日蓮私見

1 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:16

     このスレッドは、私の日蓮に対する私見をだらだらと書きついで行くスレッド

     です。またそこから、創価学会の教義についての疑問も提示させていただく予

     定です。長文が連続しウザウザかと思いますが、興味のある方や、暇で他にや

     ることのないという方は是非ご覧ください。

     また、学会員の方には是非見ていただきたいです。私は今まで、主に学会の教

     義面についていろいろな質問をさせていただきましたが、数人の方を除いてあ

     まりきちんとした返答はいただけませんでした。正直言って、学会の方はあま

     り日蓮がどうとかいう問題についてはご興味がないのではないか、という印象

     を持っています。どうでしょうか?

     また、何分にもアマチュアが趣味でやっているようなことなので、記述にいろ

     いろな問題点が含まれているかも知れません。その際は、どのような観点でも

     結構ですから遠慮なくご指摘していただければ幸いです。

     横レス、質問、批判などは歓迎いたします。

     では。

2 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:18

     〈法華経〉

     今に残される膨大な経典は、現代の常識では釈迦一人が説いたものとは考えら

     れていません。釈迦の説いたとされるのは漢訳経典では「阿含経」「律蔵」と

     言われるものの一部らしく、それとて釈迦の死後相当年が経過した後にまとめ

     られたものです。圧倒的に多くの経典は大乗仏教勃興時に「創作」されたもの

     です。勿論「法華経」もそのうちの一つです。

     「法華経」の特徴を挙げると次のようなのがあります。

     1、いわゆる「小乗(部派仏教)」、悪人なども含めてあらゆる者に成仏を約

     束する一切皆成思想。主に「方便品」で説かれる。

     2、釈迦を歴史的個人とは見ず、遥かな昔に成仏を果たし、今もなお説法を続

     ける神的存在とする、久遠本仏思想。主に「寿量品」で説かれる。

     3、法華経自体の極端な讃美。

     法華経は一時に成立したものではないこともあって、内容的には辻褄が合いに

     くい個所も多々あります。しかし多彩な比喩を用い、あらゆる存在に仏になる

     ことを呼びかけるその内容には独特の魅力と迫力があることも確かです。な

     お、中国・日本で支持された翻訳は鳩摩羅什(くまらじゅう)のもので、昔か

     ら美麗で文学的完成度の高いものとの定評があります。ただしその内容には翻

     訳時に新規に付け加えられたものもあり、原典とは若干の相違があります。

3 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:20

     〈天台教学〉

     先にも述べたように仏教の膨大な経典類は、様々な思想的立場の人がかなり長

     期にわたって創作したものであり、当然相互に矛盾する見解を含んだものも

     多々あります。中国にはこうした経典類が成立順も、インド思想界における脈

     絡も一切関係無く流れ込んできたので、中国仏教界ではこれらをいかに系統づ

     け、辻褄を合わせていくかが問題となりました。つまり、「一人の」教主釈尊

     が、これらの経典をどういう順序で、どういう意味をこめて説いたかを整理す

     る必要に駆られました。

     天台宗の祖である智��は、これらを「五時八教」という考え方で整理しまし

     た。そこでは、法華経こそが最重要の教えであり、残りは方便として仮に説か

     れたものであり、その意味で法華経には価値が一段劣るものとされました。無

     論、日本天台宗の祖である最澄もまたこの考え方に則っており、日蓮もまたこ

     の考え方を引き継ぐことになるのです。

4 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:22

     〈一念三千〉

     日蓮の著作は多々ありますが、今の目から見ると一作一作の分量はさほどのも

     のではなく、興味ある方はぜひ一読することをお勧めします。以下の論述は、

     主に『立正安国論』『開目抄』『如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊

     抄)』という三つの主要著作に依拠して進めます。

     天台教学のうち日蓮が特に強調したキーワードに、「一念三千」というものが

     あります。「一念」はもちろん「三千」という数字にも一応根拠はあります

     が、これは簡単に言えば、どのような存在にも無限に多様な相、あるいは可能

     性がある、ということを意味すると思われます。これを人間に当てはめると、

     一人の人間の心には、仏から畜生、悪鬼に至るまで、あらゆる性質・可能性が

     包含されているのだ、ということです。よく使われる言葉で言えば、「人間は

     天使にもなれば悪魔にもなる」ということでしょうか。日蓮も『観心本尊抄』

     で、一人の人間の表情の多様な変化を例にして巧みな説明をしています。

     これはつまり、どんな人間の内にも全てが含まれている以上は、どんな存在に

     も仏の要素が含まれており、それを引き出すことができればどんな大悪人だっ

     て仏になることができるのだ、ということです。

5 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:26

     〈平等思想〉

     この「一念三千」の思想は、必然的にあらゆる人間は平等である、という結論

     を導きます。無学な人にも、身分の卑しい人にも、罪を犯した人にも、徳の高

     い僧などと全く同じく仏になれる要素が含まれているのですし、逆に徳の高い

     僧のうちにも阿修羅や餓鬼などといった要素が含まれているということですか

     ら、この意味で人間の差別化は無意味になります。

     また日蓮も自分は「せんだらの子」と言って、幾度と無くその出生の賤しさに

     ついて語っています。これは、「たとえ私のように生まれが賤しくとも、必ず

     仏になることができると信じる」という、一種のよい意味での「開き直り」で

     あったように思われます。

     当時の日本仏教に限りませんが、宗教ではともすると権威を帯びた宗教的エリ

     ートとそれに一方的に従う大衆、という構図ができがちですが、この点で日蓮

     は、大衆の立場から、「宗教的エリート」たちに対して戦いを挑んだ、という

     見方もできると思います(無論実際はそんな単純なものではなく、同じく「大

     衆」的性格を強く帯びた浄土宗に対しては日蓮は非常に敵愾心を燃やしていま

     す。ただ、叡尊・忍性らの「戒律復興運動」や、禅宗系仏教に対する反抗心に

     は、こうした「大衆の反逆」的性格があったのではないか、と私は思います

     )。

6 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:28

     〈南無妙法蓮華経1〉

     さて、全ての人間に仏になる要素があるのならば、次は具体的にどうやって仏

     になっていくのか、その方法が問題になります。その方法が、日蓮にあっては

     「南無妙法蓮華経」という「唱題」であったのです。

     よく誤解されていますが、「南無阿弥陀仏」という「念仏」、とりわけ親鸞の

     浄土真宗におけるそれと、「南無妙法蓮華経」という「唱題」には顕著な性格

     の違いがあります。親鸞にあっては、念仏とは言わば信仰告白みたいなもの

     で、それを称えたからといって特別な力が身につくわけでも、願いが適うわけ

     でも、ましてそれによって仏になれるわけでもありません。言うなれば、「念

     仏」なんかしても何の役にも立ちはしないと認めているわけです。自分が仏に

     なるのかどうか、そんなことは人間にはわからないし、仮に分かったところで

     その力もない。ただ阿弥陀仏は全ての人間を必ず救ってくれるのだから、ひた

     すら阿弥陀仏に全てを任せればよい(他力本願)。自分が確実に救われるのだ

     ということを信じることができたとき、発する感謝の言葉が「南無阿弥陀仏」

     である。それが親鸞の思想の根幹です。この考え方は「信仰によって義とされ

     る」ことを旨としたルターの思想に近いものがあり、西洋思想に親しんだ人が

     同時に親鸞に共感を示す、というのが比較的よく見られる現象であるのも、そ

     こに原因があるように思われます。

     一方、日蓮の「南無妙法蓮華経」はこれとは全く性格を異にします。結論から

     先に言えば、日蓮の主張した「唱題」とは、自分や他人の心に隠されている仏

     の可能性を呼び起こす、一種の祈祷のようなものです。親鸞の「念仏」と比べ

     れば、「唱題」はよほど「まじない」に近いものでしょう。

7 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:30

     〈南無妙法蓮華経2〉

     ところで、なぜこれが成仏の方法になるのでしょうか。上で説明した、日蓮の

     「一念三千」の重視、そしてそこにこめられた平等思想は、日蓮の考えではま

     さに法華経の真髄を伝えるものです。法華経のうちには釈迦(無論「法華経」

     の主役としての釈迦であって、歴史的個人としての釈迦とは違うわけですが)

     の「出世の本懐」の全てがこめられています。従って法華経全体を要約するそ

     の題、つまり「妙法蓮華経」、それに「南無」をつけた「南無妙法蓮華経」

     は、釈迦の本懐の全てを要約するものだとされます。従って「南無妙法蓮華

     経」と唱えれば、自分の中の仏の可能性を引き出すことになるのだ、と日蓮は

     言うのです。

     しかし、ここで疑問が生じます。一念三千の思想に共感し、それへの共感と帰

     依を告白するのに「南無妙法蓮華経」と唱える、それなら分かります。しかし

     それだけなら唱題は一種の「信仰告白」であって、親鸞の言った「念仏」の概

     念とさほど変わらないように見えます。ところがそれを唱えればどうして実際

     に仏になれるのか、なぜ自分の心のうちの仏の可能性を呼び起こせるのか、今

     一つ根拠がはっきりしないのです。ひたすら唱題に集中することによって精神

     の安定を得ることは十分できるでしょうが、それと「仏になる」とはまた別の

     事であるはずです。一体、なぜ「唱題すれば仏になれる」のでしょうか?

