思惟を超えたものがあるんだよ」って悦にいってる感じがするんです。
あるいは、自分を蚊帳の外に置いて、他の人は愚かだな、なんて見下してる感じもします。
「超越する」というのに似たものに、「統一する」なんてのもあります。
世の中の現象の全てを説明できる統一した原理を見いだした、なんて感じに使うんですが。
中国の教判は典型です。
「超越する」「統一する」そんな思想を掲げたものってたくさんありますが、結局どれも、
多種多様な思想のたった一つのジャンルに過ぎなかったりします。
「超越する」「統一する」という傾向の考え方には、自分の奉じている思想が特別なもので、
他が劣っている、とみなす気持ちの先触れを感じるのです。
>>984 そーですよ。
僕はそういう人間の「嫌らしさ」を創価学会から学んだんです。
だからそういう匂いのする人間に過敏なのかも。
軽くROMった範囲では、このスレの誰も「通常の思惟を超えたものがあるんだよ」
とは主張してないように思われます。
熱心な層化信者によく見受けられる「日蓮による予言・超能力の類」を、
まず戒められるのが宜しいかと存じます。
>「超越する」「統一する」そんな思想を掲げたものってたくさんありますが、結局どれも、
>多種多様な思想のたった一つのジャンルに過ぎなかったりします。
(爆笑)。それでいいんだよ。日蓮がそこらを歩いていたら、彼に言っとけ。彼に。
ひゃっきまるはさっさと学会辞めろよ。
創価学会って、相手が自分の思うようにならない場合は、徹底
的に議論しないで人格攻撃してくるね。
相手がどんなにくだらない人間かを書いて、その人の主張を価
値の無いように思わせる手を使うよ。
このことは聖教新聞で、日顕氏をなんて呼んでいるか、見れば
分かる。
「人によっては簡単なことが、他の人にとっては至難のわざとな
る。至難と思う圧倒的多数の人が、「埒もないあこがれ」(わたく
しは、このことを徹底的に強調したい)を抱き、その「至難」の境
地を極端に理想化する。これが合理的な智慧抜きの苦行主義、禅定
主義(大乗仏教、とりわけ密教に顕著)を生み出す、おそらく最大
の原因である。」
宮元啓一「仏教誕生」(ちくま新書)P155
初期教典のスッタニパータなどを読むと、何年も何年もかかって
研究しなければ理解できないようなことは言っていない。そのよう
な教えだと仏教によって救われるのは、ごく一部の人に限られてし
まう。それに対して元々の教えは、釈尊に対して質問すると、すぐ
納得できるような答えが返ってくるようなシンプルなモノだったは
ずです。「来れ見よ」と言える教えです。
>>986 >軽くROMった範囲では、このスレの誰も「通常の思惟を超えたものがあるんだよ」
>とは主張してないように思われます。
Sbさんとお邪魔しますさんは実際にそう主張していますよ。
Sbさんは自分が悟っているとも発言しています。
>>992 「学会の教えはブッタとは関係なさそうだ その3」
550 名前:お邪魔します復活!! ◆nH2G.RjIE2 投稿日:04/04/20 09:44 ID:wribNc48
言葉に依存しない思考方法って、みんな普通にやっていることなんだけどな〜。
私はそれに気が付いて、意識しているだけだよ。Sbさんに聞いてみれば。言葉では理論が破綻している話や、ぶっ飛んでいる話を一杯持っているから。
585 名前:Sb ◆SbSGI7AtEA 投稿日:04/04/22 02:53 ID:2CAHFiG/
>>568 つづき
>>言葉で語る仏教を軽蔑し、見下す。そして自分たちだけが真の悟りを知っているとのたまう。
言葉だけで語れば片手落ち、言葉で語れないものもあっての仏教
言葉で語れないものを軽蔑しているのでは?
「折伏経典は正しいのか?」
433 名前:Sb ◆SbSGI7AtEA 投稿日:04/07/15 16:18 ID:+kIbiuUK
>>430 大悟は一回だね、小悟は数回、だからなに
聞いてどうするの?
それであんたが悟れるの?
あんたは悟ろうと思うの?
馬鹿になどしてないし、
本質もそらしていない、
だいたい、あなたに本質が見えているの?
>>993 「通常の思惟を超えたもの=言葉で語れないもの」と一概には言えないと思うね。
確かに、通常の思惟は言葉で語るものだと言えるので、その範囲に於いては一致する。
しかし、その範囲を超えた部分については必ずしも一致するとは限らないのではないかな。
表現力というフィルターを通さずに思惟思索する、ということは日常生活でも十分に在り得るよ。
曼荼羅や仏像、数字や論理記号、絵画や音楽等は言葉だけで語るものではないし
層化風に言えば、いわゆる功徳の「体験」を言葉だけでは表現できないだろう?
Sbさんについては
>>976を参照すれば解る通り、
自分が悟っているとは一言も言っていないので
>>991の発言は客観的に見て間違いである、と判断します。
>>994 494 名前:お邪魔します復活!! ◆nH2G.RjIE2 投稿日:04/04/17 04:00 ID:93ow6blQ
乾さん分かっているじゃない。
>まるで「我々の分別の働きに依っている」言語など役に立たないとでも言っているように聞こえ
ますがね。お邪魔しますさんは。
言っているように聞こえるのじゃなくて、そう言っているよ。仏教を理解するのに一番の障害が、
個々の分別による言葉なんだよ
>>995しつこい人
だからこそ、言葉のみに囚われないことが大切だね。
>>994 Sbさんは「 大悟は一回だね、小悟は数回」と発言してる。
自分の主張にとって都合の悪いソースは無視するの?
>>997 件の発言は一般論にあたるものかと思ったが違うのかね
続きの議論は次スレで本人に聞いてくださいな
梅
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。