8 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 00:32

     〈南無妙法蓮華経3〉

     『観心本尊抄』に次のような説明があります、

     「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれ

     ば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」。

     日蓮の主要著作の中で、上の問いに日蓮が直接答えるような内容になっている

     のは、私が見たところここだけでした。ここだけ読んでも上の「なぜ」の答え

     にはならないように思われるのですが、それ以上わかりやすい根拠づけを、日

     蓮はどうも与えていないのです。これはどういうことを意味するのでしょう

     か。

     この問いに答えるには、法華経寿量品で述べられていた「久遠本仏」という一

     種の超越的存在を、文字通り受け取め認める以外、道筋がないように思われま

     す。「久遠本仏」という超越者が現にどこかに存在しており、それがある種の

     神通力によって唱題する者に「功徳」を「譲り与え給う」と考えるしか方法が

     ないように思われます。この、超越的存在である「久遠本仏」が己の「功徳」

     を唱題する人間に「譲り与え給う」ことによって人間が仏になる、この過程

     を、日蓮は「自然(じねん)に」という、あまりに簡潔過ぎる言葉によって表

     しているのだ・・・私はそのようにしか、上の疑問に答えを与えることができ

     ません。日蓮自身は、この点について何の疑問も持たなかったからこそ、「自

     然に」といえば済んだのでしょう。しかし、私のような者にとっては、まさに

     ここは躓きの石となります。

     絶大な力を持った超越的存在を前提とし、それの意に適う儀式を執り行うこと

     によって、その超越者から力を授かる。こうした一連の手続を呪術と呼ぶなら

     ば、日蓮の「南無妙法蓮華経」には、この呪術的要素がどうにも拭えないので

     はないか、というのが私の考えです。

9 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 01:02

     〈「経典原理主義」的傾向1〉

     さて、日蓮の時代には、法華経を初めとする仏教経典は仏説として一般に承認

     されており、あえてその言葉の正しさを疑うという立場は、少なくとも仏教の

     中にはなかったのではないかと思われます。その意味で日蓮が法華経の記述を

     文字通り信じたとしても、それだけなら特に目立ったことにはならなかったと

     思います。ただ日蓮において顕著だったのは、法華経などの経典から読み取っ

     たことによって、現実を一方的に割り切ろうとした、言ってみればその「原理

     主義」的傾向でした。

     当時の日本の社会不安の原因について、彼が一切経に目を通して得た結論は、

     「仏の真の教えである法華経がないがしろにされ、誤った教え(謗法)が広ま

     っているからだ」というものでした。一体どうしてそれが社会不安の原因にな

     りうるのでしょうか?

     法華経において釈尊は様々な神々(無論、多神教的意味合いにおける「神々」

     であり、国を守ったりいろいろな自然現象をひき起こすことができるという意

     味で「神通力」を持った存在である。日蓮は日本の「八百万の神」もそこに含

     まれると考えている)を帰伏させています。彼らは皆法華経を正しい教えとし

     て崇拝しているのです。従って法華経が正しく信仰されている場所や個人には

     神々は恩恵を与え、これを神通力等で守るのですが、逆に法華経がないがしろ

     にされる場所や個人に対しては、罰を与えたり、果てには愛想を尽かしてそこ

     から立ち去ったりする。日本では謗法が盛んであるため、日本を守ってくれる

     神々が愛想尽かして日本から立ち退いているのだ。だから天変地異や疫病・飢

     饉などが広まってしまっているのだ。これが、日蓮の見解です。

10 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 01:03

     〈「経典原理主義」的傾向2〉

     日蓮はこうした考えを裏付けるために、数多くの経文を引用しています。しか

     し逆に言うと、彼が自説の根拠としてあげているのは、ほぼ経文からの引用だ

     けです。従って経文をそのまま信じる人にはそれは「証明」になりますが、信

     じない人には何の「根拠」にもなりえないどころか、全く説得力の無いものと

     成ってしまいます。

     日蓮の「論証」はほとんどがこんな調子で、結局は「経典にそう書いてあるか

     ら」ということに行きついてしまいます。この態度は一面では経典の解釈に

     「私」を挟まなかった、というふうにも言えるでしょう。しかしある経文を特

     定の観点から選びだすということ自体、主観が介在しなければ成り立つもので

     はありません。彼はしばしば予言も行い、その代表的なものに「外国の軍隊が

     謗法の国日本を懲罰するために攻めてくる」がありますが、これも経文からの

     引用を根拠にしています。しかしそれも、彼が予め持っていた自分の考えを裏

     付けるために膨大な経文の中からそういうものを探してきた、というのが実態

     かと思われます。こういうわけで彼の主張には、自分が選び出した経文の絶対

     視と、それによる現実の一方的な裁断の傾向が、色濃く現われていると言うこ

     とができると思います。

11 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/02/27(日) 03:29

     どうも、お久しぶりです(と言っても名無しですが)。

     もう寝ましたよね?

     この腐った書き込みだらけの中でオアシスの様です。

     またレスさせていただきます。今日は寝ます。

12 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 03:31

     〈独善的傾向1〉

     彼の判断には排中律絶対主義的傾向があります。排中律とは論理学の用語で、

     「あるものはAであるかAでないかのどちらかである」という形式で表現され

     ます。つまり、「中」間項が「排」除されているわけです。倫理的に言えば

     「全ては善であるか、悪であるかのどちらか」という発想であり、平たく言え

     ば「善悪二元論」的発想です。そして勿論「善」に当たるのは自分の側ですか

     ら、これは自然と「独善的」傾向を導きます。

     上の記述からも察していただけると思いますが、日蓮の頭の中では、社会不安

     の原因は謗法が盛んであるから、ということでした。ところで「謗法」とは、

     はっきり言えば日蓮と彼が正しいと信じる天台教学以外の教え全てです。例え

     ば浄土宗、禅宗、真言宗などです。つまりこうした教えは端的に「悪」であ

     り、逆に自分の思想は端的に「善」であるということです。言うまでもなく、

     これは「独善的」な発想です。

     しかし「独善的」といっても、そうした他宗派との交わりのなかで、対等の立

     場に立って対話を行い、相互理解を深め、その上で悪は悪として正していくと

     いう要素が日蓮のうちにあるのであれば、さほどの問題は無かったでしょう。

     しかし上記からも分かっていただけると思いますが、日蓮が他宗派を悪とする

     のは、他宗派の現実の行為やその意図・結果などを検討した上で得た結論では

     ありません。彼の論理によれば、他宗派はその存在そのものが悪なのです。だ

     からどんなにいい人であっても、その人がもし浄土宗の信仰を持っていたな

     ら、日蓮の論理から言えば、もうその人は謗法している、日本の社会不安の一

     翼を担っている、ということになるわけです。

13 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 03:33

     〈独善的傾向2〉

     当然こういう態度は反発を買います。攻撃の的になること必定です。ただ、自

     己の主張を他人が否定するということは、自己の主張は間違っているのかも知

     れないと反省せざるをえない契機になります。それを契機として、自分のどこ

     が正しく、どこが誤っているのかをよく反省した上で、それでも正しいと思う

     ことは堂々と主張するというのなら、それはそれでよいことでしょう。

     しかし日蓮はそうした反省的契機を自己の内から排除する「論理」を持ってい

     ました。法華経には「法華経の行者は必ず難に遭う」という記述があります。

     彼はこれを論拠に、他人が自分を否定するのを、即そのまま自分を正当化する

     根拠に変えてしまい、自分の主張を相対視する契機を全く排除してしまったの

     です。「自分の主張を他人が嫌っている。だから私は正しい」となるわけで

     す。こうなると、対等の立場からの対話は全く不可能になります。そして自己

     の主張を「無謬化」することができるわけです。

14 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 03:33

     〈独善的傾向3〉

     ちなみに、この種の「無謬論理」は、別に日蓮でなくとも誰でも簡単に主張す

     ることができます。「鰯の頭さまにお祈りすれば何でも願いが適う」という命

     題を立てたとしましょう。願いが適えば、「鰯の頭さま」のおかげです。適わ

     なければ、「鰯の頭さまへの信心が足りなかったからだ」。どうしても適わな

     ければ「分不相応な願いを持った私が間違っていた。自分の誤りに気づけたの

     も鰯の頭さまにお祈りしたおかげだ」。また歴史的に言えば、ご存知「魔女裁

     判」が有名でしょう。被疑者を拷問にかけ、魔女だと自白しなければ拷問続

     行、「自分は魔女じゃない」と言えば偽証罪で拷問続行、魔女だと自白すれば

     拷問続行して処刑。やったもの勝ち、力のある者勝ちのこうした「論理」の危

     険性を、ここでこれ以上強調する必要はないでしょう。

     情の濃やかな人だったとされる日蓮が、こうした「悪魔的」傾向を持っていた

     と私は主張したいのではありません。むしろ逆で、彼の思想の根本には徹底し

     た平等思想、弱者の立場からの救済思想がはっきり存在していると私は思いま

     す。しかし日蓮の用いた論理そのものは、こうした「悪魔的」傾向を十分に満

     たしうるものであることも、確かだと思います。問題は、そうした論理武装の

     危険性について、日蓮自身は無自覚であったのではないか、ということです。

15 名前: 南無阿弥陀仏 投稿日: 2000/02/27(日) 03:38

     光るスレッドですね。

16 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 03:46

     >11

     どなたか存じ上げませんが(笑)、どうもです。

     ひょっとして、あの方ですか? 鬼のつく人?

     自分としては、ここでの「日蓮問題」について、これで一応のケリをつける気

     でいます。

     しかし、もう疲れました。今日は寝ます。

17 名前: 南無阿弥陀仏 投稿日: 2000/02/27(日) 03:49

     >16

     おやすみなさい

18 名前: 聞いたこと 投稿日: 2000/02/27(日) 03:52

     おつかれさま

19 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 10:08

     〈呪術的傾向1〉

     さて、ここで言う「呪術」の意味ですが、上でも少し触れたように、「何か適

     えたい願いがあるが自分にはその『力』がないため、霊的存在の意にかなう儀

     式などを執り行うことによって霊的存在の『力』を借り、願いの実現を図る手

     続」といった感じで定義しておきます。

     日蓮の世界観においては、こうした『力』をもった「霊的存在」「超越者」の

     存在が極めて重要な役割を果たしています。日本の社会不安についての日蓮の

     見解は、「神」「天」などといった力を持った霊的存在が前提されなければ成

     り立ちません。また「8」でも書いたように、「南無妙法蓮華経」の唱題が意

     味を持つには、ある種呪術的発想を前提とせざるをえないということも書きま

     した。

     また、日蓮は度々予言も行いましたが、その直接の根拠は「経文に書いてあ

     る」ということですが、結果的に見るとそれは「超能力」をウリにするシャー

     マン的呪術といった趣きがあります。また彼は十界曼荼羅といって、「南無妙

     法蓮華経」を中心に諸尊の名を周囲に配置することで法華経の世界を表した図

     をいくつもつくりましたが、それが日蓮の生前にどのように活用されたのかは

     私はよく知らないにせよ、ある種「呪物崇拝」の対象のようにして扱われたの

     ではないかと推察します。

     また、こうした呪術的傾向は、「現世利益」の発想と結びつきやすい。という

     のも、どちらも「願い」をかなえるために現実的な『力』を希求するものであ

     り、その限りで「霊的存在」が要請されるに過ぎないのですから。

20 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 10:08

     〈呪術的傾向2〉

     現世利益の発想自体の是非はここでは詳論しないつもりですが、呪術にせよ現

     世利益的信仰にせよ、それが求めるのは結局自分には欠けた『力』なのであ

     り、その『力』を霊的存在に与えられなくても持っていられるのであれば、本

     質的にその意味を失ってしまう性格のものである、というのは注意しておきた

     いと思います。つまり極論すれば、「呪力」は「科学」や「権力」「カネ」な

     どで代替されうるものです。

     勿論日蓮自身が、このような現世利益を特に重視した、ということはないと思

     いますし、一念三千に象徴される彼の理想の高潔さから考えれば、唱題を現世

     利益の枠に収めるような発想など断固拒否したものと思います。しかしここで

     も、彼の依拠した世界観ならびに論理は、多分にあまりよくない意味での――

     というのは、自分の欲望を満たすための「力」のみをひたすら希求し、それを

     「信仰」と偽る、という意味での――「現世利益」重視思想に傾きやすい性格

     を持っている、というのは言えると思います。

21 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 10:09

     〈日蓮の思想・・・私見〉

     以上のように考えてみると、日蓮の思想は「一念三千――平等思想」のように

     今に活かされうると思えるような要素を根幹に持ちながら、「経典原理主義」

     「独善性」「呪術志向性」といった要素によってそれが相当スポイルされてし

     まっている、という印象を個人的には拭えません。そうした複雑な性格は、

     「南無妙法蓮華経」という唱題の位置付けにおいて集中的に現われているよう

     に感じられます。

     日蓮を今に活かそうとする人々は多いです。私はそうした試みについてはほと

     んど無知の状態で、まともなコメントはほとんどできません。しかしそれぞれ

     の宗派・個人が、それぞれの仕方で日蓮の思想の「問題点」を把握し、その弱

     点を克服し価値を高めようと、日々努力しておられるのだろうと推察します。

     ただ、上記の問題点について全く反省もなしに「全て正しい」として受け止め

     るのは、現代においてはあまりに多くの危険がある、というのが私の結論で

     す。特にその「独善性」はどう考えても受け入れがたいものです。そこにはフ

     ァシズムにすら通じるものがあると感じられます。しかし私の見るところで

     は、日蓮の思想は上記の要素が分かち難く結びついており、その「独善」的要

     素だけを器用に抜き出して整理する、ということは不可能であると思われま

     す。

22 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 10:11

     もう少し続きます。

     >17

     おはようございます。

     >18

     ありがとう。

23 名前: パイン 投稿日: 2000/02/27(日) 14:32

     来ました。いつもながら、貴殿の博学振りには、もう、驚嘆の一言!

     楽しみにしています。寒いので、ご自愛ください。ではでは〜。

24 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:12

     〈血脈問題1〉

     さて、上記のような日蓮理解が正しければ、「唱題」という成仏(もちろん、

     死ぬことではありません)方法は、万人に開かれたものであり、それをするの

     に特に資格は必要ないように感じられます。日蓮の主旨を自分なりに理解し

     (もっとも彼の理論からすれば、彼の著作を精読しその主旨を理解する必要す

     らないように思われますが)、ひたすらに唱題すれば誰でも救われる、という

     のが「唱題」の本質ではないかと思われます。私としても、それこそが日蓮の

     主旨ではないかと信じます。

     ところが事はそう簡単ではありません。日蓮は六人の弟子に後事を託すのです

     が、そのうちの一人である日興は他の五人と決別し、日蓮の廟所である身延山

     久遠寺からも離れ、事実上独立した宗派(富士門流、今の「日蓮正宗」)を形

     成します。そこに出てくるのが「血脈」問題です。

     日蓮の遺文に「身延相承書」「池上相承書」というのがあります。偽書の説が

     ありますが仮にこれを真書とすると、そこにはこのようなことが書いてありま

     す。

     「日蓮一期の弘法、・・・日興に之を付嘱す」「血脈の次第 日蓮日興」(

     「身延相承書」)、

     「釈尊五十年の説法、・・・日興に相承す、・・・背く在家出家どもの輩は非

     法の衆たるべきなり」(「池上相承書」)

     ここには日興の門下でなければ唱題は無効である、と直接書いてあるわけでは

     ありませんが、「池上相承書」を見るとそのように読めないこともありませ

     ん。何せ「非法の衆」なのですから、こうした者が唱題しても、確かにダメそ

     うにも見えます。

25 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:12

     〈血脈問題2〉

     これは日蓮を信奉する人たちにとっては重大な問題です。唱題が成仏のための

     開かれた方法であるということと、日興の門下でなければ「非法の衆」になっ

     てしまうということとは、第三者的に見ればはなはだ矛盾しあっています。私

     はこの辺の難しい問題を、富士門流が教学的にどう解釈し解決しているのか全

     く知りませんが、少なくとも私から見れば、そこにどういう解釈がなされよう

     と矛盾自体は消えはしないように感じられます。ただ、創価学会の母体となっ

     た富士門流=日蓮正宗は、日興の門下でなければ唱題無効、という排他的な方

     向にまっすぐ進んでいったようです。日蓮の残した多数の曼荼羅も、正宗の大

     石寺に伝わる曼荼羅(板曼荼羅、「大御本尊」)を除いては、基本的に無効で

     あるとされました。本仏は日蓮自身になり、他の日蓮宗派を結局は謗法団体と

     見なすようになります。私の偏見かも知れませんが、どうも正宗は日蓮の「原

     理主義的傾向」「独善的傾向」「呪術的傾向」をそのまま引き継いでいるよう

     に感じられます。

     ただ、上記の二つの「相承書」を根拠にすれば、日興の立場も一応筋は通るこ

     とになります。今の私には日蓮宗派の歴史をざっと見渡してみる力量すらあり

     ませんので、この問題についてはここで終わりにします。私にとって問題なの

     は、日蓮正宗に属する講として発足した創価学会が、正宗と縁を切った今、一

     体どのような所に教義の正当性を置いているのか、という点です。

26 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:13

     〈創価学会の教義的空洞状態1〉

     私の見るところでは、日蓮は唱題を、万人に開かれた成仏の方法として提唱し

     たように思われます。一方日蓮正宗は、唱題を組織内で閉じた方法(組織外の

     者が唱題しても無効とする)と規定したように思われます。創価学会は日蓮正

     宗の講(信者団体)の一つとして発足したので、当初は唱題を「閉じた方法」

     として考えていました。正宗と縁を切った今、学会は唱題についてどのような

     位置付けをしているのでしょうか。考えられるいくつかのパターンを検討しつ

     つこの問題について答えを出してみようと思います。

     問:創価学会は唱題をどのように位置づけているか。

     A:象徴的・信仰告白的に解釈する。

      唱題を一念三千の理念に対する共感・帰依を表す「信仰告白」として解釈す

     る。また「久遠本仏」も文字通り実体的にとらえるのではなく、法華経信者の

     統合の「象徴」のように解釈する。この立場だと当然、唱題は呪術的性格を喪

     失し、「念仏」に近いものになります。またこの道を進むなら、唱題は当然

     「開かれた方法」となり、信者が学会に属しているか否かは全く関係なくなり

     ます。

     B:原理主義的に解釈する。

      法華経の内容を文字通りに信じ、法華経は久遠釈尊が実際に説いたものだと

     し、当然本仏や国を守る神々も実在し、様々な社会問題も謗法のゆえだと信じ

     る。しかしこの道も、上記の論が正しいのなら、唱題自体は「開かれた方法」

     になり、やはり信者が学会という特定組織に所属している必要はなくなりま

     す。自分一人で法華経や日蓮の著作を理解し、一心に唱題していればそれでい

     いということになります。後は信じるか信じないかの問題です。

27 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:14

     〈創価学会の教義的空洞状態2〉

     C:修正主義的に解釈する。

      「独善的傾向」など問題のある所を何とか払拭し、様々な非合理的な部分は

     「神話的表現」として解釈しつつ、久遠本仏の唯一神性・それへの祈りとして

     の唱題・といった教義の核心部分を神学的に整備していく。最も現実的な道で

     しょうが、おそらく教義として普遍性・完成度を高めれば高めるほど、唱題を

     「閉じた方法」とすることは難しくなるでしょう。やはりこれも、信者が学会

     という特定組織に所属しなければ「唱題は無効」、といった主張はできなくな

     ると思います。つまり学会に属さない法華経信者を「謗法」とする論理は無効

     になります。

     D:換骨奪胎する。

      法華経や日蓮の思想全体を別の概念体系で換骨奪胎していく。実は「本仏」

     とは「宇宙に満ちる生命エネルギーのことだ」とか、「唱題」を「そのエネル

     ギーの波長に自分を合わせることだ」とかやる道です。

     しかしこの方法の致命的弱点は、他のスレッドでどなたかが指摘された通り、

     体系化が進めば進むほど、「南無妙法蓮華経」とか「法華経」の存在意義が希

     薄になっていくということです。唱題に拘る必然性自体が失われていくという

     ことです。また一旦「エネルギー」などと「科学的」なタームで論じようとし

     てしまうと、科学知自体は常に相対的なものであるゆえ、科学自体によって反

     論される危険性がそれだけ大きくなります。またそんな教義は時代の流行とと

     もに速やかに陳腐化しやすいでしょう。さらに、やはりこの道でも結局唱題は

     「学会にのみ閉じた方法」にはなりえません。科学的裏付けが仮にできたとし

     たらなおさらです。商標登録などして組織の権益を守ればまた別ですが。

28 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:14

     〈創価学会の教義的空洞状態3〉

     さて、創価学会の教義上の問題点を私なりにまとめてみると、学会は正宗と手

     を切ったことによって、教義上の空洞状態に陥ってしまったのではないかと考

     えられます。そしてそれに対する有効な教義確立は未だなされていない、とい

     うのが実情ではないでしょうか。そして教義の空洞を何とか埋めるための方策

     として、池田氏に対する個人崇拝を強調する道を進んでいるのではないかと思

     われます。いわく「世界から支持される創価学会」。いわく「世界中で称賛さ

     れその功績が表彰されている池田先生」。

     しかし組織の正当性を個人崇拝によって維持する傾向をもつ団体は、いくら社

     会的に大きな影響力を持っていようとも、宗教組織としては脆弱です。なぜ

     か? その個人がいなくなってしまえば、それで終わりになってしまうからで

     す。またそういう組織は内部腐敗を起こしやすいといえます。なぜか? 組織

     の指導者さえ従わなければならない教義や大義がしっかり確立している組織で

     は、仮に指導者が暴走したとしても、その指導者を組織が裁くことができるか

     らです。個人崇拝や指導者のカリスマ性に組織維持の正当性の根拠をおいてい

     ては、指導者が暴走した場合にそれを止める力が組織内部では働かないでしょ

     う。

     一般に、ある社会なり組織なりが、支配を正当化する大義を失うにつれて個人

     崇拝を以ってそれに代えようとする傾向は、確かにあると思われます。二十世

     紀になってからの「独裁国家」における「個人崇拝」の例を考えてみてくださ

     い。スターリンが君臨するころには、ソ連は「労働者の国家」という大義を失

     いつつありました。ナチスの「教義」は雑多な思想の寄せ集めで、最初から思

     想としての論理的一貫性には欠けたものがありました。

29 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:15

     〈創価学会の教義的空洞状態4〉

     また、教義が空洞状態にあるのなら、その組織の活動の「宗教性」も疑わしく

     なります。上のA〜Dのパターンでは、いずれも唱題するのに創価学会に属し

     ている必要はない、という結論に至ります。そして正宗と縁を切っている以

     上、唱題を「閉じた方法」として、学会に属さなければ無効と主張する根拠も

     欠けたままです(と私は思います)。

     とすれば、学会が盛んに行っている「折伏」とは、仏法によるものでも、日蓮

     思想によるものですらなくて、単に池田氏を頂点とする組織の拡大を目指すと

     いうほかに、何の意義も見出せなくなります。日蓮仏法の素晴らしさを「布

     教」することは依然として可能です。しかし唱題して救われるのに学会に属さ

     なければならない理由がまるでないのならば、彼らの「折伏」の意味とは一体

     なんでしょうか?

     こう考えていくと私は、今の創価学会は、宗教団体であるのは見かけだけで、

     現実はその組織の拡大再生産自体が存在目的となった一社会圧力団体である、

     といった印象を抱かざるをえないのです。池田氏への「讃嘆」を学会の方が強

     調されればされるほど、「ああ、それだけ教義が空洞状態にあるのに焦りを感

     じているのだな」と思えてしまいます。私のこうした見方は偏見でしょうか?

      是非学会員の方のご意見を伺ってみたいと思う次第です。

30 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:15

     〈創価学会の教義的空洞状態5〉

     最後に、創価学会が独自の教義を確立するとしたら、それは一体どのようなも

     のになるか考えてみたいと思います。学会に属さなければ得られない救い、と

     いうのが明確化しなければなりません。今学会にあり、かつ他の宗派には決定

     的に欠けているものは何でしょうか。それは、まさに池田大作氏です。

     池田氏を本仏とすればよいのです。そして「人間革命」を熟読し、その主人公

     の心を追体験し、その上で新唱題「南無妙法人間革命」を唱えれば、「人間革

     命」の著者である「本仏」池田氏と合一でき、「人間革命」が成就して即身成

     仏が可能となる・・・。

     私は冗談で言っているのでも、からかっているのでもありません。宗教が大義

     を曖昧にしているのは、根本的に間違っていると思うだけです。従って大義が

     空洞化しているのなら、早々にそれを打ち立てなければなりません。それを万

     人受けする道徳講話でお茶を濁してみたり、大義を曖昧にしたまま「折伏」と

     称してひたすら組織拡大に走る様は、宗教団体のあり方としては間違っている

     のではないか、ということです。(もちろん、大義があればそれでいい、という

     わけではないのは当然ですが。)

     一応以上で完了です。ご批判・ご意見お待ちしていますm(_ _)m

31 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/02/27(日) 16:27

     >23

     どうもです。「心と宗教」ではお世話になってます。

     「悟り」についてはとても勉強になりました。

     またご意見聞かせてくださいネ。

32 名前: 南無阿弥陀仏 投稿日: 2000/02/27(日) 21:59

     創価の連中のかっこつけ書きこみには、天才さんと外道さんと昼行灯(だっけ)

     さんが、理論的に論破してくれるので、私達はとても楽ができます。

33 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/02/28(月) 06:01

     お久しぶりです。

     私は此処(2Ch)での論議は終わりにしてしまいました。

     理由は、ご推察下さい。(笑)

     時々、ROMさせて頂いております。

     今後もご活躍を期待しています。

      

34 名前: パイン 投稿日: 2000/02/28(月) 09:33

     お疲れ様です。私は、ことしで、43歳になりますが、高校生のころより

     親戚が会員だったため、いろいろと勧誘を受けました。上京してからも

     新宿で、青年部会?の幹部さんと、話になり、論破しましたが、

     殆ど、民青さんと同じで、「今度、折伏してやる」の、捨て台詞でした。

     いくら、論理・倫理で説明しても、頑迷なこころに明かりが灯らない

     こともあるんだと反省したことを思い出します。聞けば、ご自分の中で

     けじめをつけたくて、このスレッドを立ち上げたようですね。

     どうぞ、思う存分やってください。陰ながら、応援しています。

35 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 09:59

     第7の外道さん、こんにちは。僕は、南無阿弥陀仏さんではありません。

     僕もまれに、ここを覗いていますが、今は、ROMしています。「名誉毀損」

     「訴訟」問題があったからです。口封じとファシズムについても書きたい

     ことは山ほどあるのですが。相手が相手で嫌ですね・・・おかげで、戸田

     城聖氏による法華経訳の解釈で中途半端になっていました。ごめんな

     さい。

     時々ここを覗いていますが、今回あなたの南無妙法蓮華経に関する総括

     に関しては、感謝しています。僕も上記に加え、時間(というより愛かな?

     (笑))がなくて、書こうと思ったことも書かずに終わっていましたから・

     ・・

     僕のほうは言語学や記号論の基本テクストから南無妙法蓮華経に疑問を持

     ったくちです。以前シニフィアンとシニフィエ、パロールとエクリチュール

     という視点によって題目について思考し、不完全性定理により日蓮のロジッ

     クに疑問を抱くようになりました。以前、他のスレッドで題目のことを「絶対

     的

     な空虚」として書きこみましたが、その過程については書きこみませんでし

     た。

     論理的帰結は、ほぼ今回のあなたと同じ地点に到達しています。

     どこが、第7の外道さんの話とリンクしていくかは、記号論の基本を知って

     いる人ならすぐにわかるかもしれません。僕が教祖だとしたら、お題目

     は文字表記が「#”!%$&¥」の「7文字」で、音は「ダムビョウコ

     ーレンケーヨー」です。意味内容は「宇宙の全生命力」です。

     古い技ですが、デリダの差延をヒントにしています。

     追記です。

     第7の外道さん。あなたは、もしかすると大学のときに一緒だった友人で

     はないかと思えるときがあります。似たような「語り口」の友人がいまし

     たから。(別に、当時、二人で日蓮批判をやっていたわけではありません。)

     いえ、冗談です。個人的なことを書くものではありませんね。失礼しました。

36 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 10:01

     35を訂正です。

     「絶対的な空虚」ではなく「空虚な絶対性」です。

     意味がかなり異なります。すみません。

37 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 11:16

     粗忽者の私

     南無阿弥陀仏さんも私では、ありませんが、11さんもわたしではあり

     ません。昔から「おっちょこちょい」といわれてきた私です・・・

     それから、デリダの差延をひたすら繰り返していくと、教祖で

     ある私の宗教は、類似する呪文のパロールやエクリチュールを認めざるを

     得なくなります。したがって、私の宗教は、人道的でありさえすれば、

     他の宗教も認めたいと思います。しかも、日蓮仏法と同じ効力が私の宗教

     にはあるのです。

     でも、会員はひとりしかいません。

38 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 12:36

     数年後には、うちの題目は、「#”!%$&¥」の「7文字」のままで、

     音は「ダムビョウコーレンヘーヨー」意味内容は「宇宙の全DNA」に変わる

     るかもしれません。

     信者のみなさんあしからず・・・

     一応、マジレスのつもりです。

39 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 12:47

     「南無妙法蓮華経」・・・法華経に帰依する という意味ですか・・・

     僕の脳の中では、創価学会という言語を発したときに流れている電流パタン

     と南無妙法蓮華経という言葉を発したときに流れている電流パタンに同じ流

     れがあるかもしれません。計測できたら多分そんな気がします。

     創価学会が登場する以前は、南無妙法蓮華経という言葉には創価学会は

     存在しなかった。しかし、今の日本人の脳の中では、「南無妙法蓮華経」

     のシニフィエに創価学会が付随してしまう・・・

     永遠普遍の自立した記号???????

40 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 12:58

     「南無妙法蓮華経」

     そのシニフィアンは、目と耳、口というセンサーによって知覚される。

     しかし、それが、そのように、また「言語」として存在した時点で、す

     でに普遍的な真理ではありえなかった。南無妙法蓮華経とは、空虚な

     絶対性であるというより、絶対的であるかのような幻想を抱かせる

     空虚な記号だったのだ・・・。

41 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 20:49

     補足です。

     以前、私が「私もかいていい?」のスレッドで一見、今回と似ていると

     思われることを書いてますが、その時の場合は、科学的な題目絶対性の証

     明への批判であり、それは、上記で第7の外道氏のいう「換骨奪胎」の

     話でした。今回は言語学的に導き出される題目絶対性の批判です。

     まず、「私は、法華経を信じます」といったレベルの宣言や、知り合い

     の創価学会人が言っていたような「宇宙の法則・真理・生命」を「意味

     するもの」であれば、意味するものをあらわす言語の宿命ととして、エク

     リチュール(書字)、パロール(音声)、シニフィアン(意味内容)の

     関係は不安定なものとして揺らぎ始めます。特に、シニフィアンはパロ

     ール(個的発話)においてすでにつねに変容しているものなのです。

     では、それが第7の外道氏が言うように「超越者から力を授かる」なに

     ものかであり、それは完全に何も意味しないとしたら・・・。すると、

     漢字というエクリチュールが妥当か、パロールはどうかというところに行き着

     き

     ます。このときそ、その呪術的機能としての書字や音声としての必然性であれ

     ば、

     「南無妙法蓮華経」という書字は、もはや漢字ではなく、ドットパターン

     、音声は周波数へと還元されてしまいます。するとやはり最初の科学の話

     に戻ってしまいます。また、ドットパターンや周波数であれ、それを発する

     または認識する主体が人間である限り何も意味しないということは不可能

     です。少なくとも私の頭の中には、南無妙法蓮華経の書字の形態により、

     脳内に日蓮や創価学会という意味が浮かび上がります。それでは、「何を意味

     しても良

     い」ということにしたらどうか。すると、今度は全く異なった空虚のシニ

     フィアンを持ち出してきても良いということになってしまい宗教としては

     成立しないのです。

     いずれにせよ、呪術=おまじない を 表記したことに疑問を感じます。

42 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/02/28(月) 21:09

     41訂正です。

     シニフィアン(意味内容)をシニフィエ(意味内容)に訂正です。

     急いで書いてしまいました。失礼!

43 名前: パイン 投稿日: 2000/02/28(月) 22:10

     あのう、カタカナに括弧つきで、説明されるなら、最初から

     日本語でお願いします。なんだか、よく分からないので・・・。

44 名前: パイン 投稿日: 2000/02/29(火) 02:20

        常懐悲観、心遂正悟

45 名前: パイン 投稿日: 2000/02/29(火) 02:22

     ごめん、感と観を間違えたかもしれません。が、言いたいことは

     察してください。>42さん

46 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/01(水) 19:54

     つまるところ、今後は次のように南無妙法蓮華経を位置付けるべきで

     ある。

     「題目には、効用がある可能性は否定できないが、必然的なものでは

     ない。唯一絶対的なものでもない。普遍的なものでもない。」

     そして、「さらに、それを特定の共同体が独占する必要性はない。」

47 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/01(水) 19:57

     肉 食え 肉 そしたら解決だ

48 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/02(木) 01:26

     しばらくネットにつなぐことができない状況でしたので、ご返答できませんで

     した。

     皆さんレスありがとうございます。

     >パインさん

     どうもです。この板に初めて書きこんだのが日蓮に対する疑問で、それ以来、

     暫定的でいいから何とか自分なりに「結論」を出しておきたいと思っていまし

     たが、一応これでまとまりました。

     >いくら、論理・倫理で説明しても、頑迷なこころに明かりが灯らない

     >こともあるんだと反省したことを思い出します

     同感です。「論破」や「論争」で勝ち負けに拘る方向では、人は変わらないで

     すね。敵方よりも遥かに勝れた見識を持ちながら、たまたま口下手だったため

     に、「論破」され泣かされる人もいろいろ見ることがありました。そんなわけ

     で私も今では先ず口頭では「論争」はしないようにしています。どうしても感

     情が入り込み、「勝ち負け」が絡んでしまい、自他の頭の中を知ることがお留

     守になりますから。

     しかしこういう場では、自分の意見を筋道立てて言いやすく、反応するもしな

     いも相手の自由に任せることができますから、結構重宝しています。今後もよ

     ろしくお願いします。

     >南無阿弥陀仏さん

     そんなわけで(?)、特に「論破」を第1目的にしているわけでもないんです

     が、第三者の方にも意味ある行為として映るのであれば幸いです。

     >昼行燈さん

     >私は此処(2Ch)での論議は終わりにしてしまいました

     そうだったんですか? そう言わないでまたちょくちょくお願いします。私が

     日蓮についてちゃんと考えてみようと動けたのも、昼行燈さんがそのきっかけ

     を作ってくれたからだと思っています。感謝しております。

49 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/02(木) 01:35

     >出鬼論さん

     お久しぶりです。11さんではなかったのですね(11さんには悪いことしまし

     た)。

     ご意見に対するレスはちょっとお待ちください。まだ完全には呑み込めていな

     いので。

     >あなたは、もしかすると大学のときに一緒だった友人で

     >はないかと思えるときがあります。似たような「語り口」の友人がいまし

     >たから

     ううむ。どうでしょう。私は学生自体の時とは随分語り口が変わったと自分で

     は思っているのですが・・・。ここだけの話(笑)ですが、私は「昼行燈」さん

     が、学生時代の知人ではないかと疑ったことがありました。いくつか符合する

     点があったので。今はその説は完全に否定されましたが(笑)。昼行燈さんすい

     ません。

50 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/02(木) 09:47

     第7の外道 さん、こにちは。

     「ケリ」がついたので、もういらっしゃらないんじゃないかと心配しま

     した。僕が、南無妙法蓮華経に疑問を持ったときの思考過程を、少しづつ

     日常言語で書きたいと思います。ちなみに大学時代の専門は理科系です

     ので、あくまで素人的発想であることをご容赦ください。

     僕はある時、猫という動物と言葉について考えていました。

     日本語では、「猫」と書きます。英語では、「cat」とフランス語では、

     「chat」と書きます。当然発音もそれぞれに異なります。ロシア語も

     韓国語もそれぞれ異なる表記をします。

     それでは、クイズです。

     猫という動物を「意味」し、それを表記するのに「普遍的で唯一絶対に正し

     い」

     のは、どの国(民族)の言語でしょうか?

     ここから南無妙法蓮華経に対する疑問が生じ始めました。

     少なくとも、上記の視点から思考していくと、「南無妙法蓮華経」という

     記号は、それが「唯一絶対的」と言われている何ものかであるとすれば、

     少なくとも、それは何かを「意味する」ものではない、という結論にいた

     るはずです。

     すると、われわれは、中国語や日本語のフランス語などの音や字体という

     「形式」や脳内現象について考えざるをえなくなります。

     続きは少しづつ書いていきたいと思います。

51 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/04(土) 03:13

     ある言語表現(例えば「猫」という語)と、それが表す意味内容(猫のイメー

     ジ)との間には、何ら必然的関係はない、ということを、ソシュールが「言語

     の恣意性」という概念で表していたと思います。出鬼論さんの主張の眼目は、

     そこにあると見てよいのでしょうか?

     この考えは、ある言語表現の意味を、その意味内容との一対一対応によって保

     証しようとする発想を破綻させると同時に、ある言語表現の意味は別の言語表

     現との差異によって生まれるものである、という新しい発想を導いたのだ・

     ・・という風に私は(このあたりの議論を)理解しています。

     そう考えると、出鬼論さんの議論は、特に「南無妙法蓮華経」に限った問題で

     はなく、むしろ言語一般の問題なってくるということになりそうですが、どう

     でしょうか?

     もし話の眼目が言語論の方へ傾くのであれば、ちょっとこのスレッドの主旨と

     は合わなくなってくると思いますので、スレッドあるいは板を変えたほうがい

     いと思うのですが、いかがでしょうか。

     >「さらに、それを特定の共同体が独占する必要性はない。」

     これはもう、私もそう言わざるをえないと思います。たとえ日蓮が「血脈」と

     いうことを言ったとしても、私は日蓮自身が生涯かけて追求した成仏方法論

     (唱題)が、本質的に「開かれた」性格のものだということは否定しがたいも

     のだと思います。もし日蓮が自分の意思で「血脈」などということを言い出し

     たのなら、日蓮は自分自身を読み違えたのだ、と言うほかないと思います。も

     っとも、個人的にはその方法論自体にも疑問を感じはするのですが。

52 名前: 趙雲 投稿日: 2000/03/05(日) 16:01

     >第7の外道さん

     批判・意見なんておいらにはできませんが・・

     サマリーがあると、とっても読みやすくなるんじゃ

     ないかな・・とか思いまして。

53 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/05(日) 16:46

     白川先生に激励MAilを送ろう!!!!!

54 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/06(月) 09:46

     第7の外道さん こんにちは。レスありがとうございます。

     >ある言語表現(例えば「猫」という語)と、それが表す意味内容

     >(猫のイメージ)との間には、何ら必然的関係はない、ということを、

     >ソシュールが「言語の恣意性」という概念で表していたと思います。

     >出鬼論さんの主張の眼目は、そこにあると見てよいのでしょうか?

     そうです。まったくその通りです。この疑問は、ソシュール的発想から

     始まりました。ただし、ラング、パロール、エクリチュール、シニフィ

     エ、シニフィアンという言葉は、パインさんが指摘されたように、みな

     さんがあまりなじめい言葉であるようなので、「あくまで日常言語で」

     書いていきます。

     >この考えは、ある言語表現の意味を、その意味内容との一対一対応によ

     >って保証しようとする発想を破綻させると同時に、ある言語表現の意

     >味は別の言語表現との差異によって生まれるものである、という新し

     >い発想を導いたのだ・・・という風に私は(このあたりの議論を)理

     >解しています。

     そうです、僕が猫の例をあげたのはそのためです。第7の外道さんは

     流石に早いですね。(笑)

     つまり、50における私のクイズの答えは、「設問のあり方自体が誤っ

     ている」というのが正解なのです。一般の言語については少なくともそ

     ういえます。しかし、南無妙法蓮華経は、「この題目を唱えること以外

     に救われる(成仏する)道がない」といわれているように「唯一普遍的

     で絶対的」に位置づけられているのです。すなわち、一対一対応を前提

     とするのです。しかし、題目はあくまで漢字によって表記されています。つま

     り我々が「話し、書き、聞く」という言語と同様の「形式」によって成立して

     いるので

     す。「何故、題目だけが特化されるのか」考えなくてはなりません。

55 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/06(月) 10:31

     (51の第7の外道さんのレス)

     >特に「南無妙法蓮華経」に限った問題ではなく、むしろ言語一般の

     >問題なってくるということになりそうですが、どうでしょうか?

     題目自体は日蓮が発明したものではありませんが、日蓮は特に唱題と漢

     字の曼陀羅を基に行・学を展開します。ですから「言語一般」から派生

     した「お題目批判」としてこのスレッドに書き込んだつもりです。お許

     しください。

     さて、リンゴも猫も犬も、それぞれappleであり、catでありdogです。

     つまり、リンゴという物体を意味するのに世界各国で「リンゴ」と書き

     話さなければならない必然性はありません。しかし、日蓮の題目は彼の

     ロジックからすると絶対に「南無妙法蓮華経」という表記でなくてはな

     らないそうです。すると「南無妙法蓮華経」は逆説的に、何かを意味す

     るものではないらしい、ということになります。しかし結論づける前に、

     いくつか考えなくてはならない問題があります。それは個人の持ってい

     る言語と共同体が持っている言語の関係です。例えば、「犬」という記

     号については、少なくとも日本語を基本的に話せる人であれば、それが

     何をさしているのかは判ります。つまり記号として流通しているわけで

     す。しかし、個々が頭の中に浮かべている「犬」は少なくとも微妙に

     異なります。個々が持っている「犬」まつわる記憶が異なるからです。

     ある人は、かつて飼っていた「ポチ」を強く懐かしむかもしれないし、

     噛まれた経験のある人は得も言われぬ恐怖感を覚えるでしょう。つまり、

     個々の持っている記号は、たとえそれが流通しているものであっても、

     その「意味」は各自で微妙にずれています。しかしまた、その個々の認

     識によってこそ言葉として流通しているのです。先ほどは、共同体(各

     国)ごとに比較するという視点での言語記号の性質でした。しかし、個

     人と共同体という視点から記号性を考えてみても表現と意味内容とは、

     一対一対応とは言えません。

56 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/06(月) 11:59

     「日蓮私見」が「日蓮が主張していた題目への私見」なってしまい申し訳あり

     ません。つづきです。

     さて、共同体同志を比較するという視点において、ある「意味されるもの」に

     対して、ある「意味するもの」が対応しなければならないという必然性はない

     ことがわかります。また、個人の言語と個人が属する共同体の言語を比較して

     も、それらのズレにより一対一対応ではないこがわかります。つまり、二重の

     意味で「意味されるもの」と「意味するもの」の間に必然性はないのです。つ

     まり南無妙法蓮華経という題目の絶対性を主張するということは、題目が何か

     を「意味する」ものではありえないということを主張することに他ならないの

     です。ですからこの記号についてはその表記自体について考えざるをえませ

     ん。つまり、南無妙法蓮華経がこのように漢字とその発音で表記されなければ

     ならない必然性とはどこにあるのかということです。先ほど、意味をあらわす

     というレベルにおいて表記「apple」も「リンゴ」もどちらが上位であるとも言

     えない旨を書きました。しかし、表記において両者は全く異なるものです。例

     えば、記号は意味内容とその表記から成り立っていますが、言語においてはそ

     の記号の「表記」は「音」であり「文字」であるのです。そして、各国の言葉

     を見ても判るように、採用しているその音も字体も国によってそれぞれ全く異

     なるものです。

     例えば、僕らがビートルズのドイツ語版と英語版を聞くとき、意味は聞き取ら

     なくても全然違う音楽に聞こえるのです。中国語やヒンズー語にしたらまた別

     の音楽に聞こえるはずです。同じことは、文字(漢字)についても言えます。

     中国の古代文字がヨーロッパに紹介されたとき、ヨーロッパ人には、その意味

     ではなく漢字の形態自体(字体)に悪魔的・魔術的なイメージを抱いたので

     す。

     漢字で南無妙法蓮華経と書き、発音しなければならない必然性・・・ しかし、

     このとき南無妙法蓮華経とはすでにドットパターン周波数やドットパターンに

     還元されたものでしかない。

57 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/06(月) 12:04

     56の訂正です

     「ドットパターン周波数やドットパターン」を

     「ドットパターンや周波数」に訂正

58 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/06(月) 13:21

     さて、何かを意味するためのものではなくドットパターンや周波数という形式

     自体として、日蓮によって唯一無二の絶対性として位置づけられる「南無妙法

     蓮華経」

     このドットパターンと音声が、先にあげた中国古代文字の魔術的イメージのよ

     うな、印象を与える機能を担う意味で採択されたのであれば、それが唯一絶対

     的であるという結論はでない。なぜなら同様のイメージをもたらす図像や周波

     数はいくらでも存在しうることが予想されるからである。では、そのドットパ

     ターンや周波数を認識することが、脳内物質の放出を促進させるなど、脳内現

     象として効果があるという意味で採択されたとしたら・・・。しかし、他のレ

     スでも書いた通り、このレベルにおいても同様に似たような効果をもったドッ

     トパターンや周波数は存在してしまう。そして、僕や第7の外道さんが書いた

     ように、科学によって用意にそれは代用されてしまう。

     とすると、南無妙法蓮華経という漢字のドットパターンを見つめ周波数を発す

     ることによって「叶わざるごとなし」という境地に達し、そのドットパターン

     と周波数にしかその効果がないというロジックはあるか?

     ところが存在するのである。

59 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/09(木) 10:22

     第7の外道さんへ

     続きを書いていこうとして、今僕は気づきました。

     はじめのレスで

     >このスレッドは、私(第7の外道氏)の日蓮に対する私見をだらだらと書き

     ついで行くスレッドです。

     と宣言されていたのでしたね。あなたのスレッドでした。僕も日蓮にはいろい

     ろと疑問を持っていたのでつい書いてしまいました。外道さん申し訳ありませ

     んでした。あなたの総括は本当によくできていたのでファイルに移させていた

     だきます。よろしいでしょうか。

     僕の方は、続きは後日別スレッドにて立ち上げます。それでは・・・

60 名前: 読者 投稿日: 2000/03/09(木) 17:12

     こんなもの作ってみました

     http://nagoya.cool.ne.jp/a_killer/gedou/g7Index.html

61 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/10(金) 11:35

     ここで書きこんだことをざっと見渡してみて、ここには日蓮仏教の実践の根幹

     たる「三大秘法」という言葉、ならびに「戒壇」問題には全く触れていないの

     に気づいちゃいました(^_^;)。 また十界曼荼羅についても極めて浅くしか触

     れてありません。思うに、「三大秘法」の検討は、日蓮仏法の問題点を極めて

     明確に示すものだと思います。もうちょっと準備してから補足として付け足し

     てみようと思います。どうも失礼しました。

     >出鬼論さん

     >続きは後日別スレッドにて

     のほうが、私もいいと思います。あなたのは、私とは別の観点で一貫した流れ

     を持っているものなので、別スレッドにしたほうが見る人も分かりやすいので

     はないでしょうか? かといって、別に詫びていただくようなことは何もあり

     ませんが・・・。

     >読者さん

     どうもです。あっちではお世話になってます。

62 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/11(土) 01:07

     【補遺】

     〈三大秘法1〉

     日蓮はその教えと実践の根本を、「三大秘法」という言葉で集約しました。こ

     れは『観心本尊抄』(ただし「戒壇」についての記述はない)『報恩抄』『三

     大秘法稟承事(三大秘法抄)』(これは真偽が確定していない)等において説か

     れた考え方で、「秘法」というのは、日蓮が末世において説くまでは秘せられ

     ていた法である、という意味です。因みに何で日蓮がそういう秘法を知ってい

     るのかと言うと、日蓮が前世で、法華経に登場する「地涌の菩薩」の一人(上

     行菩薩)であったときに、釈尊から口頭で聞きうけたということらしいです。

     個人的にはちょっとついていけない話ですが(^_^;)

     ところでこれを構成する「三」つの要素とは、即ち(1)本門の本尊、(2)

     本門の題目、(3)本門の戒壇、を表します。

     まず「本門の本尊」ですが、これは「寿量品」で説かれている「久遠実成の釈

     迦牟尼仏」のことです。しかし実際問題としては、「久遠本仏」は我々には見

     えない存在だからでしょうか、具体的には日蓮の書いた「十界曼荼羅」によっ

     てそれを表すようです。この曼荼羅は中央に「南無妙法蓮華経」と縦書きして

     あり、その周囲に釈迦如来・多宝如来その他様々な尊格の名前が書かれていま

     す。法華経に描かれる世界を象徴的に表すもので、複数製作されています。な

     お日蓮正宗では、これは大石寺にある「板曼荼羅」のみを指すことになりま

     す。またこの場合、本尊は久遠本仏としての釈迦牟尼ではなく、日蓮自身にな

     ります。

     「本門の題目」とは、ご存知「南無妙法蓮華経」です。

63 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/11(土) 01:10

     〈三大秘法2〉

     「本門の戒壇」が我々には最も分かりにくいものですが、もともと戒壇とは出

     家して受戒を受ける場所のことを指します。しかし日蓮では、題目を唱えれば

     唱えた者におのずと受戒がなされるというわけで、題目を唱えれば唱者がいる

     まさにその場所が戒壇になるとのことです。

     ただ『三大秘法抄』では、戒壇を「霊山浄土に似たらん最勝の地」において国

     家が建設するべきことが書いてあり、これを信頼する派は国家が建設する戒壇

     を「事の戒壇」とし、それが建立されるまでは信者の心が戒壇である(「分の

     戒壇」)とするのに対し、これを信頼しない派は信者の心以外に戒壇はない、

     という立場をとります。正宗が前者の立場に立つことは言うまでもありませ

     ん。「事の戒壇」は、法華経信仰が日本の国教となった暁に、国家が主体とな

     って建設し、そこに本尊をおさめるべきものです。つまり正宗系の団体にとっ

     ては、「事壇」建立は「法華経国教化」とほぼ同じ実践的意義を持ち、まさに

     当面の布教の目的となるべきものです。

     日蓮仏法は、この「三大秘法」の実践を根幹とします。先ず「一念三千」の理

     により、人間や非生物も含む全ての存在者に成仏の可能性が確認される。そし

     て「本尊」である久遠本仏(ただしそれは十界曼荼羅によって示される)に対し

     「題目」を唱えることで、仏の可能性が現実化し、成仏への道が開かれる。そ

     して信者のいるその場がそのまま「戒壇」となる、というわけです。

64 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/11(土) 01:14

     〈曼荼羅1〉

     さて、「題目」については既に触れていますので、ここでは「曼荼羅」なるも

     のの位置付けについて論じてみます。

     日蓮のつくる曼荼羅に限らず、一般に「聖像」「偶像」の類は宗教上大きな問

     題をはらんでいることが多い。ローマ=カトリックと東方正教会がお互いを破

     門しあう直接のきっかけに聖像崇拝問題があったことは、世界史で学びさえす

     るほど有名なものです。

     「聖像」「偶像」と一口に言ってもその性格は様々ですが、これを乱暴に分類

     すれば、(1)神などに気持ちを集中させたり、それを分かりやすい形で表現

     したりするための信仰上の手がかりに過ぎず、像自体に宗教的価値があるわけ

     ではない (2)像自体に宗教的価値があり、「命」などが宿っていると考え

     られる というふうに二分することができると思います。ただ実際上は(1)

     のようなものであっても、それを尊び大切に扱う慣習が積み重なっていくにつ

     れ、教義的には宗教的価値はないままでも、一種の言わば「骨董的価値」のよ

     うなものが加わっていき、事実上(2)のようなものに変質していくことが多

     いとは言えるでしょう。日蓮の曼荼羅に限らず、日本の仏像類は、まず(1)

     のようなはっきり割り切ったような扱われ方はされないのではないでしょう

     か。

     さて日蓮においては、比較的この「聖像=曼荼羅」の宗教的位置付けははっき

     りしているように見えます。というのは、日蓮は上記著作の中で、「本尊」は

     「久遠実成の釈迦牟尼仏」とはっきり規定しているからです。この言葉を信用

     すれば、曼荼羅自体は本尊ではないことになり、その位置付けはほぼ(1)の

     通りになると思われます。もしそうだとしたら、曼荼羅は仏と向かい合うため

     の単なる手がかりに過ぎず、一定の条件を満たすものなら、日蓮でなく誰がつ

     くってもよいことになるでしょう。自分で曼荼羅を書いてそれに題目を唱えて

     も何の問題もないことになります。

65 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/11(土) 01:16

     〈曼荼羅2〉

     ならばそれで話が終わるのかというと、そうも単純にはいかないのです。『観

     心本尊抄』には、「一念三千」の理により無生物にも仏になる可能性が含まれ

     ている、従って仏像などに対して拝んだりするのは意味があることなのだ、と

     いう記述が散見されます。上で言えば(2)のような「像」のあり方が堂々と

     肯定されているわけです。「一念三千」と言いますが日蓮のこの考え方は非常

     にアニミズム的――万物に魂が宿るといったような――で、この点を見ると、

     日蓮はアニミズム的発想の延長として「一念三千」を理解していたのか、とい

     う疑問も涌いてきます。

     それはともかく、この発想を適用すれば、曼荼羅に何か特別の宗教的価値を与

     えることはできそうになります。曼荼羅とて物体の一つ、鉛筆やジャガイモの

     類と何が違うのかという反論は十分可能ですが、日蓮には「言霊」的発想――

     前の言い方を使えば「呪術的発想」もありますので、いろいろ文字が書きこま

     れている曼荼羅には「命」のようなものが宿るのだ、という考えが生まれても

     何の不思議もないように感じられます。

66 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/11(土) 01:18

     〈曼荼羅3〉

     こうして日蓮の曼荼羅には(1)(2)両方の性格が備わっていることにな

     り、これは甚だ矛盾しているように感じられます。しかし日蓮においては、こ

     れは面白いことに必ずしも矛盾することではないのです。つまり二つの位置付

     けに通底しているものを探れば、結局大切なのは「南無妙法蓮華経」というコ

     トバなのだ、という結論を出せるからです。

     久遠本仏の説いた法華経の精髄は「南無妙法蓮華経」という文字におさまる

     (なぜそうなるか? というのはここでは問いません。ただ理性的に納得でき

     る合理的な根拠というのは[私見では]ないです)のだから、ここでは「南無

     〜」というコトバ自体に価値があるのだというふうに見れば、日蓮独特の「聖

     像」論が成り立ってしまうのです。しかし「南無〜」というコトバ自体をいく

     ら分析しても成仏の因などは出てくるわけはないのですから(この点について

     は出鬼論さんの書きこみ&スレッドのほうを参照してください)、やはりこれ

     が意味を持つためには、信者の唱題を聴き取り応答してくれる「本仏」の実在

     と、「呪術的発想」が無くてはいけないことになります。

     しかしこうして見てみても、やはり曼荼羅自体は誰が書いてもよさそうに思わ

     れます。唱題するのが日蓮以外の人にも有効なのと同じ理由で、曼荼羅も、日

     蓮以外の人が自由につくっても全く問題はないという結論が出てきます。上の

     曼荼羅観は、もの自体に「命」や宗教的価値が宿ると見るわけではないのです

     から、どちらかというと(1)の系列に入るでしょう。

67 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/03/11(土) 01:21

     〈曼荼羅4〉

     しかし実際の信仰現場(特に正宗系)では、どうも上のような解釈はとられて

     いないようです。無論日蓮「真筆」の曼荼羅、もしくは徳のある寺を通じての

     その写しには特別な付加価値がある、と感じられるのは十分に理解できます

     が、私に言わせればその価値とは「骨董的価値」であって、「宗教的価値」で

     はないと思われます。

     しかし日蓮正宗の場合は教義的に言って、私のような解釈は完全に排除されま

     す。正宗においては「本仏」は日蓮であるから日蓮真筆のもの以外は無効、し

     かも「血脈相承」により日興が受け継いだ曼荼羅以外は無効、というわけで大

     石寺にある板曼荼羅のみが有効とされます。この世でただ一つしかないもので

     すから、その希少価値は限りなく高まり、まさにこれは「大御本尊」というこ

     とにされます。第3者的に見ればこれは「物神崇拝」に異ならないと見え、大

     石寺と(たとえ精神的なものにせよ)何らかの関係を維持しなければ「三大秘

     法」の実践ができなくなるわけですから、これは明らかに「日蓮正宗」という

     組織のうちに、成仏方法は閉ざされることになります。

     個人的にはこういう解釈はかなり無理があるものと思いますが、一応教義上の

     「体裁」は整っていることになります。しかし創価学会の場合、この「体裁」

     すら既に失ってしまっているわけです。題目もそうでしたが、曼荼羅もまたあ

     る特定団体が排他的に占有できる体のものではなく、日蓮の「成仏理論」を検

     討すれば、それが本質的に開かれたものである、というのは明白だと思われま

     す。

     もう少し続きます。でも今日ここでやめます。

68 名前: 日朗門徒 投稿日: 2000/03/18(土) 03:11

     >もう少し続きます。

     おもしろすぎ。

     続きをお待ちしてます。

69 名前: 出鬼論 投稿日: 2000/03/27(月) 20:59

     第7の外道さん。お元気でしょうか。

     僕の方は、今日スレッドを立ち上げてきました。

70 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/06(木) 09:20

     上げる

71 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/06(木) 09:48

     ウィクリフ・ロラード派の人たちは、英訳聖書が宗教改革の土台となると

     信じていた。彼らはこのように言った。「この聖書は、人民の、人民による、

     人民のための統治の

     ために存在する」。「聖書律法が中心である」とのキリスト教の主張に関する

     限り、

     この発言は人々の注意を引かなかった。というのは、当時の人々はみな、「法

     律は神の法でなけれ

     ばならない」と考えていたからである。ウィクリフ・ロラード派の人々の意見

     が独特だったのは、

     「人民は法を読み、それを知り、それによって統治されるだけではなく、それ

     を用いて自ら統治すべ

     きだ」と説いた点である。このことについて、ヘールはいみじくも次のように

     述べた。「ウィクリフと

     フスは、大学教育と一般人の求道心とを結び付けることが可能なことを初めて

     ヨーロッパに示した人々である。

     ウィクリフを支えていたのはオックスフォード大学の自由であった」。1 関

     心は、教会や国家よりも神の法に

     基づく統治にあった

72 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/06(木) 09:51

     ブリンによれば、ヘブライ人の社会秩序は、神の律法の土台の上に形作られ、

     それによって

     統治されると考えられていたという点で、他のどのような社会とも異なってい

     た。神が律法

     を与えられたのは、もっぱら人間の統治のためであった。2 昔のイスラエル

     に劣らず、キ

     リスト教も自らを神の王国と考えていた。それは、キリスト教も聖書に書かれ

     た神の法によ

     って統治されていたからである。神の法から離れたり、それを歪めたり、不忠

     実なこともあ

     ったが、キリスト教は神の新しいイスラエルを自認し、神の律法の下にあるこ

     とを自覚していた。

      ニューイングランドが法治社会として誕生した時、入植者たちは聖書律法を

     植民地の法律とし

     て採用した。それは聖書への回帰であると同時に、古きヨーロッパへの回帰で

     あった。また、古

     い土台に基づく新たな始まりでもあった。後にピューリタンに伴ってやって来

     た多くの使用人た

     ちが、聖書的信仰と社会秩序に極めて反抗的であったため、始まりはけっして

     容易ではなかった

     。3 だが、それはキリスト教の根本原理への決然たる回帰であった。ニュー

     ヘブン植民地の記

     録を見ると、それが新しい試みであると意識されずに、聖書律法が植民地の法

     律として採用され

     たことが分かる。

73 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/06(木) 09:53

     一六四一/二年三月二日。また、植民が始まり政府が樹立されたときに完全か

     つ包括的合意に基づいて取り決

     められ、公表された基本協約に従えば、モーセを通して与えられ聖書各書で展

     開された司法律法には、永続的

     な原則が含まれるゆえ、それは、次の二つの条件下で、訴訟処理の規範とされ

     るべきである。一、道徳律法を

     補強するものであること。二、儀式・象徴・カナン風土に関する規定を除く。

     4

     一六四四年四月三日。モーセを通して与えられた司法律法は、この司法管轄区

     域内におけるあらゆる刑事訴訟の

     規範としなければならない…。5一六四九年に、トーマス・シェパードは、次

     のように記した。「というのは、儀式律法であれ司法律法で

     あれ、すべての律法は十戒の補足または適用と呼ぶことができ、その他のあら

     ゆる法はそれらの要約であ

     ると理解できる。」6 「このような見解は聖書的でも歴史的キリスト教でも

     なく、単なるピューリタン

     たちの逸脱にすぎない」との意見は幻想である。神の律法は新約時代に生きる

     われわれにとって無意味で

     あり、いかなる拘束力も持たないとする考えは現代の異端であり、今日の教会

     に対するヒューマニズムや

     進化論思想の影響の一面である。それは「神は進化し発展する」と主張する。

     このいわゆる「契約期分割

     主義的」神は、初めは律法において現われ、後に恵みにおいて現われ、今の時

     代には、さらに違った方法

     で現れているという。しかし、これは聖書に記された真の神の御姿ではない。

     真の神の律法と恵みはどの

     ような時代になっても決して変わることがないのである。それは、至高者であ

     り絶対者である神御自身が、

     決して変わることがなく、変わる必要もないお方だからである。人間の力の源

     泉は、この神の絶対性のうちにある。

      

74 名前: 〈曼荼羅1〉 投稿日: 2000/04/06(木) 09:55

     律法を避けて通る聖書研究は、聖書の否定にほかならない。聖書律法が果たし

     た役割や影響を

     無視して西洋文明を理解する試みは、歴史の歪曲であり、二千年とその発展の

     拒絶である。

      『聖書律法綱要』の目的は、現在の思潮を逆流させることにある。本著は

     "Institutes"(

     古い語義で「基本原理」、ここでは「律法の基本原理」の意)と名付けられて

     いる。それは、

     本著の目的が、聖書律法の初歩的、開始的考察にあるからである。聖書律法は

     神の下で社会を

     統治しなければならないし、また、それは社会を統治する運命にあるのであ

     る。

75 名前: 放浪人 投稿日: 2000/04/06(木) 20:20

     ま〜、良く解らんが1〜74の発言のとうりじゃ?

76 名前: 第7の外道 投稿日: 2000/04/06(木) 23:53

     一応断っておきますが、

     このレスを除けば、67で私の投稿は一時終了したままです。

     それより下のレスには私は責任は持てません。あしからず。

77 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/07(金) 10:57

     日蓮は悪魔だ。

78 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/07(金) 10:58

     池田大作も悪魔だ。

79 名前: そうなんだよ、 投稿日: 2000/04/08(土) 17:30

     学会員に「悪魔」って、面と向かって言われたことあるんだよ。

     本気なんだろうな〜〜喪家のことだから。 元気かねN君!